10 、航空自衛隊浜松基地「エアパーク」の零戦五二型とテキサンT-6

「エアパーク」には週末には数千人の家族連れなどが訪れるそうだ。航空自衛隊が使用してきた機材が一応全部網羅してある。ジェット戦闘機のシュミレターがある。360度画面の「飛翔」と言うF-15 の飛行をテーマにした短編映画の上映がある。など恐らく興味のある人間なら一日分の見学の価値はある。東名の出口から近いので人気があるのだ。
ここにグアム島のジャングルで発見され、米軍が輸送し、三菱重工でリストアされた零戦五二型が天井から吊るされている。まあ展示方法としてはもう少し工夫があった方が面白いが、経歴がはっきりしており、グアムから輸送の写真では翼の外し方も専門的だったので、原型に近いと考えて良い。また、五二型は中島飛行機でも製造されたがこの機体は三菱航空機の製造であった。

遊就館の機体は数機分から組み立てたと言われているので、こちらの方が由来は明確でオリジナリティが高い。
対照的にこのエアパークの屋外と、基地の空き地にテキサン(T-6)が置かれていた。

画像のテキサンは空き地に放置されているものだが、遠目に観てもあまり程度は悪くなってない。
テキサンはT-6高等練習機として1930-60年の間、15500機製造され、日本でも供与兵器として1955年より航空自衛隊、海上自衛隊に計200機が入った。
スパン13m、全長9m、零戦がスパン11m、全長9m。それで、CGを使う前の映画では良くこの機体を零戦にしたてた。「トラトラトラ」1970年製作、が良い例で、零戦だけでなく九七式艦攻撃、九六式艦爆(ヴアルティBT-13を変換)、ハワイ攻撃の編隊飛行の様子は各ありなんと言うシーンを再現した。しかしいかんせん、練習機は翼端失速を防ぐために後退翼だ。零戦はどちらかというと前進翼だ。それと発動機部分が半分くらいしかない。でも実機で飛ばす、と言うのは迫力が異なる。ペラが2枚なのも複座機なのも分かってしまう。

九九式艦爆

スピルバーグのような兵器オタクでもラジコン大型模型を使用した。(「太陽の帝国」1987年製作)。最近の映画では、アメリカに残る数機の零戦を飛ばし、あとはCGという製作方法だった。
「トラトラトラ」の場合は航空機の用意だけでなく、ベテランのプロペラ機スタントパイロットが数十人必要だったはずだ。大変な費用が掛った。

映画の編隊シーン

以上

 9 、高度計2種

 

日本は第二次大戦中に7万機の航空機を生産した。航空機には各種の計器類が必要だ。
一番、シンプルな練習機でも、速度計、高度計、上昇計、ボール盤計、水準機、羅針盤とその他発動機関係の計器(回転、温度、電流、燃料、など)とADF、10種以上の計器が、計器盤に配置されており、操縦士の右ひざには航法計算板が取り付けられた。高度が上昇し、気圧、温度の変化により頭脳の働きは低下する。操縦士はそれらと闘いながら計器を頼りに飛ぶ訓練を受けた。天候が悪化すればなおさら計器は重要な要素となる。
この2種は日本の比較的初期の高度計だと思われる、「九五式2型」と「九七式」だ。
両方とも陸軍機に装備されていた。九五式高度計が制定された翌年、海軍は九六式
艦上攻撃機を、続いて陸軍は九七式戦闘機を制定した。この2機種は全金属製、低翼、
固定脚ながら、速度、旋回能力、武装などの戦闘能力は当時、世界水準の戦闘機であった。
高度計は基本的には気圧計であり、機体が高く上がると気圧が低くなることで高度を計測した。地上で下の釦を引き、解除してから回し地上の気圧に、また飛びたつところの標高に合わす。

①九五式2型高度計

 

