火縄銃



 新発見10:工兵、通信士、砲兵用前弾薬盒

騎兵が車両兵に転換し、三八式騎兵銃6.5㎜は用途が変換して、様々な科種の装備となった。短い銃長であるが、800万、全兵力が備えていた三十年式銃剣を装着できるし。
騎兵用弾薬盒は15発箱入り弾薬が2個収納できるものだが、真ん中に油缶を装備した。弾薬数では同じだが、横幅が1㎝ほどながい。
更に工兵、砲兵、通信兵用には騎兵用の肩掛け負い帯がない方式のものが出た。両横の負い皮掛けの釦がない。
帯革に裏の帯革通しを通す。蓋は歩兵用とは異なり前方から開ける。ブラシ、絡み棒などを前面に装着した。

 新発見 9:将校用小型拳銃収容嚢のデザインは「名古屋工廠」なり

はじめに)ここ何年か311災害の東北各県、その後の九州の地震などで多くの家屋が
崩壊し、再建築するために古い家屋を処分した。
その際に少なからず屋根裏、壁の空間、納屋などから銃砲刀剣類が発見され、当該地の
警察署に報告された。刀剣は問題ない、発見届けを出し、登録審査を通過すれば持てる。
古式銃は微妙であり、拳銃と弾薬は問題が多い。

陸上自衛隊武器学校資料館展示品 ブローニングのものだが造りが異なる
多くの各地警察署は陸上自衛隊武器学校に状況と写真を添付して尋ねてくる。
自衛隊にはそれに責任ある回答をする任務も義務もないが、以前は善意で答えていた。
しかし、近年は民間人で武器学校顧問である私にその任が回ってくる。
写真を観察し責任ある回答に心がけている。外国で博物館、収集家、本など多くの情報を研究した経験が生きている。
米国の友人たちも助けてくれる。以下はその一例である。

① 九州のある警察署からの問合わせの例
とある家で故人の遺品として、小型コルト拳銃と装具、弾薬100発、発見が報告された。
その方は技術曹長だったそうだが、終戦と同時に尉官になった。「裕福なご家庭で
なかったですか?」「弾薬のケースの頭がピンク色ではないですか?」の質問をした。
(けして弾薬を試してはいけないとも伝えた。古い弾薬は危険だからだ。)

② 装具品は収容嚢、弾入れ、すべて未使用で良い状態の写真が付いていた。
これは珍しい。収容嚢に名古屋工廠昭十七.七月と鯱の刻印が見えたのだ。
弾薬収容嚢は厚い皮革でこれには「大」大阪工廠と△の刻印、五〇発入用だ.
ブローニング、コルト小型拳銃弾倉は異なるが(ロスの葉山さんに教えて
いただいた)同じ。32ACP弾を使用し、日本の工廠で製造、供給していた。

③ 武器学校への寄贈を依頼する。
警察庁の許可を得るという返事だったが、紙箱もお願いした。
これはありがたい。依頼の文書と鑑定は私が書いた。
なぜ重要かというと帝国日本軍の拳銃収容嚢は南部小型も含め、フラップ
(蓋の両端がつまみ型になっていて、柔らかいながら実用的かっこいいからだ。
南部小型、ブローニング、コルト各々微妙にサイズが異なるが同じデザインなのだ。
(南部小型には様々な形があり、町の靴や製など不格好なもののある)

武器学校には小型コルト32口径はあるが、収容嚢はなかぅたし。
いただいたものには負皮帯がなかったが。

名古屋工廠歴史には1930年代後半に中国で多く鹵獲したコルト整備したと
ある。(葉山氏は50-55代シリアルが日本に正式輸入され、この拳銃は40万代
で中国で鹵獲したものの払い下げだった
寸法 11x4x0.55cm
勿論価値のあるのは日本製だ。カタカナの「ス」が大きくスタンプされている。

50発拳銃弾箱がこの収容嚢に入る。

水交社の販売だったのか、持主は帝国陸軍だったのか、帝国海軍だったのか?不明だ。
終わりに)
東北から出る古式銃は登録できないほど、改造し、痛んでいるものが多い。特に珍しいものも少ない。
警察署、警察庁が正確な判断をしてくれると今度のような新発見がでる。
葉山氏は日本の収容嚢に入った小型コルト32口径を5セット観察したが、製造刻印のあるものはなかたそうだ。
この拳銃の収容嚢以前にも製造者が不明な収容嚢は沢山あるが、刻印を打つくらいだから、元は名古屋工廠で
あり、ブラザー工業などが製造した可能性は高い。警察署と葉山しに感謝する。
(以上)

