20、ハワイ「太平洋航空博物館」の日本帝国海軍関連展示
はじめに)
平成31年1月末に防衛懇話会ハワイ米軍施設装備視察会に参加したおり、同会の手配のガイドにより見学した内容である。
ハワイ、フォード島の「太平洋航空博物館」は場所柄、日本帝国海軍の1941年12月7日のハワイ攻撃をテーマにしているので、当時の日本航空機に関連する展示が多い。また民間運営であるので展示内容はしばしば変化し、リピーターにも楽しめるところである。
行き方が複雑で直接、タクシーに乗り着けられない。
一度、アリゾナ記念館に入場(荷物などの制限がある)してシャトル
バスに乗り、戦艦ミズリーとこの航空博物館を回る。バスは30分おきに周航、どちらか見学することも可能だ。
展示と説明は対象が家族連れとしているようで、やや物足りない
と言う点はあるが、ガイドの説明を受けるとかなり詳しい。
幾つかの棟に分かれているが、棟の間にも屋外展示がある。
フォード島からみたマウイ島の山、日本機は右から入り、山脈の
両側に分かれ、左で集結して「奇襲に成功」と攻撃を開始した。
映画によく出る象徴的なタワーだが、実際は港湾管制用
この前に本館がある。
本棟の展示)
1、 帝国日本海軍攻撃図 これをイラスト化したものが展示されていた。
2 零戦二一型と「操縦士」
以前は「整備員」もいたが今はいない。
この零戦は二一型で中国戦線に投入され後にガダルカナルに進出した1機で、ハワイ攻撃には参加してないが、修復され代替発動機で飛行可能だそうだ。
2、 九九式艦上攻撃機の残骸
この博物館にはいわゆる残骸がそのまま展示されている機体が3-4種あるが、これらは貴重な展示であると考える。
これしか残存してないからだ。中島飛行機製。三菱も含め1400機が生産され800kg爆弾、各種爆弾か、改造九一式魚雷を搭載した。
乗員は3名で淵田少佐もこの機種に搭乗していた。
ハワイ攻撃では40発の魚雷を落とし、約6割が何らかの艦船に命中したそうだ。
800kg爆弾と九一式魚雷
真珠湾上空の九七式攻撃機、高高度からの爆撃機は損害なしだったが、低空で攻撃した雷撃機の被害は大きかった。
日本機は29機が未帰還であった。
3、 ニイハウ島不時着の西開地 重徳上飛曹機の残骸
これは貴重な資料であり、またハワイの日系人を巻き込んだ悲劇的な事件であった。帝国海軍操縦士が土人の酋長を拳銃で撃ち、石で殺されたとか、現地の労務者監督の原田 義男氏が猟銃自殺し、その妻が2年半間拘束されていたなどの説明がある。
だが、客観的な事実に関しては疑問の多い内容で、西開地上飛曹の
御霊もどこに眠っているやら。
これらは以前にはなかったもので、時代を感じさせる。
ジオラマは良く出来ている、先の赤土の道路に着陸したとのことだ。
不時着10日後に撮影された写真だが、発動機、20㎜機銃は
鹵獲されたと思われ、研究材料になっただろう。
4、 ガダルカナルのF4Fヘルキャットと鉄板の仮設滑走路
穴あきの薄めの鉄板を航空機の離陸、着陸地点に敷き詰める方式で
重機すら十分でなかった日本帝国海軍の裏をかいた。
本で読んでも理解が難しいことを簡単に現実的に展示していた。
5、 ガダルカナルで日本機に撃墜されたB-17の残骸
米国の篤志家の偉いところは現地でこの残骸を土地所有者から購入し持ち帰り、展示しているところだ。坂井 三郎著「大空のサムライ」
にB-17が沼地に不時着した様子があった。乗員は基地に帰還した。
東京空襲をしたB-25ミッチェル、ドーリットル少佐が指揮し空母から発進した1機もあったがこのB-17は太平洋戦争では語らねばならないものだ。
映画に使用された零戦のテキサン、T-6は日本中、どこにでも野ざらしになっているが、攻撃機能もあった米軍の練習機だ。
この機は映画「トラトラトラ」で零戦に改造され撮影のため飛び
回り、またテキサンに戻されたそうだ。零戦のままだったほうが
価値があったかもしれないが、テキサンの後退翼をよく見ると少し
前進させていた。
その他)
珍しいものでは、
