8、木製武具の数々

①杖(じょう)
元は帯刀できぬ農民が木製の棒で身を守るための武具と術であった。

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上六尺棒、下木刀
現在は警察官が使用している。相手が短い刃物で襲ってきてもある程度の修行を積んでおれば十分に役に立つ武具である。「杖術」は剣道連盟では「剣道」「居合道」と並び3つの公式な術であるが、居合と同じく演武であり、競技はない。
演武は木剣(ボッケン)との合わせであり、刀で切り付けられた状況を想定して行う。攻撃としては払う、突く、叩くなどがある。

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現在、日本の警察が使っている杖は長さ120㎝、直径24㎜の白樫の短いものだが、戦国時代には他の武具と同じくもっと長いものであった。
江戸期には六尺棒を言われるように長さ180㎝、直径28㎜、白樫に漆がけの
ものだった。(侍屋敷の門番や捕りものに使われていた)
現在、日本には幾つかの江戸期からの流派が残っており、流派では六尺棒を使用している。

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野球のバットを車に積んでいても職質に遭う日本では杖も持ち歩くことはできまい。

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(麻布署の武道始め式より、演武とは言え迫力があった)

②明治の「刀狩り」と木刀
現在、日本には登録された美術刀剣類はどれほどの数が存在するのであろうか?戦後、GHQが登録制度を作り、江戸期の刀剣、槍、古式銃を個人が持つことが出来るようになった。登録証はモノについているので、所有者が変わっても有効だ。ただ、登録が正確でないのが問題だが、優れた制度である。
明治4年明治政府は散髪脱刀令を発令し、さらに明治9年(1876年)には帯刀禁止令、所謂「廃刀令」を発令した。士族の反感を買い、士族反乱の背景の一つとなった。一種の日本の戦国期より脈々と現在も続いている民間に武器を持たせない「刀狩り」の一種と人文学上は規定されようが。
「腰が寂しい」と言う理由で、木刀が作られた。鍔などは凝ったもので、遠目には脇差のように見えるが腰から抜いても吠える犬くらいしか叩けない。
以下はその一つの例である。同じようなものを江戸期、寺子屋に行く子供、または中間に使わせたと言う説もある。

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③剣道と木剣(ぼっけん)もしくは木刀
明治10年の西南戦争、及び日清、日露の戦争で、剣を修行したものが刀を使う
白兵は非常に効果があることが証明され、爾後1945年の敗戦まで帝国陸軍の
曹長以上は刀を帯びた。剣道は学校の重要な体育科目であった。これもGHQの影響があり、戦後数年間は活動が禁止された。歴史上、すでに15世紀くらいから防具を付けての鍛練を行い、江戸期には現在に近い完全な防具が完成し、
竹刀を使うようになった。

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なお、映画やドラマにおいてように木刀で競技をするということはなかったと確信する。危険が大きすぎるからだ。だが、木刀は武器として十分に役に立つものなので、型を示す演武だけでなく、攻撃、防御の武器として使用されたであろう。

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下のもの木剣は振りの稽古に使用した重量級である。
全長107㎝、4x3㎝の太さ、900gの重さ

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庵もしっかりしており先が重い。同じものが空自入間基地の資料館にあった。

稽古に使用した脇差型の木刀

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剣道画像は麻布署の武道始め式より

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余談ながら警察の武道は観ていて興味がある面白い。外国の警察にも「道場」があり武術を鍛練させているところがある。例、フランスの柔道
(この項以上)

 7、十手など特殊武器

十手に関する武器は戦国時代の兜割と言う鉄棒に発し、江戸期には同心など
治安をつかさどるある身分以上武士がその証明として袋に入れ持参したと
言われている。全長が30から100㎝くらいまであり、実用のものは長く、
江戸期のものは短い。江戸期には目立たぬよう懐に入たり帯に差したからだ。

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典型的な江戸期の十手

だが短いものでも打ちモノ武器としてはかなり実用的であり、棒の横に出た鉤は襲ってくる刃を挟む用途に使った。鉄質も良く、手もち具合のバランスも良い。
棒の先の打つ部分断面は○、六角、八角などで、このものは八角である。

