火縄銃



新発見 1:騎兵銃用弾薬盒

1930年代になり騎兵の任務は徐々に車両にとって替わられ、騎兵の使用した騎兵銃は車両、通信その他歩兵以外の兵科に広く使用され た。例えば拙書「中国戦線の日本兵」22ページ、1937年7月天清線駅の守備兵と応援の兵士の写真がある。守備兵は騎兵銃を装備し革 帯にはやや長めの前盒を装着している。これが騎兵銃用の弾薬盒で、大別し3種が見られる。

1)負い革、外部蓋の下に2種の整備用道具、内部真ん中に油缶とネジ回し、それぞれが附属するもの
2)前者の負い革の無いもの
3)さら に外部の道具を省いたもの
いずれも内部が3つに分かれており、歩兵一般のものに比べると真ん中の油缶が入る分のみ左右が約2センチ長い。負い革のあるものは明 らかに本来の騎兵が馬上で装着したもで、その後のものは馬に乗らずに騎兵銃と使用する兵科用に作られたものであろう。
真ん中に入る油缶は、側面が弾薬盒と同じ逆台形なのが特色である。 金属製とベークライト製の2種が、蓋が一つと二つと2種ある。蓋を二つにしたのは油を挿入する際のし易さを考えてで内部は一体である。油 は30グラム入る。油缶自体の重量は金属が68グラム、ベークライトは28グラムである。ベークの質は良く何十年もたってるが変質してない。 蓋の下に入れた道具は写真の通り手入れ棒と洗管であると推察する。長さ、太さ、使用上の理由からだ。洗頭(ブラシ)を入れたという説もあ るがブラシが潰れてしまう。洗管(長さ8センチ)はサク杖に付け、ギザギザの部分に布(パッチ)を搦めて銃身の内部を拭うに使う。ライフルの 溝に添って頭が回転する仕組み。
いずれも弾薬は30発いりの箱が二つ計60発入る。騎兵銃は三八系の6・5ミリしかなかったので当然6・5ミリ弾が入れられたのであろう。

 
今回は革製でなくてゴムキャンバスのものを見たので、その実物を報告したい。これは内部の仕切に油管のみが入る形で、蓋裏に「昭十八」 とある。蓋止めが革である以外は表にキャンバスの出る素材で、蓋、革帯通し、蓋止めなどは本体にリベット止めしてある。アメリカで見付けた ものであるが、裏に焼き印で「高津」とあるのが、あまり普通でない。 まさか京都の「高津衣装」の小道具がここまで流れてきたとも思えないが、読者に何かご意見があればお聞かせ下さい。 もう一つの実物は蓋裏に「仁川工廠」のスタンプが押されているもの。これは油缶とネジ回しが入るがその他の道具は入らない形式。革の品 質はあまり高くない。
手入れ棒(長さ13・8センチ)だが、この短い形式のものは実物が大変少なくあまり見ない。しかし騎兵銃用の弾薬盒には寸法的にこれしか 考えられない。明治44年(1911)の記録では「補足サク杖」として十万本余作られたのが、これであろうか。
なお、前盒は一般的に6・5ミリ実包を紙箱から出して入れると左右に各々装弾子4個づつ計40発は収容出来る。

20、日本軍の将校拳銃収容嚢

1、将校の拳銃

将校の拳銃は自前で、様々な種類があった。銃砲店や偕行社で購入したが、ときは大体、満州事変から日中戦争にかけて帝国日本軍将校は拳銃を下げるようになった。兵器と言うよりは、護身用、自決用であったそうだ。航空機操縦士はドイツ軍のそれをまねてごく小型な拳銃を背中に付けた。将校が拳銃を購入するようになり困った問題は、国内生産では間に合わず、輸入もままならなかったことだ。スペイン製(スペインは中立国だったので)アストラなどが多く見られるが、コルトポケット、ブローニングなどが多かった。熊本で震災があり被災した家屋から少なからず帝国軍人が使用していた拳銃が屋根裏などから発見された。熊本は軍都であったので、退役した軍人や終戦時に持ち帰られたのだろう。
将校の拳銃が私物であったと言う事実を知らない人は多い。
汎用拳銃の収容嚢

十四年式後期型防水帆布製
頑丈な造りだ

十四年式前期型 名前が入っていたので将校が購入したものだろう

二十六年式拳銃収容嚢、これもハードフラップ

 

2、 収容嚢の製作

従ってほとんどの将校用拳銃はその収容嚢は持ち主の将校がカバン屋、靴屋に特注した。
勿論、大量生産はできないので、銃砲店、偕行社で販売していたものも、手作りで、大体の
形状は決まっていたが、製造する側も実物を観ず、生産したので、細かいところが異なる。
また価格の問題で使う皮革の質や作りが異なる。
武器学校の資料館ではできるだけ多くの異なった収容嚢を収集展示している。

3、 南部小型拳銃(左)とブローニング拳銃の収容嚢

形状は似ているが、大きさが異なる。米国で実物を入れてみたがブローニング拳銃は
左の収容嚢(ホルスター)には入らなかった。
この収容嚢は仕上げの良いイボ皮を使い、作り(縫い)も丁寧だ。フラップを開けると
7mm弾15発入りの紙箱が治まる袋があり、予備弾倉はない。帯にして一発ずつ入れる弾帯方式(南部大型の方式)のも多い。

留め具も丁寧だ。

 

下はブローニング拳銃の留め具と横に入れる予備弾倉嚢

(この項以上)

