11-5、村田銃開発のためか、アルゼンチンのローリングブロック方式小銃
レミントンが開発したボルトアクション前の後装式小銃の一種だ。明治の初頭、日本が村田式小銃を開発していた頃に試験的に輸入したものだろうと推察できる。陸上自衛隊武器学校の収蔵品の中にあったものだ。
刻印は「Modelo Argentino」スペイン語で「アルゼンチン型式1879」としかない。このアルゼンチン形式は20世紀になりアルゼンチンモーゼルに使われた名称だ。閉鎖の仕方に特徴がある。撃鉄が落ちると、弾薬を入れる部分を押さえる個体が固定され、閉鎖されるのだ。下記のものは武器学校収蔵物(無稼働)
上記の4様の写真はカタログより
他にも欧州、アメリカで、熕棹式(1880年ごろ)開発されるまでの様々な後装式、その装填などの仕組みを村田十三年式(1879)同十八年式までに研究したはずだ。この頃が小銃が一番熱心に世界中で研究された興味深い時期であった。
以上
11-6、和製狭間筒改造ウィルソン式銃
城から野に向ける、「狭間筒」(はざまつつ)と言う長大な火縄銃が城に用意されていた。会津城にもその種の鉄砲は存在したであろう。射的が長い。しかし装填しづらい。この鉄砲は全長が170㎝近くあり、二匁半だ。
(一般的な火縄銃の1・5倍の長さ)
元は火縄銃だったが、2回改造されたと推定される。1回目は管打ち銃に、このロックは良くできていて、ハーフコックもある。もしかしたら洋銃のものを使ったのかもしれない。(ロック下は良いもので、特にハンマーは日本製ではない)
(フルコックの状態)
2回目にウィルソン式の後装銃にした。日本では海老尻栓銃と言う。
横から入れる閂は正式には外れないが、これは取れてしまう。またボルト上には鉄板の被いが付けられて射撃の逆噴射が少しでも射手の顔にかからないような工夫もある。しかし後ろからガスはかなり漏れたであろう。
照星は銃身の上を後ろにずらして精密に製作した。
(光のかげんで木部が良く見えないが状態は良い)
どのくらいの射程があったのだろう。銃身100㎝で100mとして、150mくらいか。それでもうっかり近づいたら狙撃されただろう。以上
10、エンフィールド銃の練習
HP日本の武器兵器 洋式銃の項 2010・6・13水曜日 掲載依頼
2回目の練習だ。弾丸を入れる時、銃口から数㎝のところで引っかかる。観察すると錆がある。赤錆だからそのうちとれるだろう。後はすんなりと装填出来る。弾丸は.572口径で作ったものだ。蜜蝋のワックスを塗って乾かないように容器に入れて置く。弾丸の重さを測り、薬量を決めた。先回はスプリングフィールド銃も実験したが、今回はエンフィールドに限り、①薬量、②負い皮(スリング)、③照準器の調整などをしてから射場に行った。
競技のように30分間、13発、途中でクリーニングなし。伏射でなく大口径射撃のように、ベンチレスト、標的は大口径ライフル150m用で50m。
薬量○gも丁度このくらいか。前装で弾丸を拡張して、ライフルに噛ますと言う方式は丸玉より力が要る。反動も強い。フランクに教わった時はシューティングジャケットを着ていたのにひじが剥けて3-4日痛かった。今回は厚いシャツだが、デスクが滑った。
スリングは自作したが、丁度良い長さ、しかも幅を少し狭いものにした。広いものは腕に絡まないからだ。照準器は横棹が無いので自作。距離は合った。しかしこれは競技では使えない。最後の2発が弾痕不明と上に行ったのは環が緩んだためだろう。途中で点検する必要があろう。
これが50m、一段上げると100m
この日は時間がなかったので1Rだけ練習して帰ったが、成果はあった。
グループとしては下やや左が良い、反動を処理できているのだろう。次回は100mに、その次は伏射に挑戦したい。
9 、ミニエ式小銃を試してみる