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また鉤を棒へ付ける方式が特殊である。棒に孔を開け、鉤の先を入れ、かしめてかなり頑丈に作ってある。現存するものの大体9割が贋作と十手研究科の名和弓雄先生は言っていたが、贋作は鉤を溶接する、沸し付けにしてあるので見分けが付く。輪も廻らないものが贋作には多いそうだ。

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この現物は全長29.5㎝、先の太さは12㎜、反対側の輪の幅は30㎜である。
鉤中心位置は先から17.5㎝、輪の先端から12㎝である。

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重量は230gである。
握り部分は9㎝、明らかに片手で握るものだが、直径が9㎜しかない。
この部分には細い紐を巻き、その紐は当然滑り止めになるが、捕縛する、
輪に取り付け投げる、など様々な用途に使用したと言う。輪には房を付け
持ち主のランクを示したとも言われている。
以上、刀剣関連の武器の例として。(この項以上)

 6、騎馬武者の手防具

西洋の騎士の演武を観たことがある。白磨き金属鎧、長い木槍、槍には鍔が付いているがさらに槍を保持する左手にはもう一枚被いがあった。
日本にも騎馬武者同士が対決するときには、左手に防具があったようだ。
なかなか実物を見ることは少ないが、先日小田原城、諏訪間館長の講演の時に
この実物に気が付いた。鎧の手の上に重ねるものだろう。
皮革か布の元に金属片が特に肩が大きく、後は鎖、さらに皮革の厚いもので構成されていた。
このようなものが存在した背景には騎馬武者同士の対決が多く存在したと推定される。鉄砲出現の前であろう。小田原城は16世紀末に大きな会戦を迎えた。
まだこのような装具が残っていたのであろう。

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また馬の画、これも珍しい。いずれも見事な軍馬だ。

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(この項以上)

 5 、槍・薙刀

槍が戦国時代までの重要な武器であったことは間違いがない。鉄砲出現後は弓と並び補助的な武器になったが、武士の象徴であり、槍の鞘がその家を示した。槍には大きく分けて穂(刃)が真っ直ぐな素槍、と鎌が出ている鎌穂槍の2種がある。
また長さにより長槍と短槍に分けられるが柄の長さは様々である。一般的に集団戦闘では長い槍が、室内や動きを重んじる個人戦闘では短い槍が、という用途により多種のものが存在していたのであろう。穂の中心(なかご)は断面がほぼ正方形先細りなものが多く孔がかがられており、柄から目釘を入れて固定する。なぜか「下坂」銘が多い。槍穂は穂先及び刃の部分に焼きが入れられており、良く砥いだものは刃紋が見える。

長槍

戦闘でも行列でも長い柄の槍は必需品であった。長い槍でもその穂は短いものが多く、長い穂は大身と呼ばれていた。大身の穂は60cm以上、概ねその長さは4m半から6m半くらいもあった。しかし現存する長い槍は少ない。長槍でも穂がとても短いもの もある対人用の武器であればその穂先は15cmあれば充分で、このくらいの長さで断面が三角なものが多い。穂先には長めな鞘が付 いており、全体の調和を考えてある。柄は良質な樫で、表面は良く磨いてある。末の方が太く、先には石突と言う厚い鉄製の被い が付く。 柄の先端の穂が入る周囲は紐で巻かれ漆で固めてあり、先端には金属の環が入る。長い槍は武家の行列の先頭を飾り、その意匠を衒った鞘が武家の家柄を象徴した。
戦国時代の戦闘用の槍には身分の高い侍のものと、足軽用の数ものとが存在した。

鎌槍

一般的なものが十文字槍で、これは薄い刃物状の穂である。長さも様々であるが概して大きくはない。また柄の長さも適度 なものであるようだ。個人戦用であったろう。
穂先にはいろんな形が存在しているが、多くは両側に刃が付いており、押しても引いても切れるようになっている。

短槍

室内の護身用などに使用されたと言う。柄は太く、短い穂が付いている。現存する槍にはこの種類のものが多い。穂は 10cmくらいの短いものが多い。

長槍2本

長槍2本

長槍2本

上の十文字槍は全長(鞘も入れ)210cm、下のものは230cm。柄はいずれも上質の樫を手の滑りのため、良く磨いてある。柄の断面は円形である。

長物4種の穂と刃

長物4種の穂と刃

長物4種の穂と刃

左から十文字槍の穂(22x16cm)とその鞘。長い槍の穂(15cm)とその長い鞘。薙刀の刃(38cm)と鞘、内部は木製でそれに皮革製の被いが付く。左は長い槍とその穂(29cm)と 槍印。槍印は皮革製で家紋を入れ、槍の首に付け、所属を示した。