 新発見 8:義烈隊用の手榴弾収容嚢

義烈手榴弾収容嚢:4個の九七式手榴弾を入れ、弾帯の下の装着した。

20年前、とあるガンショーで「沖縄の飛行場で拾った」と言う帆布製手榴弾収容嚢を手に入れた。4個の収納袋が横に並んだ形で、内部に2個の錆びの浮き出た九七式手榴弾(内部の火薬と信管ヒューズは抜いてある)が残されていた。しかしこの収容嚢はどう見ても、一般の日本の装具と異なる。まず材料の質と色が、他の多くの帆布製装具と異なる。ボタンは黒染め固定でこれも布製弾薬帯のものと異なる。但し背面の革帯通しの紐は他の多くのものに使われているものと同じで、全体の縫製も日本のものらしい。長い間私の疑問の品であった。もしかしたら中国か朝鮮で残された日本の手榴弾を使うために作られたものか。しかし、最近「義烈隊」の写真をもう一度眺めているうちに、二重に巻き付けた弾薬帯の下にのぞいているものは何だろうと、何度も眼鏡で見て、ようやく納得がいった。
この手榴弾入れはなぜ4本の25センチと長い革帯通しが付いているのか、革帯に通すとずっと下に下がってしまう。この長い4本の紐は収容嚢を一番下に装着してさらにその上に弾帯などを装着するためだった。
これは正真正銘の日本のもの、しかも義烈隊の装具の一部でなかったかと確信するに至った。
まず素材は日本の何かに使われたものではないか見ているうちに、同じ質、色のものを物資投下用の落下傘収容嚢に発見した。縫い糸も同じものであった。金属のボタン、革帯通しの紐もこの関係の装具に使用されていたものと推察すると、全て合う。
従ってこのものは「空挺隊」が作らせたものである可能性がおおいに高い。 勿論、寸法的には横28センチ、縦12センチ、奥行きが6センチで、一つ一つの収容袋は九七式手榴弾を信管を上にして入れるにぴったりの大きさになっている。 2個しか残されてなかったが、各袋の内側から洩れてきている赤錆びからそれまで4個が収容されていたのも確かである。また血痕は見れないが泥が付着している。
義烈隊の隊員は一人一人の兵士が出来る限りの個人用兵器を携帯し、一〇〇式短機関銃、その8ミリ弾を入れたであろう弾帯、同じ実包を使う九四式拳銃、銃剣、短剣などなどと航空機破壊用の爆薬を身に付けた。身体中隙間の無いくらい何十キロにもなる装具、兵器、弾薬、爆薬を身に付けた。この手榴弾収容嚢はこの目的の為の特注のもので、落下傘やその他空挺用の装具を製作したところか、現場で手には入る材料を使い部隊 の補給者が製作したものであろう。

20年間これを捨てなくて良かった。
しかしなぜあの時にこれを持ってきた人にもう少し詳しく拾った際の状況を聞いておかなかったかと悔やまれる。 記録写真で見る限り、義烈隊は隊員が戦闘出来る状態で胴体着陸出来たのは一機のみであったと思う。夜間、照明の無い、しかも対空砲火 のあるところに大型機で胴体着陸を実行する。成功の確立はやはり一〇分の一以下であったろう。大変な作戦であった。

 新発見 7:二十六式ホルスター

二十六年式拳銃(9ミリ口径)はなかなか興味深い拳銃である。明治26年(1893)に日本初の近代的軍用拳銃として制定され大正14年 (1925)まで主として東京砲兵工廠小石川製造所で、総数59200挺が生産された。
現在、この拳銃はアメリカには比較的数多く存在し、近代拳銃の範疇に入れず譲渡書類無しでやり取りすることもある。値段も安い。しかし良 く見るとこの拳銃はなかなか良く出来ており、当時の他国の軍用輪胴式拳銃に比較すると、表面・部品一つ一つの仕上げの良さは元より、ダブルアクションしかない頑丈・簡単な機構、輪胴の回転を確実にする為の薄いリムの薬夾などユニークである。但し現在これを実用にする観点からみるとそれは時代遅れなものであることは否定出来ない。
アメリカに存在するこの拳銃の収容嚢(ホルスター)は殆どが赤茶の厚い牛革製の比較的新しい(昭和15年頃の刻印が多い)製造が多い。これによく似たもので、革が痛んだ、弾薬入れのポケットに弾丸を一発づつ入れるループがない、負い革が細く薄く長い、黒く着色してある、さらに蓋の内部に楕円のスタンプがある(読めないがヨーロッパ調の)ものなどが存在し、これは二十六年式の元になったフランスの1873年及び1892年型拳銃用ホルスターである、と言われている。見たところ外観は殆ど同じである。なぜ日本は、二十六年式拳銃に当時のフランスの拳銃とまったく同じものを採用してのか大いに興味のあるところである。言われているように拳銃自体はかなりオリジナリティがあるが、ホルスターはフランスのものをそのまま採用したのだろう。
最近以下の文書を調べる機会があり、面白い事実を発見し、この二十六年式拳銃のホルスターと同じ形状・寸法のフランス拳銃ホルスターの謎を幾らかでも解明出来るのではないかという一推察に達したので、それを発表したい。
この興味深い事実が出ていた資料は、陸軍省の「各国軍軍器供給に関する綴・大正3年(1914)ー同11年(1922)」でつまり、第一次大戦期とその後のロシア革命後の混乱期に日本が外国に供給した兵器種類数量の情報である。「日本の軍用銃と装具」に外国に出された三十年式・三八式などの小銃に関して述べたが、この書類を見る限り総計は基本的には当該本と同じ内容の数字になった。しかし細かく見ると、大正8 年(1919)にシベリアに出兵した、フランスのジャナン将軍の派遣軍に25000挺の三八式歩兵銃・騎兵銃・銃剣が230万発の実包と共に供給された際、(フランスが援助していたチェコ軍用には他に数多くの兵器が供給された)この中にシベリア仏国派遣軍用として1000挺の二十六年 式拳銃が供給されていた事実があったのだ。同年7月15日にウラジオに送られた注文の一部の三八式小銃11000挺などの兵器の書類には、1000挺の拳銃と他付属品以下が含まれたいた。

