8- 8- 2、 射撃された鉄帽
前項で日本の九十式鉄帽の材料はモリブデン鋼で、撃たれると弾丸は抜けると言うより壊れるような形になると書いた。鉄帽は弾丸が有効射程距離から命中したら、防ぐことはできない。どんなものでも貫通する。
しかし鉄帽の役目は、白兵戦におけるブレードウエポン、手榴弾や迫撃砲の
破片、さまざまなものに対抗して設計して造られているからだ。
米国にいた頃、今考えれば、実験を協力してくれた友人たちが「もったいない
やめろ」と言った意味も分かる。日本の鉄帽は高価なのだ。
実験は私設射撃場で100m弱のところの丸太に堅く保持し、☆の下に白い紙をはり、それを狙い、三八式歩兵銃6.5㎜で3発射撃した。
2発が命中し、そのうち1発が貫通した。もう1発は鉄帽が最初の命中でやや下を向いたので、下に抜けただろう。
果たして、弾丸の入り口は丸く抜けたのではない。鉄板の抵抗の跡が見られる。
抜けたあとは、鉄板がはがれるように壊れていた。内装も付けていた。
一枚の革が破けた。(顎紐と☆は実物ではなくレプリカ)
内部の様子
内部から抜けた穴
これが一番迫力があった。
(この項以上)
8- 8 、鉄帽
(九十式鉄帽偽装網を装着した状態)
日本軍が鉄帽を着用したのは遅かった。第一次大戦の欧州戦線ではすでに一般的になっていたが、1928年、中国済南で日本人居留民の殺りゃく事件、軍が出動した際が初めてだった。この時の初期型はあまり残ってなく収集物としては高額だ。1930年に「九十式」として制定したものが大部分だ。
素材にモリブデン鋼を使い、形の特徴としてはシンプルだが、上が線を描いている。
当時、米軍、英軍は皿型の薄い鉄板の鉄帽であったから日本軍は近代的であった。モリブデン鋼は弾丸があたると貫通するより壊れると言う形になる。いくらモリブデン鋼でも直撃弾は防げない。内部は皮革製で、牛革、豚革の三枚のヒレを組み合わせてある。
底の三枚を通す紐が深さを調整し、三枚のヒレは廻りの革帯で本体に4箇所固定されている。
正面には鉄の☆が、この☆がないものが多い。その理由は、アジアに残された
日本軍鉄帽を独立戦争などで、三八式歩兵銃ともに現地軍が使用した時に☆を取り去り、緑色などに塗り替えたからだ。元のカーキ色は焼きつけ塗装だった。ベトナムからも緑色の鉄帽がアメリカに多く入った。ベトコンが使っていたのだ。
2種類のサイズがある、「小」は縦27.5㎝x幅23㎝x高さ16㎝
「大」は縦28㎝x幅23.5㎝x高さ17㎝。アメリカで観た比率、大対小は5対1くらいであった。他の収集家は50個もっているがアメリカは大が多いと明言している。推測だが、制定し余裕のあった時期には大と小、2種類を生産したが、後には大しか生産しなかったと思われるのでこういう比率になったのではないか。下の画像には12個あり、右の2個が「小」サイズ
同じ九十式を海軍陸戦隊が使用したが、☆の替りに錨が付いている。内部が皮革の替りに帆布製である。もしくは皮革だったものが摩耗し帆布にした。
海軍は艦内使用の鉄帽、簡略な鉄板製でサイズは縦28㎝x幅26.5㎝x高さ14㎝、内部帆布製が存在し、ほとんどの艦艇を失い、60万人の陸上兵力が残った際にこれらを陸上兵力用鉄帽として使用した。
☆のない鉄帽は価値が劣るので中田商店が製造した☆を付けたものもある。
日本人がアメリカに持ち込んだのだ。実物と比較すると若干薄く、柄が短いようだ。柄は内装を固定するのにも使っている。
(レプリカの☆と錨)
戦時中の写真を見ると、鉄帽に限らず個人装具は塗りなおしてムロで焼きつける作業をしていた。これは明らかに塗り直しだが、日本の色ではない。
また、鉄帽には出営するときには、被いがついていた。素材が鉄なので、気温に影響される。詰め物をした厚い木綿製の被いで正面には☆が縫い付けてあった。
なかなか見つからないものだ。
現在、陸上自衛隊などで使用している鉄帽は、樹脂の軽いものが一般任務で使用され、戦闘では上に鉄帽を被せる。これはベトナム戦争の頃より米軍で使用された方式だ。樹脂のものも鉄のものも少し離れてみると区別はつかない。
