32、年少者用火縄銃

はじめに)

以前、国際前装銃大会の「短筒」競技に千葉のO氏が細く、長い
銃で参加した。明らかに両手で射撃する銃であったが、軽量なので
片手でも射撃できた。「短筒競技」はピストル競技に準じて片手で
射撃する。
様々な国の人から「あれはどのような銃なのか?」と言われたが
「年少者」調練銃であろう、としか答えられなかった。
現代の軍用銃に関しても第二次世界大戦期には、日本、ドイツ、イタリアなど枢軸国のものが有名であった。米国は.22口径実銃を使用したと聞いている。
江戸期の年少者用武芸と言うのはどのようなものであっただろうか?
木刀、竹刀、刀、弓矢、具足など明らかに10歳くらいの男子を
対象にして実物は残っているが、火縄銃は馬上筒、短筒だと
異形な鉄砲に無理に分類しているが、寸法、形状、特に重量からみると明らかに年少者に使用させたと思われる鉄砲はみることがある。
以下はその例である。
現在はその時代のその種の銃砲は世界中、恐らく存在していないだろうと思われる。欧州や米国に18世紀ごろの年少者銃を見たことがないからだ。
大日本帝国においては「軍事教練」が実施されるようになってから
各種の教練銃が開発製造されたが、一部を除き実銃と同じ寸法であるが滑腔で、実弾でなく、空砲、狭窄弾を使用するものだった。
南部設計の三八式8分の7銃は幼年学校用教練銃であるが特許を研究した米国人によると、滑腔で、自転するスラッグ弾を使用するものだった。これも研究者のレポートを読まねば判明しない。

年少者用火縄銃)

中途半端な寸法、口径の火縄銃を「馬上筒」「短筒」と定義することは簡単だが、一匁筒(口径9㎜)の前装銃に馬上でどのように再装填したか、短筒としても指がどうしても引き金より先に行くものは本当に短筒か?など疑問は多い。
(何度か書いたが日本の火縄銃の引き金は台の真ん中にある)
筆者にはこの研究に関してひとつのアドバンティジがあった。
それはSちゃん(10歳身長152㎝)とKちゃん(8歳身長145㎝)の私の研究に理解ある孫たちの存在だ。
Sはやせ型でひょろひょろだが歴史少年、Kは競泳選手でわりにがっちりしているが、同年代に比べると小柄だ。

1.Sが構えた細筒

この火縄銃は細いだけでなく、短い。全長99cm、銃身長75.5cm
重量1900g、口径は一匁(9㎜)だ。堺製の上手なもので「一夢」の銀象嵌。一般的火縄銃の4分の3と言って良い。

Sが構えると丁度さまになる。(写真)恐らく元服前の少年用火縄銃と考えて良い。

ただしこの銃を装填させるのは彼の身長ではまだ無理がある。

2.Kが構えた「短筒」と考えていた火縄銃

この短筒は一匁筒で口径は9㎜だ。全長50.8cm、銃身長32.3cm、
重量1000g、一般の銃の3分の1と言って良い。
バランスよく絶対に当たる銃だが、私の小さい手で握っても
弾き指(人指)が引き金を超える。(写真)

恐らく、この姿で発射させれば実用になる銃であろう。
握りも以下のようになる。

恐らく、この姿で発射させれば実用になる銃であろう。
握りも以下のようになる。

3.その他の調練銃と思われる火縄銃

上手の紀州筒である。全長88.5cm、銃身長59.0cm、口径二匁(11.5㎜)、重量1900g、紀州方式在銘(写真下)
一般の3分の2と言って良い。
Sに構えさせるが重いと言う。Kは構えられない。

上は一匁筒で阿波スタイルだが、全長130.1㎝、銃身長100.4㎝
口径9㎜、重量3900gと重い厚い鉄砲だ。在銘

銃は自体を眺めていても、ましてや文書を解読しただけではその用途や実態を語ることは出来ない。
操作する、構える、出来れば発射する、それらの行為により初めて
「どうしてこのような形状の銃が生まれたのか、使用されたのか?」
が実態として判明する。

文書類では年少者を対象とした記述や図はほとんどみたことがない。
この図は髷の形状から若者であったと推測は出来るが。

年少者用装具の例)

口薬入れだ。ご存知のように小口径銃は火皿が小さく、口薬も少なくて済む。

左の一般的なものに比較すると4分の1ほどの寸法のものを時々みる。恐らく一匁用の口薬入れであろう。
左の一般用は80ⅹ70ⅹ35㎜、右の小型は60ⅹ50ⅹ15㎜の寸法である。亀甲、薄い角で作られた高級品も身分高い侍の調練用と考えて良い

玉鋳型

その他にも二本松藩で見つけた少年用の胴乱なども見たことがある。

ジュニア選手とコーチの関係)

江戸期に恐らく、身分の高い子弟に武芸を教授したものは優れた
侍であっただろう。そのような題材を司馬先生も書いてはないが、
それで感じたことがあった。
それは現在のことだが。
外国では一般的だが、オリンピック、世界大会などの選手は年少の頃より射撃練習をしている。
日本ライフル射撃協会でもジュニア選手強化策があり、過去からそのような過程を踏んできた人達、選手もコーチも、以前、
付き合いがあった。
客観的にみると強化チーム委員会はどんな競技でもコーチの選択に注力すべきだと考える。良い選手であったから上の覚えが良いからではない。人格と常識の質だ。
年少者はコーチの人格に影響される。
一時的に技量が伸びても「ズル」
を覚えた選手は人間として失格だ。残念ながらそのような例は複数みた。(以上)