表に大きく「高」の文字。直径80㎜、厚さ45㎜、最初の数字が1から一回り5、二周り10、なので1までが100mと推定される。単針である。したがって普段は500m以下の高度を飛ぶ練習機用、九六式艦上攻撃機、九七式戦闘機に装備されていた。これらの機体は開放天蓋(オープンコックピット)で、操縦士は外気にさらされ、そう高い高度を飛行するわけではなかったから、一目盛1000mまでの表示とは考え難い。はたして九七戦、一式戦、二式戦、高等練習機などで使用されていた。だがこの高度計は明らかに1000m、2000m、3000mと1000m単位の高度を判定するには難点があっただろう。

②九七式高度計

 

やはり大きく「高」の文字、直径80㎜、厚さ90㎜で、2本針、数字の表示も大きく異なる。間隔が九五式の半分で、一回り1000m、ここで短針が一つ動く、従って2500mとか、
の高度を読み間違え難くしてある。短針が一回りすると1万mになる。また気圧を示す数字の窓があり、ミリバールの単位でその時の気圧が知れる。

両方の高度計ともに背面のパイプからピトー管に通じており、外部の気圧を測る。
この二つの高度計は「株式会社柳製作所」の製造であり、九七式は昭和17年8月製だ。
九五式の銘板の製作年月は読めない。右が九七式の銘板、左が九五式。九五式は数字上は3万5000箇以上は製造されており、日本機の主なる高度計であったと言えたかもしれない。
だが、当時の製造番号がそのまま実際の製造数であったという確信はない。
(株)柳製作所を言う会社は新潟県長岡市に存在する精密機械メーカーであるがこの会社が戦前、中、○にYをマークで航空機計器を製造した会社かどうかは不明である。
他の製造会社としては「田中製作所」で同じものが、「東京航空計器株式会社」など多くの会社が他の航空計器製造に参画していたと考えられる。田中製作所は精密金型などの製品の会社として現存。

 

いずれも簡単な気圧計と言う構造であり、およそ四分の3世紀を経ても多分正確に高度を示すものと思われる。以上

 8 、日本のジェットエンジンと熱田液冷エンジン

スミソニアン郊外博物館には日本の航空機エンジンが2種類展示されている。
それらは、

1、 中島双発ジェット攻撃機「橘花」に搭載されたジエットエンジン

アメリカはすでにF-80 と言うジェット機を日産10-30機程度生産していた。
これらは数年後、朝鮮戦争でF-86としてソ連のミグ戦闘機と戦う。ドイツはすでにMe262というジェット戦闘機が連合国の爆撃機を迎撃していた。1944年、ドイツの技術を海軍は潜水艦を派遣して持ち帰りつつあったがシンガポールで轟沈され日本には届かなかった。「橘花」は日本独自の開発であり、エンジンはターボで空技廠(海軍の航空技術開発部)が担当した。全長180㎝、直径62㎝、重量474㎏、回転11000rpm。
「橘花」は1945年8月7日に初飛行し、世界4番目のジェット機となった。
全長9.2m、スパン10m、軽量な機体だったが、このエンジン2基だけでは離陸できず、補助ロケットを使用した。鉄砲伝来の種子島家子孫、種子島時休大尉が担当した。下「橘花」(きっか)

 

2、 アイチ熱田31エンジン

観ての通り液冷だ。全長2m、幅70㎝、重量655㎏、1400馬力
日本の航空機はほとんど空冷エンジンだったが、ドイツから入れた陸軍の「飛燕」とこのエンジンが液冷だった。
このエンジンも同じところに展示されている。ダイムラーベンツV-12 と説明にある。前に登場した潜水艦搭載機「晴嵐」に、そして1500機製造された艦上爆撃機「彗星」に搭載された。遊就館に1機

展示されている。
復元が悪くぼこぼこの機体だが、貴重なものだ。彗星は優秀な機体だったが、活躍の機会は、負け戦になってからで、あまりなかったのは残念だが。

 7 、桜花

以前、遊就館に一式陸攻に吊るされ、編隊になったジオラマがあった。確かに乗員は全員戦死したが、これを展示物にする感覚はと、少し疑問に思った。下、スミソニアンの展示

桜花の実物は世界の博物館で少なくとも3機は観ている。これを航空機、軍用機と定義して良いものか確信はないが。このスミソニアンの展示、ワシントンDCの近くにあるカンティコ海兵隊博物館、英国ロイアルエアフォース博物館などで実物を見た。
戦後かなりの数が破壊されず本土、台湾、沖縄に残っていたそうだ。