名称
個数
単価
二十六年式拳銃 1000挺 43.00円
同 拳銃嚢 500個 5.30円
帯革(ママ) 1000本 0.78円
携帯革(ママ) 1000本 1.45円
縣紐 1000本 0.29円
朔杖 1000個 0.18円
実包 200000発(一挺あたり200発)

 

以上ジャナン将軍注文価格とし、代金は在日仏国大使館に請求、仏国政府が支払っている。

このリストで分かるとおり、拳銃とその附属品を1000注文しているのに、ホルスターのみは500しかないのである。残りの500はどうしたのであ ろうか。軍用で使用するにホルスターなし、ということは考えられぬ。500個はフランス本国かシベリアで製作され、それらが現在アメリカで時たま見られる「二十六年式拳銃の元になったフランスホルスター」の一部ではないか。これが私が行き着いた結論である。
私は当時のシベリア派遣フランス軍の日本への兵器供給依頼の背景を考えると、500個のホルスターはシベリアで製造されたものではないかと推定する。またその理由は、価格表でも分かる通りホルスターは安くなかったからであろう。またこれらの日本製の兵器はフランス軍のみならず、フランスが援助していたチェコ軍によって使用されていた可能性も高い。
何よりも本体の二十六年式拳銃は、同じ頃の三八式小銃が1挺49円のところ43円もしているのだから、大変高価な拳銃であった。しかし南部小型拳銃はは当時200円くらいしていたはずだが、現在の価格差をみると、二十六式拳銃は今不当に安いものかもしれない。
バンザイシュートアウト(アラバマ)で二十六年式拳銃の競技を実施したが、適合する実包の手当に苦労した。ミッドウエイ社の専用実包は.38口径弾丸を使っての手製のものよりはるかに命中率が高かった。この9ミリ弾丸は.38口径弾丸よりやや大きい。ケースも特別なもので他国の 実包は合わない。

シベリア出兵は大正6年(1917)11月、ロシア・ボルシュビキ政権の成立と共に、元のロシア側(白系)とシベリアに残された10万人のチェコ 軍を援助する為に日本以外にも英・米・仏の各国が派兵し、ハルピンの元オムスク政府にも兵器をはじめ様々な軍需品が供給された。ソ連の確立と、1920年のチェコ軍の脱出で日本の出兵も幕を閉じた。 この際にチェコ軍・フランス軍が持ち帰った日本製兵器及び付属品はどうなったのであろうか。小銃には銃口蓋、負い革、清掃用のキットなど細々したものが沢山附属していた。