薙刀

薙刀

薙刀

全長は210cm。江戸時代は女性用の武器であったと言われている。柄は樫で、断面は刀の柄と同じような楕円形である。薙刀の刃は先端が両刃になっており、先端で引っかけて、刃の背でも切ることが出来る。 従って単に刀剣に柄を付けたものではなく、その用法には独特のものがあったはずだ。刃と反対側の柄先端の石突きも鋭い。

 

槍・薙刀

槍・薙刀・杖(じょう)など長ものの武器は屋敷玄関のなげしに掛けられていたのが一般的だった。
訪問客からは見えないが、「いざ」と言う時には取り外し、直ぐに表に出るため
であった。

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① 槍の種類
素槍 (現在の文章)
長槍 (現在の文章)
鎌槍 (現在の文章)
短槍 (現在の文章)

② 槍
イ、 素槍
普通の槍のことである。鞘の形も柄も刃も大体が同じ寸法であり、柄は樫を良く磨いてある。このものは石突(刃と反対側の立てた際、地面に突く金属部)の縁が出ており、手が柄から外れない工夫もある。穂は14.5㎝と短く、重量的には前後のバランスはとれており、全長は約180cm。
なおこの石突は流派によっては柄に輪をはめて繰り出す、戻す速度を上げるために使用したものかもしれない。輪は欠落したが。

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恐らくこの方式の槍が一般的なものであり、穂が短いから人体に対し突きだけで効果は十分ある。(現在のナイフ75㎜規制を考えても、10cm突き刺されば致命に至る)
刃は二等辺三角形をなしており、裏側は平らで樋が掘られ、朱漆が塗られていた。突く武器としては折れては役に立たないので、このように製作したのであろう。銘は『越前豊原丹後大掾藤原重常』古刀時代のものだ。
柄の巻きの作りをみても上作である。

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焼刃がみえる

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底側

この武器は集団で使うもので、槍を立てる、水平にする、前進する、号令で動かされた種類の武器だろう。会津藩調練の画を観ても30名が一列になっていた。「槍襖」を立てるなどの言葉はこのような使いかたから生まれたのだろう。
この種の槍の攻撃は突くだけでなく、叩くことも有効であった。

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鞘は木製を布ではってあり、先端は金属を被せてある。

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ロ、 大身槍

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戦国時代、大身の槍は刃長60㎝を規準にして全長は5-6mあったと言う。
この槍はその規準から言えば、刃長は30㎝で柄長は330㎝で鞘を付けた状態では4mに達するもので、現在、家から簡単に持ち出すことは出来ない。
古刀時代のものであろう。銘は『兼行』

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鞘は長い木鞘で合わせて製作したシンプルなデザインである。大名行列などに
持ち出すときはこの鞘の上にその家が分かる飾りを被せた。

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身分の高い個人武器で馬上使用したことは想像出来る。

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底側

恐らく騎乗の対決に使用されたのはこのような槍であったであろう。
穂は素槍の穂と異なり、先にいくほど膨らみをもっている二等辺三角形である。
下部は25㎜、高さ8㎜で折れにくい。
底に17㎝に渡り幅8mmの樋が掘られ、赤い漆の残りが見える。
何よりも焼きが深く、刃紋が綺麗に見える。

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焼刃が見える

石突の真ん中に横に木製の棒が入っているがこれも手が柄から滑り落ちない工夫であろう。柄も綺麗に磨かれている。この種の槍は突くだけでなく、払うという攻撃法があったから頑丈に作られていたのであろう。

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③十文字槍
非常に古い時代のものと推定される。状態は良い。刃は長さ22㎝、幅16㎝、
左右、裏表対照に出来たものだ。刃が6面全てについている。従って、槍として突くだけでなく、払う、引く、ひねる攻撃出来るだけでなく、防御に於いても相手の武器を止める、払う、ひねることが出来た。

