実射2:十一年式と九九式軽機関銃にみる日本兵器史

はじめに

19世紀後半に出現した新兵器、機関銃は「帝国主義」の象徴的な兵器であった。
機関銃はそれまでのいかなる兵器に比較してもはるかに効果的で、威力があり、緻密な機構を持っていた。その装備と運用には技 術力、生産力、供給力など総合的な国家の力を必要とした。そしてこの兵器はそれを理解し持てるもの(国家)と持てないものと の差を拡大させ、世界に支配と被支配関係を、さらなる対立を作り出した歴史上重要な存在であったと考える。
機関銃の機構(反動利用とガス圧利用がある)、特にガス圧利用は、まさしく同じ頃に出た「内燃機関」、爆発により発生したガ ス圧でピストンを動かし機関部を連続して作動させる仕組み、と同じ発想である。内燃機関が20世紀の様々な機械に活用された 動力源となる、と言う事実と考え合わせると誠に興味深い。
今回のレポートは「一〇〇式短機関銃と九六式軽機関銃」に引き続き、日本軍の主要な兵器であった標記の2種 を実射することで、その性能、開発の背景と、さらに日本の機関銃開発の歴史に触れてみたい。これら実験は前回と同じく、アメ リカ、メイン州のエドウイン・リビー教授の全面的協力をもって、全て合法的に実施された。

機関銃は20世紀を象徴する文明のひとつ。

機関銃開発史をみると様々な興味深い事実に気付く。火器出現以来、何とかしてこれを連続して発射出来ないものか、多くの試み が行われた。19世紀半ばにアメリカの医師ガットリングが多銃身を人力で機械的に回転させて、装填、撃発、排夾を繰り返すい わゆる、ガットリング砲を発明し、各国に発売した。日本に入ったものは戊申戦争、西南戦争で使用されたと言う。(どなたかこ のことに関する記述をお持ちの方は教えて下さい。)
この実物は戦前、靖国神社集尚館に展示されていたが戦後の混乱期に行方不明になったとも言われている。多分アメリカ軍人が他 の珍しい兵器類と同じように持っていってしまっと思われる。筆者のアメリカ滞在中にこれを発見したいものだ。 しかしガットリングは黒色火薬の実包を使用していた。黒色火薬は前装銃射撃経験でも、多量の煙とそれに伴う煤を発生し、銃を 汚し回転不良の元を作り出す。黒色は無煙に比べると同じ威力を出すためには7倍の汚れを発生すると言われてる。
従って、次世代の近代的機関銃が出現する背景には、19世紀後半の無煙火薬発明が伴わなければならなかった。無煙火薬の使用 ははるかに銃身、機関部の汚れが少なく、また安定した燃焼で回転を継続させ、連続射撃を可能にした。

火薬燃焼の圧力を回転に返還させる方式には、
1)後方への反動を利用する
2)銃身の途中から抜けるガスの一部を銃身に平行 した筒に取り、ピストンを動かす
3)この両方を使う
の3方式あった。

中でも19世紀後半、2)の「ガス圧利用」の発明は 画期的なことであったと思う。
また連続発射は薬室・銃身の温度を上昇させるので、その冷却も大きな課題であった。 実用になる機関銃を商品化し、これが長く世界で使用されてのはマキシム型であった。それに続き、ホッチキス、ブローニング、 ルイスなど様々な形式が、第一次大戦にかけて開発・商品化された。他にも様々な型が存在するが、ここに擧げた4種に関し、興 味深いことは、全てアメリカ人の開発で、ヨーロッパで実用化された、という事実だ。これらはエジソン、ベル、ライトなど20 世紀文明基礎を作り出した発明の数々と同じく、アメリカオリジンの発明につけ加えてよい事実であろうと認識する。ヨーロッパ にも機関銃開発者は多く存在したが、筆者はこの4人に続く開発者として南部 麒次郎氏を擧げたい。残念ながら南部氏によるも のは日本が中心で、一部が輸出されたものの、国際的な商品にならなかった。しかし南部氏の開発は他には見られぬユニークな点 が多々あり、「南部機関銃」としてひとつのカテゴリーを形成していると、言える。
これに対し上記の4形式のものは、欧米をはじめ日本も含め世界各地で生産され、その生産数においては日本の各形式に比較する とひと桁以上の差があった。
この南部氏が開発した機関銃の一部が今回実験した十一年式と九九式である。

日本の機関銃開発と生産

1904・5年の日露戦争は機関銃が大規模に使用された世界で最初の例で、日本・ロシア共に千の単位で装備していたと推定す る。日本はフランスから空冷、金属板装弾のホッチキス型を輸入し、ロシアは水冷・ベルト給弾のマキシム型を装備していた。写 真で見る限り両国共に3脚架を利用する重機関銃で、軽機関銃の例は今まで見てない。
日本はホッチキスを元に1905年に三十八年式重機関銃を制定した。これが1914年(大正3年)の三年式重機関銃となる。 三八式は最近実物を観察したが、単なるホッチキスのコピーでなく、幾つかの日本的な工夫が見られる。特に照星・照門を銃身の 右に持ってきて、銃床を右に大きく曲げた設計は世界初であろう。第一次大戦が始まり、機関銃は単なる地上兵器でなく、車両・ 船舶そして航空機に装備される重要なものとなった。一方、三脚架に載せて固定し、防備的な目的に使用される重機関銃から、携 帯し主に攻撃的な目的に使用される軽量機関銃が重要性を帯びてきた。その成功作のひとつが空冷筒・スプリングを使わない円形 弾倉を使用したルイス型である。またルイスは航空機に搭載された最初の機関銃でもあった。余談ながらルイス軽機は日本でも海 軍工廠で第二次大戦末期に数多く生産された。
日本の軽機は第一次大戦期に幾つかの試作がなされ、その結果、大正11年(1922)に制定されたのが、6.5ミリ十一年式軽 機である。その開発は南部麒次郎氏で、外国のみならず日本でも「南部式」と言われていた。その後南部氏が民間会社を起こしそ こで開発したのが、同じ6.5ミリ弾を使用する九六式(1936)で、その7.7ミリ弾用が九九式(1939)である。
十一年式はその後、昭和16年(1941)までに総数29000挺が、九九式は5年間に推定53000挺が生産された。十一 年式は18年間継続し生産されたがその品質・形状は一定しており、九九式は5年間に品質は維持してが、形に若干の変化が見られる。