 新発見 6:四四式さく杖

日本の小銃には銃腔内を清掃するためのさく杖は必須のものであった。さく杖は通常銃身の下部の穴に銃身とほぼ同じ長さのものが収納され、それを前方に引っぱり出して清掃に使うというのが一般的であった。例外は、銃身の下部に筒状弾倉が付いた村田二十二年式小銃がはじめてで、短いものが1本銃床に収納され、何挺分を接いで交代に使用した。
四四式騎兵銃も銃身前部の下に銃剣が折り畳まれるので、さく杖をここに収納出来ず、銃床に短いものが2本収納されており、これらを接いで使用する。騎兵銃で銃身が短い(48センチ)のでこの2本を接いだもので足りる。さてこの接続式のさく杖であるが、2種類のものが見られ、3期間になっている四四式製造の前期と中・後期のそれぞれのものであろうと推察する。前期は削り出しで2段になったもので通常着色してあるのは見ない。長さは205ミリ、太さ5ミリ、太い部分(ここにもう一本のネジを差し込み接続する)は長さ40ミリ、太さ3.6ミリである。後期のものは長さは同じく205ミリ全体に太く6ミリとほぼ同じ直径で着色してある。この後期のさく杖は前・中期の小銃の銃床の収納の穴には入らない。重量は初期が25グラム、後期が37グラム。
しかし殆どの四四式騎兵銃にはさく杖が欠けておりその実物はどのようなものであったか、しばらく分からなかった。 この前期の二段になったさく杖の長いものが、6.5ミリ小銃の分隊用の清掃用具入れに見られるが、実はこの短いものを数多く存在していた のだ。
なぜこのさく杖が多く存在したかは、このさく杖は実は十一年式軽機関銃の清掃用の属品のさく杖とまったく同じもので共通していたからだ。 軽機関銃も銃身が48.3センチで殆ど騎兵銃と同じであったからだ。軽機の属品箱、初期のものは鉄製の箱は実にこのさく杖がきっちり入る横幅205ミリのものでこの長さは後期の属品差しにあるさく杖ともほぼ同じ長さである。しかし後期、昭和12年以降の軽機のさく杖と、四四式騎兵銃のさく杖は長さはほぼ同じであるが別な形式となった。後期十一年式軽機のさく杖は長さ200ミリ、太さ6ミリ、重量40グラムである。九六式以降は長さ155ミリと短くなりこれを3本接続して使うようになった。(軽機の属品にはもう1本ガス掻き用のものがあり、計4本収納されている)

たまにアメリカ人の自作の四四式騎兵銃用のさく杖が入っていることがある。一般のさく杖のように頭を作り、そこに長方形の穴を縢ってあるが、素材がいけない。日本のこの種のものに使われている鉄は長い時間が経つと、どうしても欧米のそれと輝き、錆の様子がどうしても異なる。実物の長いさく杖を分断して作られたら本当にこんなものも存在したのか迷ってしまうところだ。
日本軍小銃のさく杖でもう一つの例外は九九式小銃の中期型(昭和18年秋頃からの生産)で、使用できない頭だけのものが入っており、昭和19年にはそれすらも省かれてしまう。

 新発見 5:小銃用負い帯

小銃用の皮革製負い革に替わり「布製負い帯」はどの程度活用されてのであろうか。布製のものは多分戦争後半からと推定するが、皮革素材の不足から教練用小銃には早くから布製の負い帯が多く使用されたようで、今まで幾つかの実物を目にした。軍用には皮革素材の不足以外に、1930年代後半に中国戦線が南に移動したことにより、従来の皮革装具の見直しがなされたと言われている。余談ながら完全加工の皮革は欧州的な気候の元では永遠に近く保つとされているが、南方の湿度・温度のもとではその耐久性に問題があり、特に小銃の負い革は 長時間、重さ3キロ以上の小銃を支え雨の中など行軍したらひとたまりもなく切れてしまったであろうことは想像出来る。この解決の為にキャン バス・ゴム製品が開発されたのであろうが、ここで紹介するのは現在目にする単なる布製の負い帯である。それらの例は、

 

  1. 6.5ミリ小銃用と思われるキャンバス製のもの。びじょうは帯に固定で、びじょうに帯を通し折り返す方式。びじょうは従来の爪のあるものではなく、「日」型で「挟み」で長さを調整する。これらは同様の教練用のものに比較すると布の幅・厚さ・密度及び金具の太さが明らかに頑丈に作られており、軍用であったことを証明している。布の長さが1メーターで、折り曲げた部分を引くと最大長が約90センチ。これは三八式歩兵銃を背中に斜めに背負う長さである。幅は30ミリ位で布の厚みも3ミリ位、びじょうの太さ3ミリで重量は6-70グラム。つづみボタンの穴は革で補強されている。革製のびじょう革(キーパー)が1個あり、折り返した部分を押さえる。「昭(年号)」のスタンプがある。

  2. 太い針金の鈎状のフックを使うもの。片端に小銃の負い革止め環に引っかける太い針金状の金具が縫いつけられており、長さは太いびじょ うで調整出来るもの。びじょうは「日」型。キャンバス素材はかなり厚い。三八式系も九九式も小銃重量はあまり変わらないが、皮革製の負い革を見る限りこれは7.7ミリ小銃用と考えられる。最大長1メーター。びじょうは太く5ミリで黒塗り。針金は太さ3ミリ、長さ40ミリ。重量135グ ラムで頑丈。「昭和(年号)」のスタンプがある。厚い布製のキーパーが1個入っている。一旦装着するとなかなか外れない良い設計である。

