2-1、九四式五号三二号型送信機
五号無線機は受信機と送信機に分かれており、別々に運搬された。一人の通信兵が一個を担ぐ、送受信機で2名、それに重い手回し発電機を1名、その他部品を担ぐ、4-5名が搬送し、最低2名が運用したと考えられる。従って通信は分隊(10-12名)が一組となり、小隊か中隊に同行したのだろう。「幻の沖縄戦」と言うノモンハンに参戦し、再召集された中年教師が書いた戦記ものに詳しくその様子が書いてあった。通信兵に加えられた中学生が手回し発電機を操作した。コイルを巻き直し、米軍の通信を聴いた、移動中、雨に濡れて無線機は壊れてしまったなど。
五号は歩兵、砲兵、工兵などがおよそ10kmの距離で連絡を取り合うためのもので、送信は900-5000kc、あらかじめ周波数は決めておく、出力Aは1、Wは1.3。電源は手回し発電機で18W、6V、1Aだった。
上部は帆布で被われている。表に大きく「送信機」とあるが受信機も高さ以外は同寸法なので、間違いを防ぐためだろう。
「昭和15年11月東洋通信機株式会社」
諸元は横20㎝、横幅14㎝、高さ12㎝、重量3kg。「軍事秘密」板は取り外されていた。素人なので中は開けてないがパネルの状態は良く、完全品だろう。
真空管は数本
使っているはずで、パネルの左に電鍵(モールス無電)とその横にマイク、ヘッドフォン用のジャックがある。1934年の水準では立派な送信機だったと思うが、マニアはぼろくそ言う。
2-2、九四式六号無線機の一式
この帆布で被われた無線機、収容袋入りアンテナ棒、のどマイク、ヘッドフォンの一式と手回し発電機を、1995年頃、アラバマのハイウエイパトロールマン、ジョージ・ティラーから譲ってもらった。南部の若者が多く太平洋戦線に行った。そのうちの誰かが持ち帰ったのだろう。翌年、同じようなセットがマニオンにもでた。横浜のディ氏が落とした。しかしアンテナは付いて無かった。
六号無線機は受信機と送信機が一体となった形式で、押しボタン式の電鍵でモールスも打てるコンパクトな機械だ。真空管は3極管1本だけでまん中に位置して、頭がパネルに出ている。25,000kcから45,000kc。横幅12㎝、幅8㎝、高さ13㎝、重量2kg。
電鍵、下は電源
本当はこの手の機材が小隊単位であり、野戦で頻繁に使われれば日本軍の効率もあがったのであろうが、特殊な任務にしか使われなかっただろう。
アンテナの袋には「九四式六号無線機空中線材料袋」とあり、3点の品が収納されている。2本の長短の組み立て式の棒、この接続部はネジで良く出来たものだ。
長いのは4本で140㎝くらいになる。短いのは2本で60cmくらいになる。
この2本を別々に一つの台(ベークライト製)に椄合し、そこからコネクターを使い、無線機に入れる。
銘板には「昭和一五年一一月株式会社高梨製作所」とある。
下はのどマイクとイアフォーンのセット。コード類は布が巻いてない。
電源コード、135V-35V
製作会社の「高梨製作所」と言うところは現在はこの手の製品を手掛けているか不明だ。
2-3、九四式三号受信機 2種類
木箱に入れ、送信機(上)、受信機(下)横の予備
真空管などを入れ、蓋がデスクになる。この実物はフォートベニングにある。
三号は受信機だけ2つあるが、形は同じでない。送信機はない。本来、三号は受信機と送信機を木箱に縦に入れ、木箱の蓋を机替りに使い通信兵が作業した。周波数帯が広く、大隊などの装備であったのではないか。海軍陸戦隊でも同じものを使っていたようだ。下の裏から見たものと、表のパネル。
海軍陸戦隊が同じような機材を使っている様子
(箱がないものだろうか)
一つは吉原氏からいただいたもので、枠だけで外箱がない。しかし中身が見えるのと銘板がしっかりしているのでこの機械の経緯が分かる。真空管は6本使っている。
横幅24㎝、奥行き14㎝、高さ20㎝、重量4.5kgでもう一つよりやや小型だ。
松下無線株式会社、昭和18年12月製造「九四式三号丙四一型」と言うもので、周波数を替える受信線転の箱、5個あるが、その取手が皮である。Iが300-580kc/s, IIは550-850、IIIは850-1600、IVは1600-2100、Vは3000-5100である。
丙無線機四一号受信機配電図
周波数を替える線輪
もうひとつは金属匣に収納されているが、機能は大体上のものと同じであろう。
横幅34cm,奥行き17㎝、高さ26㎝、重量6kg、受信線輪の数字が少し異なる。
1が350-625,2は625-1100、3は1100-1950、4は1950-3450、5は3450-6000である。全ての文字盤銘、銘板が取り外されているのが、機能は大体判定出来る。高さが