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柄も枯れてはいるが、手の掛った作りであり、長さは180cmほどある。先の方には弓のように蔓が巻かれ、金属の輪が3つ入った、頑丈な造りである。

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鞘は木製の十字型であるが、後ろが全面開いている。刀槍、全ての武器に言えることだが、直ぐに使用できる状態で、しかも刃が安全に守られる鞘の工夫があった。

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このような鎌槍には流派があり、相当なる修練を行わなければ実戦には役にたつものではなかろう。また刃の研ぎや手入れも手間がかかる。
このような槍は武芸に自信があり、更に身分の高い武士の所有であっただろう。
石突は丸く、柔らかい感じがするが、これで突かれると大きな打撃となる。

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石突

④薙刀
(現在の全体写真はそのまま倍に拡大してください)

薙刀は古い時代は長巻きと呼ばれ、刃が非常に長いものだった。多くは、刀に
作りかえられた。

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戦国・江戸期には女性の武器であったと言われている。
全長210㎝、刃長38㎝、反り2.3㎝、無銘
この薙刀は時代的にそう古いものではない。幕末新新刀時代のものだろう。
柄は樫であり、断面は刀の柄のように楕円形をしている。

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薙刀の刃は反りがあるが先端が両刃になっており、引っ掛けて刃の背でも切ることが出来るのがこの武器の特徴である。反りが大きいので突きを目的としたものでなく、長い柄を利用し大きなモーメントを生み、刀や槍に対抗した。

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従って単に刀剣に長い柄を付けたものではなく、柄の反対側の石突も鋭い。

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使用法は独特のものがあったのであろう。
鞘は木製漆塗りのものに皮革の被いが付けられている。

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(この項以上)

 4 、刀と切っ先

1 刀編

日本刀はどんなに長いものでも、その切っ先が品格を表すと言われている。
外国のブレード武器と違う点は刃への焼き入れだ。刃の焼きがくっきりと見えている。いろんなパターンがある。それを楽しんできた文化があった。
そして切っ先にも焼きが入り、その焼きは「帽子」と呼ばれ、上にも返っている。それを誇ったのだ。以下、幾つかの例。

1、 細い直刃の刀
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image003鞘は木製である。刀身は研いでない。拵えはきれいである。35年ほど前、刀剣博物館で観て貰ったところ、「古三原」と言われた。長い64-5㎝ある。

2、 明治軍刀拵えの刀

刃長は短い、61㎝で、西洋式の拵えに日本刀が入っている。しかし
日本的なのは握りだ。西洋のサーベルは片手で握るがこの刀は両手で握る方式だ。

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刀身は古刀だが残念ながら程度はあまり良くない。中くらいの直刃、研いでない。拵えは健全だ。

3、 紀州銘の新新刀

軍刀拵えであるが、大分使いこまれている。刃は研いで貰った。焼きは綺麗に出た。

image006 紀州切っ先

太い直刃であり、痛みも、欠けもなかったが帽子の返りも明確に見える。重い刀である。長さ65cm

4、 加賀の刀

これもオリジナルの拵えでその状態は良い。刃は赤錆だったので研いで貰った。
細直刃で、ほとんど反りのない刀身だ。長さ64cm

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5、 肥前の刀

軍刀拵えに入っていたが、龍の一作で新たに拵えを作った。鍔は「若芝」だ。辰年生まれの長男誕生を祝ってだ。(本人は何の関心もない)刀身は欠けがあるが、研ぐまでのことはない。何よりも銀座の綱取のオヤジ(故人)が「あんたの刀ではいちばん良いが、偽名だと」言った。ぐの目の豪快な刀で反りも良い。65㎝。

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6、 伯父の刀

美濃銘の古刀、長さ62㎝、細身で大分疲れている。彼は中国奥地から武漢に向かう飛行中、戦死した。昭和19年11月末。もう1か月生き延びれば航空機もなくってしまったのに。故郷、和歌山に二つの軍用こおりが届いた。その中に二振りもっていたうちのひとつ、この刀があった。日本軍占領地に墜落したので、遺骨も帰った。しかし戦争も末期、武漢から上海、そして東シナ海を経てよく私物が戻ったものだ。戦争初期にはこの刀を下げていたが、戦死した時は地上においてあったのだろう。祖父に青木司令官から伯父の戦死に関して私信が届き、祖父はそれを印刷して(物資のないときだったが)知人、親戚一

