火縄銃



 参考文献

「日本の弓矢」に関して

日本学士院編 「明治前日本造兵史」日本学術振興社 昭和35年
「道具字引図解」 江戸書林 江戸期
「奥 中村 豊正之射法一流」 正徳第五歳三月吉日 日置流弓目録 (1716年)
「雑兵物語」 人物往来社 昭和42年 江戸期の復刻
「京都嵐山美術館図録」 鉄と漆の藝術 昭和61年
「北斎漫画 六」 名古屋永楽堂 江戸期
「具足着用の次第」 江戸期
「拾五張弓の図 本重藤 末重藤」 江戸期
「大名道中」 広重・豊國名画 東光園 大正7年 江戸期の復刻
弓扱いの武士の各図  出所不明
ロンドンイラストレッテッドニュース画
ダイヤグラムグループ編 「武器」 マール社 1982年
「京都嵐山美術館」の収集品 カタログより
近藤好和著「弓矢と刀剣」中世合戦の実像 吉川弘文館 1997年
石井進著「鎌倉武士の実像」平凡社 2002年復刊
旗田巍著「元寇」中公新書 昭和40年
小林一岳著「元寇と南北朝の動乱」吉川弘文館 2009年
もう一度観察してみたい見事なものであった。征矢の数が足らなくて、的矢を入れていたものもあったが、種類、程度、最高の水準にあった。

以下、弓矢の部分の写真。

現在発刊されている資料では以下のものがあげられる。
浦上 栄著 「紅葉重ね・離れの時期・弓具の見方と扱い方 遊戯社
平成八年
松本 重宣著 「弓ごよみ」 平成22年11月
この2書は現在、和弓を射る人たちを対象に、具体的に図、写真を多く使い
弓の詳細、射法を、前書は師範の視点、後書は弓師の視点、それぞれ深く掘りさげている。「紅葉重ね」とは弓と矢を十字に重ね、それから姿勢にはいる重要な点である。以上

 14、本当の『半弓』とはこのような形で存在したのではないか。

13、の項で全長が鏃をいれて58㎝の矢を数多く発見し、修復し、
以前から所持していた同じような矢と合わせ、相当数になった。
弓は長弓の半分くらいのものが3張あり、そのうち1張は骨製で太いもので
あることを書いた。
更に調べてみたらこの寸法の弓と矢に合致する矢籠を見つけた。
矢籠は二つあり、長いものと短いもの。いずれも下から24㎝ほどのところに切れ目が上手に作ってあり、帯にはさみ込むようになっている。一つは上手なもので家紋が入り、平根の矢も含め11本が、もうひとつは短く実用的で矢は10本入る。

① 矢籠全長55cmで革袋の幅は12㎝、平根矢が入るもの。
この形式は弓を上と中間で何らかの形で押さえた方式で上品である。
出来も良い。(平根矢はない)image001

紋は「下り藤」会津方面から出た

② 矢籠は35㎝と短いが、弓が矢袋の中に収まり、途中で弦が籠に支えられる
方式、実用的である。腰に弓と矢を納めておいて、直ぐに取り出して使用できよう。矢籠の上部は穴のあいた板で矢は1本ずつ収まる。image002

③ 矢籠はないが、弓は本格的な太さがあり、長弓の半分の長さであり、恐らく
① ②のような何らかの形式の矢籠があり、携帯用としたものだろう。

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従って、結論からすると『半弓』と言うのは文字通りとらえたら、やはり
長弓7尺1-2寸(210㎝くらい)の半分の長さの弓と矢を使用した、狩りや自衛に使う実用的な弓矢であったのだろう。
(この項以上)

 13、これが本当の『半弓』か?