19、銃の機構発展は「板ばね」から「コイルスプリング」が転機

はじめに)

19世紀後半、世界では近代小銃、機関銃、自動銃、自動拳銃などが爆発的に進歩した。
その原因は「コイルスプリング」の採用である。
それ以前、19世紀前半の各種銃器はライフルを刻み、後装式などに各段の性能の進歩が見られたが、火縄銃、火打ち式銃、管打ち銃などの機関部と同じく板ばねを使用していた。19世紀前半の銃器も外火式のハンマーで発火させる方式で、板ばねを使用していた。

image001圧縮コイルスプリングの例

火縄銃や、火打ち式の一部にコイルにしたばねを使用しているがこれらは基本的に板ばねをコイル状に巻いた巻ばねである。(時計も同様)
銃器にはバネは無くてはならない部品であり、日本の火縄銃はバネを使うことで16世紀後半、当時の世界水準を越えた性能をしめした。

なぜ、板ばねがコイルスプリングに変化したか、各種のばねに関する本にも基本的な理由は記されていることは少ない。しかし銃だけでなく多くの機械機構はコイルスプリング出現で多くの目に見える進化があった。
コイルスプリングが出現するまで、銃は、板ばねは通常2-3個が使用され、外ハンマー式であった。
(セットトリガーはこれらの銃の機構にも使用されていた)

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国産ゲベール銃のロック

板バネを2個使用しており、地板は強固でないと保持できない 堺製でこの例は良く製造されたもので、国産のこの種のロックはバネも地板も弱い

板ばねは、強い鉄の外板が必要で、バネの端をこれにかませて組み立てるので、
分解、組み立てが困難であり、板ばねも折れやすい。修理も難しい。
また、板ばねは強さの計測が難しく、その性能の維持にも限界がある。
一方コイルスプリングは太さ、巻きの間隔などでその強度が計算できた。
また機構を縦一直線にすることで、銃器の扱いをたやすくした。

1、コイルスプリングの採用

コイルスプリングが採用されると、小銃ではこう棹が直線になった。
機関銃、自動銃、自動拳銃、その他、近代的な銃砲はコイルスプリングの
採用による開発である。19世紀後半の各種の上記の兵器は修理や清掃のための分解や組み立てに飛躍的に手間がかからなくなったわけではない。
20世紀になり、南部 麒次郎氏の開発による、三八式小銃6.5㎜がその嚆矢であろう。

コイルスプリングと板ばねの差は、先に述べたようにコイルスプリングはその強さが計算し易い、科学的な撃発の強さ、火薬の燃焼に対応できた。板ばねを使用したロック(撃発機構)の場合は複数のバネが必要であり、それらの吊りの関係を調整することに経験的な作業が必要であった。
耐久性、驚くことにコイルスプリングはかなりの期間、圧縮しておいてもへたることが少ない。撃発状態にした待機状態、箱型弾倉に弾薬を充填した状態でもかなりの期間もつ。
コイルスプリングは整備、交還が楽で、板ばねは力、道具が必要である。

コイルスプリング開発は産業革命による鉄鋼の質向上と加工技術の進歩により
出現したのであろう。最初は
19世紀の半ばごろ出たレバーアクション銃の筒状の弾倉に採用されている。

2、二十二年式小銃の例

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歩兵銃と騎兵銃

恐らく、日本では二十二年式小銃の機構はコイルスプリング採用の初めての例
だろう。
同小銃はハンガリー帝国のクロパシェク11mmを元にしているが以下の
特徴があった。日本では制定後、歩兵銃13万挺、騎兵銃2万挺が生産され、日本騎兵の菱明期のものである。
特徴
イ、筒状〈チューブ弾倉〉の採用
ロ、メトフォード右回り4条ライフル
ハ、無縁火薬(フランスのB火薬)
ニ、短い銃に短い銃剣
ホ、ボルト(遊底)にコイルスプリングを採用
へ、披甲(フルメタルジャケット)弾採用
などである。

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二十二年式の遊底(ボルト)

遊底は過渡期のもので、バネは細く、短い60mm、ただしかなり強い力が出ている。ボルトの全長は156mmで、40mmのボルトヘッドがある。
遊底を引くとわずかに10mmしか後退しないが、その力は強い。故障し易いだろう。
ボルトヘッドを離脱させるには、村田銃のこう棹と同じくネジ止めされた留め具を外す必要がある。撃針はボルトヘッドのために30mmと長い。

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十三・十八年式村田銃と同じく遊底のネジで止めた留め具を外し、後方に引くと抜ける

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ボルトヘッドは排夾口から出し、排夾子と排外子が附属している

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遊底の給油口から見えるコイルスプリングの一部、後のモーゼルタイプ小銃に比較すると細い

3、その後の開発

二十二年式小銃は銃剣を付けた状態で、のちの三十年式、三八式に比較する20㎝ほど短い。白兵戦での銃剣の扱いは相手の懐に飛び込むと言う、日本古来武術のひとつの技を利用していたものだろう。

その後、各国でコイルスプリングを使用したモーゼル型近代小銃の開発が行われ、三十年式、モーゼル、スプリングフィールド、エンフィールド、モシンナガンなどの小銃が出現した。以上の小銃の全長は大体130㎝である。
日本でも日露戦争、100万人動員体制実現のため、小銃を長くした。
(長い銃と銃剣で白兵戦の優位性を保つため)