31、「李朝朝鮮の鉄砲文明研究」-ハーバード大学学生の依頼ー

はじめに)
私の日本の武器兵器の先生はメイン大学の教授だったリビー氏だ。
その紹介でハーバード大学学生から以下のことを聞かれている。
彼女は韓国人だが海外の生まれで米国人と結婚し、現在は学生だ。
卒業論文に「日本の近世であろう、17世紀から19世紀初頭の朝鮮半島火縄銃装備」
のことを研究し記述したいのでまずは火縄銃のことを教えてくれ、日本への伝来
とその実態、そして朝鮮半島の「銃文明」全体を知りたいそうだ。
流暢な日本語で書かれたメールだが、やり取りの時間差からだれか日本人学生に
書かせ読ませていると推察する。すでに3回のかなり長文のやりとりをした。

文禄・慶長の役)秀吉は韓国人が一番嫌っている歴史上の日本人だ。
文禄の役は1592-3年、これが実質的な大規模戦闘で、秀吉軍はそうそうたる武将が
揃い、城を構築した。日本兵は銃を使用して圧倒的な侵攻を進めた。
慶長の役は1957年から秀吉の死、1958年の途中まで。明国が朝鮮軍を支援、
日本軍は城に立てこもり、やはり城からの銃による攻撃で相手に多くの犠牲を与えた。
(洞 富雄著 文禄慶長の役論文より)

その後17世紀、徳川幕府は李朝と外交関係をもち、19世紀なかばまでは日本と良い関係があり、先日、対馬訪問の際に、宗氏の日本と朝鮮の交易の実態を聞き、港も見学した。

鉄砲の伝来)

今諸説があり、ポルトガルがゴアに工廠をつくり、わずか20年ほどで
日本に到達している事実から私は直輸入だと思う。宇田川先生はアジアの国々を伝って来たというが、私が現職のころ、スポンサーのおかげで、タイ、マレーシア、インドネシアなどの軍事博物館の火縄銃を見せてもらったが、とても兵器ではなかったし、半分は日本、堺製の改造品であった。(筑波博でスリランカ館にあったものがその例のひとつだ)
大航海時代の船の移動は、ランボルギーニを1日で日本に運んでくるのとは物理的に異なる。

だから私は当時、明国、朝鮮半島には鉄砲は伝来してなかったと思う。
理由は日本の戦国時代のような荒れ方ではなく、明、朝鮮ともに平和な時代で鉄砲は
必要なかったからだ。それにポルトガルは日本の豊富な金銀との交易に鉄砲を商品として
選んだと同地に行った際、研究家から直接聞いた。

ただ、文禄と慶長の間に4年間あったからその間に朝鮮で鉄砲を装備した可能性がある
が鉄砲は当時の総合的な技術を結集した文明で、文字通り、下地がなければ実現しない。
(今の朝鮮半島核問題と同じパターンだが、朝鮮も核の開発には各国の援助を得て
数十年かかった。)

学生の疑問)
彼女は日本の江戸期のように李朝には多くの火縄銃が存在していたという視点から始まぅている。
でも韓国の博物館は、「朝鮮の火縄銃はあるが、機密であり閲覧させない」と言うので
困っている。

歴史の事実示す要素)
これは研究者として当たりまえだが
① 古文書,② 実物、③鉄砲を製造していたと思われる、鍛冶屋や火薬職人の背景、つま図とか図面とか遺跡が残ってないと研究を続けることはできない。

朝鮮には鉄砲文明はなかった)
ほとんど日本と世界の研究家はそのように考えているだろう。

文禄の役で満州まで歴々たる武将は侵攻したが。兵站が脆弱で、食糧難に悩まされた。

日本から朝鮮半島に渡った兵力は16万人、朝鮮は明国の援助その他で25万人の兵力。
日本人の死者は餓死など2万人と言われているが、諸説ある。

日本人は数万人の朝鮮人陶工を連れ帰った。
当時、朝鮮陶芸技術は高い水準にあり、江戸期日本の陶芸が栄えたもとになった。

韓流ドラマには朝鮮人が日本武士を鉄砲で倒す、また日本の鉄砲集団がねがえり朝鮮鉄砲隊となったなどの話があるがそそらくつくり話だろう。当時も武士は主君に仕える倫理が存在した。恩賞が受けられないからだ。その構造は覆すことのできぬものだった。

文禄と慶長の間、4年間」
日本のひとりで一日間300発発射し。日本の鉄砲隊に対抗できる能力を情勢するのは無理だ。先に書いたとおり、鉄砲は当時の技術の粋を集め、訓練、演習が必要だった。

おわりに)
東洋史を研究するそのハーバードの学生には古文書、実物、遺跡が存在しないのに
この研究を続けるのは無理だ。

題材を「日本に貢献した優秀な朝鮮人陶芸家」とかのほうが現実的なると今度は返事
する。
別に差別的感情ではなく、もし火縄銃、そのものを知りたければ米港でやってみることだ。
なんでも自分で行動した実績がなければ。

これは日本でも同じ、銃を研究するならまずは諸手続きをして発射すべきだ。
(以上)4

30、古文献「玉握術目録」にみる制度化された射撃

はじめに)

私には「火縄銃を撃ったこともなく、その過程の苦労も知らず、勿論目標にもあたらず」古文書だけで火縄銃を
語るのは不十分と考える。勿論、古文書は必要だが、内容が精神論に主をおき「実用的」でないそれら内容対するのが
感想だ。日本は「文書」の国、文字がない時代のことものちにまとめた。(皮肉なことには現代は右左の思想が
入りすぎしばらくしないと文書は役にたたぬ。)
しばらく前、友人から元は巻物だったのだろう。横袋綴じのB5版(横20ⅹ14㎝、厚さは9-10mm程度の標記の古文書を手にいれた。奧付けがない。「東山 向右衛門 真重 花押」より「渡辺 茂之助殿」だけで年号は分からない。