  3. 両端に茄子環が縫いつけられており、長さはびじょうで調整出来る。布の厚さと密度はなく、戦争後期の作と推定される。布の幅30ミリ厚さ2ミリ。空挺用の一〇〇式短機関銃の負い帯を言われている。(歩兵博物館で実物を観察した。)布の長さ115センチ、金具の長さ70ミリで 二重に縫い込まれている。びじょうの形で一般の荷物用負い帯と区別される。びじょうは太さ4.8ミリで黒塗り。重量は160グラム。軽機関銃の負い革と同じ方式なので、これも短機関銃用のものであったという理由になろう。布製キーパーが2個入っている。

  4. 教練銃用の布製。軍用と同じくびじょうが端に固定されている。つづみボタンの部分はスエード・人工革で補強されている。長さはやや短くて最長95センチくらい、布の幅も26-28ミリと狭く、厚さ1.5ミリと薄く、荒い素材でびじょうの太さは2.5ミリと細い。

  5. この他に小銃用ではないが茄子環が両端にあり、普通の木綿布を折り曲げて厚くして糸縫い合わせした各種収納嚢用の「カーゴスリング」 が存在している。これらは軽機関銃用の弾薬嚢、弾倉嚢に使用されたようだ。これらは長さが130センチで真ん中にくるびじょうがアルミなど軽い素材で大きめに出来ている。重量は150グラムくらい。

  6. 戦争後期製作の九九式小銃には銃床に負い革止めの環がなく、木部に穴が空けられただけのものを見る。これらにはどこででも手に入る、直径6‐7ミリの綿、麻のロープ状の紐が負い紐として利用された。大体は長さ1メーターで一端を輪とし、90センチの長さになり、調整は銃床の穴から出る部分の結びでする。試してみると、負い革・負い紐は平たいものでないと銃を肩下げした際に身体にくい込んで楽ではない。眼鏡、照準眼鏡などの収容嚢の負い帯を小銃用と間違えて装着している人もいるが、それらは素材は厚いが幅が狭い。

写真を見る限り小銃の殆どは皮革製の負い革を装着している。時代的には昭和13年頃から皮革製のものと同じ仕様・方式のキャンバス・ゴム素材のものが出現し、それから推定するに昭和18年半ば頃から上記に挙げたような単なる布製のものが出てきたと思われる。 負い革は射撃の際に左腕に搦め小銃を3点で支えることにも使用出来る。しかし日本軍ではこの方式は採用してなかったようで、捕虜になった兵士に据銃させたアメリカの報告では日本兵の姿勢は「負い革は使用しないようだが、これは時間を省くので実戦的。長い間良く訓練されていたようだ。」というコメントが付いていた。

 新発見 4:革帯の真贋

複製品市場で一番作り易く、また作り難いものが、「革帯」であると思う。まず言葉の問題から、「革帯」か「帯革」かと言う議論があろう。聴い ていると、「帯革」(タイカク)呼ぶ人が殆どである。私は反対の「革帯」(カクタイ)であったろうと推察する。
その理由は、明治の前後、洋式の軍装を採用し出した頃、布の帯と比較するため、「革」を付け「かわおび」と言い始めたのではないか。同じよ うに「かわくつ」「かわてぶくろ」「かわかばん」と言う。だから語源は「かわおび」でそれを訓読みせず音読みして「かくたい」としたとみてる。また九九式小銃属品の表に図と共に縦書きで「革帯」とはっきり書かれている。従って「革帯」が正式であることに間違いない。これを反対に言う 言い方は、多分軍隊内部で兵士達が隠語的に逆言葉として使い始めてで、この言い方も一般的であったと思う。昔ある方に「どっちが正しい のですか。」と聞いたところ、「どちらでもいいんですよ。」という答えが帰ってきた。
さてこの革帯だが、工廠刻印・製作年の入っている実物、「昭十四」、名古屋印があり、長さ103センチ、幅44ミリ、厚さ5ミリ、重量220グラム、穴12個、金具(びじょう・バックル)は真鍮製でその太さ5ミリ。当時の各国の同じものに比較してまったく遜色の無い品質である。びじょう革は一個で裏が二重に合わせて縫い合わされている。穴の間隔は60センチから93センチまで。現存するものは殆どがこれと同じ仕様である。しかし多くは革の色が黒ずんでおり、元のままの赤茶色の柔らかいものはあまりない。それどころか、革帯はいろんな装具の中で一番まともなものが残っていない装具であることに間違いない。従って、戦後数多くの複製品が作られた。中田忠夫さんのお話でも最初の複製品は30年くらい以前に日本製を、最近は中国製をと言っておられるが、最初にどうして、どのようなものを製作したか覚えてないとのこと。アメリカでも実物の金具を利用し個人が自作したものがたまに見られる。もっとも昭和13年頃までの日本の皮革装具はアメリカ産原皮を使用していたので材料的には問題ないが。これらは寸法的にも実物に合わせてある。最近は沖縄基地の工事現場で発見された多量の実物金具を持ってきて製作した複製品の広告も見た。浅草フキヤのものは皮革に色が付いてないが、金具にニッケルメッキしてあり、金具の太さは爪以外良い。 価格は3000円。日本の複製品はなぜか先の実物より長く108から115センチあり、それらのびじょう革が二重合わせでない。また複製品は帯の先端の革の落とし方が違う、金具特に、爪が細い。また皮革の品質から見ると、はるかに実物に及ばず厚さもない。これは皮革のなめし加工の差で、価格的にも実物は現在の3000円以上は掛かっていたと推定する。従って実物に比べると複製品がいまひとつであることは否めない。複製品の穴の数はすべてが12個だがこの穴の数と長さに関してフキヤのおやじさんも最初になぜこのように製作したか知らないとの こと。
一番短くした状態、腰回り60センチというのはどのような兵士であっただろうか。 被服では身長157.6センチ以下の6号、靴の寸法で22.8センチの一番小柄な兵士としても細すぎる。ちなみにこの一番小さい寸法の装具の整備標準率は0.5%だった。