そして、
機関銃・自動銃の開発にコイルスプリングは無くてはならないもので、
日本は明治三十年(1898)に保式機関銃を制定した。欧州では1980年ころよりマキシム、ホチキス等の開発者が機関銃を開発していたが、その背景には
無煙火薬とコイルスプリング(巻ばね)の出現が重要な要素として挙げられる。
機関銃の次には自動拳銃そして自動銃とコイルスプリングは深い因果関係がある。

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軽機関銃では稼働するためのスプリングと箱型弾倉のスプリングがコイル式だった。
大型兵器では大砲の駐退機構にも採用され速射砲の出現に繋がった。

協力と参考文献
協力 陸上自衛隊武器学校
小玉 正雄著 「ばねのおはなし」日本規格協会
渡辺 彬、武田 定彦著 「ばねの基礎」パワー社

(この項以上)

18、教練・学生競技に使用された銃器

戦前、日本は軍縮期に余剰となった陸軍将校を学校教練制度に採用することになった。予算は陸軍省でなく文部省の管理で予算も文部省が出した。
制度は宇垣軍縮により始められ、中学以上の各種学校全てで行われ、週2回以上の軍事訓練で、当然射撃も含まれていた。学校で軍事教練を受けた者は
徴兵制が一年間に短縮され、勤労者数増加にも貢献した。
帝国陸軍は出向する将校を教育が上手である、人格者であると言う基準で選び、後に「教練教官にいじめられた話」が多く残されたが、戦後の左翼ジャーナリストの仕業であろう。
日本ライフル射撃協会の坂本会長の話によれば競技にはすべて三八式歩兵銃が使用され、距離は300mであったそうだ。

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ただし、日本には明治以降の余剰兵器、村田銃、村田二十二年式などがあったので、それらも専門学校、中学校など低学年の生徒には使用された。
日露戦争で60万挺生産された三十年式小銃は輸出され国内にはなかったようで、教練に使われた記録はない。
以前「慶応義塾」と印を押された三十年式銃剣を観たことがあるが、大学においては三八式初期型の銃が払い下げられたようだ。しかしそれらも第二次世界大戦が厳しい状況になると回収されビルマなどに派遣される新しい部隊に
支給されたと言う。

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尾張中学

これらの写真は、日本ライフル射撃協会のものと、尾張中学卒業アルバムからのものが入っている。尾張中学の卒業アルバムには多くの教練の写真があった。
米国でファイザー社法務に努めていた日本教練研究科に進呈した。米国では目的をもって研究した材料は長く、継続して保存されるからだ。

射撃訓練は基本である。
基本を叩きこまれた当時の日本人若者はある程度の能力を持つ射手であったはずだ。学校には銃器庫が設けられ、絶えず銃器の整備や手入れも訓練された。

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尾張中学

大学には昭和10年頃から「射撃部」が創設されやがて全国大会が行われるようになった。

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各写真には軍事教練の教官であった陸軍士官が真ん中にいるがいずれも
立派な軍人である。

競技の射撃姿勢は伏射で、地面に厚いゴザを引きマットとした。

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(この項以上)

17、大日本帝国軍が残した武道『銃剣道』

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はじめに)日本武道協会のれっきとしたメンバーであり、武道館演武にも出場する。競技であり、帝国日本軍の小銃に銃剣を付けた長さ166㎝の木銃を使う。
歴史)
日本の銃剣術は高島 秋帆が紹介した西洋軍学にあったが、正式には明治の
軍備化のなかで形成された。個人的には最も軍国主義的な武道だと思うが
今でも愛好者が存在すると言うのは驚きだ。また突きだけが攻撃と言うのも
怖い気がする。
明治初期、フランス式の陸軍軍備を進すめていた頃、欧州の形式が伝わったが、
やがて日本古来の「槍術」を取り入れた方式と防具が作られた。
初期の村田銃銃剣はエンフィールド銃などのヤタガンの影響を受けた両刃の刀剣式大型のものだ。(銃剣の項参考)

村田二十二年式の銃剣術)
二十二年式村田銃は短い。銃剣も短剣と呼んでよいほど短い。従って、槍で言えば短槍の方式になろう。銃身長が後の三十年式より9㎝くらい、銃剣の刃長は29㎝ほどで三十年式銃剣刃長より15㎝短い。従って銃剣装着の状態で約25㎝短い。
しかも三十年式採用まで8年間と言う短期間しか使われてない。
米国でドナルド・マルソン大佐にこれらを見せて質問した。「どうしてこんなに
短い方式を採用したのか?」と。彼は即座に兵の錬度が高く、相手の懐に飛び込んで突くことができた、と言う解答だった。なるほど、日露戦争100万人動員体制を前に長い小銃、長い銃剣を大柄なロシア兵に必要として改訂したのかと納得した。

軍の銃剣術)

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大日本帝国軍の銃剣術は相当厳しい訓練であったようだ。その防具を付け、自信満々な兵の訓練姿は「ライフ誌」1939年7月号に掲載されている。
(同誌は私のライブラリーにあるが追って掲載する)

下は完全装備で布団の的を実銃で突く訓練、鉄帽の形式に注目

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訓練に使ったのは銃剣を付けた三十年式、三八式小銃の全長166㎝の木銃だ。
同じものが各種の学校教練でも使われていたので様々な材質のものが以前は
多く見られた。

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特殊な防具
木銃の先にはタンポと言われる皮革の被いが装着されていた。
この訓練は部隊対抗競技などとして広く行われたのであろう。