調査する米軍、沖縄と思われる。前部が爆発筒800㎏だから魚雷なみの威力 被いは外してある。
桜花自体は全長約6m、全幅5m、靖国の模型はスミソニアンの実物と形が異なった。
しかし桜花はその後、航空機にミサイルを搭載するアイデアになったことは確かだと思う。
誘導装置がないから、有人にしたが、操縦士を訓練できない。すでに操縦士である者しかこの兵器は操作できない。それも一発勝負。母機一式陸攻機の損失、数十機を考えたら本当に馬鹿(英語名はバカボンブと言う)な計画だった。これを現在の人間はどう考えるか。
1945年4月12日、鹿屋基地を発進した土肥中尉の搭乗した桜花がUSS駆逐艦、マナート・L・エーベル、2200トンに命中し轟沈させたのが唯一の戦果だそうだ。


マナート・L・エーベル号

ここまで追い込まれ戦争は、もう戦争ではない。桜花は着陸ができないから航空機ではないだろう。

 6 、月光

あまりにも有名な海軍双発夜間戦闘機だ。ラバウルで斜め銃を駆使して連合軍大型爆撃機に立ち向かったと。本土では夜間、低空できたB-29を5機撃墜したとか。この機体は横須賀海軍航空隊からアメリカに持ち帰られて復元された。後部の20㎜斜め銃もちゃんと付いている。各銃100発備えてあったそうだ。

機種に出ている棒はレーダーのアンテナ。
全長12m、全幅17m、自重4.5t,乗員3名で、中島飛行機で477機が生産された。1割程度が終戦時に残存していたので、誰かが惜しんで特攻などに使わなかったのだろう。あの高い銀河ですら特攻に使ったのに。園田司令は斜め銃を考案して英雄となった。

翼、発動機、脚の様子が良く見える。この月光素晴らしいところに永遠の場を見つけたものだ。スミソニアン博物館別館

 5 、紫電改

スミソニアン別館の展示機だ。またも海軍機かと言われそうだが、陸軍機はあまり現存していない。紫電改は製造数が400機くらいだが、アメリカには数機が現存していると推定される。稼働開始が1944年12月からと遅く、部品や燃料不足で稼働率が低く、多くが地上で鹵獲されたのだろう。「紫電改」は「紫電改のタカ」(ちばてつや作)であまりにも有名であるが、果たして国賊、源田 実の「三四三空」は言われるような戦果をあげたのであろうか。米軍資料では源田の戦果は小型機40機くらいと言われている。滝よりグリンナー少佐に分あり。

四国にもあるから格別珍しいものではないが、この機体、武装があり、程度は良い。

全長9.4m 全幅(スパン)12m、航続距離が短い局地戦闘機であった。翼内に20㎜機銃を4挺、計900発を備えていた。機銃の間隔が短いので、左右に弾倉があったのだろう。

 

上のB-29に比較してもそんなに小さい機体でない。性能が出せたなら、体当たりしても迎撃すべきであった。

この仕様は明らかにB-29迎撃だが、数か月で負け戦の見込み、源田のずるさが出ている。三四三空もようやく飛ばすことの出来るような操縦士しか残っていなかったのではないか。機体がこういうごちゃごちゃしたところの展示は目移りして良い写真も撮れない。(参考 碇 義朗著戦闘機「紫電改」)

 4 、晴嵐(せいらん)