 

十一年式軽機「何故日本軍はこの軽機を最後まで使用したか」

十一年式はホッチキス型の機構を持つ、空冷軽機である。その特色はベルトも、弾倉も使用しない給弾方式にある。当時の歩兵は 三八式歩兵銃を装備し、その装填に6.5ミリ弾5発が載る金属製装弾子を使っていた。各歩兵は24個、計120発の実包を3個 の革製弾薬盒に入れ携帯していた。十一年式はこの5発の装弾子をそのまま使用することで給弾する仕組みである。装填架と呼ば れる箱が機関部の左側に付き、そこに装弾子を6個、30発を重ねて入れる。(装填架は英語ではホッパー、粉を挽く機械の原材 料箱のこと、呼ばれる)強いバネの蓋がありこれが実包を上から押さえる。左側のこう棹(ボルトハンドル)を引くと活塞(ロッ ド)が後退し、そこに刻まれた溝に従い、装槙架底部の送り装置が動き、一番下右側の実包を右に送り込む。勿論その際に円筒 (ボルト)も後退し、撃発状態となる。引き鉄を引くと、円筒が前進し、実包を薬室(チェンバー)に送り込み撃発させる。発射 のガスの一部が銃身の銃口から13センチ後方下部にある穴から下の瓦斯筒(ガスチェンバー)に抜け、内部の活塞を後部に押し 下げる。この力で空薬夾が排夾され、さらに装填架の送り装置が可動し、次の実包を送り、装填、撃発する。これを繰り返し連続 発射する仕組みであるが、引き鉄を離すと活塞が後退した状態で止まり、発射が止まる。
照準(サイト)は銃身・機関部の右側にある照星・照門を使う。これらは三八式・三年式重機を元にした日本独自の照準方式であ る。照星は左右にガードのある、△形、照門はスライド式タンジェント谷型で、基本は200メーター、左の突起を押し前方にス ライドさせると手前が徐々に持ち上がり、一番高くなったところが1500メーターである。
銃身を被う放熱筒前部に2段に高さを調整出来る2脚があり、それを地上に立てて使用する。この2脚は固定出来ない。銃の重量 は装填架を入れて11.5キログラム。

発射速度は分間約500発、「カタカタカタ」という独特の音をたてる。引き鉄のコントロールは楽で2発、3発の点射も容易で ある。5発ごとに金属板の装弾子は装填架下部の窓から落ちて、上から蓋のバネの力で次の装弾子が降りてくる。今回120発発 射するが回転不良は一切なかった。2ー3発の点射、15発くらいの連続発射など様々な撃ち方を試したみた。瓦斯筒の前部には 規整子があり、ガスの強さを変えることが出来る。5段階で穴の大きさがミリで表示してあり、1.0、1.5、1.8、2.0、2.8となっ ている。規整子の役目は発射速度を変えるのではなく、発射の汚れで回転が悪くなりそうになると、ガスの量を調整し、強くし、 回転を安定させるものである。
いずれも標的に弾丸が吸い込まれたいくように当たり、一般の機関銃にありがちな散らばるというような現象は見られない。90 メーターの距離にある標的には30発単位で30センチ四方に約8割が集中している。同弾も随分見られる。

リビー教授は「これで日本軍が十一年式を長く愛用していた理由が分かった。」とコメントした。 この銃は弾倉が必要ないので、銃と弾薬があればどこでも何時でも手軽に撃てる。
皮肉なことにアメリカに存在する日本の機関銃は短機関銃も含め、専用弾倉の不足から使用出来ないものが多い。しかし、この十 一年式のみは弾倉が必要ないので銃さえあれば何時でも使用出来る。装填架は50近い部品から構成されている複雑な仕組みのも のである。さらに機関部の上に箱形の油缶があり、装填する実包1発ごとに塗油する仕組みで、これは三年式重機関銃の方式とブ ラシはないが同じである。
日本の多くの記述で間違っているものは、「十一年式軽機は銃剣を装着した。」という点である。この軽機は日本歩兵兵器には珍 しく銃剣を装着する機構はない。 実物を見ないで記述するから、最初に誤ったものがあるとずっとそれが踏襲されてしまう。勿論現在の日本では研究とは言え兵器 を手にしたり、操作出来ないから無理もないが、この手の間違いは他にも大変多い。

日本軍がこの軽機を好んだのは、
1)弾薬の供給が容易である。歩兵の弾薬をそのまま使用出来る
2)弾倉を必要としない。発射途中でも消費しただけ補給できる
3)回転とコントロールが容易である。引き鉄の具合が良い
4)命中率が高い。集弾率が高い
などである。