ミニエ式小銃、ミニエ、スプリングフィールド、エンフィールドは同じ口径.58口径、14.66mm と聞いていたが、様々な口径がある。大きいのには.585くらいから小さいのは.572くらいだ。0.23mmほどの差だから、どうにでもなると思うが。銃は前装だから大な弾は0.1㎜でも入らない。小さい弾は機構上、十分にライフルに噛まない。
私が実験した2挺、ひとつはスプリングフィールド3つバンド、もうひとつはエンフィールド2つバンド。
昨年の夏、バージニア州でフランク・コッパーにコーチを受けた。
パッチは使わず、割合小さめの弾に特殊なグリースを塗る。反動が大きいので、皮革製のスリングを左手に巻く、などだ。
右からエンフィールド,スプリングフィールド、火縄銃
アメリカ南北戦争の間、南軍も北軍も同じこのミニエ式小銃を様々な会社で造りさらに
両側とも欧州から輸入した。100万挺自国生産、100万挺輸入と言われている。その余剰兵器を日本は輸入したから、何がなんやら入り混じっている。しかし日本の銃は数十万挺輸入されたが、明治になりまた輸出され、現在古式銃として残っているものは少ない。
このスプリングフィールド銃(1864)は銃床を5㎝つめてあり、尾栓を開け、鳶の尾の裏に漢字で「二」と刻印してある。明らかに日本に来てからの改修だろう。滋賀県で見つかったと言うから
銃身を熱し、尾栓を外した
鳥羽伏見で敗走の途中、幕府軍が置いて行ったものかもしれない。エンフィールド銃はそういういじりはないが、狩猟用に使われていたかもしれない。照準器が最低の100mより
下になるよう横帯をはずしてあった。両方ともいろいろな検査の結果、偶然にも同じ.752
口径で20発ほど用意した。製作は丸玉より一工程多いが上手にできた。薬量は同じ○gとした。(発射の様子、反動がかなりある)
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50mでフランス陸軍標的の使い古しを張る。
銃腔内はきれいにしたという程度で錆びていた。まずは弾が底まで入るかどうかが第一段階。これは両方ともうまくはいった。
次は回転して真っすぐ飛ぶかが第二段階。
エンフィールド銃のほうはまあ当たった。スプリングフィールド銃は当たらない。
この理由は分からないが、両銃とも玉抜けは丸く良い。原因は照準か、つめて短い銃床か。薬量か。長く腕に絡むことが出来る長いスリングを自作してエンフィールド銃だけをもっと
試してみたい。
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50mでフランス陸軍標的の使い古しを張る。
2挺を分解整備するのも大変な作業だ。錆は大分出た。
ひとつ整備し、組み立てるのに最低1時間は掛る
(写真協力千代氏)
8 、明治の鉄砲用具一式
使っていた薬莢などから村田式銃など28番くらい鉄砲の道具などであろう。いずれも家に一式揃えておいて翌日の猟に使う弾薬を自ら装填したと言う。今では民具としてなかなか味わい深いものだ。いずれも囲炉裏の近くに置いてあったのであろう、煤けている。
1、 引き出し型
2段の引き出しになっており箱は29㎝x幅11㎝x高さ15㎝である。
太い革紐の付いたブラシが入ったおり、それは銃身内を掃除するものであったのだろう。散弾が布袋に、和式と洋式の中間のような玉型、真鍮の薬莢、火薬測り、雷管抜きなどが見られる。恐らく火薬は別な入れ物に入れてあり湿気ないように囲炉裏の上に吊るしておいたと言うが危険な収納だ。コイルスプリングが見られるので村田銃ではないかもしれない。また上下の引出しには別な火薬測りと雷管抜きがあるので、2挺の別な銃用に引き出し収納にした可能性がある。
手製に近い玉型だが正確なようだ。
2、 大型の箱 「火要心」
大きな箱で表に「火要心」と大きく書いてある。箱には漆が塗られていたようだ。箱は36㎝x幅24㎝x高さ11㎝で、内部には小さな仕切りが二つある。