今までの分類では長弓、全長約210cmの3分の2の長さの弓が比較的多く存在しており、その矢や矢籠も見るので、これらが所謂『半弓』だとしていた。
しかし、先日、24本もの短い矢を発見し、これらを修復した。
太さや鏃の様子から練習用ではなく実用に使われたものであったであろうと
推察できる。

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良い感じに修復できた
まず矢を説明すると、矢も鏃も良い状態であった。矢羽根だけ修復した。
鏃は出ている部分だけで30㎜、断面は角で実用のものだ。
矢の全長は58.5㎝ある。
実用の矢は100㎝くらいなので、半分にすると長いが使い勝手を考えると実用的だ。

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鏃は鋭い

弓の収集物からこの矢に合う弓を二張り見つけた。
一つは全長が105㎝、藤巻きが17ある。(欠けている部分もあるが)
もうひとつは全長が103㎝、藤巻きが25ある重藤であろう。

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上が重藤、弦を掛けると逆に反る。弓は同じ方向を向いている。
いずれも長弓のように単純に反対側に曲がっているのではなく、複雑な曲がりである。握りは下から45㎝くらいのところで、大体真ん中だ。
弦を掛ける部分の太さは約10㎜で頑丈だ。

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セットにしてみるとどちらの弓にも矢は合う。

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この弓を射るわけにはいかないので同じような弓と矢を新たに製作してもらい、どの程度の射程、精度、威力があるかを実験するのは意義のあることであろう。

北斎の画を観ると、侍、猟師、射ている弓は長弓の三分の二の大きさのものだ。
長弓ではない。北斎がこのあたりをいい加減に描く訳はないので、三分の二の
大きさの弓は練習に猟に一般的に使われていたものであったのだろう。
二分の一の弓はではどういう機会に使用したのであろうか。

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北斎の画にも半弓を射ているものは見ない。
そして長弓の三分の二の大きさも弓矢は何と呼称したのであろうか?
(この項以上)

 12、弓矢の収納器具いろいろ

以下は基本的には4、矢収納器類項の続きなる。
① 弓矢箱
全体にがっちりした箱(全高98x奥行き21x幅12㎝)の内部に弓が二張りと矢各々11本が収納される仕組みである。大きな立派な大山家の家紋が付いている。

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出てきた時は矢羽根がとれておりみすぼらしい状態であった。
しかし矢羽根をつけると見違えるほど立派になった。
大名の行列に装備され、実際には全体を被う袋があったはずだ。

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中矢箱は弓が挟む形で1本の平根矢と10本の征矢が収納され、一つは赤帯の矢
もうひとつは黒帯の矢だが、鏃は同じものだ。
(中矢箱は90×17㎝、皮革製の袋は10×10㎝)

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中矢箱の前後には弓に弦を普通に掛けた状態で箱を挟んだが、射る際には
当然のことながら逆にした。

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弦を掛ける金具

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弓を掛ける台(骨製)
この一箱に弓と矢が2セット入り、箱の上には肩に掛ける15㎝位の金属製の柄、下には手を掛ける握りが付いている。日本独特の弓矢の運搬法であり、独特の武具だ。

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鏃は断面が四角、長さ4㎝、中茎10㎝、直径10㎜の見事な征矢だ。

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② 弓具店で見た現物
弓を二張り立てるのは同じだが、まん中に蝦(えびら)が入り、両側に弓が
立てられる。これも大名家、旗本の行列に使用したものだそうだ。

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全高さ210㎝

金具は台の下から出ている。
様々なデザインがあったのだろうが、この蝦の場合は矢は10本程度しか
収納出来ない。
(この項以上)

 11、弓矢は鎧を撃ち抜くか・・・

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概説)
この鎧に鉄砲玉は50mの距離で3発発射、3発とも雑兵鎧をなんなく前後を撃ち抜いた。
これは1990年代、私が米国で、米国前装銃射撃連盟のサイロス・スミス氏
協力で実験したものだ。この鎧の下部3箇所に貼ってある赤いシールの部分がその穴である。後ろ側は玉が分かれ、幾つもの穴になっている。

『長年、日本の弓矢はどのくらいの威力そして命中率があったのか、疑問を抱いていた。』
今回、陸上自衛隊東部方面隊で同じ仕事をしている小瀬村 貴敏氏の協力を得て実験を果たすことが出来た。

1、準備

それまでの過程には様々な問題点があった。
① 場所
同氏は体育会弓術部出身で、塾道場を希望したが、危険であると断られた。それで福島県、私の家の庭で行うことにした。庭は1000坪ほどあるが、家と倉庫の間、15mほど間を距離20mくらいのスペースを縦に使用するのが最適と判断した。裏が崖、雑木林で安全であるからだ。