一方この軽機は満州事変初期には現地風土とその複雑な機構が合わず、回転不良に悩まされたとの事実があった。し かし、筆者はこの原因は実包の不適合によるものではなかったかと推測する。昭和13年に出現した、新装薬の実包や現在の実包 もそうであるが、適合しておれば問題は少ないと思う。先にも述べたが今回の実験でも一切回転不良はなかった。
しかし、十一年式はその外観を見てもいかにもビンテージで、すでに1930年代後半には時代遅れの感は否めない。

それらの具体的な点は
1)左右対称でないので、保持し難い
2)部品数が多く整備に手間が掛かる
3)機関部を外さなければ、銃身交換が出来ない(替え銃身を装備していた。)
などであろう。

しかし、昭和16年(1941)までかなりの数を生産しており、この機銃の簡便さへの日本軍の期待がみられた。
十一年式の機構はそのまま1929年、「八九式旋回機銃」(航空機で専用銃手が操作する機銃)に転用されている。この形式は 当時整備されつつあった航空機用の機銃とし、重力に耐え滑らかな回転を保持する給弾機構を目的に、5発装弾子を弾倉に入れて 給弾するという設計で1940年頃まで生産された。但し口径は7.7ミリで縁有り(リムド)の薬夾を使用していた。単銃身のも のと、左右非対称なものを合わせた2連銃身のものが存在するが、いずれも高度な製作技術を駆使した興味深い兵器である。なお この銃の瓦斯筒は下部にはなく横に銃身に平行してあるというユニークな設計である。
車載用には十一年式をほぼそのまま採用した「九一式」がある。銃床を外し、握りとし、装填架を高くして10個の装弾子入れ収 容弾薬を60発とした。八九式中戦車などに装備された。装填架は天井に支えず車載用としては最適の給弾システムの一つだっ た。 九一式で始めて1.5倍の光学照準器を備えたが、十一年式には同種のものは装備されてない。

九九式軽機「世界的な商品としても通用する完成度」

九九式軽機は九六式の7.7ミリ版で、その機構・寸法・外観など殆ど同じである。 従ってその構造と特色に関しては今回は省く。 外観上の変化は、殆どの九九式には銃床に折り畳み式の後脚があること、及び銃身の機関部への止め方がくさび型のネジ(二式空 挺用組立式小銃と同じ仕組み)を採用していることである。弾倉は当然若干大型で立っている。横に小穴が開けてあり、夜間でも 触別出来るようになっている。左側の目視照準、右側の光学照準も同じである。
照準は200メーターが基本で目視照準が左側にあるから、近距離においては照門を一番左にする必要がある。200メーター以 上は照門を右に移動させ、銃口が左に動くように調整しなければならない。また近距離では照門を一番低くしてもさらに弾道は低 くなる傾向にある。これは7.7ミリ弾の性能から照準をそのようにしてあると思われる。今回の実験は標的が90メーターくらい の近距離であったのでその傾向を感じた。照門は輪転で上げ下げするが、200ー1500メーターまで。銃の右に装着する光学 照準器は外観は九六式と同じものであるが、左右の偏流修正数字が20までで、7.7ミリ弾丸が強く回転による影響が少ないの で、距離の目盛りが直線になっている。眼鏡は2.5倍で、薄暮の状態では大変使い易い照準である。

九九式軽機の特徴は何と入ってもその「ラッグドアイズ」(頑丈)さにあろう。今回の実験では事情があり、数年間手入れのして ない銃に、さらに機関部に少量の真鍮金属粉を入れてみた。また塗油が必要ない(装弾器には油缶が装着されているが)というこ とから、一切の給油をしないで、発射してみた。その結果多少の汚れ、異物、油の無さなどは関係無しに良い回転を示した。これ は兵器はいかなる状況下でも使用出来なければと言う思想が良く具現化されている。またさらに他の銃の円筒(ボルト)を使用し て発射したがこれも何の問題もない。小銃・軽機共に九九式になり部品の互換性を重視した生産の結果である。また九九式には替 え銃身は用意されてない。クロームメッキされた銃身一本で済ませている。専用のスパナを使うが銃身の取り外しは非常に楽であ る。銃身と尾筒(レシーバー)の間には修正環を入れヘッドスペースを調整するが、これも九六式には無い仕組み。5種類の厚さ の環(シム)が用意されていた。もう一つ面白いのは銃身に附属している銃を下げるための提げ手(ハンドル)である。いろんな 銘木を使い丁寧に轆轤で作られている。こけし製作の職人などに作らせてのであろう。アメリカで有名な「日本兵の軽機を保持し ての突撃姿勢」の絵は、この提げ手を左手で握っている。これは間違いで、このように銃を構えることは出来ない。突撃姿勢で は、銃の2脚を畳込んで、それで銃身を包み込むようにして保持した。2脚は立てて2段、高と低。畳んで2段、突撃姿勢と背負 姿勢になった。この銃は細かいところも良く出来ている。
銃の重量は弾倉なしで9.9キログラム。7.7ミリ弾は鋼芯弾など、各種の弾丸が用意されていた。その各種弾丸の威力に関して は別途レポートする。