また各種の真鍮薬莢があり、雷管の空箱もあるので、この箱に火薬、雷管、薬莢、散弾、ワッズなどを収めてあった。興味深いのは石でできた散弾の玉型で、裏と表があり、玉の寸法が異なる。5号と7・5号くらいの大きさ。
ここにもコイルスプリングが見られるが、村田式はこう棹の中に松葉バネが入っていた方式なので、普通のボルト式の銃も使っていたのだろう。「火要心」と書いてあったほどだからこの箱の中に黒色火薬が収納されていたのだろう。
石の散弾玉型
3、 小型の箱
25㎝x幅15㎝x高さ10㎝ほどの簡単な箱で恐らく蓋もあったであろう。
雷管抜き、火薬測り、布製の袋には散弾、そして切断した短い薬莢とダイスのような道具がある。一つの銃の道具だろう。
昔、農作物を守るために猟が盛んに行われていた頃の道具だ。秋になると手製の自分にあった弾薬を作り、村田銃や村の鍛冶屋が造った簡単な
猟銃を使ったのであろう。同じ口径、例えば28番でも薬莢の底部に凸があり、合わないものとか、長さの異なるものとか、が存在した。
7 、難しいミニエ銃の弾合わせ
ミニエ式の銃、スプリングフィールド三つバンドとエンフィールド二つバンド、恐らく江戸期末期、1865-9年の輸入ものだ。大体、同じ口径で一緒に出た胴乱(弾入れ)に残っていた筋のない、底が窪んでいる弾丸がこれらに合うのだろう。
(オリジナル日本の弾丸)
① 径14.6㎜(.572インチ)、重量45g、長さ25㎜
これは銃口から少し入れるとライフルに噛む感じがする。実際に昨年、バージニア州でエンフィールド銃を撃ってみた感じでは相当に小さな弾を使う。グリースを塗るが果たして2発目がスムーズに入るかが鍵だ。
この弾は複数あるが、撃ってしまうわけにはいかない。江戸期のオリジナルもので多分、日本製だろう。
(するっと入ってしましそうな感じ)
そして各種の外国製の弾丸を合わせてみたが、まず失敗したのは口径の異なるものを購入したのにも関わらず同じものだったのだ。LEEの弾型で.58口径。柄が異なり、刻印がなかった。
② 径14.78㎜,40g,長さ20㎜で現代競技に使う銃弾を作るものだ、実戦の弾丸より短いのが特徴で、重量も軽くなっている。
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(形が異なっただけ) |
そして、参考のために4つの弾型を大先輩より借用してきた。左から
③ 径14.75㎜、重量40g、長さ23㎜
④ 径14.78㎜, 重量37g、長さ21㎜
⑤ 径14.85㎜, 重量45g、長さ23㎜、 先端が平たい
⑥ 径14.83㎜, 重量40g、長さ20.5㎜, 丸棒型
勿論、前記の二つの銃には大きすぎて入らない。
(大先輩が収集したもの)
日本ではミニエ銃は口径が14.66㎜(.577)と言っていた。聞くところでは.58口径と言っても、主流は.577で、前記のふたつの銃にはおそらく.572(14.53㎜)という最小の市販の弾型だろう。勿論、三つの筋も入っている。
更にダイスと、弾頭コレクターと言う道具もあるが使い方が分からない。
(ダイスなど)
丸玉ではLYMANと言う弾型が有名であり、丸玉はパッチを使うからある程度の許容範囲はあるが、ミニエにはない。またミニエは競技中、銃腔内のクリーニングはできない規則なのと、裾がひらいて浅いライフルに噛んで出て行く方式だから、その弾割(弾丸合わせ)はとても難しいが重要な研究だ。
(.58口径弾はどうしても入らない)
下はLEEの箱とLYMANの箱、これは柄が共通で型だけを交換できるもの
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以上
6 、19世紀半ば混乱の日本での自衛用拳銃