ここで疑問ひとつ。長さ、太さ、厚さ、皮革の品質、金具(びじょう)の太さすべてクリアにしていて、これは確実に実物であると確信するが、穴が7個しか無いものがある。びじょう革の合わせが二重でなく、金具は真鍮にメッキしてある。これは複製品か、実物でこのようなものも存在し たのか。これに答えてくれる方がおられたら教えて下さい。
このものの寸法は長さ103センチ、幅43ミリ、厚さ5ミリ、重量195グラム。穴の間隔は75センチから96センチ。外国のものなら最長が96センチということはない。また刻印類はみられない。20年前にアメリカのガンショーで手に入れた。同じ仕様の、様々な程度のものを少なくとも3点は見たことがあるのだが。

ちなみにゴム引きキャンバスの製品は、ゴムが外側にくるものとキャンバスが外側にくるもの2種類が、他の装具と同じように見られる。これらは長さが110センチ、幅42ミリ、厚さ5ミリ、重量は300グラム内外で穴が14個ある。穴の間隔は75センチから104センチ。びじょう金具は皮革製のものは真鍮と鉄であるが、ゴム引きキャンバスは鉄を黒く塗った太さ5ミリのものしか見ない。この素材の帯はアメリカで俗に「ジャングルベルト」と呼ばれ、その素材の質の評価は高い。兵士は南方では軽装になり、短いものでよさそうだがこのような長い寸法にしたのはなぜだろう。私はインド系などの大柄な兵士にも支給するため、と推察している。工廠関係の書類ではこれらを製作した会社と見られるのは日本タイヤ、横浜ゴム、東海ゴム、国華工業など。
ゴム引きキャンバスの製品は程度の良いものが少ない。日米複製品業界の次の課題はこの種の製品であることに間違いない。

もう一つの疑問。このゴム引きキャンバス製品の110センチ、穴14個の皮革製の帯は存在したのでしょうか。確かに防寒具の上からに装着するには103センチは短いとも、考えられるのですが。 同じく、九九式小銃取り扱いの図にある「革帯」の寸法は、「巾十八(不明)、厚三粍、 長一米三十糎、穴数十二」とあり、しかもこの図のびじょう革は2個ある。このような革帯をまた見たことがあるでしょうか。長さの130センチは 103センチ(現存する実物の長さ)の間違いかと何度も見るが、「一米三十糎」とある。

