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 26 、ロビンソン・クルーソーの武器と西欧文明

-17世紀後半欧州の前装銃―      2019年3月

(はじめに)

英国の小説家ダニエル・デフォーが1719年に刊行した小説、
「ロビンソン・クルーソー冒険談」は小説とは言え、当時の欧州市街、無人島、未開地、イスラム圏様々な状況を知る得難い物語だ。
少年の頃に、子供版を恐らく10回は読んだ。
最近、「唐戸 信嘉訳、光文社古典新訳文庫本」を読み返した。
少年版には略されていた多くの重要な事実を発見した。

画 N.C.ワース

(彼の28年間の無人島生活は17世紀後半欧州の縮図であった)

ロビンソンは船乗りであり開拓者で、商人でもあった。
ポルトガルが独占していた大航海時代から、産業革命の息吹が見えた移行期に不幸ながら漂流し無人島において一人で暮らすことになった。
彼は無人島で神への信仰と理解、聖書精読、解釈に励み、信仰人としての自分を確立した。物語、全編に新訳、旧約聖書、詩篇からの引用がある。プロテスタントとカソリックの心の中での葛藤もあった。

(彼は欧州人、勤勉であった)

知っている技術をもとに、創意工夫、知恵、観察などで身についた能力だけで様々な問題を解決した。
大工、土木、木こりなど重労働、職人として篭、土器、燃料など製造作業、衣類、傘、帽子など、道具も自分でデザイン、作成した。
さらに農業者として穀物栽培、保存、加工(自然の葡萄をレーズンに)。牧畜家としてヤギの牧場、子ヤギを捕まえて柵の中で飼い増やした。採乳してバターやチーズを加工。
狩猟者、漁労として採取、銃で様々な鳥獣を撃ち、定期的にウミガメを捕まえた。
航海者としてカヌーを設計、自作し島を回り、他の難破船から必要なものを採取、物資調達した。海流の観察をした。
燃料として樹木から炭を作る、獣の脂から照明を工夫した。
科学者として気候の周期、雨や陽をふせぎ健康を維持した。
恐らくやってなかったのは「鍛冶」の仕事くらいではないか。
綿密な計画を立て、人を使う経営者としても後半は能力を発揮した。
つまり個人ではあるが、作者はロビンソンに当時の産業構造を
表現した。

(ロビンソンの武器と火薬、弾丸)

画 N.C.ワース

自分が難破した船から筏で島に運搬した武器リストは
上質の鳥撃ち銃 2挺、 普通のもの1挺、計3挺
拳銃 2挺、 マスケット銃 7挺、 火器合計12挺
角製の火薬入れと皮革製の小袋、 火薬樽 3個(ひとつは冠水)
鉛板 7枚(重いので斧で切って運んだ)
銃弾 2樽、  散弾 大袋

(ここでいうマスケット銃は58口径ほどの重たいフリントロック銃のことであろう。鳥撃ち銃は身の薄い軽めの銃床の小さい同じく58口径ほどの銃であろう。拳銃はフリントロック、50口径ほど。)

17世紀前半のポルトガルの銃各種(パーフェクトガンより) 
火薬(黒色)は100kgあったが小分けにして洞窟内に収納。
水に濡れた樽も後に開けてみたら回りは固まっていたが真ん中の30kgは健全だった。
マスケット銃も鳥撃ち銃も1発発射に10g程度の火薬を必要とするだろうが、この分量では万発規模撃てる充分な量あった。
これは当時の船は大砲を装備して大砲に使用する火薬量はけた違い
であったからだろう。

後に、難破したスペイン船からは数挺のマスケット銃は必要なしと持ち帰らない。特大の角製火薬入れに2kgの火薬 光沢のある鳥撃ち銃用の火薬などを手に入れた

銃の手入れ、修理、火打ち石、鉛板からの銃弾の製造などに関しては具体的な記述はないが、
ロビンソンは毎日、外出する際は必ず銃を携行した。

(ロビンソンの戦闘)