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同に知らせた。焼刃はほとんど残ってないが細直刃である。弟である叔父が研ぎに出した。

2 短刀

1、錆身だった短刀

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昔、欧州を旅している時にフリーマーケットで見つけたものだ。外の金具も錆いたくらいだから、身は完全な錆身だった。ただ錆が全体にあり、深いものはなかった。柄は糸巻きで珍しいと思った。目抜きが蝉で、表が成虫、裏が幼虫としゃれている。ふっかけられたⅠ万円位。購入してのは、研ぎ師に心当たりがあったから1だ。コネチカットにいた頃、家に乗りつけてきて錆身を買ってくれという人が時々来たが、空港での煩わしさ、研ぎ師が亡くなり、当然息子は跡を継いでないからどうしょうもない。研いだら案外良い身だった。

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2、南紀重国との銘

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まだ刀を観る目がない頃にサンタモニカで手に入れた。1970年代、あの辺りには日本のものを扱う店が幾つもあった。この身は研いでない。当時のままだ。
柄巻きだけはやり直し、休め鞘も造った。何も分からないから日本の業者の言う通りにした。ただ、徳能一男先生が羽田で登録証を発行してくれ、若手の刀剣研究会に入らないかと誘われた。
これはただ単に刃身の迫力に圧倒されたから手元にあるだけだ。

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2、 自分でデザインし新たに製作した拵え
恐らく、刃身も金具も良いもので、家の家紋である五三の桐だ。しかしこれらが一作であったのかは確かでない。

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昔、家には刀剣は沢山あったと父親、叔父は言っていたが、現在従兄弟家には脇差が一振りしかない。彼はそれを観ると必ず頭痛がするので、出さないそうだ。熊野古道の山のなかだった。現在は神社も家も学校も全部、山林になっている。

 

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(この項以上)

 3 、刀剣の装具

鍔、鞘、紐、縁頭、目貫、小刀、笄、はばき、切羽、柄巻きなどである。 鍔は限られたスペースに表現された持ち主の趣味と哲学の象徴みたいなもので大変重要な刀の装具である。鍔は収集し易く、また海外にも古くから多くの収集家が存在し、その芸術性は確立されている。 鞘はほうの木を材料として合わせて構成し表面を漆で仕上げてある。革を巻いたもの鉄輪をはめたものなどが存在するが日本刀剣の鞘は原則として木製である。
柄は鮫皮で包み、それを絹、木綿などの紐で巻いた。滑り止めと装飾を兼ねて目貫が両側に入る。柄の前後は合わせて木の補強と装飾を兼ねて縁頭がはいる。
刀身と鍔の間には、はばき、切羽が入り、刀身の緩みがないようにする。 これら刀装の職人は分業化されていたが、武士の嗜みとして柄巻きなどは自分でやったと言われている。

日本刀は他の地域の刀剣に比較すると、全体に軽く出来ている。刃が鋭く、良く切れるから、柄(つか)も軽く、敢えて重い頑丈なものではない。刀身の柄に入る部分を中茎(なかご)と言い、ホウの木を2枚合わせて中茎を被う。柄は表面をざらざらで固く丈夫な鮫皮で被い、鍔に近いところに「縁(ふち)」と言う環、手元の先を「頭(かしら)」と言う被い、両方とも金属で出来たものを充て、さらに下から上へと紐で巻き、紐は頭の両側の穴を通し、固定した。また柄の両面には「目貫(めぬき)」と呼ぶ、柄を握った際に手の滑りを止める金具が設置され、これは柄巻きで固定されていた。柄は中茎を被うので、その断面は楕円形である。柄と中茎の固定は、中茎に空けてある穴(1個の場合、複数のものもある)に合わせ、柄の木部に穴を通し、その穴に竹製の「目釘(めくぎ)」という軸で止める。日本刀の柄は優雅だが、頑丈ではない。この理由は他の刀剣が多くの場合、「打ち物」としての機能があるので、刀身と柄が一体化して重いのと対照的である。柄は刀を身に帯びた際、鍔と共に身体の前面に位置して、一番目に付く部分である。持ち主は自分の趣味を表現するために、この意匠と出来に気を払った。