江戸期末から明治初頭、日本は体制変革を迎え、社会は混乱した。今では考えられないような凶悪な犯罪が増えた。一般民衆は防ぎようもないが、富裕層は自衛した。3年前「銃砲史学会」で、野田市立博物館旧茂木邸を見学した。多量の銃器、屋敷を囲む高い塀、頑丈な門、屋敷内のシェルターなど。茂木家は醤油生産を家業としていたが、現金決済が多かったのだろう。家や工場を日夜守る、また醤油を江戸に横浜に運搬するに途中の難を逃れるために、屈強な若者を雇い武装させたそうだ。同じ日に見学した武器学校に展示されていたその頃輸入され主に民間で使用されていた拳銃類だ。
木箱入りは、火薬入れ、管入れ、道具、玉型(○と椎の実型がひとつ)などが組になっている。これは1867-8年にマンハッタン社(ニューヨーク)で製造された前装輪胴式である。口径は.36で軍用でなく、民間用のものだ。5條のメトフォードライフルで、約1万挺作られたが日本にどれだけ入ってきたかは不明。これは完全品だが銃身で無稼働化されている。照門はどこですか?と聞かれたが、撃鉄をあげるとその先端が割れていて照門になる。
無稼働化されている。
この写真の2挺、上はSW社の.32口径、下はマンハッタン社の.22口径だ。マンハッタン社は多分SW社からライセンスを得ていたと書いてある。製造は南北戦争前だが、両方ともリムファイアの金属薬莢を使う。輪胴を回すノッチが前後しており異なる。この形式は国産の銃もあった。完成度で見分けはつく。
SW2型.32口径は幕府から引き継いで明治政府が輸入した。およそ総計17000挺と言われている。それ以前にもアメリカ南北戦争直後に日本に入り、いわゆる坂本 龍馬の拳銃として有名だ。1855-60年7万挺生産されたと書いてあるから日本にきた数は多い。
無稼働化
古い形式なので価格がバーゲンだったのか。リムファイア金属薬莢を使用するがこの形式は輪胴を外し装填しまた装着するのが難しい。一旦、装填したら打ち切るしかない。ジョン・フォードの『駅馬車』に短い銃身のモデルが出てくる。江差で引き上げられた開陽丸備品にも朽ちた多くが見られた。
明治期、現金、手形を運ぶ郵便馬車の局員がこれで護衛したと折原先生の論文にある。
(協力:陸上自衛隊武器学校 資料:フレイーマンガイドトゥアンテークアメリカンファイアアームズ他)
5 、洋式銃の照準器
日本の火縄銃のその特色のひとつは照準器にあることは間違いない。
和洋を問わず前装小銃照準器は滑腔銃とライフル銃ではその性能の差から形状が異なる。しかし日本では滑腔火縄銃の照準器は多種多様で、なかには現在では使い方の論理が分からぬものもある。これは別な課題として残し、今回は、
洋式銃の、西洋式照準器と、和式照準器例を観る。
1、和式管打ち銃の照準器 完全に和式である。しかも照門はかなり先にあり、注文生産したものと思われる。
2、スプリングフィールド1861年型の照準器の照門は3段階になっているが、数字が記されてない。1段と2段は90度折り曲げた板で、3段は立てる。銃の長さ(三つバンド)から1段は3-400m、2段は数百m、3段は1000mと考えて良い。
下が前、照準器自体は銃身にネジ止め、V字型。このスタンド式の3段はバネがないので、発射、操作で倒れてしまう恐れがある。下の画像は1段を後ろから見た様子。
同照星
3、エンフィールド銃
二つバンドの短い形式の歩兵銃でスプリングフィールド銃より高級品であった。タンジェント型の横軸(この例では欠落している)を前にスライドさせることにより照門をあげて、遠くを狙うようにする方式。
尺の右側には数字が上から、10,9、8・・4まで刻まれている。
基本は400mで、立てた状態は1000mを意味しているのだろう。
この銃は横軸を取ってしまっているので、2-300mになっている。
競技では横軸のない照尺ではオリジナルと認められない。
同照星 台が四角い。