木銃)
現存する大戦前・中の銃剣術用木銃の例
上のタンポは皮革製で下はゴムだ。

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(この項以上)

16、世界に流れた日本小銃とチェコからの「サイアミーズライフル」

① 界各国への三八式小銃輸出
現在、第二次大戦までの日本の小銃は日本国内では無稼働で係員に苦労もと、各地自衛隊資料館に展示されているだけだ。おそらく全部合わせ30もないだろう。(以前、中国から輸入、販売されたものは含まず。)
アメリカは第二次世界大戦の戦闘で、そして戦後も記念品として持ち帰られたので、約2万挺は下らないだろう数量があると筆者は推定した。
戦後、アジア各地に残された銃は各国独立戦争や朝鮮戦争に使われた。
ベトナム戦争でも一部米軍に鹵獲されている。
実は様々な記録には、三十年式小銃、三八式歩兵銃、騎兵銃は正式に英国、ロシア、中国国民政府と各軍閥、タイ国などに輸出されていた。それら数量も、三十年式を含み分からない部分が多い。(メキシコ用も製造したが開いてが債務不履行になり輸出はしていない)
英国へは第一次大戦中、ロシアへも赤色革命に対抗して10年前は敵だった白系ロシア向けだった。筆者の推定では総計100万挺を下回らない数になった。

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「Military Rifles of Japan」より三八式を担ぎ行軍するロシア兵

英国ではエンフィールド工廠で日本の6.5㎜弾薬を製造していた。戦後は中東の国々に渡ったと言われている。ロシアはソ連建国後、周辺国に。今でもフィンランドには「三八式小銃愛好会」が存在し、最近までコンタクトがあった。
一方、九九式小銃は大戦が始まってからの生産で輸出はされてない。

②ロサンゼルスからの情報
ロサンゼルスの収集・研究家H氏がサイアミーズ(タイ国)三八式小銃を手に入れたら、以下のような紙が銃床の中にあったそうだ。サイアミーズライフルは6.5㎜ではない。8㎜、30・06、7.92㎜などと様々な実包用に改造されている。

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この紙には1934年8月31日で、チェコ語(左)とタイ語(右)になった、射撃証明、品質証明と引き渡し状のようなものだ。距離は100m、5発射撃していた。(日本の小銃は小石川でも東洋工業でも300m射撃試験して合格しないと
軍に引き渡せなかった)
H氏はアメリカにはタイ語が分からず、アラビア文字としていた人がいたと書いてあった。
この銃はシリアルナンバー「09016」で極初期の番号だ。
弾痕サイズから推定するに角は7x10㎝くらい両横のサインを入れ30x40㎝四方くらいのものではないか?

③日本のタイ国への武器輸出
「日本の軍用銃と装具」に紹介した。タイ国は日本の良い顧客だった。日本の武器兵器を信頼していたようだ。泰平商会も熱心だったのだろう。九五式軽戦車は50両輸出した。今だに国防省の玄関に展示してあるし、トヨタの人の話では同国は古い武器も捨てず多くを保管してあるそうだ。最近までM4戦車を暴動鎮圧に使用していたくらいだから古くても兵器は兵器、国内用に使うにはこれで十分という「消極的先進性」がある。
日本は大正14年(1925)から4年間、三八式小銃43100挺、三十年式銃剣
48199振、そして弾薬蓋など備品約20000万個を輸出した。
銃剣の数が5000振多い理由は分からないが砲兵などにも装備させたからか。それ以前、有名な三十五年式小銃はタイ国が輸入した。
この4年間で小銃の輸出が終わったのは、小石川のストックを輸出し、その後、
名古屋で生産が始まると、満州事変など輸出の余地がなくなったのではないか。
従ってタイ国には様々なサイアミーズライフルが存在した。


「Military Rifles of Japan」より
上は8㎜口径
三十年式と三八式(下は私が所持していたものと同じ形式30・06口径)

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「Military Rifles of Japan」より

③私の所持していたサイアミーズライフル
これも画像を「日本の軍用銃」に紹介した。九九式の改造に見えるが三八式の文字が残っている。

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全長は109㎝と20㎝、短くしてある。重量は3.5㎏だ。シリアルナンバーは
オ77214でこれは大戦直前のもので、タイのナンバーは83-2512だった。戦後、日本軍が置いて行った装具の可能性がある。
タイ国では「六六式」としていたらしい。問題は、元の6.5mよりはるかに
大きな米軍実包30.06用に改造してある点だ。そのために排莢口が大きくなり、薬室も大きく、さらに銃身は短い、三八式と刻印された部分まで広げてある。
あまり格好の良いものではないし、更に、銃と弾薬のバランスが問題で、射撃性能も限界があったかもしれない。

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米軍の帆布製のスリングが付いていた。

④なぜチェコか?
第一次大戦後、チェコのブレノには多くの中古兵器が集まり、再生していろんな地域や国に販売していた。日本もブレノ製のモーゼル銃を購入していた。
だが、私が推定するにサイアミーズライフルは元々チェコからきたのではないか?と言う事実だ。

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(シベリア出兵、日本軍の後ろに外国兵が続いている)