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(草を刈り綺麗にしてもらった)
② 射手
小瀬村 貴敏氏、53歳、弓道四段、20kgの強い弓を引く、彼が行う。

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2張の弓を持参した,弓の長さは約220cm)
③ 矢と鏃
長谷川弓具店主人に相談した。鏃は3種。柳葉と呼ばれる鋭いもの1本、板割と呼ばれる斧のような形のもの2本、そして断面が四角で重いもの2本だった。
全て中茎(なかご)の健全なもので、江戸期の現物だ。
矢は征矢にしてもらう。流鏑馬に使う、直径10㎜、長さ90㎝のものだ。4本。
(鏃を付けると95cmくらいになるが、長身の小瀬村氏にはこれでも短かったようだ)矢の準備だけでも長谷川氏と綿密に打ち合わせた。
矢は軽い。全体で500g、鏃だけでは25-35gくらいだ。

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鎧台と中身:

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(台の製作)
古文書にあるように鎧台には金属は使えない。鏃が欠けたら危険だからだ。倉庫の作業台で鑿を使い、栗の4寸角の材木から製作した。上は兜を載せるよう削る。
兜の高さを計測し、横に深さ5㎝の溝をほり楔で固定し、横木を入れ十字架のような台を製作した。丸一日掛った。
鎧と台の間には米を入れるのが正式らしいが田舎で米を粗末にしては悪い。
そば殻を袋に詰めた堅い袋を近所で製作してもらった。
台の固定:
地面に石があっては危険だ。大き目の穴を掘り、廻りは砂袋で固めた。地下45㎝に台は入れた。砂袋は隣の菊地タケちゃんの裏山から掘って来た。重いものだ。
自衛隊の災害訓練では隊員は手渡しでリレーしているがあのようなことはとてもできぬ。

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④ 距離の測定
小瀬村氏の要望により、5mと10mの地点に印をつけ、御座を引いた。
距離は長谷川氏が大体このくらいと指示してくれた。

小瀬村氏は当日午前中、郡山駅到着、私の家で昼を済ませ、しばらく休み、午後,試射を行った。実施には約1時間半かかった。

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(10mで精神を集中する)

2, 兜へ射る

距離5m。

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(兜は板割が当たると滑る)
兜はあらゆる面に角度が左右、上下に付いた物体である。真ん中に直径4㎝の星が貼られ、その部分のみが比較的平であった。板割鏃で10mの距離より3射、射るが全て左右、上下にはじかれた。上から顔の部分は砂袋で固定。
板割鏃が練習で板に試射した際に矢から外れ、後ろの地面に潜り行方不明となった。この鏃の方が長く、鋭いものだった。

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(板割の鏃)
しかし兜自体には大きな傷が残り、衝撃が大きかったことを示していた。重い断面四角の鏃で試みた最後の射が星を得て、その矢は兜を見事割った。

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(抜き出ているのが断面四角の重い鏃、胴)

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3, 胴へ射る

距離10m。
板割鏃の矢は胴の鉄板が横に合わせある部分を壊した。刺さると言う感じではなく、隙間に入り込み、矢は戻された。観察すると矢の後部は割れて壊れていた。

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(星の右側が命中したところ)

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(壊れた矢、右が矢羽根)

断面四角の矢2本は星と星の左横に命中し、胴の鉄板を貫いた。真ん中は矢の部分まで入り込んだ。横は鏃がそば殻袋のなかに全部入り、矢は胴に残った。
両方ともかなり深く入り、致命傷になること間違いない威力だった。

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(鏃の先は台にまで到達していた)

この断面四角の矢は2本しかなかったので、横に命中したものを引きぬいて、兜に使用した。命中し、鉄板を射抜く音は「ドスン」と言う鈍い独特のものであった。

所謂、柳刃と呼ばれる鋭い鏃は跳ね返された。鏃全体が曲がり、先は少しつぶれた。


(曲がった柳刃)
長谷川弓具店主人によるとこのように曲がるのが鏃の鉄、造りの良いものとの
ことだった。

5、結果と課題

兜に4射、胴に3射、実施した。
矢は鉄板を貫く威力はあるが、貫く部分は兜、胴ともに比較的平らな部分であった。傾きが付いている部分には衝撃は与えるが、矢は滑る。
鏃は鎧を射るには鋭いというより重いという要素がないと貫通しない。
鋭い鏃は鎧用ではなく、普通使いのものであろう。