九九式はすでに九六式からそうであったが、実は非常に安価に製造してある。その尾筒は箱状であるが、削りだしでなく、粗末な 素材(ローカーボンの柔らかい鉄)をプレス成型し、製作してある。十一年式、当時の他国のものに比べるとはるかに時間が掛か らず安価に出来る設計であるが、強度上の問題は何も無い。第二次大戦に向けて日本の兵器生産の方針は大きく変化したという実 例のひとつであろう。。現在大量生産すれば十一年式は25万円くらい、九六・九九式は15万円くらいか。但し、九六・九九式 は光学照準器という高価な付属品が用意されていた。
十一年式は「職人芸」、九九式は「経済性と完成度」と言う言葉に象徴されよう。

「弾倉」は大変重要なもの。

十一年式は弾倉を使用しない軽機であったが、その他日本の弾倉は他国のものに比較すると厚い鉄板を使い頑丈に出来ており、こ れは使い捨てでない、という思想で作られている。銃本体と同じく、弾倉も何回かの使用で内部が汚れてくるので、清掃が必要で ある。清掃は上蓋の安全ピンを外し蓋板をスライドさせ外すと長方形のコイルスプリングと抱弾部(フォロワー)が取り出せる。 こうして内部の汚れを拭き取り、塗油し、組み立てる。これを怠るとフォロワーの滑りが悪くなる恐れがある。フォロワーは九六 式は削り出しで製作してあったが、九九式のものはプレスである。スプリングはメッキされている。後方に窓があり、残弾が4発 から数字で示されている。また鉄板の凹みは禁物で、衝撃で変形したものは実包がつっかえてしまう。スプリングも30発を絶え ず装填しておいたら長時間後に弱くなることは否めず、ルイスの円形弾倉のようにスプリングを使用しないものは其の点が長所で あったことは想像出来る。
教本には1挺の軽機に対し、24個の弾倉を装備するとあったが、番号で見る限り16までが最高で、それ以上は見ない。また、 現実2名で運搬出来る数量は1挺につき10個以下と推定する。その為に首掛けの装弾器があり、発射現場で絶えず助手が空の弾 倉にバラで持って行った実包を装填したに違いない。
九九式軽機は小銃と異なり終戦まで高い品質を示していたが、昭和19年後半頃から後脚が無くなり、引き鉄の握りの筋が無くな り、昭和20年に生産されたものは固定照門のものも見られる。

「日立」は世界最高の機関銃製造社

十一年式軽機は約1万挺が東京瓦斯電気と後の日立で生産されたと推定される。 九九式軽機は主に小倉工廠と民間会社日立で生産された。初期には名古屋工廠また満州奉天工廠でも生産されていた。一番多く見 るのは日立の刻印のあるものである。
日立兵器の前身東京瓦斯電気株式会社は東京大森にあり、南部式拳銃から始まり、十一年式軽機などを生産していた。1940年 日立に合併されて、工場も茨城県勝田と水戸に移転した。この会社の特徴は工廠の下請けと言うより工廠と平行して各種の機関銃 を生産していたことにある。九二式重機(100%が日立の生産)、九九式軽機(50%)は特に多く、それらの実物にはマルの 中に日立の文字の刻印がある。観察するに、この日立機械工業完成度は非常に高く、これら機関銃は世界最高の水準にあると言っ ても過言ではない。奉天工廠のものも高い品質であるが数量が日立ほど存在していない。

日立工機社史によれば、1944年下期、月産九二式重機268挺(単価2112円)、九九式軽機1950挺(単価1281 円)とある。 日立の銃身と尾筒の間に入れる修正環はどれも1.3ミリで品質管理の高さを示している。機関銃製造技術は普遍的なものでどんな 機械生産にも転用出来たので、戦中の努力は戦後の産業復興の際に華開いたものと思う。

日本機関銃の数奇なその後

第二次大戦直後の占領軍による日本軍の武装解除の写真がある。横須賀の大きな屋根が破壊された格納庫とおぼしき建物に、1枚 の写真に何と1000挺近い機関銃が引き渡しの為整然と並べられている光景が見られる。それらは約700挺の九六式か九九式 軽機、約300挺の九二式重機の数々である。日本各地でこのような兵器引き渡しが行われ、それらの兵器はすべて組織的に破壊 されたに違いない。本土決戦を決意した日本軍は特攻機と機関銃を主たる兵器と考えて多量に温存していたと言われる。現在アメ リカに残されている日本の機関銃の多くはしかしながらこれらから持ち帰られたものでは無くて、戦場から持ち帰れたものであ る。多くには戦闘傷が残されており、今回の実験に使用したものも沖縄からのろ獲品と記されていた。(先回のレポートに使用し たものはレイテからのものであった。)
また中国・満州に残された多量の機関銃は主に共産軍に引き継がれ、それらは国民政府を台湾に追いやるのに大いに力を貸し、さ らに朝鮮戦争でも多くが連合軍に見られている。余談ながら終戦時にアメリカはソ連に大陸のおよそ200万人分の日本軍兵器装 備と弾薬生産設備などを共産軍に引き渡すことを、なぜ簡単に了解したのであろうか。特に日本軍の多量の防寒装具と数万挺の機関銃を得た共産軍の活発さはその後の歴史を変えた。その影響は現在にまで及ぼされて いると、言っても過言でない。

機関銃はおもしろい

前装銃射撃の際も述べたが、正確で安定した射撃の為に成さねばならぬことは機関銃の場合も多い。射撃の準備と後の整備にも時 間が掛かる。しかしそれだけに銃がうまく回転し、高い命中率を擧げられた時に得られる満足感は普通の射撃とは比較にならない 程高い。特にビンテージな十一年式のようなものを、丹念に整備し、適合する実包を用意し、その射撃を成功さすには大変な研究 と労力を要す。射撃は標的を用意し行うが必である。空き缶、瓶などへの射撃は命中率・威力の研究にはならず環境を破壊するの みで百害あって一利なしである。
機関銃の場合は、単発、点射、連続発射すべて弾痕が異なる。さらに距離、照準眼鏡の使用など様々な状況の変化に対応出来る。