非常に警戒心の強い彼は砦化した住み家に、海岸で足跡を発見してから、囲いの土手に7つの穴を空け、各々にマスケット銃を差し込み、
2分間で7発発射できるようにした。

フライデーを人食い土人から救った戦い)
マスケット銃4挺に各々散弾と普通弾2発、多めの火薬を装填
鳥撃ち銃拳銃2挺に各々2個の弾丸を装填 

画 NC ニコル

フライデーを助けた際には2挺の銃と剣を携えていた。
スペイン人2名を人食い土人から救出する戦い)
すでにフライデーには銃の装填や操作は教えてあった。
各々がマスケット銃3挺と拳銃を1挺、マスケット銃には通常弾の他散弾を2発、拳銃に通常弾2発を装填し、21人の土人に向け、出来るだけ近づいた距離から、2人で一斉発射した。救ったスペイン人に拳銃、剣を渡して彼等も戦闘し、生死不明で逃走した1名を除く20名を殺害した。救助したスペイン人の戦うさま

欧州の火器と剣の威力は絶大で、2人と助けた2人、計4人で20人を殲滅した。

(17世紀欧州の貿易、金融制度の先進性と植民地経営と物語)

この物語の基盤は欧州の航海時代と植民地経営である。
ロビンソン自身もブラジルで農園を運営していた時期、欧州との往復でこの不幸に遭った。救出され欧州に戻ってからも、彼のポルトガル船長に貸し付けていた資金、ブラジル農園の利益は確保されていた。つまり、欧州においては航海による通商、投資や貸付による金利、それらの為替送金などの制度が確立されていた。

これは国際的な経営や企業の基礎となる法律、制度が存在していたからだ、植民地経営はこのような仕組みで行われていた。
単純なる搾取や、略奪によるものではなかった。(この時代以前にはスペイン人の中米への侵略はあったが。)
日本は17世紀初頭、すでに30万挺の銃を備え、人口の10%は戦闘階級であったので、仮に欧州人が来ても割の合わないことになっただろう。(「日本の火縄銃」より)
ロビンソンは、金、金貨、銀貨など各種通貨も難破船から島の洞窟に持ち帰るが、靴下の方が良いと吐露したように、モノがなければ貨幣は必要ない基本的経済理論も物語は象徴している。

反乱を起こした水兵の武器も奪い処罰した。秩序を守らぬ者には徹底した行動と制裁をとった。そして、船長を助け、その船で島を離れる。法や秩序の理念はこの時代、すでに欧州では確立されていた。

(物語の米国開拓と産業革命へのつながり)

砥石(丸型)を道具の整備に使用した。動力を使う方法は当時あったようだ。それも彼は工夫し、道具類の手入れをした。
ロビンソンの無人島での生活は全てが当時の欧州の文明の基本的な技術と論理に支えられていた。船、鉄、火薬、大砲、銃など。
特に帆船、火器と火薬に関する記述がなければこの時代の背景が分からない。

当時の帆船

この小説が出たころ、英国からメイフラワー号を象徴する開拓民が米大陸に移動、定着しつつあった時期だ。米大陸における開拓民の信仰や生活はロビンソンにモンタージュできる。
そして、ロビンソンの信仰、勤勉、工夫、警戒心、効率、価値観などは当時の西欧の規範であり、それらが無人島で彼が工夫したように社会が効率を求め産業革命が100年も経たずして西欧では遂行されたと、この物語は語っているようだ。
なお、17世紀当時火器は日本には残っていないが、欧米でも同じで、火器の現存品は博物館でしか見ることができない、貴重なものだ。
作者のデフォーは、恐らく幾人かの実際の漂流者を取材し「ロビンソン」を作り上げたのであろうが、この物語には17世紀の西欧がそのまま描かれていた。
ベーコン、ホッブス、アダム・スミスなど当時の学者の知識、契約、国富などの概念が背景にあったのだろう。

(参考と写真、イラスト)

Perfect Gun by Rainer Daehnhardt
Robinson Crusoe by Daniel Defore Illustrated by N.C.Wyeth
ロビンソン クルーソー デフォー唐戸 信嘉訳 光文社

日本の画家が描いたオランダ船、19世紀初頭の日本が欧米の大型船を知らなかった分けではない。

終わり

 25、ハリス公使の遺物か?「貴重」な下田のペッパーボックス拳銃

静岡新聞平成28年3月4日の社会面に出た記事だ。
下田の旧家でペッパーボックス拳銃が発見され、伝えられるところによると
最初に日本に外交官として来た、タウンゼント・ハリスが所持しており、江戸に公使館が日米修好通商条約締結のため移転する際に世話になった人に贈呈したものと言われていた。以下のその新聞記事であり、後輩の新聞記者に意見を求められた私はこの方式の銃とハリスの時代、それ以前、日本には輸入された記録がない、また護身用(軍用でない)、保存状態などからハリスのものであった可能性が高いというコメントを述べた。(記事になった)