この機体は分解保存されていた頃、20年くらい前か1度見せて貰った。
さすが「タミヤ」だ。同社がスポンサーになり復元された。

「晴嵐」は帝国海軍の賢さと愚かさの2点を証明する生き証人だ。
昭和18年、愛知航空機(時計)が開発製造した、世界に類のない攻撃機だ。
潜水艦(伊四〇〇型)を母艦として、1艦、3機を搭載していたそうだ。直径約5mの筒の中に、主翼、尾翼、垂直尾翼を折りたたみ、収納した。機体は乗員2名、全長10.6m、横幅12.2m, 全高4.6mの本格的攻撃機で魚雷か、800㎏爆弾を搭載したまま収納し、潜水艦が浮上し3分間で離陸可能であったそうだ。潤滑油などはすでに温めて置き、暖気運転の時間を省いた。母艦に戻ると横にフロートで着水、クレーンで吊り上げ収容が基本設計だが、フロートを離脱し、機体を捨てるという方式もあったと言う。筒と機体との間にはわずか5㎝の隙間しかなかったそうだ。
潜水艦と機体は別々なところで製造するが、誤差がわずかでもあると機体は入らない。

米軍軍需部調査

帝国海軍の偉いところはこの発想だ。機体は最高時速480㎞くらい出て航続距離も長いものだったので、「パナマ運河の攻撃」を目的にしていたはずだ。ハワイ攻撃と同時にやればインパクトは4倍になったはずだが、時間的に間に合わなかった。28機が生産されたが、ほとんど戦闘には使用されなかった。
帝国海軍の愚かな点はこの機体は1機で戦闘機数十機の費用が掛った。潜水艦の分も合わせると、戦闘機1500機、小型空母2艦程度になる。(日本の空母は大戦中25艦)これは非現実的な夢物語と言っても良い。しかし
戦後アメリカはこのアイデアを使い、原子力空母にミサイルを搭載した。

工場に1機あった、米軍家族も見物していた。この機体が現在展示されているものだ。

博物館の説明員は世界一高価な攻撃機と言っていたが。この1機は工場で接収されたもので、他の終戦時に作戦中のものはすべて海中に投棄された。
今、タミヤさんが世界中に日本人の独創性を証明してくれている。

とてもごちゃごちゃしたところに展示されており、もったいない。 以上

 3 、零式艦上戦闘機五二型

靖国神社遊就館ロビー(撮影可)に展示された、再生品だがここまでよくぞ完成したと当事者たちの苦労を賞したい。左手のガラス戸が開き元操縦士たちの記念撮影をしていたのを見たことがある。

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この機体は実は数機分の機体、破棄されていたもの、戦闘で破壊された部品から再生された。勿論、見物人には分からない。
胴体と主翼は1970年代半ば、ラバウルで発見され持ち帰られた。
その他は1980年代半ばヤップ島に埋もれていた数機の機体の部品であった。
河口湖自動車博物館でえいえいと復元作業が行われ、機体番号は主部品のものとした。帝国海軍は終戦まで零戦を主力機とした。いろいろな改造、武装強化をしたが、戦争終結前の被撃墜率は、日中戦争、開戦時に比べるとはるかに悪くなった。この主たる原因は操縦士の訓練時間の差が大きかった。この機体に発動機は入っているかどうかは不明だ。機体展示の後に「エリコン機銃20㎜ドラム弾倉付」が展示されているが、この機銃はこの形式の機体のものではない。この形式の機体には河村博士開発の一式20㎜改が搭載されていた。この機銃は武器学校に2門ある。取り換えれば良いのにといつも思うが、武器学校とこの施設、コミュケーションを取るのは今の段階では問題があろう。

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ラバウルには終戦時、飛行可能な零戦は2機しかなかったそうだ。そのうちの1機はニュージィランド・オークランド軍事博物館にあるが、複座に改造してあった。戦闘用と言うより、偵察機として使用していたようだ。表面は凸凹で往時の苦労がしのばれた。35年ほど前に訪問した。
零戦に関して書かれたものは多い。本人にもお会いしたことがあるが、坂井 三郎氏の「大空のサムライ」が飛行、理論、戦闘、と言った面で正確であると感じている。源田 実氏は本当に偉かったのかは著作を読む限り、? 予科練と兵学校の「学歴の差」はあったのだろうが、飛行理論一つに関しても坂井氏の方が正しい記述が多い。
坂井氏は電車の中で中学生が2人会話しているのを聴いてがっかりした話を書いていた。「おい、日本とアメリカが戦争したこと知っているか?」「ほんと!
それでどっちが勝ったのだよ?」「日本に決まっているじゃないか」と言うような内容で、日本の教育はどうなっているのかと嘆いていた。
そういう意味で都心にあるこの施設は重要だが、専門の学芸員がいるのか、武器兵器のことは多少おざなりだ。特に戦跡からの遺物、これらの展示も重要であろうが、延々とこれでもか、これでもかと並べてあるのは少し、がっかりする。
人生に「もし」はないが、もし何でもやりたいことをやらせて呉れると神様が言ったら、「過去に戻り、零戦を操縦してみたい。」