追記: 銃の各部名称は各々の「取り扱い参考」などの教本類による

協力:
エドウィン・F・リビー(メイン州立大学教授)
太田 博道(慶応義塾大学工学部教授)火薬化学知識等
参考文献:
1)「ザ・マシンガン」1ー5巻 ジョージ・チン
2)「ハッチャーズ・ノートブック」ジュリアン・ハッチャー
3)「マシンガン」ジム・トンプソ
4)「十一年式軽機関銃」昭和10年陸軍歩兵学校
5)「十一年式・九六式・九二式検査法の参考」 昭和17年 陸軍兵器学校
6)「九九式軽機関銃取り扱い法」 昭和18年 (株)一二三館
7)「機関銃教練の参考」
8)「日立工機社史」

実射1:「一〇〇式短機関銃と九六式軽機関銃」の実射

「レイテ戦記」(大岡昇平著 中公文庫刊)は昭和19年後半のヒイリッピン・レイテ島に於ける日米の激戦を、両国の資料か ら、また大岡氏自身の体験と各種の聞き込みから、客観的且つ詳細に描いた優れた記録である。戦争のむなしさと悲劇は、現在両 国にとって何の価値もないこの島で、日本軍は精鋭兵力と最新兵器を多く投入したにも関わらず、投下兵力10万人中2000人 しか帰らなかったと言う事実に集約されている。
今回、このレイテでアメリカ軍にろ穫された日本のふたつの兵器、一〇〇式短機関銃と九六式軽機関銃を、これらの所有者の協力 で実験する機会を得た。当地でもこの種の自動火器は、年々規制が厳しくなり、今回のような公に認められた実射は、日本軍兵器 の特殊性(実包・部品の供給)と、規制と合わせて実施が年々難しくなってきている。実験に使用した兵器は連邦政府(ATF)のラ イセンスが付いているものであり、また実験の協力者のリビー教授は、全米一の日本の機関銃研究者であらゆる部品補給と実包を 供給出来る方で、同氏には安全に実験が実施出来るように的確な指導いただいた。この結果は以下に述べるように各種の新発見の 連続であった。リビー氏も日本の機関銃に関する本を執筆中で筆者も日本語の資料に関して協力している。

「レイテ戦記」中に「天号作戦」(昭和19年12月にレイテ島で行われた空挺攻撃)で使用された兵器に関して以下のようにあ る。
「この作戦に使用された第二挺進団(高千穂部隊)は優れた装備を持った精鋭であった。この部隊は11月中旬西筑波と九州で編 成されたばかりであったが、その装備を見れば、永年各研究所の苦心の末出来上がったものであることがわかる。兵力は挺進一個 連隊500、団1000(連隊が2つの師団のことー筆者)であるが、兵はみな口径8ミリの100式短機関銃(ママ)を持って いた。これは中央工業株式会社顧問南部麒次郎中将の設計のもので、命中率は悪いが、一分間900発発射出来るので(発射速度 のことー筆者)、接近戦には極めて有効であった。(のち、バレンシアに降下した一部が、第一師団の将兵と合流したので、土居 参謀の記憶に残っている。米兵はこの銃の優秀性を知っていて、降下兵を見ると逃げたという)。さらに九九式7.7ミリ軽機関銃 を別に包装して投下した。これは日本軍が最も多く用いた九六式6.5ミリの口径を大きくしたものである。ー略ー 2年前にバレ ンバンに降りた「天降る神兵」の装備に比べると大変な進歩で、日本の軍事技術家の苦心の結果であることがわかる。」

この記録によれば、ここにあるだけでも1000名の挺進兵に一〇〇式短機関銃が装備されていたことが偲ばれる。このレイテの 降下作戦に実際参加した兵力は輸送力から300名くらいの単位であったと思われるが、恐らく日本軍が組織的に一〇〇式短機関 銃を使用した唯一の実戦例ではなかろうか。一〇〇式短機関銃は昭和17年頃中央工業・南部で生産された前期型と19年に名古 屋工廠で生産された後期型の2種類存在する。今までこの種の兵器は日本軍においては微々たる存在でしかないと思われていた。 しかし筆者の先の調査では大戦末には海軍は輸入のベルグマンなど欧州製のものを6000挺、陸軍は国産の一〇〇式を一万挺位 を装備していた。最近一〇〇式後期型の実物は8000番台の後半まで見られている。また聞いたところではアジアのある国(ミ ヤンマーか)から80挺の一〇〇式短機関銃がアメリカに輸入され、無稼働銃に工作して日本で発売される計画があると言う。海 軍の輸入品は1920年代の後半から継続的にあったらしく、口径も9ミリと7.65ミリの2種類あったようだ。これは残された 実物が非常少なくてその実態はよく分からない。ベルグマンP-28に「錨 」の刻印が押されたものを見たことがある。