ミグ15
そして各種、初期の大型ヘリコプターだ。
試乗用の機体の客運送のバスも、
太平洋航空博物館は古い格納庫を幾棟も保持しているので展示機以外にも多くの機材があるようだ。博物館の将来の姿を現している、「テーマ博物館」のひとつだろう。
ハワイ攻撃の映画)
昭和18年公開の「ハワイ・マレー沖海戦」から日米の物語をハワイ攻撃にとった様々な作品があるが、筆者の評価では「トラトラトラ」1970年公開が一番だ。
CGの無い時代だから、実機を改造して飛ばし撮影した。
このシーンの幾つかは数年後の「ミッドウエィ」にも使われていた。
空母を運行させそこから実際に発艦させるのだからCGと一緒にしては可哀そうだ。
2001年の「パールハーバー」を薦める人達も多いが物語が子供向で、
CG活用の多くのあり得ないシーンがある。
「トラトラトラ」は空母ヨークタウンを使い、B-17の実機を方脚で不時着させ、そしてT-6を零戦にしただけでなく、T-6とBT-16を合体させ九七式艦上攻撃機を飛ばした。
これらは大変な作業と撮影であったと高く評価したい。
ヨークタウン級空母は3艦竣工したが、2艦は日本帝国海軍により轟沈された。日本の空母、赤城か加賀として映画に使われた。(おわり)
19、大正時代導入期陸海軍機とその発動機
10年ほどまえに陸上自衛隊明野基地を訪問したとき、資料館で伊勢湾から
回収された航空機エンジンとタイヤなどを見た。
日本は第一次大戦に連合国として参戦しても欧州戦線には出兵しなかった。
第一次大戦期の欧州戦線のひな型が日露戦争と言われ、地上では塹壕を掘り
これらで対峙する形式の戦闘が基盤だったが、大きな戦闘方式の変革に「空」の戦闘があげられる。1913年にライトブラザーズが航空機を開発して以来、これでもかという速度で、独、仏、英、米は軍用航空機が発達した。
(その過程や具体的な内容はご存知のことだから省く)
このエンジンはV型8気筒(90度)三菱が最初に開発生産した軍用機用でイスパノ200馬力、カムを使いプロペラの回転の間から7.7mmの胴体機銃を発射できる仕組みだった。
エンジンの仕様は内筒径120mm、ストローク130㎜、圧縮比4.7、減速歯車2分の3、
重量250㎏。
陸軍スパッド12型戦闘機(丙式1型戦闘機)、海軍のハンザ水上戦闘偵察機
などに使われたエンジンだ。生産時期は大正9年(1918)から15年(1925)間で、生産台数154台であった。(松岡 久光著「三菱航空エンジン物語」参照)
第一次大戦が終了し、日本は欧州での軍用航空使用実態を認識するに、自らも航空勢力の強化に努めた。
帝国陸軍は大正8年(1919)フランスが開発し、第一次世界大戦で使用したスパッド単座戦闘機(開発は1917年)を100余機輸入した。胴体機銃にビッカース7.7mm を備えた、スパン8.25mx全長6.25mx全高2.6mのコンパクトな機体であった。大戦後期に参戦した米軍もこれを使用した。
一方、帝国海軍は敗戦国、ドイツのハンザブランデンブルグW29という水上戦闘偵察機に目をつけ、中島飛行機、愛知製作所で大正9年(1918)から製造しはじめた。元はベンツのエンジンであったが、エンジンは三菱のイスパノに変更した。勿論、ドイツは一切の軍事産業は禁止されたので、似たような性能のこのエンジンにしたのだ。大正7年(1918)のことだ。
この機体は土浦の水上機基地(現陸上自衛隊武器学校)で陸に上がるシーンだが、水平尾翼は上に、垂直尾翼は下に付いた変わった水上機であった。
大正14年(1925)には制式化され300機が導入された。
従って、帝国陸海軍合計してイスパノエンジンを搭載した機体は400余機、
エンジンの三菱での生産が154基、足らない分は輸入したのであろう。
伊勢湾から回収された機体には車輪が一緒なので、陸軍機であっただろう。
明野飛行学校資料館の片隅にこのように置いてあるエンジンにもさまざまな
ストリーがあるのだ。興味ある諸君の一層の研究、そして保存を願う。
(この項以上)