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静岡新聞平成28年3月4日

①ペッパーボックス拳銃とは

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前装填式輪胴拳銃以前、1830-50年ごろの銃身が回転するダブルアクション方式拳銃でデリンジャー型から長銃型まで数十の種類がある。管打ち(パーカション)を使い、ダブルアクションが普通である。引き金を引くと、銃身が時計回りに回転して棒型の引き金が上がり、所定の位置で落ちる。
サミエル・コルトが特許を取得、1840年代に多く制作された。引き金を引く指に力がいる、その分撃鉄を挙げるバネが弱いのか不発が多い。(実験画像より)
重量が1kg以上で、重い。軍用ではなく護身用である。
名前の由来は「胡椒引き」に似ているからだ。

②静岡新聞の記事内容

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発見の状態

結構大きな記事だ。社会面25×25㎝くらい。地元の人が家財整理をしていたら、箱入りの一挺の珍しい形の拳銃が出てきた。由来は下田市・須崎にある旧家に
託した(寄贈したのだろう)もので、その子孫の人が家財のなかで発見した。
写真を見ると錆びてはいるが、未使用で程度は良い。完全である。

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撃鉄の右横に1845という年号、パテントナンバーと製作者(不詳)が刻印してある
前長26㎝、重量1.1㎏、6銃身である。ニップルもきれいだ。全体のバランスから推測すると銃身長は20㎝弱で、口径は.32口径(約7㎜)ほどであろう。
銃口から黒色火薬を入れる。鉛製の球弾丸を入れ突く。ニップルにパーカションを被せておく。撃鉄が接している、1発はパーカションを外しておくのが常識だ。

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発射は引き金を引けば、銃身が時計回りに周り、撃鉄は上がり、銃身が真下にきたら、落ちる。パーカションが破裂し内部の黒色火薬に着火し、弾丸が発射される。
製造年は撃鉄に書いてある。「1845」と、またこの銃は最も一般的なものでサミエル・アレン社の製造だ。日本の登録制度では完全な「古式銃」だ。
米国骨董品業界で完全品を購入しても10万円くらいだ。

③今後の問題点
関係者に聞いたら、警察署が発見者に「任意提出」を求め、警察が持って帰ったそうだ。
通常、判定は警察署ではない。この場合は、発見者は警察署に「発見届書」の発行を求める。警察署は係員が発見のいきさつ、場所、発見者などを聞き取り、
「発見届書」を発行する。発見者は「発見届書」を都道府県教育委員会が行う、登録審査に持ち込み、そこで審査員が古式銃か否かを判定し、古式銃であれば「登録証」を発行、その原書は文化庁に行く。銃砲史学会にも大勢の登録員がいる。
警察署にも意図はある。悪意にとれば、「摘発実績」を上げることができる。
「拳銃」というくくりで、数に入れてしまうのだ。
その際は、発見届書は発行せず、任意提出、処分という形をとる。
「発見届書」を必ず要求せよと何度も言うが、実態に明るくない人たちは
任意に出してしまうのだ。
この銃は登録できる古式銃だ。日本が米国から武器を輸入したのは米国南北戦争が終了した1866・7・8年ごろだ。拳銃は多くない。多くはミニエ方式の小銃だった。多くない拳銃は前装填式輪胴式で、コルト、レミントンなどの口径.44/45などでペッパーボックスはなかったであろう。また南北戦争以前はオランダを経由して高島 秋帆などが細々と書類にした銃器類だけでペッパーボックス方式はなかった。したがって、時代的にも、形式的にもこの銃は古式銃として登録できる。

④下田市としてのこの拳銃の使い方
下田は世界文化遺産に登録しても良い地域だ。「日本がはじめて公に外国人を上陸させたところだ」さまざまな遺跡があるがばらばらだ。

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江戸期には東海航路の風待ち場として栄えた。現在も2.2万人の人口があり、観光地であるが、目玉のない、つまらないところになった。
行政が何か作るべきだ。ハリス以外にも吉田 松陰、ロシアのディアナ号遭難、反射炉、米艦ビアィフィング号遭難など、近くの海中をダイバーに探してもらえば遺物は山ほど出てきて、新発見もあろう。歴史を語れるはずだ。もったいない話だ。
(この項以上)