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弓矢隊は鉄砲隊の間に入り、鉄砲隊をくぐって近くに来た騎馬武者をはじめとする敵兵を近距離で射る武器である。
「雑兵物語」にも引いては絞り、絞っては引き、発射する間合いを良く計るように書いてある。一矢を放ち、それが外れれば敵はこちらの防御線に入り込む。

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苦労の甲斐のあった実験だった。山は気温が低く準備、実施ともに身体的には楽であった。
日本では弓矢の狩猟は出来ない。狩猟は「銃猟、わな、網」の3種である。
米国や欧州では弓矢の狩猟は当然の手段で、猟期開始が一番早い、2番目が黒色火薬前装銃、そして一般の銃猟が1カ月遅れ位で始まる。顔にドーランを塗り、迷彩服を着用し、弓矢を持ったハンターが鹿をジープのボンネットに載せて、帰ってくるのを頻繁に観た。日本でも鹿の害が問題になっている。弓道何段以上、狩猟免状を所持する者は有害鳥獣駆除に駆り出すという案もある。

次なる課題は皮革の乾いたものは堅い。これにはどうか?
元寇のモンゴル兵対鎌倉武士の戦闘を想定したものだ。
また日本のロングボウの射程はどのくらいあるか?
1000m、2000m、これも試してみたらどうか?

協力)
長谷川弓具店
福島近所の皆さん

(この項以上)

 10、弓術神格化と流鏑馬

動いているものから動いている的を撃つのは一番難しい。(空中戦や海戦)次に難しいのは動いているものから固定してある的を撃つことで、特に前方や後方でなく、真横が難しいそうだ。(戦闘車両の射撃)
射撃では動的射撃、的が左右に動くのを撃つはタイミングを覚えればさほど難しいものではない。(猪猟)
日本全国で数十の「流鏑馬」の演武がある。最近、女性だけの演武もあり、
これは馬、弓、タイミングと三拍子そろった難しい技だと思う。
日本銃砲史学会の例会が開催される早稲田大学に行く途中「穴八幡神社」があり、大田道灌の馬上から弓を射ている銅像がそびえている。この神社でも近所のグランドで流鏑馬を行うそうだ。

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では、実戦ではどうか?
戦国時代、鉄砲が出現して集団戦になると騎馬武者が弓を射る、いくら日本の
長弓が当時、世界一の射程と威力を誇っていたが、これは現実には敵わなかったと考えて良い。
小笠原流弓術によれば流鏑馬に近い馬と射る競技は9世紀ほどからあった。
鎌倉時代がピークだっただろう。蒙古・高句麗襲来の折には馬上武者は弓、
刀を駆使し大活躍したはずだ。

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矢は5本しか差してない
流鏑馬が復活したのは江戸の中期と言われている。同じく弓術は礼法重視の武道として栄えた。最後に戦闘で敵兵を弓矢で殺されたのは1864年の四カ国長州戦争で、関門海峡で上陸したフランス兵だった。
江戸期中期ごろより弓矢は神格化された。それらは各地にさまざまな行事として残っているが、流鏑馬はその象徴的な存在であるに違いない。
まず乗馬技術を取得しなければならない。弓矢を射る技術を取得しなければならない。礼法を学ばねばならない。

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現代人の流鏑馬がこれだけ受けているのは弓矢の道、家が日本でも廃れてない
証左ではないか。

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なお、流鏑馬に使う矢の先は蕪で、これは犬追いに使うものと同じであると言われている。下は鏑矢

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先に鉄板がついている

(この項以上)