状態は良い

推察では17世紀、砲術家の地位が戦闘家から指南に変化したころの内容を巻物をページ数では
72px20cm、140㎝くらいの正常な文書を19世紀初頭、状況の変化から洋風の
本したてにしたものではないか。


内容)
火縄銃射撃の全般に及ぶ詳しいもので、特に距離による射撃部分が充実しているが、榴弾でもない一貫目筒を射撃してどのような効果があるかには触れてない。

町撃ちの布的儀式に関しての図や内容は良く理解できる。この図では黒点があり、そしてこの距離110m丁打ちでは命中しないことが多いのでもう一枚、もっと大きな幕を後ろに立てる。
黒点は〇のしたに横棒があり、これは気候、薬量を最初に調整できる仕組みだ。
こうなると精神的伝書よりかなり技術書に近い。

目次)

1、 鉄砲

〇三匁五分筒の弾わり、薬量などの詳細からはじまる。出会いは敵への発射開始距離だが400mとかなり遠い。
近代銃をかわらない。

〇四文五分筒

〇十匁玉筒

〇十匁玉筒 無格好な図だ。
矛盾と的場詳細)

私はこのような銃はみたことがない。火皿がない。ばねが16世紀初頭欧州方式だ。

大きな疑問はなぜこのような「ばねの方式」を描いたのか?

2、火薬之巻

火薬に関しては、篭火、削之非(熊野ホクチ、くらま石、灰、生のう、硫黄)と詳細だ。だが指南の
花火師の感もある。
〇抑止之、〇のろし、〇夜討天文火、〇口薬、〇止黒錬処明、
火薬に関しては花火師的内容も多い。
〇任王(白 樟脳100、黄色 硫黄20、黒 墨20)
〇初種、〇大嵐、〇小嵐、〇花香、〇水無月、〇明星、〇嵐陰など多種な名前で各々の薬の配合を示して
ある。

3、銃種の名称

先の十匁筒のあとは
〇小筒の図 弾金(口径か)一寸八分と口径の大きな銃がつづく、十匁、十匁五分、二十匁、二十五匁、三十匁、四十問目、五十匁、六十匁、
七十匁そして百目(ママ)400g、ここまでだ。一巻目は約4kgでこれが船舶の側面水面上に命中すれば効果はあろう。
つまり大砲がないから、大筒で敵陣地や船舶を射撃する19世紀初頭の戦術を、戦国末期も内容からまとめているわけだ。言葉が統一されてないのがその証左であろう。土浦藩「關流」などもそのひとつだろう。「關流」にも良い古文書が同地の博物館にある。
的場について)
先に町撃ちの図を出したが、「角場」は葛飾 北斎の描写とはかなり異なり、形式や礼を重んじている。
普通は二十間(約30m)、的一尺五寸(48cm)、角八寸(24cm)、星半寸(黒点は1㎝くらい)だった。

台所まである

おわりに)
この文書は大阪城攻撃の祭あたりに砲術家が作成したもの徳川中期の戦闘なき時代を加え、19世紀初頭、「外国船打ち払い令」の対策内容ではないか。
船舶には火縄銃は駐退を射手の体で受け、射程も100-200m程度、榴弾でない、と言う条件から船舶に命中、轟沈させるのは無理だ。
やはり大砲だ。それに徳川幕府、各藩は気が付き、1870年頃より大砲鋳造に誠真したが、歴史は皮肉だ。日本はあっけなく明治維新を迎えた。
一つ現在に至るまで言えることのひとつは日本国は明治二十二年に尺貫法をメートル法に改め、あらゆる武器兵器はメートル法を使って開発製造し効率を上げたことだろうか。
(以上)

29、所謂薩摩筒 その二 「目当ての穴に観る特徴」

先日(平成27年12月)銃砲史学会例会に峯田 元治氏が説明用に持参した
薩摩筒銃身、その目当ての特徴から推考した内容である。
薩摩筒の元目当て(照門)には時々穴が開けてあるものが見られる。
これは果たして現在のピープサイトであったのであろうか?
この銃身は私が持っていた短筒のものである。

image001
元目当てに環孔が開いていた

このようにして狙いを付けると、筋も穴も同じであった。従って「短機関銃」にあるような距離を例えば50mと100mの二つ選べるものとは思えなかった。
薩摩筒に関して、
宇田川 武久教授のお言葉では、薩摩筒は「薩摩」と言う国が鎖国した日本の中でまた鎖国していたような地域で他国火縄銃や他流派と交流がなかったので、独特な形状を残したままだったとしていた。

澤田 平氏は「薩摩筒は実用的でない」と書いている。
私もそう思う。独特だが小銃としては扱い難い。

このように照準器に孔を開けた火縄銃は他にはないと言ってよい。(出てくるかもしれないが)

以下、峯田氏の筒である。(氏のご好意で使用させていただいた)

薩摩筒図と名称

image002

前目当て(照星)と後目当て(照門)の両方に直径2㎜の孔が開けられ、前は○後ろは□であった。典型的薩摩六匁筒で銃身である。

image003

image004

後ろの□には、櫓、回しのような小道具が装着されていたそうである。

image005

image006

もしこの後ろの□の孔を環孔照門として使用するなら、以下のような4通りの
照準の使用法がある。

① 照門も照星も筋と角(銀の滴がある)で
② 照門は孔、照星は角(銀滴)で 普通の環孔式だ
③ 照門は筋、照星は孔で 見たことはないが
④ 照門は孔、照星も孔で 狙い難い

距離的には②、①、③、④の順で近い目標を狙うことが出来る。
例会での問題は銃身のみで銃床(台)がなかったので、果たして、銃を頬に当て、この4通りの照準が可能であったかどうかは不明である。