 2 、零式艦上戦闘機スミソニアンの五二型

アメリカ建国200年、1976年にスミソニアン博物館航空宇宙博物館が新装された時に観に行った。在米中には数回、行ったが、昨年夏にこれがもう最後だろうと1時間をそこで過ごしてきた。1942年7月にアリユーシャンの柔らかい地面にほとんど無傷で不時着した(操縦士は撃たれており死亡していた)機体だ。アメリカ本土に持ち帰られて、徹底的に研究された。全長9m、全幅12m。意外にコンパクトな機体だ。

第二次世界大戦期の各国の主力戦闘機のなかでは目玉的な存在だ。
堀越二郎氏設計、三菱重工業と中島飛行機で計約1万機が製造された。操縦性能、航続距離、武装(20㎜翼内機銃)、熟練パイロットの4つの条件で大戦初期の、エース機だったものの完全な姿である。塗装が若干濃いが。
これ以上、零式艦上戦闘機に関して言うことはないであろう。
眺めているだけで良い。

操縦士の人形、ほぼ完全である 手袋はポケットに見えるがこれが実物かどうか。

20㎜機関銃の弾薬。2種類ある。上は河村博士開発の「九七式改」、下は「エリコン」

比べてみるとその差に驚いた

大迫力の降下姿勢。
日本にあったらここまで徹底して、保存、展示されていたかは知らない。
この零戦があるスミソニアン博物館航空宇宙館はワシントンDCの街の真ん中にある。
他の日本の軍用機は街から車で一時間ほどのダラス・ナショナル空港の中の郊外館にある。

以上

 1 、屠竜 キ45改

日本の代表的複座戦闘機だ。この胴体のみがB-29 エノナ・ゲイの下に置いてあるのは意味深長な部分がある。「屠竜」はビルマ戦線でフライングタイガーズが撃墜したとアメリカでは大いに宣伝したらしい。川崎航空機で1700機が製造された。陸軍が採用したのは1941年で制式には「二式複座戦闘機」と言う。

 

 

昔の職場で部署は違うが阿部と言う人がいて彼の父親が山口県小月の第十二飛行師団阿部師団長だった。小月では、「屠竜」を夜間戦闘機にして、無線、探照灯を活用し、大陸から飛んでくるB-29を今度は散々な目に合わせた。武装もホ207-37㎜、ホ3-20㎜など大口径化した。B-29の襲来時刻は大陸から対空監視で来る情報、そして済州島の電探で正確につかんでいた。なお、阿部息子(阿部定と呼ばれていた)は私が航空機好きと言うことでいろいろ話をしてくれたが、本人はほとんど小月のことは記憶になかった。樫出 勇大尉と言う人が27機を撃墜し、戦後は新潟の田舎から出て来ないことは話していた。

全長11m、全幅15m、重量4t、どうどうたるもので、横の海軍の「月光」は復元されているのに、「屠竜」は胴体だけが転がっている。スポンサーを探しているのだ。

 

翼、後部胴体、発動機、プロペラ、車輪、すべてある。分解して保管してあったのだ。
これを復元するには恐らく数千万円はかかろう。塗装も良くしたい。誰か日本人がお金を出してくれるのを待っている。何と言ってもB-29は1機で小学校が300校出来るほど費用が掛り11名の乗員を必要とした。それが一人の操縦士だけで27機も落とされては面目がたたない。それで、この前胴体だけ、転がしてあると感じた。

スミソニアン・ナショナル空港別館の「屠竜」、程度は良い。後ろはアメリカ本土を空襲した「晴嵐」。