お恥ずかしいことに、一番基本的な装具「革帯」ひとつとってもまだまだ知らないことばかりです。

 新発見 3:小銃用負い革・負い紐

日本の小銃用の負い革はあまり種類が多く無く、他国のものとの違いで一番特徴的なことは、びじょう・金具を糸縫いしてなく、革の間に挟んであり、取り外しが出来る、と言うことだ。また素材的なものでは革以外に1930年代後半からキャンバスのみとキャンバスとゴムの組合せも ものが、また規格的には同じ頃九九式小銃用に幅広のものに出現した、ということであろう。
寸法的には歩兵銃は基本的に二種類で、幅が3センチ、皮の全長110センチ、厚さ3ミリのもの。幅が4センチ、皮の全長105センチ、厚さ4ミリのものである。日本の小銃は基本的には口径6.5ミリと同7.7ミリで、前者の負い革環が幅35ミリで、後者が40ミリなので、幅の狭いもの が三八系の小銃に、幅の広いものが九九式小銃にということは容易に推察出来よう。しかし実際に目にする小銃の負い革はこのようになって ないことも多い。幅の狭い負い革は、びじょうの孔が、真ん中に近く3個、下に近く5個ある。下に近い孔が、三八式歩兵銃(環の間約70セン チ)に使われたもので、上の穴が同騎兵銃(環の間約55センチ)に使われたものか、もしくは歩兵銃を肩掛けすの時か、背負う時かで使い分 けた。ちなみに長くした平均は85センチで短くした平均は76センチである。(騎兵銃用専用負い革は後述する)
幅の広い負い革は孔が連続して10個ある。九九式短小銃は環の距離が60センチ。
金具のびじょうは6.5ミリ系のものはあまりにも細く3ミリ、7.7ミリ系はあまりにも太く6ミリある。。いずれも折り返した革に挟まれており、遊び 革で押さえられ、これは簡単な仕組みだがめったなことでは外れることは無い優れた設計だ。遊び革は幅の細いものは一個、幅の広いものは 二個ある。これらは図にもそうなっているので間違いないと思う。革の厚さは6.5ミリ系が3ミリ、7.7ミリ用は4ミリで重量は前者が100グラ ム、後者は175グラムである。小銃の重量はあまり差はないので、三八式は中国戦線でその負い革が切れ易かったので、九九式では思い 切ってこのような太く厚く丈夫なものになったのではないか。
びじょう側は銃床部にきて、反対の調整出来ない側は「つづみぼたん」(ご存知のように古楽器の「鼓」に形が似ていることからこの呼び名が付いた)を革の切れ目に挿入し固定する。金具は素材的に6.5ミリ系は鉄、真鍮、アルミで、7.7ミリは鉄(黒塗り)である。
なぜ糸止めをしてなかったのだろう。糸で縫ったところは切れやすい、また痛んでも革さえ調達すれば金具を利用して、簡単に自作出来る、などの理由からであろう。この金具の方針はゴム引きキャンバスの新素材にもそのまま採用されている。びじょうを通す縦長の穴が2個あるのも、革の痛みにより移動させるためではないかと推察する。(九九式のものには一個しかない。)

ゴム引きキャンバスの組合せの素材は他の装具の、弾薬盒、帯、銃剣差しなどと同じく、キャンバスが上にきているものと、ゴムが上にきているものの2種が存在する。
布(キャンバス)だけのものは、固定式のびじょうのものは教練銃に装着されているのが多い。両端の金具がフック式の厚手のものは後期の ジャングル用と言われており貴重な存在である。 今まで私が見たことのないのは、キャンバス・ゴム製でゴムが上にきた幅の狭い(6.5ミリ小銃用)の実物である。

今回、報告する例は、キャンバスが表面で内部がゴムの幅広だが「50年以上も経っているのに、何でこんなに出来たままの状態になってい るのか」という実物である。知らない人が見たら、これは絶対に最近の作品と思うに違いない。金具は鉄に黒塗料仕上げだが、錆など一切なく、ゴムは柔らかく、表面のキャンバスにも一切痛みは無い。遊び革のみが本物の皮革だがこれもきらきらしている。筆者も、これを最初に一目見た際に複製品と判定した。しかし、「この素材は複製品を製造して割が合うのか」という疑問から手に取ったら、裏に「十 九 昭」の文字。
さて、このキャンバス・ゴムの製品は硬化し、ひび割れて、変色・斑になっているものが殆どである。どうしてこのような完璧な状態で保存出来たのか。冷・暗所に密閉してあったのであろうが、この秘訣をご存じの方がおられたら是非教えていただきたい。