また照門の一辺2㎜ほどの○でなく□に孔が照準器として使えたかも疑問だ。

環孔照準はわりに新しい方式で欧米でも18世紀に出現したものだろう。
日本の軍用銃では三八式後期型、九九式と時代が下がって出てきた。
この理由は国民を大動員し視力があまり良くない兵も扱えるようにしたからと言う。

image007

image008

火皿の外部には筋が入れられていた。
(以上)

28、火縄銃のベンチレストとプローン(伏射)射撃

① 近代大口径ライフル銃やスラッグ弾銃を固定させて発射する方法、ベンチレストは普通の射撃スタイルだ。アメリカ人は特に好きだ。
さらに、この方法はスコープやサイトの修正に使える。

image001

ベンチの上に銃を置いて、射手は椅子に座って射撃するのがそのスタイルだ。
器具を使わなくてもベンチの上に銃を両ヒジで固定して射撃することもある。
器具は普通、前後に分かれており、前の部分が銃身を載せる、後ろの部分に銃床を載せ、両手で銃を固定して発射する。特に重要なのは前の部分でやはり金額のはるものが良い。高さが調整できるが、それだけでなく、いか確固に固定できるか、その重さも重要だ。後ろは革袋に砂が入ったものが一般的で、高さは調整できないので、位置で調整する。革袋は反動も吸収する。

image002

さて火縄銃の狙いを観るためにこれを使えないか?
基本的には銃を固定して何発か撃ち、その弾痕でこの銃はどこを狙えば良いかを効率的に発見できる。
だが、火縄銃の銃床は頬当(チークストック)なので短い。後ろの袋には床尾を載せるだけだ。あまり深くすると引き金に掛る。
そんなことで使い難いが、正確に撃つことは不可能ではない。

image003

銃尾を右手でしっかり袋に押しつける。

② プローンスタイル(伏射)
一般的にライフル銃では3姿勢と言い、スタンディング(立射)、ニーリング(膝射)そしてプローン(伏射)とあるが、日本の火縄銃には伏射の競技はない。
また様々な伝書や絵画にも、火縄銃を伏せて射撃しているものは見たことがない。火縄銃が使われていた時代に伏せて撃つことはなかったのか。前装銃では装填に立ちあがらなければならないので、伏せて立ち上がる、時間の無駄であると考えたのか。だが、銃は特に軍用では、伏せて撃つのは相手からの目標としては射手が小さくなり、有利だ。

image004

実際、火縄銃を伏せて撃つと両ヒジ、頬と3点で銃をとても良い感じで支えることが出来た。
マット、高額なものだが、表面がビニールなので火縄、及び発射の火が落ちて焼け焦げが出来るのが嫌だったが、命中率も良い。
装填は伏せた姿勢から一発度に立ち上がらなければならないので大変だった。

image005

 

③ 命中精度
真ん中のパッチをしてあるところ3発が、ベンチレストの結果。12時方向穴9点2発が伏射の結果。

image006

伏射の場合、目の位置が下から上にいっていたのであろう。
(この項以上)

27、火縄銃演武、実射の危険回避

image001はじめに)
火縄銃は一般の古銃と異なり、発射は「生火で黒色火薬に点火する」ことが
ひとつの危険な要素であろう。黒色火薬はこすっても、叩いても、発火はしない。火だけが発火させる。
射撃中、火縄と火薬は引き金を引いて火縄の先が口薬に接するまで、厳格な手順がありそれは今も昔も変わらない。「火蓋きれ」の言葉がそれを表している。

最近、全国各地で火縄銃演武が行われるようになり演武団体が増えた。
昔からの演武団体は火縄銃発射の手順と絶対にしてはいけないことを会員に
伝統的に教える仕組みがあり、十分ではないがそれなりの火縄銃整備も行われている。なお、玉を込めていても空砲でも危険であることは同じである。
(近代の軍用銃では空砲弾でも距離によっては人を死亡させる威力がある。)

image002

image003

1、 事故の分類
① 火縄銃自体が火薬の爆発に耐えられなかった例
さすがに銃身が割れたと言う話は聞かないが、多いのは火皿が銃身からはずれて飛び、見物人に当たった。火皿には、ねじ込み、沸かし付け、切り込みにはめ込むなどの方式があるが、現在、ねじ込み式は使えないと考えて良い。ねじ山が弱くなっているのだ。外国製のレプリカ火縄銃は銃身に切り込みを入れ、後ろからスライドさせてありさらにねじ止めもしてある。
日本の火縄銃は一般的には沸かし付け(溶接)だが製作の際に少しでも隙間があると年月で外れやすくなっているのではないか。
② 詰めモノが飛んで人にあたった例
空砲では迫力がない。それで大体実射の倍以上の火薬を入れる。さらに詰め物をする。ティシューなどの柔らかいものは銃口からでると飛び散り醜い。(「戦国自衛隊1」撮影の際、実物の火縄銃を20挺ばかり一斉射撃したが、その時の詰め物が醜くて不自然で、結果NGとなった。)
堅い紙を入れるところもある。紙でも堅いものは火薬が多いことも相成りかなりの威力になる。人に当て怪我をさせたことが数年まえ北の伝統的演武団体であった。
③ 遅発、不発であわてて、暴発する例
実射でもこれが一番多い。引き金を引き、火縄が火皿の口薬に接触しているのに発火しない。近代銃と同じく10秒間はそのままの姿勢で待つ。それから台に置き火蓋を閉め、火縄を外す。火縄を外して、火蓋を閉める。どちらかだ。
火縄を外すとき暴発する恐れが一番多い。演武では「黒子」がいて、「不発」と
声を出して射手はそのままの姿勢で、「黒子」が手袋をした手で火縄を外すのが常套である。素手で外そうとして暴発すると、火薬の粒が肌に入り、刺青のようになる。
針でほじくるがその刺青は10年間は消えない。
私は以上のようなことの防止のために口薬の管理と、火縄を火挟みに装着する際に、先を潰して、吹いて、平らなまま火先の元に近いところを指で強く潰し火挟みに下から入れろと教えた。先を潰すと言うのは実射の場合は火縄を入れる缶の蓋を使った。演武の時は銃の飾りの金属を使った。不発原因は火縄先の火が火薬に十分な熱を伝えてないことだが、火だねは残っていると考えて良い。
何よりも暴発した際に、銃口の先が射撃する方向を維持していることが肝要だ。この例の事故が一番多い。
④ 自分の持火薬に着火した例
すでに故人の某大先輩が武道館の演武でやってしまった。大きな口薬入れに
火縄の火花が入って、顔の前で爆発した。但し、口薬入れは木製だから、ボアーンと言うような感じで大きく白煙が上がったとしか観客には見えなかった。
武道の修練を積んでいた彼はうろたえず観客に「終わります」と大声で一礼し戻ったが、顔は火傷で真っ赤になっていた。熟練者でもやるのだ。事故は。
しかしこの際は早合の火薬でなくてよかったとすべしだ。量が違う。
とても演武の一部と誤魔化せるものではない。生火の怖さに気をつける。
同時に口薬も演武や射撃の場合も柔らかい入れ物に必要な量しか入れない
ことが緊要だろう。
⑤ 発射後の火薬の残り粉に時間差をおいて着火した例
この例はスローカメラで撮った発射の瞬間、銃口から多量の火花が出ている。これが演武の醍醐味だとするのも良いが燃えていない、もしくは半分しか燃えなかった火薬の粒が空中を舞うと言う。南北戦争当時、野砲の砲列の前では突然空気が燃える現象があったそうだ。それと同じと考えて良い。
大口径火縄銃ほど多い。数年前関西で起こったこの事故は射手が銃を発射、立てた瞬間に手に持った火縄で着火したと考えられる。やはり大怪我をした。