 24、近藤 勇を狙撃したのはミニエ方式銃か

BS日本テレビ(製作大阪の読売テレビ)の歴史番組『歴史捜査』でのテーマへの協力だった。キャスターは女たらしの「片岡 愛之助」と言う役者。
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近藤 勇 新撰組局長は戊辰戦争の鳥羽伏見戦闘の直前、12月半ば夜、当時新撰組本部が置かれていた伏見奉行所を騎乗で出たところを、狙撃された。
右肩上部を貫通する重傷で、骨と筋肉の破損のため、それ以後、刀をとることができなかったそうだ。

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近藤 勇

いろいろな検証がこの番組の趣旨であり、伏見の人たちによる場所の認定、
記録による怪我の程度、現在の医療関係者の意見などで構成されていた。

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安西博士のコメントも

この事件は、近藤 勇自身は一か月後には明治維新を迎えるこの時期、すでに大者ではないし、歴史上、坂本 龍馬などと同じくならず者的存在であったから大事件でも何でもない。(井伊大老の暗殺などは歴史を変えたと評価されようが)

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小西先生とミニエ銃

我らの小西 雅徳先生が板橋資料館において、「どんな銃で狙撃されたか?」と言う質問に「この時期、もう火縄銃と言うことはない。鳥羽伏見の戦闘がせまり、各藩は洋式銃(ミニエ方式)を装備した藩士を付近の大勢おくりこみ一触即発の状態だった」と語った。
その通りだっただろう。

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ミニエのライフル

それで順番が回ってきて、私がニッコー栃木総合射場で、火縄銃とミニエ方式銃の発射比べを行った。

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予算の少ない番組らしく、交通費もなしで射場に行った。撮影隊は簡単なもので、顔を出さない女性プロでュサー、カメラマン、助手だけだが、手際はよかった。
まずは火縄銃を数発、標的に撃った。

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火縄銃の射撃

それから虎の子のミニエ方式銃(ウイルキンソン)を立射で8発標的に撃った。
その様子を撮影し満足して帰った。

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各々の標的の弾痕を計り、直径が倍近くあるから、威力は倍だとそう言っていたが、訂正もしなかった。その通りに番組のナレーションは入っていた。
弾痕の直径は二乗倍しなければならない。

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火縄銃の弾痕は実際は10㎜

ミニエ方式銃競技は伏射100mだが、立射で撃って呉れと言うので、立って50mの距離でライフル100m標的を撃った。装填が楽であったが銃が私には大きい、重いものであったので、如何にと危惧したが、全弾標的に命中していた。

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人像的なら全弾命中

ミニエ方式銃は.58口径、14.66㎜の大口径小銃だから当時の医師の記録にあるよう右肩の骨を砕いて貫通したなら、死に至る重傷になろう。クリミア戦争、
米国南北戦争の負傷者の写真では腕に弾丸が命中した兵士は、すっぽりと腕が
ちぎれていた。失血死しなかった例だ。

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たまたま火縄銃は射的用の小口径銃であったので、このような差が出た。
私はこの二つの弾丸のエネルギーと命中率からミニエ方式銃はこの火縄銃に
比較して8倍くらいの威力があったと推定した。

この事件、近藤はおそらく夜間と言うこともあり、小口径拳銃で至近距離から狙撃されたのではないか?と言うのが私の推察だ。
当時の夜間、言葉どおり「闇夜に鉄砲」で距離をおいて狙撃などは不可能に
近い。

(この手のあまり意味のない厚かましい取材は断るべきだが、「日本銃砲史学会」が公式に引きうけてしまったので、協力した。)
(この項以上)

 23、江戸期における燧石銃

何度か書いたが、欧州では火縄式の期間は短く16世紀より燧石(火打ち石)

式が主流になった。日本は火縄式の期間は長く、燧石式の期間は短い。

従って日本で燧石式の銃を観る機会はあまりない。

文化5年(1808年)長崎のフェートン号事件以降、同地の高島 秋帆が個人として輸入し、徳丸が原調練で使用したのは図の如く燧石式だ。19世紀初頭ナポレオン戦争期にパーカションは開発されていたが、欧米でも燧石式、パーカッション式が19世紀半ばまで使用されていた。