これには「シベリア出兵」が関係ある。
1918年から22年まで日本とアメリカはロシア赤色革命を阻止するための協議をしてシベリアに出兵した。日本軍は73000人がシベリアに渡った。
一方、シベリアには「チェコ軍団」がいた。この由来は何を読んでも良く理解できないが、赤色革命が進むにつれて、チェコ人がシベリアに残される形になったのだった。
推定するに、第一次大戦のロシア軍に加担した兵力、雇われた兵力などではなかろうか。(ロシア軍のチェコ人捕虜35000人が主体とも言われている)
帝国日本軍のシベリア出兵の理由のひとつも「チェコ軍団」の救出と言うものであった。「チェコ軍団」は同じく赤色革命を阻止したかったフランスのジャナン将軍の指揮下にあり、フランス政府を通じて日本に武器供給を要望した。
二十六年式拳銃1000挺は正式に文書に残っているが、シベリアに送られ、代金は駐日フランス大使館が支払った。(収容嚢は500個しか購入してない)
白色ロシアに輸出された三八式小銃、歩兵銃、騎兵銃は、統一された兵器装備のない「チェコ軍団」に・・・と言うことは自然の成り行きだ。
「チェコ軍団」はボリシヴィキと対立した象徴的存在だったからだ。

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「Military Rifles of Japan」よりロシア兵が三八騎兵銃をと記してあるが、帽子、プッターなどからチェコ兵ではないか。
結果、ソ連が誕生して、出兵が中止なると、チェコ軍団は海路、故郷であるチェコに数年ぶりにほとんど全員が帰還できた。(チェコには日本に感謝する文書が少なからずあるそうだ。)帰還してチェコ軍団は武装解除されなかっただろう。
従って数万挺の日本の小銃がチェコに渡った。
その後の「プラハの春」のことを考えると歴史は皮肉なものだ。

⑤サイアミーズライフルの一種はチェコ軍が持ち帰ったものではないか?
これが私の推定だ。
数万の兵力でほとんどが軽武装だから三八式小銃(日本はすでに中期型、
腔箋4條を採用していたから)は初期型をシベリアに送ったと考えられる。
「チェコ軍団」帰還に関しては少なくとも数万挺がチェコに持ち帰られた。
それらを、当時ブレノでさかんに造っていたモーゼル実包銃7.92㎜にチェコで
改造し、それをタイ国に輸出したのではないか。H氏の銃床に入っていた紙はその引き渡しの証明であった可能性がある。

私の偏見かもしれないが、サイアミーズライフルの仕上げは良くできている
6.5㎜を他の口径に改造するのは大変な作業だ。弾倉部分、薬室、銃腔、そして
照準器の作業だ。タイ国の工業水準、これが戦前でも戦後直後でも、これほど
までして改造する必要があったのか?と言うのが疑問だからだ。
名銃、三八式小銃をいじる意味は何だったのだろう。
チェコ工廠には商品の価値を高めると言う意義はあっただろうが。
またタイ国に日本から直接輸出された三八式小銃4万挺はどうなったか、果たしてどこかに三十五年式のようにそのままの姿で残されているのか?
改造されてしまったのか?
謎は深まるばかりである。
(この項以上)
参考文献:Military Rifles of Japan
By Fred L. Honeycutt ,JR and F.Patt Anthony

15、日本小火器弾薬発展表

銃が先か?弾薬が先か?論理的に言えば、目的に最適な弾薬があり、それに合致した

銃がある、と言うのが正論であると考えられる。現代ではAK47(7.62mmx39)を銃本体はほとんどそのままにしてAK74(5.45×39)に変換したケースがある。帝国日本でも6.5㎜弾を7.7㎜弾に拡大した九九式長小銃を開発したが、結果九九式小銃は機構、銃剣などは
同じものにしても短小銃が主流だった。下、日本の6.5㎜弾

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話はもどり日本銃砲史上、江戸期、小銃の目的は命中率であり、それは戦闘のためと言うより「武道」として重要な要素であった。火縄式がずっと使われていた理由の一つだ。
当時の弾丸は直径10㎜ほどから18㎜ほどまでが一般的で、35㎜くらいまでの大大口径も
砲術の重要な一端を成していた。この時代、日本では銃の大きさを言うに弾丸の重さ、「匁」を使用していた。一匁筒は口径10㎜弱、十匁筒は18.2㎜ほどである。当時、欧米では大砲を砲弾重量で分類していた。弾丸の重さを測定すれば使用する黒色火薬の量も判定できるが、銃身の長さなどで別な計算式がいる。1886年前後の混乱期には世界各種の銃器が輸入されたが、主流はミニエ式、スナイドル式の.58口径(14.66㎜)弾だった。明治政府はこれに統一し、西南戦争までに弾薬製造機を輸入していた。(洋式銃の項で述べているが、
.58口径とは言え、エンフィールド、スプリングフィールド、レミントンなど多くの製造があり、口径は.575-.585くらいまで各種存在する。)
明治維新後、約10年後国産銃、村田銃が生まれたが、当初明治十一年式、十三年式は大型の11㎜弾薬だった。フランスの11㎜弾に似ているが互換性はない。明治22年、支那との戦争のため制定された二十二年式は同じくフランスのレベル弾に似ているが互換性はない。上記の村田銃を試射するにはフランスの似た弾薬を使用した。
日露戦争に備え明治三十年に制定された三十年式兵器の弾薬は、小口径6.5mmx51で当時
このような小口径は日本の他はイタリア、スエーデンが採用したのみだった。日本の小火器弾は雷管がボクサー式でなく、内部に打ち金が入り、穴が二つある方式で、殻は使い捨てであった)同じ弾薬でも例えば、日本の6.5㎜、半世紀ばかりの間に変化は幾つか見られた。画像のものは中期くらい、三年式機銃、九六式軽機と共通に使われていたものだ。
装薬、弾丸の形(腔旋が6條用は頭が丸く、4條用は尖頭であり、被甲の裾など)も変化した。このような改修は他国の弾丸でも同じ。