 新発見 2:銃剣差し初期型

「銃剣差し」の研究は比較的良くされており新発見はすでに出てこないように思われる。日本の銃剣は工廠の記録から推定しただけでも三十 年式だけでも840万振、その他を加えると900万振近くあり、これに教練用のものを加えると軽く1000万振以上になり、これら全てに帯に付 ける銃剣差しが存在したであろうから、銃剣差しは1000万個以上はあった。ほとんどが三十年式型でそれだけに種類も多い。革の合わせ 方、縫い方、銃剣止めの帯の形状・長さ、びじょうの寸法・形状などから分類すると数十種はあろう。
今まで、意外に気が付いて無かったのは、皮革製のもので、リベットを使ってない形式のがあるということである。これは恐らく20個に一つ位 の割合で存在しているが、その差は注目されてなかった。指摘すると「あっそうか」というような軽い感じの点であった。しかし私はこのリベット を使用してない実物は、実はある時期以前の古い形ではないかと思う。形状はリベットを使用したものともまったく同じである。リベットはベー スになる部分と型押しした表面を合わせて、糸縫いし、さらにこれらを補強したものである。リベットの無いものは銃剣を止める帯が幅広で、長 いという傾向はある。 これらがなぜ古いかの理由は後弾入の革帯通しにリベットを使用してないものと、使用してあるものが存在し、これも明らかにリベットは新しい ものであるからだ。
皮革製品へのリベット使用は昭和13年(1938)頃、日本の軍備が急速に拡大した頃からのものと推定する。この昭和13年は6・5ミリ実包 なども改良され、先に紹介したように前盒にも前面が合わせのものが出現した。リベットは戦場での実態に合わせ、革の合わせが離れないよ うに強化した設計・加工であろう。
また被服の剣止めが掛かるように上が二股になっているものが全体の80%はあろうが、別に上が一体型のものが存在し、これら全てはリベ ットが使われている。上が一体型のものにも2種類あり、上が大きくて真ん中が空いているのと、上が小さく空いていないものがある。これら一 体型は革帯の中で前後に自由に動かすことが出来るので、車両の中で便利で、車両の操縦者・添乗者用と言われている。ゴム引きキャンバ スの素材のものでは逆に上が一体型の方が多く存在するのは、時代と関係があり、ゴム引きキャンバスの出現と車両の普及の時期的相関 があろう。これらにもすべてリベットが使われており、リベットがある時からのものであることを証明している。
リベットの素材は真鍮・鉄などである。こちらの銃剣研究家の中川和人氏は剣止めの帯のびじょう(バックル)の素材でアルミ製で形が正方形 に近いものが、その中でも一番古いものではないかとしている。びじょうの素材は鉄・真鍮などが一般的でその形状も正方形に近いものから 縦長のものまで寸法も多種ある。

もしリベットを使用してない糸縫いのみの銃剣差しを見たら、それらは推定昭和13年以前の旧型である可能性がある、というのが今回のレポ ートの要旨である。

 新発見 1:騎兵銃用弾薬盒

1930年代になり騎兵の任務は徐々に車両にとって替わられ、騎兵の使用した騎兵銃は車両、通信その他歩兵以外の兵科に広く使用され た。例えば拙書「中国戦線の日本兵」22ページ、1937年7月天清線駅の守備兵と応援の兵士の写真がある。守備兵は騎兵銃を装備し革 帯にはやや長めの前盒を装着している。これが騎兵銃用の弾薬盒で、大別し3種が見られる。

1)負い革、外部蓋の下に2種の整備用道具、内部真ん中に油缶とネジ回し、それぞれが附属するもの
2)前者の負い革の無いもの
3)さら に外部の道具を省いたもの
いずれも内部が3つに分かれており、歩兵一般のものに比べると真ん中の油缶が入る分のみ左右が約2センチ長い。負い革のあるものは明 らかに本来の騎兵が馬上で装着したもで、その後のものは馬に乗らずに騎兵銃と使用する兵科用に作られたものであろう。
真ん中に入る油缶は、側面が弾薬盒と同じ逆台形なのが特色である。 金属製とベークライト製の2種が、蓋が一つと二つと2種ある。蓋を二つにしたのは油を挿入する際のし易さを考えてで内部は一体である。油 は30グラム入る。油缶自体の重量は金属が68グラム、ベークライトは28グラムである。ベークの質は良く何十年もたってるが変質してない。 蓋の下に入れた道具は写真の通り手入れ棒と洗管であると推察する。長さ、太さ、使用上の理由からだ。洗頭(ブラシ)を入れたという説もあ るがブラシが潰れてしまう。洗管(長さ8センチ)はサク杖に付け、ギザギザの部分に布(パッチ)を搦めて銃身の内部を拭うに使う。ライフルの 溝に添って頭が回転する仕組み。
いずれも弾薬は30発いりの箱が二つ計60発入る。騎兵銃は三八系の6・5ミリしかなかったので当然6・5ミリ弾が入れられたのであろう。

 
今回は革製でなくてゴムキャンバスのものを見たので、その実物を報告したい。これは内部の仕切に油管のみが入る形で、蓋裏に「昭十八」 とある。蓋止めが革である以外は表にキャンバスの出る素材で、蓋、革帯通し、蓋止めなどは本体にリベット止めしてある。アメリカで見付けた ものであるが、裏に焼き印で「高津」とあるのが、あまり普通でない。 まさか京都の「高津衣装」の小道具がここまで流れてきたとも思えないが、読者に何かご意見があればお聞かせ下さい。 もう一つの実物は蓋裏に「仁川工廠」のスタンプが押されているもの。これは油缶とネジ回しが入るがその他の道具は入らない形式。革の品 質はあまり高くない。
手入れ棒(長さ13・8センチ)だが、この短い形式のものは実物が大変少なくあまり見ない。しかし騎兵銃用の弾薬盒には寸法的にこれしか 考えられない。明治44年(1911)の記録では「補足サク杖」として十万本余作られたのが、これであろうか。
なお、前盒は一般的に6・5ミリ実包を紙箱から出して入れると左右に各々装弾子4個づつ計40発は収容出来る。