image004

2、 事故対策
① 銃器検査と整備を頻繁にやること。持ち筒は所有者の管理であるが、
演武団体において演武前に、火皿、火挟み、引き金の具合、などは責任者を指定して行うべきであろう。実射では命中率の良さの問題から口径10㎜程度の
小口径銃を使う。火薬の装填にはじょうごを使うのが一般的だ。
しかし演武に於いては大体口径12ー13㎜の銃が立てて、火薬を装填する、また
発射のはえも良い。
② 詰めモノはしない方が良い。空砲でも一斉射撃、大口径射撃などを横
から見ていると空気の振動が観客の方向に流れていくのが見えるほどだ。
詰め物をすると圧力が掛り、一層音が良い。しかし詰めモノはどこかに飛んでいくのだ。
③ 火薬量は演武場所に合わせてほどほどにするが良い。城の広場のようなところと、街中では同じ火薬量でも効果は大違いだ。
④ 持火薬も使用するだけにする。
⑤ 「黒子」の重要性。ベテランで不発やその他の不都合、銃の不具合に対応できる人間が必要だ。
⑥ 日ごろから手順を繰り返す。

image005

対策まとめ)
演武団体はチームワークである。指導者を明確に決める。それと銃に精通した「黒子」が絶対に必要。
ある団体の安全役員をやったが、その団体は持筒ではなく、団体の筒と装具なのでいささか手入れが不十分であった。演武が終了してからの銃の整備こそ
チームワークが必要だ。銃を分解する。銃身を洗う。カラクリを確認する。
台にワックスをかけ手入れする。組み立てる。注意点は銃の分解の際、尾栓と銃身を間違わないことだ。

image006

私が今まで見聞きした火縄銃射撃(競技、演武とも)意外なことに熟達した
何年もやってきた人による例が多かった。
ベテランこそ肝に銘じるべきであろう。

また短筒は不発の際、覗きこんだり、あらぬ方向を向けてし易いので、注意の
上にも注意で、むやみにやらぬ方が良い。

image007

一度、大きな事故を起すと、自分たちだけでなく、全国の演武団体、個人におよぶだろう。
(この項以上)

26、魅力はあるが展示に困る『大火縄銃』

image001

一般の火縄銃は全長130㎝、銃身長100cm、口径12㎜程度であるが、この大火縄銃は全長166㎝、銃身長130㎝、口径19㎜で重量は8kgある。
口径でみると約4倍の重量の弾丸を使う。銃の先には城の壁、船舶の船縁などに固定する金具が揃っている。

image002

このような大型の火縄銃の問題点は装填だ。前装だから銃を立てて、台に乗り、
火薬、弾丸を入れ、サク杖で突かなければならない。
一度、前装銃世界大会で、割に小さいひとがこのような大きな鉄砲を射撃していたのを観たが、装填には倍以上の時間が掛ったようだった。勿論、競技ではレストは出来ないから、立射などは大変な力が必要だ。

image003

 

image004

中目当て2個

image005
船舶で使ったのではないか。装填は下の甲板に銃尾を下して行う。
口径が大きいのは敵の船の構造物を破壊すると同時に喫水線を撃ち、浸水させるためだろう。拾一匁あれば相当大きな穴が開く。
弾丸が重く初速は遅いので、中目当て二つを使い曲射照準したのではないか。

image006
目当ては雑だ。
腔内の状態は良い。
まだまだ火縄銃にも研究の余地はある。
この銃は射撃可能だから100m、150mの射場で実験してみる価値はあろう。
玉型もある。

image007
大名家のものであろうが、家門は「ちぎり」と言い、機織り機械の部品を摸したものだそうだ。ご教授いただいた。
火皿の厚さだけでも3㎝ある。

しかしこの鉄砲を家のなかに展示するとなるとその大きさからなかなか大変だ。置き場がない。地震の際の危険もある。
(この項以上)

25、似ている「紀州筒」と「平戸筒」なぜか?