20世紀、世界の小火器弾の本流は7.7㎜クラス、英国の.303,アメリカ30.06(6年は制定年)そしてそれを3対5に拡大したのが、「.50×99」(12.7㎜)、独逸やロシアは7.92㎜を採用した。以上の弾薬は第二次大戦まで広く、小銃、機関銃に使われた。
拳銃弾、短機関銃弾では日本は南部麒次郎氏1902年開発の8㎜x22弾、独逸はパラベラム弾「9㎜x19」、様々な弾薬が出現したが最後まで残ったのが、このパラベラム弾だった。
現在でも日本の警察が保持しているHKM-5短機関銃、自衛隊の拳銃などの弾薬だ。
結果から言うと帝国日本の主流弾薬は日本でしか使えないもので他国と互換性のあるものは少なかった。三十年式、三八式小銃を輸出したので、6.5mm弾は、エンフィールド、フランス、中国の各工廠でも生産された。

世界弾薬史で名が残るのは「ブローニング12.7㎜弾」(地上、車載、艦艇、航空機共通)と「9㎜パラベラム弾」であっただろう。

大戦後北大西洋条約が発足し、各国が共通の弾薬を使用するようになった。所謂NATO
弾は7.62㎜ⅹ51(日本の64式小銃)、5.56㎜x45(日本の89式小銃、ミニミ軽機関銃)
など小銃弾は新しいものが出たが、重機銃弾、拳銃弾は20世紀初頭に開発された上記の2種が今でも使用されているからだ。NATOは1949年、12カ国で発足した北大西洋条約であり、冷戦時、兵器運用の効率性をうたい、現在では約30カ国が参加している。

スイス、スエーデン、日本はNATOには加盟してないが、NATO弾を使用している。

日本小火器弾薬発展表

日本小火器弾薬発展表(クリックで、PDF書類が新しいウィンドウで開きます)

14、帝国日本軍が使った外国製小銃

image001(イ式(上)モ式(下) 「日本の軍用銃と装具」より)

1、 イ式小銃

拙著「日本の軍用銃と装具」を執筆中、1990年代初頭に、元陸軍技術本部の伊藤 愼吉氏からお話を聴く機会があった。伊藤氏は日本がイタリアに小銃を発注した経緯として、昭和13年(1938)イタリア駐在陸軍武官がイタリア工廠側と交渉したとしていた。同じ年、陸軍はイ式双発重爆撃機フィアットBR20約85機を輸入して、三菱九七式重爆撃機(1937制定)が揃うまで使用していた。イ式重爆の機体は、その後イタリアとの距離的関係だろう、補給部品、整備などの問題で使われずに満州でスクラップになったそうだ。イ式重爆は防備が優れていた、20㎜一門、ブレダ(ブローニング方式)12.7㎜x81二門、これは後にホ102一式機銃になり陸軍機の多くに搭載された。この重爆85機の輸入は運搬、組み立て、整備、訓練、そしてノモンハン・中国大陸などでの実戦使用と言うとてつもない大きなプロジェクトだった。

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(日丸のイ式フィアット重爆)

イ式小銃は伊藤氏のお話によると日本の三八式小銃と同じ仕様で、イタリアに発注したそうだ。しかし遊底(ボルト)のみはカルカノのボルトになっていた。

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(カルカノ1891小銃)

寸法と形状は三八式と同じで、同じ三十年式銃剣を使用した。木部においては、銃床は二枚合わせだが、木の質と塗装は違う(教練銃に多く見られるような木部)、銃身(色づけが違う)などで菊紋はない。日本の弾薬6.5㎜x51を使用した。(カルカノの弾薬は6.5㎜x52で、JFK暗殺に使われたかどうかの議論があったが、JFKに命中した3発の弾丸はこのマンリッヘル・カルカノ弾ではなく、もっと強力なものだったと、カルカノ暗殺説を否定する意見も多い。)日本は中国戦線の急激な拡大で小銃不足にあったが、イ式小銃が到着してみると日本軍の激しい使用に耐えるものではない(特にボルト)と判断され、前線で使われることはなかったようだ。太平洋で鹵獲されたイ式小銃は記録では海軍陸戦隊が使用していたとされているので、艦艇を失い、地上兵力の増強を図った海軍にこれらが移されて装備された可能性がある。実物を観察し操作すると、機関部のガタやもろさが感じられる。木部も曲がっていたものが多い。カルカノ機関部はモーゼルタイプの一種で、日本の三十年式のようにボルトの分解、組み立てに時間が掛る。

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(イ式小銃機関部)

製造はベレッタ社・フランキ社に発注されたが、2-3社で分担して組み立てられ、総数約6万挺が輸入された。アメリカには比較的多く残されており、タイプ「アイ」と呼ばれているが、価格は安い。なお、木部は日本で仕上げられたと言うことをも伊藤氏は述べておられた。