18、大和ミュージアムに落ち着いた零戦六三型機
私は3箇所でこの機体を観ている。
最初は1986年、京都「嵐山美術館」で感動的にお目に掛った。
そして1995年、和歌山県白浜の海岸に展示してあった。
今回、2015年「大和ミュージアム」にて三度目。
発動機は外してあるこれは機体に過重が掛らぬと同時に発動機も見れると言う
良い展示だ。
屋内展示でほっとしたが、嵐山から呉までどのような数奇な運命を歩んできたのであろう。「嵐山コレクション」は古武器から第二次世界大戦までの兵器、
まずこれだけのものはなかったし、私も二度訪れ、数時間を過ごし、現在の
「日本の武器兵器」の原点はここで発想された。
零戦六三型は昭和20年、特攻を意識して開発された機体だ。
榮三一型1130馬力の発動機、そして機体下部には250㎏爆弾が投下出来るように、懸吊架が最初から装備されていた。三菱で158機、中島はその倍として総計500機弱が製造されたが、実戦でどの程度、この爆弾は効果を上げたかは不明だ。
この機体は昭和20年8月6日に琵琶湖の彦根沖に不時着水したものだ。
それから23年後に「嵐山」の図録にあるように引き上げられた。
淡水の中にあったので、程度は非常に良かったがリストアには相当なる費用が
掛ったはずだ。
そして嵐山美術館で陸軍四式戦「疾風」と並んで展示されていた。
不時着水した操縦士は頭の良い、先の見えていた人であっただろう。操縦技術も悪くない。日本に財産を残したからだ。自分も無駄に死ななかった。
しかし嵐山美術館はバブルがはじけると、収蔵品もはじけてしまった。
貴重なる数々の品は今、殆ど行き先が分からない。「九五式軽戦車」は英国に輸出されたと言われている。旋回機銃、投擲兵器なども数多くあった。
日本は連合軍の意向を真面目に聞き、全ての兵器を処分してしまった。
ほとんどが、港から1時間ほどの海中に投棄されたそうだ。
そういう意味でこの零戦六三型は貴重なものだ。
大和ミュージアムの説明には幾つか、正確でないものがある。
この型の武装は翼内機銃左右に20㎜エリコン改と13㎜のラインメタルが
1挺ずつ。胴体に13㎜が1挺。計5と重武装だが、何となくバランスが悪い。
大和の説明は、13.2㎜(ホチキス対空機銃)としていたが、それは別物だ。
引き上げられた弾薬匣
大和には様々な小物もあるが、無線機に関してはなぜか一部しかない。上はカタログのもの、下は大和の展示。
大和の他の展示物
マスクなどは珍しい
何回、どのように観ても見飽きることはない機体だ。永遠にこのように残して欲しい。(遊就館の五二型は一機から数機にしたレプリカ)
(この項以上)
17、アンリファルマン機は日本に何機存在したか
明治43年(1910年)12月19日、日本で初飛行したのはフランスから輸入したアンリファルマン機(徳川大尉操縦)とグラーデ単翼機(日野大尉操縦)の
2機であった。場所は代々木練兵場。
上の石版画は代々木錬兵場における何かの観閲式の様子で第一次大戦頃の様子ではないか? アンリファルマン機が地上の6機を含め17機も登場している。その他に飛行船ひとつも。
歩兵中隊が横列になり、観閲官の前を通過しつつあり、歩兵大隊が過ぎると
騎兵、砲兵と言う順であろう。
航空勢力、アンリファルマン機は地上に8機、空中に11機、計19機が勢ぞろいしている。
空中の前面を飛行している機体は実物を良く観察したもので、詳細も正確だ。
先頭の機体と実際の機体
アンリファルマン機諸元は、
全長12m 全幅10m 高さ3.5m 重量550kg 発動機空冷星型7気筒回転50馬力 生産 150機 (輸出75機) |
左側の飛行船を守る2機
右側の縦列編隊
地上に駐機する2個小隊
などだが、実際には全世界に輸出された75機のうちの5機しか日本に輸入されてない。その後国産化したと言うがこんなに沢山存在したとは思えないが。