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高島の佐賀藩への資料に掲載されていたゲベール銃 口径推定18㎜「前装燧石式銃競技」は「軍用燧石式銃」と言う名称で口径18㎜と定義している。

高島は幕府に見せるため、天保12年(1841年6月)約100挺のゲベール銃の一斉射撃を含む調練をおこなった。

ゲベール銃はクリミア戦争などで日本に輸入が途絶えた期間に国産化されたがそれらは管打ち式(パーカション)銃で、陸自武器学校の展示には国産が3挺、オランダ製が1挺ある。

この時期に国産化された銃剣、胴乱などはその後のミニエ式の時代にも使われたようで、残っているものもある。

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熊本松井家のもの

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内部にパーカション入れが入る方式

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銃剣(切断)と装具

同じ頃、画家北斎は燧石式二連短筒の画を残している。このようなものも存在し、また和式拳銃の収容嚢が残っている。

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北斎の漫本より

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和式拳銃収容嚢

徳丸が原調練の図

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100 挺のゲベール銃が使用された。
(この項以上)

 22、オランダ製ミニエ方式銃1865年製

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史料によるとこの粗製銃は世界で初の環孔照門を装着してあったそうだ。
照門は欠落している。逆T字の真ん中に孔、上部が谷になっていたものと
推定される。
幕末に日本に輸入されたのであろう。外観はゲベール銃もミニエ銃もあまり
差はない。ただこの寸法、全長120㎝、銃身長83㎝、二つバンドのゲベール銃はあまりない。ミニエ方式銃の大きさだ。口径はミニエ方式の15㎜弱。
銃床にスタンプが押してあり、P T SNIDERと言う社名とオランダの地名が、そして真ん中に「1865」の年号が。

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どこが粗末な造りと言うと床尾板の鉄が薄いだけでなく、ロックにハーフコックの切れ目がない。(これは米国南北戦争戦場で慣れない兵士がハーフコックにしたまま引き金を引き続けたと言うことがしばしばありハーフコックを潰してある銃も見られる)それに重要なことはロックを銃床に止めるネジが1本であることだ。2本でないと、これは安定が悪い。

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木材質や鉄質は良く、銃身は元は角、先は丸と凝ったつくりである。

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鳶の尾と用心鉄の柄が長いのは打ちモノ兵器としての役割を重んじたか。
ライフルが綺麗に残っていた。
(この項以上)

 21、幕末少年兵の小銃考

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百虎隊像(小銃は短い)

幕末、各藩に於いては少年兵の養成に熱心であった。剣術に始まり、射撃は重要な要素であった。現実に東北の諸藩では少年兵が出陣し、会津、日本松などで今に語り継がれている。薩摩、長州など倒幕派の藩でも少年兵は養成された記録がある。

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火縄銃には明らかに年少者用の鉄砲が存在する。「馬上筒」にひとくくりされているが寸法が中途半端である。では少年兵用の小銃の定義は何か、身長 約150㎝の10代半ばの少年が銃口から前込めできる大きさであろう。

この「土佐三千」銘の和製ゲベール銃がそうだと考えられる。
会津の百虎隊は、成年用の小銃を切り詰めたと言われているが、この銃は
①軍用銃である。②年少者用である。と言う物理的な理由から土佐藩の少年兵用に製造されたゲベール銃であろう。

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頑丈な造りである
全長123㎝(通常より10㎝短い)、銃身長86㎝(10㎝短い)、口径12㎜(ゲベールは最低でも14㎜ちかくある)、銃床は通常の三分の二ほどの大きさだ。(通常厚さは5㎝ある)

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(独特な輪、先のかたちにバネの役目をさせている)

昭和になり南部で開発製造された三八式小銃型教練銃7/8サイズを彷彿とさせる。しかし「これは猟銃を小柄の人のために造ったのだ」と言う意見もあろうが、猟銃なら、床板鉄、先に長い銃床、銃輪、銃口金などわざわざ銃の重量を増すものは付けない。和銃の形式は照星、照門それに銃輪の形に残っている。


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恐らく他の藩でも同じような形式のものは存在したのであろうが、現在に残ってない。

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(上質な木材だが暴れてしまい、ロックが外れている)
握りの小ささからも手の小さい射手用だ。幕末、少年兵養成は明治になり富国強兵化の時代に成人した彼らが日清戦争などに指揮官として活躍した基礎となったとも考えられる。(この項以上)