あるのは下部が電池入れになっていたからであろう。重量からみて内部の部品は全て存在していると思われる。
作りとしては松下無線昭和18年の方が良いようだ。この機械の線輪も全部揃っている。
2-4、六号無線機 その2
この六号無線機は単体で出た。収容嚢が全部皮革製で、時代が経って痛んできたが
中の無線機は完全品だ。ただ製作が新しく昭和19年1月、東京無線電機株式会社製で
14500番台だ。これが累計の番号なら、この二三型の送受信機は頑張っても2万くらいしか製造できてなかっただろう。蓋の裏側、左にはグラフ横が「同調蓄電池目盛」,縦が「周波数(メガサイクル)とあり、右は配電図である。相当目が良くないと見えないくらい細かい。アンペア計は安立電気製。送話と受話のプラグは2セットある。寸法は18x8x13㎝でこれが日本軍の送受話器の一番小さいものだったと言うことは、アメリカ軍のウオーキートーキーに負けていた。
海軍で使っていたものはこれと同じものであったか似たものかは定かではない。下の写真は
中国戦線で海軍が通話訓練をしている画像
「東京無線電機株式会社」は大正十一年(1922)に創設され、現在は(株)三桂製作所と言う会社名で、電線管、ケーブル、コネクターなどの最新技術製品に特化している。
2-5、九四式五号受信機
アメリカで日本の通信機類を研究しているフロリダのウイリアム・L・ハワード氏のレポートだ。オンデマンドで作成してくれる。最後に話をしたのは10年以上も前だから現在健在かどうかは明らかではない。
この形の受信機は2台、同じような皮革製の被いがついたものと、金属匣だけの1個ある。
また、マイクが外されているのだが、聴音機だけがひとつある。
① 五号三二型受信機 東京第一陸軍造兵廠 昭和一八年四月 「軍事秘密」銘版が大きい 番号が
製造番号だとするとこの機械は20万台くらい製造されたことになるが。
② 同 東京沖電器株式会社 昭和一九年一月 「軍事秘密」銘版が小さい
リベットの多さから本体はアルミ製
沖電気社は現在も健在であり、業務用のITシステム部門などで業績をあげている。
③ 同 大阪 松下無線株式会社 昭和18年11月 「軍事秘密」銘版あり
寸法は横幅21㎝、奥行き14㎝、高さ22㎝、重量(電池なし)4.5kg。
上半分が蓋になっており開き、機械の表示板が出る。下は別になっており電源が入った。
パネルは、左上にスイッチ、横に「ヘテロダイン調整機」まん中に「同調/蓄電」これは大きな線輪であり、微妙に動かすことができる。上に「周波数輪転換機」I,II, III ,Vと4段階、と言う配置。
マイクと聴音機(ゴム帯に付いた)は六号と共通ではない。同じような形だが。
電鍵を使っての通信が多かったのではないか。
この聴音機は東洋通信機株式会社製昭17.11 同社は平成になり経営が悪化して防衛部門だけ日本電気に移行されたようだ。
電池は4号乾電池が使われてようで、これは電話機にも使われていた。
松下製と高砂工業製
松下(パナソニック)も高砂工業、両社とも現在も電池メーカーとして様々な蓄電池を開発製造している。以上
2-6、手回し発電機
六号無線機用発電機
人間が手で廻す発電機は現在でも災害用電灯、ラジオなどの用途で様々な商品が発売されているが、いずれも軽い素材で楽々使えるものだ。
ところが軍用無線機に使われていた発電機は大きくて重い。九四式は三号、五号でも発電機は使用されたが、主にこの六号用は無線機と組みになっていた。
発電機を運搬するだけでも兵士一人が必要だ。
8㎝、幅12.5㎝、高さ17㎝、重量は3.5㎏。肩がけする幅広の負い帯が付いており、収容嚢はその上から被せたのであろう。重い個体なので、収容嚢がもたない恐れがあったのではないか。両側の底が各5㎝外部に広がるので、運用の際の安定を考えてあった。ほぼ小銃1挺と同じ重量だ。
「二一号F型手回発電機接続要領図」に配電図がある。出力は-3V, + - 、+135Vとある。この使い方分間80回まわすとある。
銘板には『九四式六号無線機二一号F 101496 昭16、3月中央工業大森工場』とある。
底部の構造と出した状態
被い(厚い鉄製カバー)の外してある同じ形式のものを観察するとまん中に大きな磁石が入っておりこれが重さの原因だ。
被いのない発電機
以上
2-7、聴音器
これら三つのイアフォーンは今まで掲載した野戦用無線機九四式用ではなく、
汎用の大型機用のものであろう。全部同じ2段式のジャックが2個ずつ付いているが、これらは2段で、細く、野戦用九四式には合わない。いずれも耳に当てる部分は直径6㎝、厚さ2㎝、コードの長さは120㎝と規格品だ。コードはいずれも布巻きで、上部は板ばね式でその両端に耳に当てる部分が長さが調整できるように装着される。