ちなみに1914年(大正3年)10月31日-11月7日の、日本帝国と英国(印度兵)連合軍のドイツ青島基地攻撃では帝国陸軍はモ式二型4機、ニューポール1機、に350名の兵を付けて飛行隊を形成した。空中戦では1機しかなかったドイツ機を落とすことは出来ず。帝国海軍も2機を投入し、帝国日本軍全体では7機が投入され、日本帝国にとって、最初の航空戦が行われた。
帝国海軍は水上母艦「若宮」を投入したが、触雷し、航空機を地上に移し日本に帰った。
アンリファルマン機及び日本陸軍航空隊の基地は入間に開設され、そこで
各種の輸入機が実験、訓練された。現在の航空自衛隊入間基地には米国から返還された原形のアンリファルマン機が「修武台記念館」に展示されており、見学したが、そのオリジナリティは???であった。
(この項以上)
16、雨ざらしはない戦後日本初超音速量産支援戦闘機 F-1
おそらく、F-35の製造では日本は大きな役割を果たすであろう。
日本の航空製造業は戦時中100万人の就業を得て、約7万機の航空機を生産した規模だった。戦後の連合軍の方針としては民間、軍用共に日本には航空機産業は復活させないというものだった。朝鮮戦争が勃発し米軍、相手側もジェット戦闘機を採用、空の戦闘は熾烈さを増した。さらに続く冷戦期、航空自衛隊はF-86を数多く装備していたが、1977年、戦後22年にして三菱重工業で初の国産支援戦闘機F-1が開発され、量産され、北の三沢、西の築地基地に配備された。それに従いF-86は退役した。コストは1機あたり27億円と算出されているが、77機が生産され、2006年まで使用された。
「日本初の超音速機」と言うので評判になった。
任務は対艦攻撃で、武装もASM-1,空対艦ミサイル(射程50㎞)を基幹としてフル装備であった。空戦能力がどうかという点が問題であったと言われているが。攻撃能力は優れていた。
現在、退役した実機は、入間基地に1機(屋内だが写真も撮れない狭い隅に)
百里基地に1機(屋外)、三沢基地に操縦席だけ、を見た。
先日、横田基地を訪問した際に、米空軍司令部と航空自衛隊司令部の間に綺麗に整備された1機を発見した。
全長18m弱、スパン8m弱で如何にも速度、武装を重視した設計であり、当時の最新の姿を見せているが。野ざらしは良くない。
このような記念すべき機体は『自衛隊博物館』のような施設をつくり、日本防衛史の一端を担った重要な展示物として扱うべきではないか?と当日は雨降りの天候であったので、特に強く感じた。
反対側に置かれたF-86-Fアメリカンセイバー
F-1が開発、製造できたから、F-2(日本版F-16)が、そしてF-15、F-35と
日本の軍用機産業は高い技術力を維持できるのだ。
(この項以上)
15、帝国海軍艦上爆撃機「彗星」
意外に小型である。全長11.5m、全幅10.5m、日本軍用機としては
珍しい形状である。それは水冷発動機、熱田二一型1400馬力を使用しているからだ。
このエンジンはスミソニアンにもあったがもっと大型だった。
艦爆の製造会社、愛知航空機で2253機が製造されたと言うが、大戦後半に
投入されたので、空母や整備の運用や搭乗員の技量で九九式艦爆に比較するとあまり活躍してない。操縦士と通信士の2名が搭乗するが、後部座席にラインメタルの7.92㎜旋回機銃が装備されていた。胴体機銃7.7㎜2挺と。旋回機銃は7.7㎜と説明してあるが、恐らく違っただろう。
よくぞ見つけてくれた。ヤップ島のジャングルからかなり以前に持ち帰られ、修復された。500kg爆弾を搭載したと言うから、本来その一発で、かなり大きな艦艇も沈められたはずだが。残念だ。
(この項以上)
14、日本の滑空機訓練 初級機(プライマリー)
画像のプライマリーは戦後の機体だ。JAナンバーだからだ。
(戦前の日本はJであり、敗戦によりJはジャマイカがとり、日本はまだJAのままだ)
霧ケ峰式「はとK-14」と言う形式名である。長野県霧ケ峰がこのプライマリーのメッカだったからだ。今でもやっているのであろうか。
戦前、戦中、プライマリーは中学以上、各校に装備されており、学校の近くの広場や砂浜で飛ばしたと言う。どんな教官が指導したのであろうか?