(この項以上)
8- 7、水筒(すいとう)
日本国内においては各所に清らかな飲み水を産し、戦前、日本の演習地においてはあまり水の苦労は聞いたことはない。しかし一旦海外で出ると、兵士は水に大変苦労した。中国戦線の話を聞いても、撤退する中国兵が井戸に汚物を投げ込み日本兵が使えなくし、南方では煮沸しなければ飲めない沼や川の水、さらに薬品を使い消毒するが臭みが残り飲めたものではなかったそうだ。水で病気なり死亡した将兵の数はもしかしたら戦闘で亡くなった兵より多いのではないか?と言うほどだった。炊飯にも水は不可欠だった。
日本軍の九十式水筒は、明治時代より使われてきたものより大型になった。
幅14㎝x高さ20㎝x厚さ6㎝で、裏(体に当たる部分は平で)、表は曲面である。特徴は厚い帆布帯、幅2㎝を籠のようにして内部にいれ、紐で固定、蓋は簡単な押しみ型で、その素材は木、ゴム、コルクなどで、これは布帯に紐で繋がっている。
従って中身だけを出して、そのまま火にかけることが出来た。容量は500㎜リッターのペットボトルが2本弱入る。従って1リッター弱、とても一日はもたない。普通の水は煮沸すれば大体飲んでも大丈夫だが、それだけの時間、燃料が無かったのだろう。また兵士に対する衛生教育も十分でなかったのではないか?日本の前線には砂漠は少なかったが、現在、米軍は砂漠の戦場では一人一日4リッターを標準にして、ペットボトルで支給しており、もう水筒は使ってない。
この項以上
8- 5、護耳器 イアプラグ
砲兵や機関銃教官などには必ず耳栓はあったはずだ。しかし耳を被うと周囲の声や音が聞こえない。それであまりこのようなものは使われなかったのではないか。「護耳器」と言う名称だった。
非常にめずらしいものである。海軍で使われたものかもしれない。
ソリッドな木製の入れ物に入っており、本体はベークライト、耳の内部の形をうまく出してある。また内部には真鍮糸の網が見え何らかの仕掛けがあろう。
ちなみに現代のものは電池を使用した装置が入り、外の声や音は良く聞こえるが発射音は鈍い音に変化する。「大」全長30㎜と「小」全長22㎜がある。
木箱の幅は54㎜で上を回すと内部の堀込にひとつづつ収納されている。
高額なものであったであろう。
8- 4、防塵眼鏡
①
皮革製のケースに収めれら革帯に装着されていた。ほとんど砂漠に近い中国戦線においては、各々の歩兵に必要な用具であり、これを装着したまま、兵器を
操作できなければならなかった。皮革収容嚢は10Ⅹ10㎝であり、眼鏡は金属枠に二つ折りのガラスである。一枚が50㎜x40㎜で前と横が見える。
布ゴム製の地にゴムの帯。材料の状態は70年以上を経過しているが良い。
皮革に印があるので、私物ではなさそうだ。
将校用防塵眼鏡
他にも5種類の将校用防塵眼鏡を見た。
日本の防塵眼鏡の特徴は左右各々のレンズ(ガラス)真ん中で折れる仕組みであることだ。正面と左右の視界を見ることが可能で例えばドイツ軍の車両用ゴーグルは左右、丸いものだ。
顔面と眼鏡を支えも異なる。日本のものはクッションを使わず、直接皮革か布の支え被いが皮膚に密着する方式だ。布か皮革の支え被いには曇り止めの穴が開けてある。
日本人の顔面骨格に合わせたものと思われる。
②
(眼鏡の枠はニッケルメッキ、収容嚢に負い皮通はなく、蓋は釦止め)
③
(眼鏡の枠はやや丸みを帯びたおり、収容嚢の蓋は釦止め)
④
(眼鏡の枠はバンドの金具はアルミ製、収容嚢は豚牛皮)
⑤
(眼鏡の枠は緑色で収容嚢は豚牛皮の組み合わせ)
⑥
(眼鏡のフレームはカーキ色 ⑥の文字が収容嚢に刻印されている)
以上のように6個の日本軍防塵眼鏡は全てが異なる。
1、中には官給品があったかもしれないが、眼鏡や収容嚢が異なるのは将校用であった証左だ。
また様々なサイズがあったのかも知れないが、どの眼鏡も収容嚢の大きさがほぼ同じで眼鏡も同じなのだ。
2、レンズのガラスはどういう材質か?