① Telefunken E.H.338 と記されたもの。ドイツからの輸入品であろう。
画像①
② ADK 安立電気株式会社製のものは頑丈にできている。「片耳2000W」と
記されている。
画像②
③ △のなかに「SF」と記されている。これだけは太いコードである。
画像③
以上
2-8、無線機類修理道具
① 収容嚢、袋だけだが無線機専用で、これはハワードの本にも中身は出てない。②③にあ
る道具の大規模なものだっただろう。道具を使うために出してしまい、収容嚢は日本語も読めないのでほっておいたのだろう。
7つの工具が入っていた。
③ 一号型手入れ具
道具数の多い組で緑がかった帆布を巻く形式で、手前からハンダ鏝、様々な道具をそなえてある。うれしいのは刷毛がそのまま綺麗に残っていることだ。海軍のものかもしれない。
その理由は下から2番目にあるナイフだ。スイスアミー式のもので、側が骨で作ってあるのが特徴だ。このようなナイフは海軍で個人装具としても使われた。
長い紐で巻く方式
12種の工具が収納されているが、「細目平捻」が欠けている。
④ 七号型手入れ具
道具数の少ない組 収容嚢に入り、腰に付ける。点の道具しかないがここにもハンダ鏝がある。野戦、電気のないところでどのようにして鏝を熱したか、推察するに炊飯用の燃料缶詰を使ったと思う。一番上のスパナはこの形ではない。3つの大きなものが一つになったもの。T字型にして使い易い。
私たちの年代、ハンダ鏝は上手下手あるが使える。以前、出張の帰り、航空機機内で外国工場にハンダ技術を教えに行ったという若い女性と隣合わせになった。今は機械でやるのだろうが、パネルの製作などハンダは必要不可欠だ。その人の話では世界中で日本人がハンダ技術は抜群に優秀だと言っていた。
5点の工具が内容物である。
実際、戦中、無線機を組み立てたのは小学高学年から女学校の少女たちだった。
⑤ 部品類
無線機のものか電話機のものか不明だが以下のものが見られる。
細かいコイルスプリングである。
以上
1-3、帝国海軍携帯用電話機二型
木製の小型箱であり、合理的な設計だ。小型にしただけでなく使い易い。片横に釦が見える。これは引くとハンドルが出てくる。回すと相手のベルが鳴る。この下に電池を入れるところがある。バネで止まっている板の上の釦を押すと側板が開く。
送受話器も小型で良い。
電鍵はない。せっかく、予科練の訓練写真を見ていてもモールスの訓練はしっかりやっていたのに。海軍では多くの兵が電鍵を使えたが。戦場の緊急性が電鍵通信の余裕をなくしてあのではないか。反対側には説明書(金属)が張りつけてある。
箱は横幅22x奥行き10x高さ19cm
電線の接続部も大きく道具は要らず使い易い。
重量は512gと記してある。このままでは持ち歩き出来ないから、何か収容嚢があったのであろう。
左下に「錨」の刻印がみえる。
「沖電気株式会社 昭和19年4月 製造番号29855」とある。この時期これだけ製造していたならば、敗戦まであと1万台、沖電気だけで4万台製造していたと推定されよう。
取り扱い説明
木箱の組み方を見ても丁寧な造りである。
戦争も行き詰っていた生産力も限界にあった。贅沢なものではないが実用的な電話機だ。
以上
1-2、九二式野戦電話機その2と交換機
○野戦交換機
上面
珍しいものだ。箱状で蓋はベークライト、外線用4局、交換機側4局と16通りの接続ができるものだ。小型で、横幅21x奥行き10.5x厚さ4㎝で、奥行きは電話機と同じだ。交換手兵用は受話のみで、前線の電話機から、後方の司令部などに繋いだと推定される。箱は木製で開けると赤い避雷管が各線に各々付いている。有線の場合、どこかに落雷して全部の電話機に影響が及ぶことを恐れた。
白い4本の管は何の機能なのかは知らない。(箱を開けた状態)
この交換機はレイテ島で誰それが手に入れたと書いた英文の紙が入っていたが、
綿などを入れ大切に扱われていた。
従って現在3台の九二式野戦電話機があるので、電池と電話線を用意すればこれらがどのように機能するかを試すことができるのだが。
○配線
野戦電話機の電線は柱を立てて上に配線した。柱は700mおきに立て、リールに巻いた線を延ばして行った。従って絶えず警戒と補修が必要で、兵に簡単な工具を持たせ巡回させたようだ。
有線補修兵と工具収容嚢
○九二式野戦電話機の構造図
電池は電鍵と電話と兼用になっていた。柄、ハンドルは一種の発電器でこれを廻すことで、電流が相手の鈴を鳴らす。そして会話を始める。
配線図
送受話器の仕組みはこの縦横の図にみられる。
受話器
電鍵の仕組み
以上の情報は以下の資料から参照した。
歩兵通信機材(有線)取扱上ノ参考 陸軍歩兵学校 昭和十三年
通信教範第三部下巻 教育総監部 昭和十八年
以上