小柄・笄

刀、脇差しの鞘の両側に入り、小柄は紙を切る為に、笄は髪を直すために使用した。小柄・笄は刀装の道具であるが、武器ではない。多くの場合、小柄・笄は同じ意匠で同じ作であり、この例は庭で遊ぶ鶏を意匠している。材料は四分一(しぶいち)と呼ばれる銀と銅の合金で上質なものである。

小柄・笄の例

この例は銅製の笄、柄も鉄製の小柄である。

 2 、刀剣の特徴と文化

刀剣は武士階級の象徴であり、このように武器をもって階級のシンボルとした例は世界には多く存在するが、1人の人間が大小2振を腰に差す例は少ない。象徴的存在となっていたので外装にも気をつかい現存する外装はその持ち主の趣味、特に戦国期以降はわびとさびを表現した。その代表例が鍔(つば)である。ほとんどの日本刀は木製の鞘に収められ他の素材のものは極めて少ない。 脇差しは江戸後半台頭してきた他の階級にも名字帯刀と言う形で許され、そのために現存する脇差しは刀より多い。 日本刀剣は日本の戦いの歴史を歩んできた武器でありそれがどのくらいの数量存在していたものかは知ることは出来ない。武家一軒には最低数振りは存在していたであろうし、秀吉の刀狩前には恐らく数百万振り存在していたであろう。戦国時代はあらゆる階級の自己防衛の手段であったはずだ。明治維新後の廃刀令の後もほとんどの刀剣は破棄されることなくどこかに保存されていただろう。海外にも多くの収集家が存在している。

刀剣の鑑賞

刀剣の鑑賞は戦国時代以降、日本の武士階級の洗練された趣味の一つとなり、江戸時代において専門家の台頭とともに侍が知るべき嗜みとして確立、現在でもその愛好家は多い。 鑑定入札会は、刀剣の時代、地方、作者などを茎(なかご)を隠し、刀身のみを観察して当てるもので、刀の目利きになるための勉強会と言ってもよい。 鑑賞の着眼点は以下の刀剣の特徴である。

全体の姿

反りの場所、長さ、厚さなど

地鉄

肌の様子で、梨子地肌、板目肌、柾目肌、綾杉肌、こぬか肌、ちりめん肌、地景と地班などである。

焼刃の動き

日本刀の刃に入れられた焼き(鉄が鋼くなった状態)は観察出来、その姿形は刀の特徴を表す。これを鑑賞するのは、侍階級のみならず文化人の趣味の一つであり、現代にも続いている。足、葉、金筋、稲妻、銀筋、二重刃、三重刃、焼出し、水影、掃影、ほっし、飛び焼きなど。

地鉄

肌の様子で、梨子地肌、板目肌、柾目肌、綾杉肌、こぬか肌、ちりめん肌、地景と地班などである。

焼刃の動き

日本刀の刃に入れられた焼き(鉄が鋼くなった状態)は観察出来、その姿形は刀の特徴を表す。これを鑑賞するのは、侍階級のみならず文化人の趣味の一つであり、現代にも続いている。足、葉、金筋、稲妻、銀筋、二重刃、三重刃、焼出し、水影、掃影、ほっし、飛び焼きなど。

焼刃の種類

直刃(細、中、太)、丁子、互ノ目。直刃(すぐは)は焼きが真っ直ぐ縦に入ったもので、丁子、互い目は波をうっているものである。

帽子

日本刀はほとんどの場合、片刃である。その先端は鋭く、焼きが入った部分が背の方にまで延びているのが特徴である。その焼刃が廻っている様子を「帽子」と言う。この部分が見えない刀身は先が欠けたものと言われる。

茎(なかご)

握りの部分で刃はなく刀装の中に入る。ここの錆色とやすり目を見る。

刀の疵と欠点

刀身は主に製作の過程で出来た様々な欠点が見られ、それらは実用にならないものと鑑賞に問題があるものがある。実用にならないものは、刃切れ、烏口などでそこから刀身が折れる危険性がある。其の他鑑賞に問題があるものは、刃からみ、しなえ、ふくれ、鍛割れなどと呼ばれ主に鍛錬の際に出来たむらとか、焼き入れの失敗である。また歴史を経てきて、何度も砥いだものを、つかれと言う。