プライマリーはゴム索を動力として飛び上がる。必ず風に向かい、斜面を下に飛ばす。写真を見ると4名ずつが索を引き、機体最前部に操縦学生が座り、機体後部の綱を3名ほどで押さえている。索がある程度引っ張られると、教官が「放せ」と言う。後部を押さえている者たちが綱を放すとゴムの引っ張り力で、機体が前に走り出す。索を引いていたものは左右に離れる。スリングショット(パチンコ)を同じ原理だ。
(姿勢と水平尾翼の作用)
機体は初速を得ると揚力が発生し飛び上がる。機体の最前部に載っている操縦士が操縦棹を引くと、機体の前部が上がり高度10mくらいだが、何十m、飛行する。着地の時は成るべく速度を減らすために操縦棹を引く。橇で地面を走る。
1機に10人くらい必要で、自分が操縦する番は10回に1回だ。
更に、飛行した機体をえっちらと斜面を登り元に戻す。次の飛行まで30分くらいは掛るから1日、2回飛べれば良い。でも最初から「ソロ」(単独飛行)だ。
(戦後の指導も戦前とほとんど変わりはなかった)
昔、ガスと言う教官の助手で霧ケ峰に行き、1回だけ飛んだ。その時は「滑空機上級免状」を所持していたが、飛行はあっと言う間だった。これで操縦感覚が分かるかよと疑問に思った。ガスは面倒だから私に理論の座学をやらせていたのだ。
操縦棹を引きすぎると失速する。失速は翼面の空気の流れが急角度になることではがれ、いきなり機首が落ちる。数mの高さでも、操縦学生は怪我をするし、機体は壊れる。「ふぁ」と上がりふらふらすると、教官は「押さえろ、押さえろ」と叫ぶ。幸い、音はほとんどしないから良く聞こえているはずだ。2-3週間に1回くらい事故はあったようだ。霧ケ峰では草の上から飛び上がり、草の上に降りる。草が濡れていると、かえって滑らなかったように記憶しているが。
戦前の本には「飛行機操縦 練習の第一階程」とあるが、燃料を使わないと言う点では利はあるが、効率が悪すぎる。訓練効率は複座の発動機付航空機には敵わない。
しかし飛行原理は同じである。教官がこのプライマリー練習で操縦士適正のある者を選び予科練を受けさせたりしたそうだが、大いに疑問だ。しかし、見ていたら各学校から来た学生たちが、同じチームでたちまち仲良くなりチームワークを造ると言う意味では良い訓練だった。
第一次大戦後、航空機の製造、運用、訓練を禁じられた独逸が発祥の地であるが、日本も燃料がないので、こういう方式で訓練した。アメリカにはプライマリーやセカンドリー滑空機はほとんどない。いきなり、ソアラー(上級機)を飛行機曳航で山岳上昇風のあるところに連れて行き、放すスポーツだ。
飛行訓練は教官同乗の発動機付練習機で行う。
参考資料:
山崎 好雄著「滑空機の理論と実際」 産業図書株刊 昭和29年
増田 正文著「グライダー」 岩波書店刊 昭和10年
13、F-86Fセイバー
日本帝国の時代には「空軍」はなかった。帝国陸海軍が各々、航空隊を組織・運用し連携は少なかった。大戦後10年、1954年に航空自衛隊が創設された。下地となったのは帝国陸海軍の旧軍人で操縦士だった人々が多かった。それでもなお陸海軍の葛藤があったと言う。東西冷戦が始まり、アメリカは日本やドイツの再軍備にあたり錬度の高い操縦士がいたので、彼らを利用した。朝鮮戦争で戦闘機戦はすでにプロペラ機の時代は終わりジェット機に移った。ノースアメリカンが開発したF-86セイバーとソ連のミグ15の戦闘であった。満州工業地帯を爆撃したB-29はミグに次々と落とされた。それで危機感をもった。1956年からジェット練習機T-33とF-86Fは日本においてノックダウン形式で生産されることになった。10年間以上、日本の航空機産業はブランクがあった。最終的にF-86Fは435機、F-86Dは122機、計557機が生産され、それに加え練習機T-33の生産があったが産業としての本格的な、開発、電子部品、武装、などはアメリカ主体で日本独自のものはその後、数十年間なかったと言って良い。これはアメリカの日本、ドイツへの占領政策の一環であり、東西冷戦は日独や他の資本主義圏がアメリカと同じ装備を持っているほうに強みがあったからだ。フランスは独自な道を進んだ。日独に技術開発力の優位性がないと同時に競争相手にならぬよう、しむけていたのだ。(旅客機においては英国、フランスが競争相手になったが)F-2はあまり知られてないが、日本の技術をかなり認めた生産であったが、100機未満の採算の合うものではなかったし、輸出もできなかった。