一〇〇式短機関銃もその現物は少ない。恐らく全米で数10以下であろう。今回実験に使用した銃は昭和19年12月6日レイテ 天号作戦に使われ、米軍にろ穫されたものと記録されている。なお日本の短機関銃総数に関して、機関銃研究家のトンプソン氏は 25000挺としている。(筆者の計算では陸海軍合わせて16000挺) 一〇〇式機関銃後期型は名古屋工廠の記録では同年の5月より月産1000挺のわりに生産した。番号からこの銃は7月頃に作ら れた計算になる。まだ銃床板が鉄であるが、その後この部分は木板になり、8000番くらいになると、安全栓も無くなり、様々 な省力化がなされた。仕上げなどは九九式小銃と同じような時代経過をたどり、これは小銃の19年夏の生産と同じような質と思 う。銃床は赤みがかったカシュー仕上げで、金属部は黒錆染めである。余談だが、兵器生産の質は19年の夏をはさんでドラステックに変化した。

九六式軽機関銃は昭和11年(1936)に制定され、翌年から6年間にわたり約41000挺が小倉工廠(一部名古屋、奉天工 廠)で生産された。 機関銃研究者の間では「第二次大戦当時世界で最も信頼性の高い軽機関銃」という評価を得ている。実際その完成度の高さは現在でも通用するものであろう。 これらの兵器の詳細は筆者の「日本の軍用銃と装具」(国書刊行会刊)を参照して欲しい。現在、筆者はこの本の続編として「日 本の機関銃」の執筆に臨んでいる。
今回の実験はこの研究の一環として計画し、9月後半にアメリカ北東部の、教授の友人所有の砂利採集場の一部を借りた実施され た。「射撃」とは標的とスポッテングスコープを用意して行うもので、私たちの研究では、子供ではあるまいし、空き缶やプラス チックボトルなどを撃って喜びはしない。但し将来、各種の弾丸また口径の差をみるために、廃車などの鉄板を撃ってみる計画を している。
テストは安全を確かめ、2日間にわたり実施したが、レポートの写真は2日目に撮影したものである。第一日は天気が悪く、かな りの雨降りで身体も兵器もずぶぬれになり、後の清掃・整備が大変だった。

 

一〇〇式短機関銃

一〇〇式短機関銃は信頼性が高い

今回一箱50発60ドル(8000円)もするFC社のちゃんとした実包を150発用意したがこれが実験の成功の鍵であった。 アメリカで8ミリ南部弾は戦後50年間に何種か発売されているが、筆者はこれらすべて元の南部弾に比べ若干弱装であるとみて いた。今まで発売された南部弾で現物のように弾丸を3個の窪みで薬夾が挟んでいたのは「ミッドウエイ」社のものだけで、この 実包はすでに発売されておらず、今ではコレクターズアイテムになっている。この窪みは重要な要素で、例えば拳銃でも何らかの 理由で閉鎖が不充分であった際など、このために弾丸が圧縮されて変形することが少ない。これは一〇〇式のような自動銃の場合 はもっと顕著である。
とにかく今回の実包は良かった。弾倉に25発づつ装填して(実際は30発装填できる)、6回の射撃を行った。2日目は4回連 続して発射したが、回転不良(ジャム)は一回のみであとはすべて良好なる回転でこの兵器は部品は少ないが信頼性の高い兵器で あったということが証明された。
なお、スプレー油を必ず発射前に弾倉内部(実包)、機関部にかけた。

弾丸の集中率が高い

一〇〇式の照門は2段階になっている。下が環穴(ピープ)で上が筋である。「日本の軍用銃」で環穴が100メーター、筋が2 00メーターではないかと書いた。実験の結果、これはこの通りであった。50メーターの距離、環穴照門の射撃では、弾丸は1 0センチ上に行く。これはこの照門が100メーター用であることを示している。
筆者は他の同種兵器、ステンマーク3、MP-40なども有名なスコッデールの「マンダール」射場で実験したことがあるが、こ の2種とも、連続発射において最初の3発は狙いに当たるが、4ー5発目からは右上に行ってしまう、というパターンを示した。 しかし、一〇〇式は10発を連続して撃ってもすべてがひとつのグループに入っている。銃本体のバランスと銃口の制御が良く出 来ているからであろう。50メータの距離で8センチくらいの集中をしめした。三十年式銃剣を装着して発射した。

整備、清掃が楽である

一〇〇式短機関銃は銃床の左横のD型環を90度回すことにより簡単に、銃床と銃身に分解できる。二つに分けて束ねると長さは 70センチくらいになりコンパクトに運搬出来る。さらに銃身後部右横の柄を180度後ろに倒し、これを抜き取ることにより、 尾筒底を外し、復座ばねと円筒(ボルト)を簡単に取り出せる。撃針は円筒に固定されており、その他の部品も全て固定なので、 取り出した円筒を掃除するだけでよい。拳銃のそれよりもはるかに楽である。
後期型は回転が分間800発と早くなった。大岡先生の言うように分間これだけの弾丸を発射は出来るわけではない。よしんば発 射しても意味がない。弾倉には30発しか装填出来ないし、弾倉の交換にも時間が掛かる。何よりも目標に対して照準しなければ ならぬ。発射速度を早くした仕組みは尾筒底の緩衝ばねであるが、これは前期型(分間450発)に比べ僅かに短くしただけであ るが、不思議なことによく機能している。機能的には後期型は前期型に比べはるかに改良されたが、前期型は仕上げが最高級で、 後期型はそれまでの日本軍の小火器になかったような作り方、溶接で各部を組み立ててある。
リビー教授は弾倉は一人の兵が8個くらい持っていたと推定している。アメリカ軍は機関銃の戦利品(ワー・トロフィー)として の持ち帰りは許しても、弾倉を持ち帰らせなかったので、現存する弾倉は非常に少なくて、弾倉のない銃が多い。弾倉の専用の入 れ物は記録されてない。十一年式軽機の属品入れ嚢、雑嚢などが使われたのであろう。軍装研究関係の方で情報があれば教えてい ただきたい。