居合い(道)と剣道・剣術

剣道は防具を付け竹刀を使う。竹刀の握りは丸く、実物の刀剣の柄(つか)は楕円である。また実物の刀は木製の鞘にきっかりと 収納されており、これを抜く、切り付ける、収納するの一連の技を鍛えるのが居合いである。居合いにも幾つかの流派があるが、 真剣を鞘から抜く、切り付ける、収める、残心の一連の動作を幾つかの形としてまとめてある。基本的には座った姿勢から始める が、立ち居合いの型も修行する。鯉口を切る、と言うのは刀を鞘から抜く為に少し緩めることを言い、鞘の手元に近いところを左 手で握り絞めると、鞘の紐通しの出っ張り、栗型と鍔の間が広まり、収まりが緩む仕組みである。繊細ながら良く出来た仕組みで ある。侍は剣術を修行し、道を極めたが、剣術は実際の刀剣を使ったやりとりと異なるので、居合いも修行し、真剣の扱いに慣れた。剣道、居合いの修行はする者の姿勢を良くする。
日本刀は他国の刀類に比較すると鋭く、折れ難く、軽く、突きも払いも出来る白兵に強い武器で日清、日露の戦争でその実用性が再評価された。

刀剣の製作と審査

日本は比較的早くから鉄文化が発達しており、刀剣製作の歴史は長い。古代の古墳の中から直刀が多く出ている。日本の刀剣の素 材は砂鉄からタタラ炉で作る玉鋼で、それを鍛冶が何回も焼いては叩くを繰り返し(鍛錬と言う)不純物を取り去り、(槌で叩いた時に火の粉となり出る)鉄の質を良くしていく。刀の形になったところで、刃を焼き入れる。焼きを入れるところと入らないと ころは、特殊な粘土をその上に塗り付けて、温度差を捻出した。赤く焼いた刃の部分を液体に付けることにより、固くし焼きを入れ、刃にした。当然、焼きを入れた部分は固く鋭いが反面脆い。焼きの入ってない部分は柔らかいが弾力があり折れ難い。これに皮と呼ばれるまた質の異なる表面、これらの3種の性格の鉄で構成され、折れず、曲がらず、切れる、日本刀が出来るのである。これを押し鉄と言い、ここまで造りこまれた刀身に鑢と掛けて大体に形に整える。反りは焼きを入れる際に入る。
表面を石で研ぎ出し、最後は指先に付けて雲母片で磨いていく、製作も研ぎも時間の掛かる手作業である。鍛冶の作業には上質な炭が不可欠であった。
現在の日本にも優秀な刀工が各地に多く存在し作刀を続け伝統を守っている。現在存在する刀剣と古式銃砲は武器の類ではなく美術刀剣、文化財として個人に保持が許されるので文化庁が発行する登録証が必要である。この登録証審査は、地元警察が発行する発見届けが必要であり、各県の教育委員会が専門の審査員に委託しその刀剣の 価値を審査しそれに合格すれば登録証が発行される。これは新作の刀剣にも同じである。登録証はモノに付いており、譲渡の際は届け出が義務付けれれている。しかしこの制度も日本の他の制度仕組みと同じく若干形骸化の傾向が見られる。また審査員をビジネスとしている専門家に委託するのも問題があろう。

 1 、刀の種類

時代による分類

古刀(ことう)

古刀(ことう)

古刀(ことう)

時代的には慶長以前であり、1600年を境としそれ以前のものを言う。但し戦国期末古刀は鉄砲が出現してからのものであり、それ以前とは明らかに戦闘方法が異なったので、量的にも多く存在し別な評価がされるべきものであろう。例えば鉄砲出現後の刀は補強された甲冑などに対抗するために身幅が広く、重ねの厚いものになり、逆に世の中が安定してくると、反りが浅い先が細いものになったと言う。

新刀(しんとう)

幕末を除く江戸時代全期を通じ作刀されたものを言い、平和なこの時代を象徴する華美で鑑賞的な刀が多い。武家諸法度で寸法其の他が規定されていたので、例えば短刀などの作は少ない。