 9 、日本の長弓(ロングボウ)の起源と那須与一

日本の騎馬から弓を射る戦闘方法はいつごろが起源であり、完成されたのか?
この社会的な課題を研究した文献は少ない。近藤好和著「弓矢と刀剣」には
世界最大級の長さを持つ弓、近世では7尺3寸、中世では7尺5寸(230㎝)あったと言うが、元は平安時代の武士ではなく、貴族階級の儀式に使われていたものだとしている。兵器や武器は戦闘がなければ利用されない、発展しない、
確立しない文明であるから、12世紀の源平合戦で全国の荘園の武家がこれを
習熟し、様々な工夫を得て、戦闘で実用となる方式、さらに礼儀までに発達したと、考えるのが妥当であろう。さらに13世紀、鎌倉時代の2度にわたる「元」と「高句麗」の巨大な侵略に対抗した海防、ここで、鋭い刀剣、鎧、騎馬とともに武士の標準装備になったのではないか。

名称未設定

那須の与一は12世紀初頭、今の栃木県大田原市の辺りの生まれで、11男であり、10人の兄がいたことで有名だ。兄たちは平家側に、彼は源氏側に付いた。
弓の名手の代名詞であり、源平の海上戦闘の際に、船上の扇を射抜いたことで有名だ。この絵画は後ろに10本の柱があることからまた騎馬の作法から
那須の与一と思われるチープアートの一種であるが、江戸期以降も様々な絵画が残され、そのポピュラーさは武家社会以前のキャラクターとしては群を抜いていた。

名称未設定2

(鏃がさす股である)

なお、日本の長弓、三十三間堂の上にも下にも付かないで矢を飛ばす距離は
60mだと思っていたが、先日、防衛関係者の話だとその倍、120mだそうだ。
また、流鏑馬も鎌倉時代からの伝統行事であるが、騎乗で前方の標的でなく、
眞横の標的を狙う、これは距離が近ければ近いほど、難しい技だそうだ。
(この項以上)

 8 、弓矢の補修

近年のものはともかく、江戸期のものは、弓は籐の巻きが、矢は矢羽根が痛んでいる。

(まん中の札に銘がある)

弓の籐の巻きが欠落したものは、その跡がきちんと残っていれば、そこに新たに巻き補修することが出来る。この弓は京都住18代目柴田 勘十郎作(長谷川氏読み)、江戸後期のもので厚さ22㎜とかなり強い弓だ。竹の節を挟む形で巻いてあったものが10箇所、先端1箇所の欠落があった。それらを補修したものだ。現在の籐は白いので残っている元の巻きに近い色付けが重要であり、この弓の場合は新たに巻いた部分はほとんど分からない。展示用にしておくには巻きが完全でないと弓の価値が分からない。元の弓には漆が掛けてあったが脂(やに)で色が出てなかった。この弓は飴色の綺麗な色だった。巻きの値段は一か所650円とあるが、色付けは別料金だ。

 


(本当の色)

矢羽根は元の完全な状態のまま残っていることは少ない。大体が欠落している。矢の矢羽根は稽古用のものでも使いにより痛むので補修するのは自然である。

(元は白鳥の羽根だっただろう)

矢羽根の補修は射ることはないと言う条件で依頼するのが良い。矢の竹自体が古いので射ることに耐えないことを考えれば、展示用で良い。矢羽根は鳥の種類で値段が異なる。材料は大体が外国製だ。


(新調した矢羽根、回転の角度は付いてない)

鏃の補修は難しい。すでに素人が磨いてしまったものは形が壊れている。専門の研ぎ師が研いだそうだ。中茎(なかご)の朽ちたものは、長い尖った鉄棒を溶接して修復するより手はない。
日本の鏃は矢が竹なので、内部に中茎が入る方式で、それに紙が巻いてあったものは朽ちていることが多い。

矢の本体の先端、日本の矢は竹の空洞を利用して茎の長い鏃を入れる。矢が命中し、引き抜くと鏃は体内に残った。

このくらいの錆の鏃はいじらないほうが良いが、長いものが朽ちていたので、伸ばした。
曲がりは矢に入れる際、抜け落ちないように付いている。
弓、矢羽根、鏃、全てが完全な状態で残っているものは少ない。貴重な文化財ではあるが。以上