昭和19年に名古屋工廠関係で生産された空挺用の兵器に、分離型二式小銃(7.7ミリ)と二式短剣がある。今回二式短剣を持っ て行ったが、一〇〇式にこの短剣のみを使用したのか、普通の三十年式銃剣を使用したのか不明である。二式短剣は豊田で作られ たが、剣身は黒錆染めで、白磨きのものは複製品である。
なお、今まで8ミリ南部弾は軍用としては「弱過ぎる、威力が無い」等の記述も目にしたが、欧州製の各種9ミリ拳銃弾兵器と比べて、このように標的射撃をする限りにおいてはそれらの大きな差は感じられない。

 

九六式軽機関銃

この実験はやはり標的を使い75メーターの距離で実施した。この距離は軽機関銃の射撃には若干短過ぎた。最低150メーター くらいは欲しいところだった。2日間に3種の実包で200発の実射を行ったが、中国製の実包を除き回転不良はなかった。リビー教授が事前に部品等を良く点検し、整備したからであろう。

 

銃剣装着は白兵のためでなく、銃口安定のためである

相当に分かっている人、例えばトンプソン氏でも「日本軽機の銃剣装着は不適切な設計」としている。「この銃剣付き機関銃で弾 が無くなったら戦おうとしたのか。」「軽機の銃剣術はあったのか。」違う。この銃剣装着は命中率を高めるよう、銃口部分を安定させるためのものである。もし弾が無くなって、銃剣で戦うはめになったら、銃剣は手に持てば良い。そのほうが身軽に使え る。九六・九九式軽機に銃剣を装着する設計は、全ての兵士の個人装備の重量600グラムの銃剣を活用して機関銃を安定させよ うとしたものである。初めから先端を重く作る設計は他を犠牲にしなければならない。日本で読んだ「機関銃にも銃剣を付けさ せ、これで白兵をしようとした、日本軍の精神主義極めり」的なご意見は間違いである。ちなみに銃剣無しの平均スコアが75点 くらいとすると銃剣を装着すると85点くらいにまで上がる。回転も良くなる。リビー教授は昨年、筆者が初めて銃剣を装着した まま射撃をした時にすぐにこれに気づいて「銃口の安定が全然違う。」と指摘した。この例でもわかる通り1930年代の日本 は、現象面で様々に国の内外共に誤解されてることがまだ多い。

目視照準と別な銃の照準眼鏡でも弾丸は同じところに行く

九六・九九式の軽機に左に目視の照準があり、右側に2.5倍の眼鏡が装着できる。九六式と九九式の眼鏡は見かけはほとんど変わ らず、大宮第一工廠の他、日本光学、東京光学、高千穂光学、榎本光学、富岡光学など複数の製作会社がこれらを生産した。狙撃 銃の照準眼鏡と同じく固定式でこれを銃本体に取り付ける際に調整できない。「どうやって調整したんだ。」これがいつも聞かれ る質問である。眼鏡には銃の番号が入れられてる場合と無い場合がある。また台座によっては合う眼鏡と合わないものがあるが、 これは台座を少し削ることで解決できる。
筆者は日本陸軍技術本部は、銃の製造社と光学会社にそれぞれ正確な図面を渡しこの通り作りなさい、そして品質検査を厳重にし て、いかなる銃と、いかなる眼鏡とも、互換性がある、このようにしていたのではないか、と推察していた。勿論試験射撃で幾ば くかの記録上の修正はしたであろうが。
今回の実験では同じ銃で、左の目視と右の眼鏡を交互に使いながら、標的射撃を行った。75メーターの距離では、このふたつの 方式の照準の弾は、ほぼ同じところへ行った。距離が遠くなるとどうなるかは分からないが。
ちなみに使用した眼鏡はこの銃のものではないものであった。アメリカ南部の日本の機関銃研究家レジスター氏は九六式用と九九 式用の眼鏡(レンズ上の線と数字が違う)は互換性がある、同じところに弾が行く、としている。確かに物理的には互換性はあろ うが、実包の性能が違い、弾道が違うのであるからこれは理屈に合わない話である。しかし、2ー300メーターまでの近距離で は、弾丸の性能による差は出てこないのかも知れない。照準眼鏡は1500メーターまでの表示がある。

この実験で、日本の照準眼鏡は図面通り正確に作られ、どの銃にも現場で調整しないで合うように設計・生産されてたことが証明 された。アメリカ人に言わせれば、同じ形式の眼鏡を数社の会社が同じように製作したことそれ自体ひとつの大きな驚きであると してる。これは1930年代後半の日本産業事情の窮余の策であったのだろうが、戦後数多くの光学会社がカメラ、ビデオさらに、コピーマシン、プリンターなどレンズ電子産業に大発展しいった下地を作った。