4、国産ゲベール銃(管打ち、滑腔)は外国製のものと異なり照門が銃身の後部(尾栓の上に)にある。吉久製、三つバンド、口径16㎜ 例
ハンマーは外してある。
同照星 この手の銃の特徴としてバンドの上にある。
5、国産ゲベール銃二つバンド 堺製 口径18㎜ 例
かなり精巧だが、管(ニップル)が邪魔をする。
照星はバンドの上
6、和製洋式銃床管打ち銃(猟銃)の例
ドライゼ型の和製銃だが、照準器は日本式である。しかし細かいところでどこか工夫がある。注文の猟銃だったようで半銃床(ハーフストック)
口径12.5㎜
この照星は前から見たところだが筋は細いが横が内側に傾斜しているところが特徴である。見易い。
精密に造られた照星には縦に筋がある。使用用は不明だが。
以上、6種の例を紹介した。
4 、和製洋式銃装具の出来の良さ
日本では洋式銃は幕府から各藩へ軍備が推奨された19世紀半ば以降に火縄銃に替り製造された。
日本では輸入された装具は見てないので、小銃だけ輸入し、胴乱、管入れ、帯、銃剣差しなどの皮革装具は独自のものを製造したのだろう。火縄銃時代の名残もあり、また仕上げに漆を使う、家紋を入れるなどの特徴があり、欧米のものよりも高級感がある。金具が細いのが弱い点である。
○銃剣差 肩掛けの帯に槍状の銃剣差しを入れる。日本の歩兵は刀をもったので、銃剣は全ての銃に装着したたわけではない。前装銃の場合、銃剣を付けると火薬、弾丸の装填が難しくなる。しかし銃を保持したまま、刀剣で戦闘はできなかっただろう。
明治荷なっても歩兵は刀を差していたがそこに一種の矛盾があった。
胴乱1 胴帯にはさむ方式であり、管入れ(パーカション入れ)も「とも」だが、これはどこに管入れを保持したかは不明。皮革は柔らかくしたものを何枚か合わせてある。外国のものは一枚革なので、日本のものは何倍も手がかかっている。
胴乱2 無地の内部がトタン製の箱 幕末、亜鉛合金のトタンは高級な金属であった。ミニエ方式の紙包弾薬は脂がひいてあり防水性は高かったが、さらに弾薬入れにも配慮した。シンプルながら漆の仕上げの上品な品である。
内部、ポケットが付いている。
恐らくクリーングパッチが入れてあったのであろう。
胴乱3 葵紋の木製内箱入りで、箱には縦に穴が開けられ、16発が収納される。
蓋の内側に雲の模様が入り、上手なものであろう。木箱の上部は薄い鉄板でおおわれている。肩負い帯が欠落している。横の帯は一緒に出た腰帯である。
胴乱4 板状の蓋のもの
笹紋2個入りでデザイン的には火縄銃の胴乱を踏襲しているが、蓋を頑丈に作ってある。内部はトタン製の箱入り。
胴乱5
笹紋の一般的な品であるが、負い帯と管入れが欠落している。
日本の胴乱は負い帯、管入れ、そして内部にはポケットが付いている。
仕上げは漆で皮革に漆を塗るには厖大な作業となる。しかし皮革が縮み効果を出して美しいと同時に丈夫である。パリ万博に出品されたこれらの品をみて
フランスの高級バッグはアイデアを得たと言われている。
3 、戊辰戦争用に輸入されたエンフィールド騎兵銃サイズ
エンフィールド銃の短いものだ。1863年製、美しい銃床、良い鉄質。エンフィールド銃は
二つバンド、スプリングフィールド銃は三つバンドが多い。この銃はエンフィールド1867年の刻印があり、明らかにその年に幕府か諸藩が輸入したものであろう。しかしこの例は
二つバンドより短くて、騎兵銃のようなサイズである。
全長は101㎝、銃身長60㎝、口径16㎜である。口径が大きいのはこの銃の寸法が散弾銃に適していたので、銃腔内のライフリングを落として散弾用にしていたからと推察される。
しかし民用に使用される際にはおとされる着剣装置はそのまま残っている。
英国の専門家に聞いたところ、この銃は砲兵用のエンフィールド銃であるとのことであった。戊辰戦争直前に、ミニエ方式の様々な銃が日本に輸入された一つの例だろう。