新新刀(しんしんとう)

幕末の短い時期に製作された時代を反映した実践的な刀であり、武器としての機能性と復古調を特色としている。現代刀(げんだいとう)明治以降の作になるもので近代のものも含む。

長さによる分類

反りのないもので両刃のものを言うが日本の古代のものは片刃で真っ直ぐである。

太刀(たち)

中世以前のもので刃を下にして身に付ける。反りが深く、長いものが多い。

刃の長さが60cm以上のものを言い、刃を上にして腰帯に差す。打ち刀とも言う。両手で使用する。

脇差し

脇差し

脇差し

刃の長さが60cm以下、30cmまでのものを言う。武家諸法度では室内においては脇差しを帯びるものとしている。片手でも使用出来る。
日本刀剣の柄は布製の紐で巻かれていたものが多いが、この2例は、柄全体に漆が掛けてある。上は刃長45cm、古刀、無銘。柄は布巻きでその上に厚く赤漆が塗られている。下は刃長45cm、古刀、「月山」銘。柄は皮革製の紐を巻き、その上に黒漆が塗られている。 また鍔には小穴が2個あり、それらに紐を通し、手首に固定して保持した、と言われている肥後拵と呼ばれている。

短刀

短刀

短刀

短刀は30cm以下の短い刃で片手で使用出来た。古来、鎧武者同士の組み打ちでの重要な武器であったと言われている。かさねが厚く、鎬の無い平造りのものが多い。上は刃長25cm、「南紀重国」銘、新刀初期の作。下は「兼房」銘、古刀期の作。五三の桐紋で統一された現代拵に入っているが、大戦中は海軍の短剣であった。刃断面は三角に近く、厚い身と鋭い切っ先を持つ。

大小の例 其の一

大小の例 其の一

大小の例 其の一

刀は刃長70cm、新刀期の「肥前忠吉」銘、刃紋は互の目。刀装具は竜の意匠で統一されている。脇差は刃長38cm、古刀、無銘、互の目。刀装具は唐獅子と牡丹。「おそらく造り」と呼ばれる形状の身を持つ。大小はそれらの刀装が揃いになっていたものが多いが、別な造りの大小を差していたことも多かった。

大小の例 其の二

大小の例 其の二

大小の例 其の二

刀は刃長68cm、新刀初期、「光清」銘、刃紋は細直刃。反りの殆どない刀で、刀装具は竜の意匠で統一され、柄巻きは厚みのない紐を使い、幕末に流行した拵えと言われている。 脇差は、刃長40cm、古刀期、無銘。

製作地による分類

古くの日本は幾つかの文化圏に分かれており火縄銃も同じく、各地の鍛冶により微妙に異なる特徴の刀剣が製作されていた。
古刀の時代には、山城、大和、相模、美濃、備前(五ケ伝と言う)などが高名であり、新刀の時代には摂津、武蔵、加賀、肥前、薩 摩など各地も加わった。新新刀の時代にはその生産は全国規模になっている。古代より刀剣製作のなかった地方はないくらいであり、それぞれがその地方の鍛冶の特徴を維持しそれが日本の刀剣の一つの魅力となっている。

形状による分類

刀は同じように見えるがその形状で分類される。

反り

ほとんど真っ直ぐな刀は珍しく何らかの反りが付いている。反りは対象物を切断するために物理的に必要であり、製作は難しくなるが実用面とその形状で評価される。反りが手元にあるか、真ん中にあるか、先にあるか、また深さで分類する。

刃の付け方

古来多くの日本刀はしのぎ造りと呼ばれ、刀身の側面に線が入り刃を形成している。これに対し直刀はしのぎ線がなく平造りと呼ばれている。 その他しのぎ線が刃先に寄りしのぎ地がない切り刃造り、片方のみしのぎがある、片切り刃造りがある。

背中の部分

刀身の背の部分、みねの形が上に尖っているのをいおり棟と言う。角が落としてあるのを三つ棟、上が平らのを角棟、丸いのを丸棟と言う。

切っ先の例

切っ先の例

切っ先の例

大きな切っ先の刀は新新刀期の「南紀重国」銘。かさねが厚く実用的な刀。中直刃。小さな切っ先の刀は古刀期の、推定「三原」。細直刃。