大切な目に近い部分であるから強化ガラスであった可能性もある。
傷がついているのは観ていない。
しかしこの防塵眼鏡を掛けたまま小銃を射撃するには反動が来ないことを絶えず意識しなければならない。
3、折り曲げ式防塵眼鏡は日本のものしか見てないが他国にも同じようなものがあったかもしれない。。
狩猟などに行き、頭を動かさず側面を見る、ことは大切だ。
戦闘においては言うまでもない。丸形レンズでは、水泳用のゴーグルのように90度ほどの視界しかない。
4、日本国内では砂塵が舞い目を傷める地勢、気候は少ないが主なる使用地域は中国大陸であっただろう。オープンな車両運転者には特に必要不可欠な装具であっただろう。
5、収容嚢の皮革ケースもひとつひとつが異なり、手製の丁寧な造りだ。大体が10x7cm内外で負い皮か帯皮に通し携帯するような仕組みだが、何もついてなくポケットか何か他の収容嚢に入れたと考えられるものもある。
以上、日本の防塵眼鏡には幾つかの特徴があり、珍しい装具である。
8- 2、小刀 アーミーナイフ
日常生活に不可欠な刃物であるが、日本軍のものは小型である。一説には大きなものは銃剣を使用したとある。だが銃剣には刃が付いてなかったという人もいるが、アメリカで実物を観察したり、銃剣そのものを砥石を使い研いでいる図を見るにやはり鋭い刃が付けられていたのであろう。
小刀は兵全員に支給され、全長は70㎜、刃長は50㎜、それに缶切りがついているだけの簡単なものである。三条燕、関などの中小工場で造られそれらの会社の刻印が柄に入っているものもある。日中戦争中はカーキ色で、南方に行くに従い緑系に塗装されていた。使い込まれたものは刃が何度も研がれていたあとがある。恐らく日露戦争頃から同じものが使用されていたと推定される。
8- 1、腕時計 陸軍、海軍
作戦を遂行するには「決められた時間を守る」は必要条件であった。日本では1930年代腕時計はまだ社会では一般的なものでなく一部の上流社会のものが使っていただけで、国産品の生産量も少なかった。日中戦争が始まり大動員が行われると、セイコー、シチズンなどの会社の生産は飛躍的に生産量を伸ばした。この2種の時計はセイコー製である。
直径25㎜ほどでビューズが大きく、防水ではない。今の腕時計に比較すると
粗末な製品である。6石くらい。
陸軍のもの(左)はダイヤルに星が入り、下に[seiko]とある。下は革帯に装着した陸軍型。
海軍もものは裏に「stainless steel back」碇の刻印、[seiko] 246675のシリアルナンバーがある。
海軍型の裏、ステンレスだ。
シリアルナンバーから推定するに厖大な数量が生産された。
○陸軍☆時計(セイコー)の精度と稼働時間
機会があってこの時計の精度とどのくらいの時間稼働するものかを試してみた。現在、自分が使用しているロレックスと対比した。ロレックス自体も自動巻きでクオーツのような正確な時計ではない。
朝の9時半ごろに巻いた。
6時間後に比べてみた、ほとんど同じ時間を示していた。
ロレックスは自分の腕につけて体と一緒に動かしていないと10時間くらいで停止する。
陸軍☆時計は相当使いこまれたものだが、戦闘には使われた様子はない。内部も原型を留めていた。大体「36」時間稼働した。ロレックスは突然に止まるが、陸軍☆は稼働30時間くらいから徐々に遅れがでてきた。
○海軍⚓(セイコー)の精度と稼働時間
陸軍☆と同様の方法、現在使っているロレックスと比較してみた。
午前中に巻いた、夜に見たらほぼ同じ時間を示していたので精度はロレックスと同じくらいであった。翌日、午後4時に遅れることなく停止した。
従って稼働時間は36時間くらいであった。
この時計裏側はステンレスだが、表は鉄なので、錆が出ている。
(ロレックスの日付は半日づれていた)
(この項以上)
6-2、音響警報器 サイレン
戦線が広がり、制空権がおぼつかなくなると、敵機の来襲が怖い存在になった。
爆撃は言うまでなく、小型機の直接地上攻撃でも大きな被害が出た。
作業中、移動中には前方に見張りを出し、敵機を見るとこのような道具で危険を知らせた。このサイレンは稼働する。柄を回すと、例の「ウーン」と言う音が想像以上に大きく出る。日本軍はこういう携帯用道具を装備し、絶えず位置を変える方針だった。
銘版には『矢萩式特許音響警報機』とあり、
寸法はサイレン部分が直径120㎜、厚さ55mm、重量は2㎏近くある。重い。
クランクが入る箱型部分が横に付属し、それを折りたたみ式の柄を伸ばして回す。固定も出来たが、しなくても何かの上に置き片手で押さえ柄を回すことが
でき大きな音が出る。
恐らく帆布製か皮革製の収容嚢に収められていたであろう。