 20、ミニエ方式小銃の20年間とその性能

概要:ミニエ式小銃は1850年から70年までの約20年間しか、製造・使用されなかったが、銃砲史上最も有名な小銃方式のひとつであり、主に英国エンフィールド工廠、米国スプリングフィールド工廠などで多量に生産され、クリミア戦争(1853-56年)、米国南北戦争(1861-65年)などの大戦争で使用され、およそ数十万人がこの銃の犠牲になったと推定される。

image001エンフィールド歩兵銃(写真1)

1、ミニエ方式以前のライフル銃
銃弾に回転を与えると丸玉でも直進性が増加して精密になり、射程も長くなることは古くから知られていた。ライフル銃は米国で猟銃として開発され、俗に「ケンタッキーライフル」「ミズリーライフル」と呼ばれていたが、銃工の手作りによるライフル刻みだった。
NRA博物館やメイン州博物館(ホットワースの例)に模型があるが、ドリルをハンドルで回し、滑腔銃にライフルを刻んだ。生産効率は悪く、高額な銃であった。また丸玉を装填するのが難しくローダーロッドと木ハンマーで弾丸打ち込み、弾丸がライフルに噛んでからロッドで装填したので、時間が掛った。主にバッファロー猟に使用された。ホーケン・ブラザーズ(セントルイス、ミズリー)が銘柄としては有名で、「平原銃」と呼ばれていた。また滑腔ゲベール銃にライフルを刻んでも使用もされた。初期のライフル銃はフリントロック、パーカションロック両方あった。丸玉でなく、回転を与えると椎の実型の弾丸はもっと効力があるという事実も経験的に発見された。

image002米国のフリントロックライフル小銃(写真2)

19世紀になり、ライフル銃方式を軍用に使用できないかは英、独、仏などで研究された。ミニエ方式は仏で考案された前装ライフル銃のひとつで、主に英国、米国で採用され生産・使用された。

image003独ドライゼ銃(写真3)

2、ミニエ方式小銃の定義と性能
ミニエ方式は1849年仏クロード・エティセンヌ・ミニエ大尉が開発した。
初期の軍用前装ライフル小銃で、口径.58インチ(14.66mm )内外のプリチェット弾(底に凹のある椎の実型鉛弾)を黒色火薬でパーカションキャプを使用して発射するサイドハンマー式管打ち銃のことである。

image004エンフィールド側板(写真4)

発射に必要なものは、黒色発射薬、雷管(キャプ)、蜜蝋、プリチェット弾である。射程1000m以上、有効射程は100-200m、発射速度分間数発の能力がある。
蜜蝋はミニエ式銃にとっては、弾丸裾(スカートと言う)の拡張とガス漏れ対策と装填に必要不可欠なもので、村田銃弾薬にも使用されていた。
生産は、主に英国のエンフィールド工廠(長さは3種類、歩兵、砲兵、騎兵用)と米国のスプリングフィールド工廠、その元に30社近いマサチューセッツ、コネチカット、メイン、ロードアイランド、ニューハンプシャー州などのコント
ラクター(下請け)で南北戦争用に生産された。
その他にも英国ではウイルキンソン社、米国ではレミントン社、コルト社、スナイダー社、各国で生産された。軍用にはエンフィールド100万挺、スプリングフィールド100万挺の数あったと推定される。エンフィールドには側板(サイドプレート)に「王冠」の、スプリングフィールドは「鷲」の刻印が打たれている。またエンフィールド銃の多くは、米国の北部、南部連合に輸出された。
パーカションキャプの発明は19世紀初頭であった。底に雷硝が付いている。

image005管、パーカッション(写真5)

 

3、 ミニエ方式小銃が使われた「クリミア戦争」と「米国南北戦争」
① クリミア戦争はオスマントルコを圧迫する露国(220万の兵力)に対抗し、仏国、英国が土国に加担(計100万)がクリミア半島他広い範囲で丸3年間戦い、ほぼ同数15万人ずつ計30万人の犠牲者を出した大戦争だった。1853-56年

image006(画1)

② アメリカ南北戦争はリンカーン大統領の就任により、南部連合11州が独立を宣言して合衆国(北部)との丸5年間の国内戦争である。
北部220万の兵力(35万の犠牲)、南部100万(47万の犠牲)計82万人の犠牲者を出した大内乱であった。戦争の原因はまさしく北部の工業地帯で進行中であった「産業革命」で、そのための奴隷解放であったと言われている。北部ではマサチューセッツ州のスプリングフィールド工廠でミニエ方式小銃が大量に生産された。南部連合には正規軍も大きな工廠もなく、欧州から武器兵器は輸入された。その多くはエンフィールド銃であった。1861-65年