概説:九州最西の松浦藩平戸の鉄砲と、遠く離れた紀州の鉄砲の形状が似ているのだ。地理的にも、また政治的にも、流派もまったく関係のない両地方の鉄砲が類似しているのは偶然かもしれない。また背後に我々がまだ知らない史実があった、のかもしれない。共通点と言えば「水軍」だ。
松浦藩も文禄・慶長の役、それ以前も以後も地理的には水軍が活躍した。
三つ星の紋で有名だ。
紀州にも村上水軍が入り組んだ湾の奥を行動の中心にしていた。また紀州には鉄砲が種子島から直接入り、根来、雑賀、山のなかには多くの鉄砲傭兵が戦国時代に全国の大名や一向宗に雇われた。
恐らく、文禄・慶長の役でも紀州傭兵は出動したと考えられる。ここに接点らしいものはある。
また平戸はポルトガル、スペイン、そして17世紀初頭には英国が公館を開いていた。幕府がオランダを唯一の欧州交易国に指定するまで英国人がいたことで
有名だ。
欧州の火縄銃史は短い、およそ50年間だ。発世地域は、研究家によれば、
3箇所、ボスニア(ここの銃工をポルトガルはゴアに連れてきた)、フランクフルト(イスラムに影響を与えた)そして英国だと言われている。
ディビッド・ブリスデン国際前装銃協会会長が教授してくれた英国の火縄銃は
① ストレートでスリムな形状、②火蓋が全体を被う、などの特徴だ。
図面や写真はない。昔、ロンドンタワーが武器博物館であった頃、学芸員を訪れた。タワーには実物はなかった。火縄銃はほとんどが日本のものであった。

銃の諸元

全長 銃身長 口径 重量 目当て
紀州筒 133.4cm 99.6㎝ 13㎜ 2.7㎏ 富士・三 南紀若山
平戸筒 133.5cm 100.0 cm 12㎜ 3.1㎏ 谷、釣瓶 正重

 

 

image001

上が平戸筒、下が紀州筒

1、 類似点
細身で直線的な全体像、そしてカラクリや用心鉄の断面が「角」である。これは他の地方、流派の火縄銃には見られないもので、銃把は細味である。
紀州筒の特徴は軽いと言うことだが、平戸筒はややそれよりは重量があるがどちらかと言えば軽い。
引き金の形状は銃の種類の重要な要素だが、これら両種は同じドロップ型だ。

image002
平戸筒の引き金

image003
紀州筒の引き金

紀州筒は庵を落としてあるが、平戸筒は落としてない。

2、 相違点
カラクリの方式が異なる。紀州筒は内部がより複雑な造りで、ネジを使用している。頑丈であり、狂い難い。平戸筒は平カラクリだ。意匠的には平戸筒は火挟みのイボ隠しと俗称する部品が丸い。これが大きな特徴だ。
また、平戸筒は火蓋が全体を被い、明らかに防水を意識している。

image004
平戸筒

紀州筒のイボ隠しは角を踏襲している。
目当てが紀州筒はごくありふれた狙い易いものだが、平戸筒は蔓の付いた谷っ照門である。(紀州筒の元目当ては殆ど片富士と呼ばれる方式、これは両富士より鉄の消費を少なくしたと物知りが言っていたが、目当ての半分、どの程度の
節約になったのだろう。本心はスタイルだ。)

image005

 

 

3、 誰が製作したか
紀州筒は摂州、南紀、三重など紀伊半島の銃工の銘がみられる。
平戸筒の場合は特定の場所ではないようで、この例は「正重」阿波の銃工の作である。国友銘もある。従って同じ形状、機能で各地の銃工に製作を発注したと考えられる。

image006
上紀州、下平戸

結論:紀州筒と平戸筒の形状、その他の類似点はなかなか興味深いが、日本の火縄銃はあまりにも形状に種類があり過ぎる。その理由は16世紀半ばのポルトガルから種子島に伝来した形式と、その後、様々な国からそれらの異なった形状、機能の銃が伝来し、その後の200年間の泰平は性能よりも形状やみかけの機能にこだわったからではないか。
(この項以上)

 

24、レプリカ火縄銃と贋作火縄銃

概況:MLAIC(国際前装銃連盟)では現在、日本の短筒レプリカに関しての議論が行われている。私たちが2010年ポルトガル大会に行った時、すでに日本の火縄銃は二つのカテゴリー、「オリジナル」と「レプリカ」に分かれていた。
日本人がパリの大会でレプリカ銃を使いオリジナル優勝した事実は隠されたままだった。
銃器委員としてM氏とT夫人の協力を得て、各々数十挺の銃の検査をし、シールを貼った。それ以後3年間はこのシールに従い、現地の検査員が検査をしたそうだ。
レプリカ銃に関しては大体3種類あった。①スペイン2社製作のもの、②イタリア1社の製作のモノ、③個人製のもの。
① と②に関しては大会合間に社の担当者に会い、直接細かい指導をした。
後にメールを貰い細かいところを聞いて来た会社もあった。

image001

その結果がここに出てくるスペイン製のものだ。良く出来ている。

② はクロアチア、スロベニア、チェコなど東欧の各国、個人が製作したもので、
これは形状、安全性、その他様々な問題を含んでいたので、個々に紙に具体的に書いてわたした。言葉が通じない人は英語で通訳をする各国役員が立ち会った。大体が写真だけで製作したので、火皿の奥行きが間違っていた。その努力には頭が下がったが。
総勢100人以上の競技者が日本の火縄銃、短筒競技に参加したことになった。

1、 今回MLAICにおいて問題になっている点
① 素材、ステンレススチールは良いか?
② 形状特にサイトの問題
スペイン製レプリカ、イタリアもそうだろう、各段の良い出来になっている。
正確な価格は知らないが、ポルトガルでは大体日本円12-3万だった。
これなら手軽に撃てる。当然、日本チームでは誰も手をださなかった。
(但し他のメンバーなら特に自分が登録員などをしている人間が悪気で購入し登録する恐れは100%ないとは言いきれない>)

image003

 