東京・小倉工廠のマークは「同弾」の印

明治20年頃より、「四つの輪」が重なったような刻印が東京工廠で使われるようになり、兵器にこの刻印が打たれている。19 20年代の半ばに小倉に移転してからはこの印が小倉のものとして使われた。名古屋工廠の印は鯱をデザイン化したと言われてい る。この「四つの輪」は日本の伝統的なものとも違うし、誰がどうしてデザイン化したのか、不思議に感じていた課題のひとつで あった。(重ねて置いてあった大砲の弾の底部をデザインしたと言う説もあるとのことだが、あまり面白くない。)今回、九六式 軽機の射撃の弾痕を見ているうちに、「そうだこれは同弾、4発以上の弾がすべてひとつにまとまった、その性能を象徴したので はないか。」と気付いた。九六式は特に弾丸の集中率が良いと言われていたが、今回の実射では標的に4発以上の同弾が3回見ら れた。この弾痕の形が東京・小倉の刻印に似ていた。太平洋の戦いのアメリカ軍の記録で、死傷者の原因別では軽機関銃によるも のが一位であったと言う事実を聞くと納得できる。この集弾率の高い日本の軽機に撃たれた者の半数は死亡したそうである。勿論 この刻印が制定された頃には機関銃は存在してなかったが。

規整子が円滑な回転の鍵である

規整子とは瓦斯筒(銃身の下にあるパイプ。その中に、銃身のガス一部が抜けて、その力で内部の活塞というロッドを押し下げて さらに復座バネの力とで、排夾、装填、撃発を繰り返す。)の前端に付けられた、5段階に抜けるガスの量を調整できる部品であ る。1から5までガスの量が段々多くなり、強さが大きくなる。普通1から始めるが、機銃が発射を重ねるに従い、汚れなどのた め回転不良が発生するようになる。そうすると2に上げるとまた滑らかに回転するようになる。では初めから少し強めにしたらど うか。このような考え方もあり、例えばBAR(ブローニング・オートマティク・ライフル),AK-47などはそうなってると思う。しか し、日本軍の考え方は少し違い、ガスが強すぎると、命中率が悪くなる、銃の部品を痛めるという二つの理由から、この規整子を 頻繁に活用させた。今回の実験でも様々に規整子をを試したが、この活用で思い通りに銃を回転させることが出来た。優れた機構 と工作である。
回転不良には2種あり、ひとつは排夾・装填の力が足らず、空薬夾が残ったり、挿弾される実包が斜めに詰まってしまうケース。 もうひとつは、活塞が引き金の位置まで戻ることなく、どんどん発射されてしまうケース。いずれにせよこれらは規整子を使うこ とでその場で解決出来る。

今回使用した実包はノーマ社のもの、その空薬夾で再装填したもの、中国製のものの3種であった。中国製のものは1950年代 の刻印があるもので、弱くなっており、このようなコントロールの難しい弱装弾にも、規整子を2の段階にして発射したがうまく 回転させることが出来た。機関銃射撃に必要な技術のひとつは、単発、点射(3ー5発)などの発射である。特に単発で撃つこと により、ひとつひとつの目標に確実に当てると同時に小銃と思わせ、機銃の存在を隠すという作戦に使われる。軽機関銃は複数を うまく配備することにより、全体としての攻撃力、防御力を累乗的に増大させることが出来た。この運用の教育も熱心行われた科 目のひとつと言われている。
現在の自動銃は切り替えで、単発、3発の点射、連続と3段階に切り替えられるが、九六式のようなビンテージには当然このよう な機能は無い。

射撃後の九六式軽機の清掃・整備および点検は短機関銃のように簡単にはいかなかった。分解、清掃、点検、給油、組立に2時間 掛かった。このようなビンテージな機械の整備には細心の注意が必要である。特に中国製の朝鮮戦争当時の実包は腐食物質が含ま れているとのことで慎重に清掃した。

実験の総括

今回の実験で感じたことがある。

1)一〇〇式と九六式の2種の兵器はそれらの開発にいずれも南部麒次郎氏が関与していた。南部氏の日本兵器開発の功罪は沢山 あると言われているが、今回の実験でも同氏は日本の小火器開発にいかに大きな貢献をしたことかが実感できた。南部氏の伝記を 読む限り、彼は「秀才」ではなく「創造人」であった。兵器に限らず一般の日本産業も「創造人」が支えてきたものであり、これ からも創造的能力に依存することが大きい。二つの兵器共細かいところにユニークな工夫が沢山見られた。
2)一〇〇式は言うに及ばず九六式も攻撃的、軽快な兵器で初期のアサルト・ウエポンと言う定義がふさわしい存在である。トン プソン氏は九六式軽機を日本軍は連合軍の「サブマシンガン」的に使っていたとしている。
3)機関銃は銃本体だけを持っていても殆ど運用が出来ない兵器である。弾薬をはじめ整備、装填のための装具、その他予備部品 をいれるとその嵩は生半可なものではない。従って補給の難しい戦場、レイテみたいなところでこれらの兵器を使用してた現場の兵士の苦労はいかほどのものであったろうか。気楽にスプレーで油をかけながら感じたことである。

最後にもしこのような実験でも実施しなければ、ここに書いたような日本の主力歩兵火器の軽機関銃などの開発、工作、性能など の背景、考え方等々の歴史的重要な情報が永久に得られなかったのではないかと思う。兵器も重要な歴史的な学術研究の対象のひとつである。現在の日本の兵器研究軽視は文化・文明の抹殺に等しいのではないかと思う。

参考文献:

1)「レイテ戦記」大岡 昇平著 中公文庫
2)「マシンガン」ジム・トンプソン著 パラデインプレス
3)「ショット・ファイアード・イン・アンガー」ジョン・ジョージ
4)「ザ・マシンガン」1ー5巻ジョージ・チン
5)「ハッチャーズ・ノートブック」ジュリン・ハッチャー
6)「九六式軽機関銃取扱上の参考」 陸軍歩兵学校編
7)「日本の小銃」 第1巻 全日本軍装研究会編