 7 、その他の弓矢

1、遊戯用か年少者用か

以下の2つの弓は九州宮崎飫肥四半的で使うものかさては年少者用か。
弓長は110㎝、幅20㎜で、矢長は40㎝。弓の大きさは長弓の半分くらいである。

両方の弓とも稽古用の矢が付いているが、籐の巻きも多く、本格的な作りで出来は良い。しかしこの弓では戦闘用の鏃の付いた重い征矢を射る力はないだろう。一方、宮崎県の飫肥で行われている弓矢の競技、使っている装具がこれに似ているのだ。HP古武道「居合剣術古流・半弓術を学ぶ」によれば飫肥藩(現在の宮崎県日南市)奨励の「四半的」的4寸半(13・6㎝)、距離4間半(8・2m)の射に使用したものに弓の寸法や形式は合うが矢が短い。飫肥藩で使う矢は長い矢である。

同HPより

これらは年少者用の稽古弓である可能性が高い。

2、 遊戯用の弓矢

遊びとして室内で射た弓矢の箱入り組である。黒漆塗りの箱、長さ31.5㎝、幅7㎝、厚さ3.8㎝ほどのしっかりしたものだが、その中に4つに分解した黒檀のような固い木で作られ、組み立てたら80㎝くらいになる弓と、矢、長さ28㎝、先は平坦なものが入っている。

金具は銀でかなり凝ったものだ。

このような木製の的を吊るして射たと言う。直径は10㎝、厚さ4㎝で、まん中36㎜だけが後ろまで抜けている。従って36㎜のところが命中。

矢の先は象牙を使っている。
江戸期の遊技場(岡場)や家庭でこのような弓で遊んだとの記録がある。北斎漫画

3、 不明な弓矢

各々30㎝くらいの長さで矢は2、の遊戯用のものであろう。弓は本格的作りだが、弦が

糸であるので、矢を射たものとは思えない。節句道具であったか。節句道具の弓矢は
現在のものは台に太い短い弓と、矢1本が立ててあるものだ。
世の中には様々な弓矢が存在する。正月の破魔矢などもそのひとつだろう。

 6 、弓矢の装具

江戸期に日本では弓矢による戦闘はほとんど皆無であったが、大名行列などの錦絵を見ると弓矢は袋を被されているか、矢と組みになり優雅に持ち運ばれていた。

広重画

1、 弓矢台の被い

弓矢台の上には家紋が入った木製の枠に皮革を回した17㎝Ⅹ13㎝ほどの被いがあった。二つの部分に分かれていて、各々から矢の羽の部分が出た。

これひとつでも凝った作りだ。

2、 鞘

弓の先には皮革に家紋を入れた30㎝ほどの鞘が付いた。弓の中では一番弱いが大切な部分だからだ。内部に革紐が入っており、弓に括り付けたようだ。

あまり見ない珍しい装具だ。

3、 皮革製の弓入れ

230㎝はある長い皮袋で、赤い漆仕上げで、葵の紋が2個入っている。真ん中と上。紋の入ってない側を担いだものと思われる。

まん中の部分

4、 稽古用用具入れ

皮革製で表面の加工が凝っている。細かい矢羽根を漆の手書き。30x20㎝

5、 現代の稽古具と収容嚢

と言っても半世紀以上は前のもの、会社に弓道部があり、伴 七三雄氏と言う慶応義塾体躯会弓道部出身のシニアな人が指導していた。勧業銀行(日比谷)に道場があり、そこで練習した。部が廃部になる際いただいたもの。
手袋、手袋入れ(このドットの模様も手書き)、弦巻きなど

手袋は親指、人差指、中指が入るボクシンググローブのように帯で手首を固定。

手袋入れの皮袋は円筒型で、長さ25㎝、直径9㎝、弦巻きは外径12・5㎝
幅25㎜。

北斎漫画 の弓を射る侍、右の弓は短い弓だ。

6、 弓本体と弦を支えるもの

弓についていたものだが、大きな輪に弓、反対側には弦が入るのであろう。
長さ10㎝、幅3㎝ほどのものだ。
射た際に弦が逆に振動しないようする役目があると思うが、長い紐の使い方が
分からない。珍しいものであることに間違いないが。

7、 稽古用の巻き藁

直径1m、長さ2m以上

北斎漫画より

8、 的

上が「陽的」。下が「陰的」直径8寸 距離15間

その他の的

騎馬武者は母衣を前にたらし矢を防ぎ、板の楯も使用した様子。