2、 どこがおかしい
私は2点指摘した。①は照準器だ。前目当ての写真ははっきりしているが、これだけでもおかしい。また後目当は明確に見て取れない。

image005

前目当ては大きく、恐らく重いもので、銃身の安定に役に立つと同時に正確な狙いができるのだろう。大体欧米のレプリカ古式銃の後ろ目当ての筋は太い。
日本でも太く削る射手もいないわけではないが。元は1㎜ⅹ1㎜くらいの極端に細いもので、今では錆落としして2㎜ⅹ2㎜くらいが普通だろう。
孔は何かを詰めてバランスの調整にも使える。

image007

③ は銃把だ。短筒に火縄の孔が開いているものはみたことがない。少し長い、重い馬上で使うものにはあるが。
材料の問題は他のレプリカにバッキー・マルソンの時代に認めたからステンレススチールでかまわないのではないか。後にオリジナルと間違えられつ心配は少ない。

 

3、 成績
この銃で撃てば成績は良い。ただ、拳銃を撃ち慣れているからだ。日本人では
無理だ。東欧などから参加した選手には明らかに軍人上がりの体格の人が見られた。オリンピック選手などもいたかもしれない。だから成績は良いのだ。

image009

 

4、 今後の課題
欧米では数は限られているが世界で「火縄式ピストル」は日本にしかない。この競技に興味をもち、参加したい射手は多い。従ってできるだけ多くの情報を集めて正確な返事をしてやるつもりだ。本来は日本前装銃射撃連盟かライフル射撃協会がおこなうべき課題だが、いそがしくてそれだけの余裕がないのだろう。
私もOBとしてまた銃砲史学会会員、MLAIC火縄銃銃器委員としての責務だろう。

5、 レプリカと贋作は異なる
レプリカは上記のように競技として成立しており、検査を受ける。
贋作は日本国内の問題であり数え切れないほどある。例えば平和島骨董市を
廻ると10挺近い売りモノを観る。私の感じだが、偏見なく、半分は贋作だ。
しかし登録証はしっかりしている。大体、西の県の審査が多い。
経過として二つが考えられる。
① 何かを見本を元に贋作を造る。短筒、太い筒に多い。
② 登録証の付いたガラクタを元に新しい贋作を造る。射撃用には最適だ。
現在の機械技術、工作者の技を考えれば昔、発達した道具もない職人が製造したもの以上が出来る・・・これは間違いである。
観る人が見れば、一目にしてその違いを見分ける。職人の技が見えないのだ。

先日、登録審査に行った。私の用事は登録証誤記の修正だったが、観察していたら、贋作を持ってきた若者がいた。(多分アルバイトだろう)
登録審査員は銃砲史学会の仲間だったが、直ぐに見破り登録証を発行せず、実物はたち合いの警察官に没収された。

性質の悪いのは②だ。どうしてこういうことをするのかその背景がわからない。
費用も掛る、手間も掛る。誰かに指摘される恐れもある。実際に指摘すると異常に侮辱されたと怒ってくるのがその主観的証拠になろう。
(以上)

23、日本の火縄銃使用後手入れ

概説:火縄銃で標的射撃を行う人たちはすでに様々な方法でその手入れ、清掃を学んでいるであろうが、先日、新しく演武をやる方から手順や注意点を質問された。火縄銃が使用する黒色火薬にはコロシブ(腐食物質のこと)成分が多く含まれている。これは近代銃、多い少ないはあるが、無煙火薬も同じで、銃を使用したら速やかに手入れをすべしと言われる。一発発射しようが何発撃とうが同じである。
手入れが確りしていると、兵器は永遠にもつものである。(南部 麒次郎氏の言葉)近代銃でもぬかりなく確り手入れしたはずであるが、2-3日してもう一度
清掃用のパッチを通すとまた汚れている。湿気などで完全に汚れを落とすのはなかなか難しい作業である。狩猟などに行き、寒い外部から暖かい室内に銃を持ちこむと当然、水分が銃腔内、機関部に付着する。
道具を用意する。外した部品の入れ物を用意する。登録証を置くべきところに
置く。

image001

 

1、 清掃の必要性
ある大きな演武団体の安全顧問をしていた。この団体は2年に1度、1挺で10発以上発射する演武を実施するが、鉄砲は個人のものでなく、団体の所有であった。
そのために演武が終わると、鎧や旗指物など手際よく箱に詰める。鉄砲も同じくそのまま箱に詰め、鍵を掛け、また鍵のかかる収納庫に収めてしまう。
近いうちに手入れをするという方針で、宴会になる。事実、年に何回かは風通しを行う。
ところが鉄砲はそれでは完全でない。2年間も火薬を発射したまま置いておくと、すでに腐食が進行している。演武だから大きな影響が無いと言う意見もあるが、
一番の問題は、火皿と火孔のあたりである。銃腔内はガチャガチャになろうが
演武ではあまり大きな影響はない。火皿、火孔が腐食するとやっかいだ。
それで、この団体には射手が手分けして流れ作業で、使用した40挺もの鉄砲を手際よく清掃する方法を教えた。手際良くやっても2時間はかかった。
でも新入会員も含め、全員がチームワークで鉄砲を清掃することは団体にとっても非常に意義のあることだと感じた。また新入りの会員に銃の構造を知って貰う意義もあった。2年間のうちには油が乾いてしまうので、時々の手入れが必要だ。

 