2、 モ式小銃

最近、エドウィン・Fリビー教授が、日本は独逸(チェコ併合後)チェコで製造されたモーゼルK98をまとった数輸入してはずだ、とアメリカ側の資料と実物、取り扱い説明書などを根拠に短い論文を仕上げ送って来た。多分のこの説は正しいだろう。モ式はモーゼルK98で7.92㎜x57弾を使い、昭和12年(1937)に約5万挺と輸入されたと言う。帝国日本軍の全体の規模、満州国軍、などの装備を考えれば大きな数字でない。それとは別に同じモーゼルK98 は中国国民政府軍(萱場四郎氏によれば国民政府は26種類の小銃を使用していたと言う)の主力な小銃であり中国国内の工廠でライセンス生産されていた。中国戦線において、帝国日本軍は厖大な数量の小銃を鹵獲しており、このモーゼル小銃を南京に保管していた。

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(モーゼルK98)

この銃口部分は日本の銃剣は装着できない、日本軍が使ったものは改造してあった。 モーゼル方式の機関部は分解・組み立てが日本の三八式ほど楽でなく
銃床の丸い凹んだ鉄輪は、そこに先端を押しつけて、組み立てた。

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(BZ26を構える日本兵)

斎藤茂太博士は、昭和19年(1944)「中国大打通作戦」に参加する日本発部隊の軍医であった。同氏のお話では日本を発つ時には、部隊は教練銃を、装備は防空鉄帽、竹の水筒など、物資不足のためほとんど何もなかった。釜山に渡り、延々鉄道でそのまま武昌・漢口に到着し、そこでモーゼル小銃、中国製の日本式装備、鉄帽、水筒、弾薬蓋、軍靴などを支給されたそうだ。BZ26軽機関銃は同じ弾薬を使い、日本軍はこれらも多く鹵獲して使用していた。弾薬は中国の工廠で日本軍管理のもと生産されていた。日本軍の前蓋で明らかにモーゼル弾用のものが存在する。またモーゼル銃は三十年式銃剣を装着できるようにしてあった。

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(重慶に向かう南寧での日本軍)

日本から延々陸路を来た部隊は国民政府軍から鹵獲した兵器、及び現地生産された装具を使用して、さらに南へと戦線を展開して行った。
モーゼル小銃は「学徒出陣壮行会」の写真にも学生が担いで行軍している写真がありまた、満州国軍のために奉天で製造された記録があると、リビー教授は伝えてきた。

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(昭和18年10月21日神宮外苑)

参考文献:
日本の軍用銃と装具
中国戦線の日本兵
日本の機関銃
防衛図書館資料
萱場四郎著「支那軍は如何なる兵器を使用していたか」
協力:
伊藤愼吉氏
斎藤茂太氏
エドウィン・F・リビー氏
陸上自衛隊武器学校
(この項以上)

13 、日本の半自動銃

日本軍は半自動銃を採用しなかった。『日本の機関銃』第6章に詳しく書いた。
しかし、現物は各種残されており、短機関銃試製銃のように1930年代に世界の半自動銃を研究して、ライセンス生産を前提とし許可を得て試作したのだった。
(ライセンスを前提とした試作は「コピー」ではない。)
アメリカ軍が日本に進駐した際にどこか武器兵器施設で見つけたもの、また沖縄で戦闘中、鹵獲したものなどがあると持ち主が話していた。観察すると、1920-30年代に外国のライセンスを得て試製したもの、と1945年にガーランドM-1小銃を模倣したもの2種類にも分類できる。後者は完成度が低い。試製したものには、日本の実包6.5㎜用にしてあった。半自動銃の定義は、引き金を一回引くと、発射、排莢、装填をガス圧、もしくは反動で行い、機関銃のような連続発射はできない。第二次大戦中に半自動銃を採用した主なる国はアメリカである。
これを「自動銃」と言うのは正確ではない。
1 チェコZH-29

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TGE(東京瓦斯電気社)製でとても完成度の高い製品である。問題は命中率であったと伊藤 愼吉氏に聞いた。三八式歩兵銃と大体同じ大きさにつくってあり、この銃は沖縄で鹵獲したと聞いた。

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ZH-29は1920年代に開発され、機関銃弾倉を使用した。ガス圧利用方式である。重量が4.5㎏あり小銃としては重すぎる、価格が高いなどで未採用になったのだろう。アメリカのBARは自動銃だが、それに近い大きさだった。
2 ピダーセン方式銃

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アメリカ国内で半自動銃採用の際、ガーランド方式とピダーセン方式は最後まで争った。結果はピダーセン口径.276は採用されず、ガーランド30.06が採用された。ピダーセンはボルト後退式で、ガーランドはガス圧利用だった。ガーランドは、アメリカの標準兵器の弾薬がそのまま使用できた。

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両方とも日本には売り込みに来たが、アメリカがガーランドを採用してので、日本でピダーセン方式は試製が行われた。小倉工廠、日本特殊金属などで、歩兵銃タイプのものと画像の四四式騎兵銃タイプのものなど各種が試製された。
ピダーセンは後に日本で弾薬にワックス(蜜蝋)を塗れと言うのを忘れたと発言したが、明らかに何かおかしい。ボルトがV字型にルガー拳銃のように折れて後退する方式だ。日本の銃はロータリー弾倉10発を使ったので、カエルを飲み込んだ蛇のように胴が膨らんでいる。
3 ガーランド方式銃