F-86Fは全長11.4m、スパン11.3m、全高4.5m、亜音速機で1100㎞時、
武装は12.7㎜(.50口径)6門だった。後にサイドワインダーミサイルが
威力を発揮し主要武装となった。日本では1960年代半ばのことだ。
全世界33カ国で1万機が使用され第一世代のジェット戦闘機は大成功だった。
現在、日本の航空自衛隊はF-15を200機、F-2(日本版F-16)100機、F-4を含み350機程度の戦闘機を有しており、第5世代の戦闘機F-35の導入、そして、コンポジット(F-2が世界最初の技術)をはじめ尾翼以外、国産化できることになった。別な言葉で言えば「国際生産」。ようやく戦後70年間、日本の航空機産業への呪縛が溶けようとしている。
所沢のF-86F
12、所沢に来た飛行可能な零戦五二型
確かに飛行可能だと言うことは、靖国神社などのモックアップ機と比較すると
迫力がちがう。ピンと張りつめた空気が感じられる。昨年12月から本年3月まで展示されて、好評なので夏休み8月まで延長された。次世代の若い人に見て貰いたい一品だ。上から見ると操縦席が裸でパラシュートをクッションとした。
同機、機体は三菱、発動機は中島となっているが、その沿革は不明だ。
零戦は三菱航空機で開発されたが、図面を渡し、中島航空機でも製造され
中島の数量のほうが多い、また五二型が各型のなかで一番多い。
1944年6月サイパン島陥落の際にアメリカ海兵隊に13機まるごと鹵獲され、アメリカ本土に持ち帰られ、1950年代スクラップとして払い下げられた。
それらをチノ飛行場の「マロリーコレクション」が持っていたが現在は「プレーズ・オブ・フェーム」と言う民間博物館がリストア、展示している航空機の
ひとつだ。1970年代、ここで「雷電」「秋水」を観た。飛行場の大きな格納庫がその施設だった。この61-120号機の軌跡は、1943年6月に硫黄島に進出し
それからサイパンへ移動した。
そういう経過の機体は多いが70年も前のものを飛ばすには、良い部品の収集、配線やパッキングの取り替えなど厖大な手間暇が掛る。だから元機材がそのまま飛行可能になることはまずあり得ない。この機体は過去2回、日本で飛んでいる。
機体の下にはオイル漏れに備えて板とパンが置いてある。おそらくパッキングは全て取り替えたが、それでも日本機のオイル漏れは有名だった。
タイヤは細い。左右、時間差を置いて収納されるのが特徴だ。尾輪も収納される。
日本機生産7万機のうちⅠ万機が零戦だから日本の航空勢力のシンボルと見られても仕方がない。日本帝国には空軍がなく、海軍航空隊と陸軍航空隊が別個に開発、運用、作戦を行っていたが、操縦士が足りない、発動機の予備がない、
で稼働率は悪かった。その結果が、訓練なかばの操縦士による「特攻」だった。
(この項以上)
11、日本帝国の輸送機はダグラスDC-3
帝国陸海軍は輸送機として、所沢の航空公園に展示されているものと同じような機材を使用していたのだ。
帝国陸海軍は輸送機の数や運用において中国大陸、太平洋と戦線が驚異的に拡大してもその規模は限られていた。大戦末期には本土を除きほとんど制空権を失っていたので、さらに輸送機による人員や物資輸送は困難を極め、戦局は地滑り的に不利になった。1944年頃からは以前は攻撃機であった、九六中攻、一式陸攻、九七式爆撃機、二式大艇などがかろうじてその長距離航続能力をかわれ輸送機の替りを務めた。みじめであった。
大戦初期の空挺攻撃には零式輸送機が1941年頃より運用され、使用された。
この機体は410機が昭和飛行機、中島飛行機で生産されていた。
元はダグラスDC-3 である。正式な民用機としてのライセンス生産から始まった。DC-3 の軍用がC-47で世界総計約1万機が生産され、戦後も広く使用された。ノルマンディやアーヘン橋の空挺作戦にグライダー輸送機とともに使用された。
全長約20m、スパン30mで一個小隊(約30名)の武装兵しか輸送できなかったので、数千の空挺隊を降下させるには数百機が必要だった。元より帝国日本の空軍輸送力にはそれだけの力はなかった。
尾輪式なので離着陸の際、操縦士はほとんど前方地面が見えない。片側の発動機にトラブルが起こると、かなり難しいことになっただろう。筆者はカタリナ島に自分で操縦して行く機会が何度かあったが、そこの格納庫には銀色の新品DC-3が保存されていた。「リグレーチューインガム」の所有だと聞いた。
そう言えば、映画で観た、この機体にのる空挺員は皆ガムを噛んでいた。
(この項以上)