2、 手入れに必要な道具

image002

日本の火縄銃は銃身を銃床から外し、さらに尾栓を外して、銃腔を通して清掃する。そのために銃身を外す木ハンマーと楔、尾栓を回すスパナ、銃身を挟む真鍮板、それに銃腔を通す、ロッド(実弾を発射するには必ず必要)、布きれなどが必要である。洗剤と軽い油も。真鍮製のロッドは必要不可欠なものである。
これは専門家に銃口径に合わせて製作してもらう必要があろうが、自分でも
出来る。
スパナのセットは射場や旅先での手入れに便利である。
銃身の銃尾を立てるときはゴムパッドを使う。

image003

image004

image005
外した、外れた部品の入れ物を用意する

 

3、 先ずは尾栓を付けたままポンプする
私は鉄砲を清掃するためのボロバケツを用意してある。10リッターのバケツに
3分の2ほど、ぬるま湯に洗剤入れる。軽く泡の立つ程度で良い。洗剤は粘り気のある台所洗剤が良いが、米国ではソルベント言う黒色火薬用、無煙火薬用の商品がありこれらは非常に良いが現在黒色火薬用を旅先で購入しても航空機荷物の関係で持ち帰れない。そこに銃尾を下にして、火蓋を開けて銃身を入れロッドにパッチを噛ませポンプする。水は火孔から出たり入ったりして主に火孔を綺麗にするのと、尾栓を開けやすくする。

image006

image007

 

 

4、 尾栓を開ける
必ず真鍮板(これは万力を使う場合も)で銃身を保護する。大小二つのスパナで締め、両方を逆に回すと外れ易い。尾栓はブラシで綺麗に洗う。
この場合、銃身は上に尾栓は下に回す。無理をすると腰を痛める恐れがある。

image008
作業台と万力があると非常に便利である。

 

 

5、 銃腔を掃除する

image009
尾栓を外してから、再びロッドにパッチを噛ませ、パッチに洗剤を付けても良い、もう一度、バケツの水でポンプする。バケツの水は一層黒くなる。1挺ごとに水を替える必要はあろう。
どの鉄砲がどの程度汚れていたかが分かるからだ。火薬の量が多すぎると汚れも多い。
これはパッチを変えて何度も行う。

6、 ネジ山、火皿、火蓋、雨被いの清掃
どこかで貰った歯ブラシは捨ててはいけない。軍隊においても歯ブラシは銃掃除の重要な道具だ。埃や砂を落とす。自動銃では特に重要な道具だ。
火縄銃清掃でも、洗剤を付けて、まず雨被いのあたり、火蓋、火皿、尾栓、そして銃の後ろからブラシを突っ込んでネジ山を掃除する。
また真鍮ブラシやウール(金属磨き)は使えるが、歯磨きチューブは使わない方が良い。塩が含まれているから後で錆びる。
雨被いは外さないほうがよい。緩んでしまう。

image010

 

 

7、 火挟みの清掃
カラクリは成るべくなら外さないほうがよい。内部は汚れてない。油もあまり必要ではない。外すことでかえって狂ってしまい調整に苦労することがある。
銃をバケツの上にサカサマにして、歯ブラシで火挟みを丁寧に洗剤で洗う。火挟みはほとんどが真鍮製だが、汚れたままにしておくと崩れて、もろくなる恐れがある。

image011

 

8、 熱湯を用意して銃腔からそそぐ

image012

清掃の最後の段階は熱湯を使う。洗剤と汚れを落とし、しかも鉄部を乾かすことができるからだ。料理に使った鍋のお湯を出し、しばらくすると鍋がその熱で乾いてしまうことを見るだろう。それと同じ原理だ。銃腔内は乾かし難い。それで熱湯を使う。ドライヤーなどを使っても時間が掛るだけだ。
ヤカンで熱湯をそそぐが手にかからないように注意する。
火皿、火孔、火蓋、などにも熱湯をかける。

image013

 

9、 組み立てる
乾いた銃身を組み立てる。尾栓に重い油(グリースのようなもの)を塗布する必要はないと言って良いだろう。塗るなら蜜蝋だ。もう一度、乾いた歯ブラシで火皿はこする。また、パイプクリーナや歯間ブラシで孔の内部を十分に拭く。

image014
これが一番大切な作業

 

10、 軽い油で銃腔内を通す
スプレー式の軽い油をそそぎ、ロッドにパッチを噛ませ何回も拭く。ロッドはそのまま銃身に入れておき、時々、パッチに油が付いている限り、銃腔を拭く。

image015

 

11、 木部は拭く
木部は意外に汚れている。手が汚くなっているからだ。そのままにしておくと輝きがなくなる。ぬるま湯でしぼった雑巾で丁寧に拭く。
木部は磨きすぎると元の美しさが失われる。競技などにつかう鉄砲はその都度
水拭きするので生地が出てしまう。日本の火縄銃の木部は大体が透き漆仕上げなので、そこを注意する。

12、 重い油、ワックスなどで外部に
銃身、木部など外部はワックスなどを塗布する。真鍮部分に塗布しても良いだろう。真鍮部分を磨きあげる人もいるが、真鍮の色の変わった部分を磨き上げるのは大変な作業で、真鍮をある程度削ることになる。そのままで良いのではないか。ここで塗布する油、ワックス類は高価なものを使う。

13、 組み立てる 尾栓には油は使わない
油には目的により様々な種類がある。また価格により質にも。
昔の鉄砲には植物油を使った形跡があるものもある。日本軍では鯨油を使ったそうだ。

14、時々ロッドに噛ませたパッチで内部を拭く
これは毎日、行っても良い。気温の差、湿気で銃腔ないは汚れている。
大日本帝国陸軍が九九式小銃(1939年制定)の銃腔内をクロームメッキしたことで初めて解決された問題だ。古式銃には勿論メッキされてない。だから汚れは完全に取れない。

このように毎日、ロッドとパッチで拭くことで古式銃は永遠に維持できるだろう。
(この項以上)