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現存する日本製のガーランド銃は、前記の試製品とは明らかに異なる経緯で製造された。スミソニアン博物館を始め幾つかの現物を観察したが、粗末な出来である。
環穴照門が小さすぎて狙いが付かないものがほとんど。製造刻印はない。アメリカ軍が横須賀で200挺を発見したと言うのが由来だ。口径は、30.06を7.7mmにしたと言われていたが、スミソニアンで.303だと言われた。これで背景が分かった。帝国海軍だ。海軍は艦艇、航空機を失い、終戦時には60万人の
陸上兵力を保持していたが兵器がなかった。航空基地に保管されていた航空機機銃弾薬を使用できないか、それがこの銃開発の背景にあったのだ。
横須賀工廠、豊川工廠の協力会社の製造(マキタなど)であると推察できる。なお、「四式」という制式名がついてはいないし、戦後、64式小銃受注の際に豊和が提出した図面は偽物である。日本兵器の恥である。
4、その他の半自動銃
日本では1920年代後半から30年代、小火器の生産は少なかったが開発は熱心であった。6.5㎜薬莢の二重になり、稼働式のものを観たことがある。恐らく何らかの半自動銃開発に使用された特殊弾薬であっただろう。
その他にも様々な日本独自の試製、そして外国製の試作が研究されたが、価格、耐久性、そして弾薬補給など、各種の実戦での問題のために、三八式小銃の
口径は同じ機構で口径を大きくした九九式小銃と決定された。
(画像の質が悪くて申し訳ないが1995年頃カルフォルニア州の収集家を限られた時間内で訪れ、急遽撮影したものである。他にもあるがまだ電子化してない。)
(この項以上)

12 、戦後の日本の小銃

1945年8月終戦直後から、米軍は日本軍の武装解除にはあまり手間を掛けなかった。日本本土や朝鮮半島では日本軍組織が機能していたので、日本軍にやらせた。朝鮮半島南では米軍は大きな失敗をした。それは大規模な駐留をしなかったからだ。そのために4年半後に北の侵攻を受け、民間人を含め200万人が犠牲になった朝鮮戦争が勃発した。その事象はそれから40年間にも及ぶ「東西冷戦」の始まりだった。米ソは核武装化し、ベトナム戦争に続く。
そのために日本の軍備、軍需産業を徹底的に壊滅させる方針であった米国にも
急速な方針変化が起こった。それが、「警察予備隊」から「保安隊」そして「自衛隊」への流れだ。
そのために、日本の兵器史では1、供与兵器の時代 2、自国開発兵器の時代と続く。小火器館ではその種の兵器の展示を行っている。
小銃(機関銃はその項参照)では以下のようになる。中には開発過程のもの、
採用にならなかったものなど珍しい実物例がある。

1、 供与兵器の時代
GHQは自らの方針を変えて、昭和25年(1950)8月10日に、駐日アメリカ軍の朝鮮半島侵攻のための移動を機に75000人規模の日本人による警察予備隊を編成し、軍事訓練、今は死語となったが、「再軍備」に取り掛かった。


西ドイツでも同じようなことをした。冷戦は勝戦国アメリカにも大きな脅威になったのだ。日本でもドイツでも志願した兵士は元帝国陸海軍の若者であり、特に戦車兵、操縦士などはすでの一人前の兵士であった。問題は追放となっていた士官であったそうだ。韓国軍は後に大統領になった李氏のように満州で日本軍士官として教育を受けたものが機能したので、日本でも仕方なく追放を解き、旧将校も採用した。

バズーカ隊とM26戦車 数百両きた
10月には保安隊と改名して警察組織から独立し今の自衛隊の前身となった。
この時の兵器はM-26戦車、ロケット砲、小火器、多くはアメリカから供給されてもので、これらを「供与兵器」と呼んでいる。小銃では韓国軍に日本の九九式小銃を30.06弾用に改造し、三十年式銃剣とともに装備させ、それらは保安隊、後の自衛隊にも残った。赤羽補給所に保管されていたものだったそうだ。

上から、スプリングフィールド1903狙撃用、M-1ガーランド半自動歩兵用、このふたつは共通の弾薬30.06を使った。
下はM-1カービン7.62㎜、将校、車両兵、通信兵用、この形は全自動。
M-1ガーランド小銃を使った人たちの感想は、「重かった、反動が大きかった」と言うものだった。これらの小銃は保安隊の規模からすると計数万挺の単位で使われただろう。保安隊で九九式小銃がどの程度使用されたかは不明であるが、
学生の時、昭和40年代初頭、富士、神町駐屯地などの衛兵は九九式を保持していた。

2、 初期開発兵器
① 64式小銃
供与兵器は元から中古品であり、昭和30年代半ばより
国産小銃の開発が進んだ。豊和工業に発注されて、口径7.62㎜、全長990㎜、銃身長4.4㎏、20発箱型弾倉を使用し、2脚を備えた

「64式」が昭和39年、制定された。 64式小銃木製銃床と下は折りたたみ
銃床型。生産数が少なかったので高額なものについた。

 

② 89式小銃
上は1963年アーマライトが開発したAR-18 5.56㎜、豊和で若干数がライセンス生産された。全長940㎜、重量3.5kg 弾倉箱型20、30発
下は平成元年(1989)に制定された89式小銃、現在の日本の主力小火器である。部品数を少なく、新素材を使い、軽量化し、3通りの発射方式がある。
口径、5.56㎜、全長920㎜、銃身長420㎜、弾倉箱型20、30発。

日本製アーマライトAR-18、世界のマニア垂涎の的だろう。

89式小銃各種、日本にどれくらいの小銃が必要か?難しい問題だが、近隣諸国の有事を考えると、武装難民対策、施設警備、最低数十万挺は必要だろう。
現在、89式が正式装備で、64式が補助装備をしても推定その半分くらいしかないだろう。89式は分隊軽機関銃ミニミと同じNATO弾を使う。以上