 

③ 普仏戦争 ミニエ方式小銃は一部しか使われなかったが、後に書くプロイセン(独)と仏の全面戦争で約10カ月間、双方100万人規模の大戦争であった。1870-1871年
④ 欧米大戦争の日本への影響
1853-56年、1861-65年、日本は開国していたが、上記の戦争のため欧米からの圧力は比較的小さく済み、武器兵器輸入は供給が少ない状態だった。米国南北戦争終了と同時に多量の武器兵器が日本に輸入された。その後、明治維新(1868年)直後、欧州は戦争が続き、その間に日本は兵器国産化の努力がなされた。

4、 ミニエ式小銃の優位性
① 前装ライフルであるが装填が楽である。
② 弾丸が大きく威力ある。
③ 命中率が高い。
④ 有効射程距離が滑腔前装銃の約3倍あった。
⑤ 規格工業製品として製造されている。(部品の互換性がある)
⑥ 整備が楽である。パッチは使わない。

image007砲兵銃の射撃(写真6)

5、ミニエ式小銃の欠点
①戦闘における発射は、「伏射」か「膝射」の姿勢が一般的だが、装填のために兵が立ちあがる必要があった。(膝立ちの姿勢でも装填できる)
②弾丸が大きすぎた。当時でも軍用口径は12㎜以下で十分であったが、
プリチェット弾は底にくぼみをつける、浅いライフルで回転させるために
口径が大きくなった。

image008プリチェット弾(写真7)

③携行弾数が少ない。胴乱のサイズから15発くらいではなかったか。
④銃剣の使用法が中途半端になった。銃剣を装着すると装填がし難い。
⑤サイドハンマーのためバランスが悪いと言われた。
⑥玉割りが難しい。細かい調整が必要である。

 

6、ミニエ方式小銃のライフル形式
筋の数は3条から5条まであるようだ。戦争中の製造は数が少ない。
筋の形には3種類あり、それらが将来、エンフィールド型とメトフォード型に
分かれたものと思われる。ライフル旋は1㎜程度と推定する。
ミニエ式小銃を発射しての経験では.58口径と言われているが統一されてない。
.577から.585くらいまでの幅(約2㎜)がある。このため、所謂「玉割り」が難しい。少しでも大きな弾丸は入らない。小さい弾丸は装填も発射もできるが、弾丸に回転が付かず椎の実弾が横転する。正確には飛ばない。
火薬の量も難しい。少ないと回転不足になる。多すぎると弾丸の裾(スカート)が壊れてまた横転するなどの問題があるからだ。「手銃論」によれば、最大到達距離を得るため銃身を上向けて発射しても頂点で回転を失うとしている。
これは現在のライフル銃でも同じ理論である。

image009(画2)「手銃論」より、イはエンフィールド、ロはラチェット、ハはメトフォード

7、ミニエ方式小銃の工業的背景
16-7世紀の産業面での優位性は欧州ではなくアジアにあった。
18世紀末英国で勃興した「産業革命」は動力と鉄を多く使う、工場制機械工業化が進行した、良質な鉄は兵器には必要不可欠なものであり、銃腔の削刻は鋼のドリルと強い動力が必要であった。大型反射炉とコークス燃料は良質の鉄鋼を多量に生産して、蒸気機関は動力の源となった。
しかし兵器産業は産業革命の後発産業とも言われている。
まとめると①鉄、②燃料(動力)、③規格化 メートル法など、条件が兵器生産を大規模化させた。(中江 秀雄名誉教授講演より)

社会構造の変化は、軍隊を近代化し組織、制度、訓練、兵站、戦略などが進化した。社会的には資本の蓄積、大規模投資が行われた。

第一次産業革命は一単位として約50年間かかり、英、ベルギー(工業に於いては別格の地位があった)、仏、米、独、露、日と言う順で進行したと言われているが、日本の場合は西欧諸国に100年間遅れ、30年間で追いついた。「明治三十年制定兵器の例」)また大型兵器、艦艇、大砲への軍備の変化と、交通つまり艦艇、列車による兵站近代化に貢献した。

8、ミニエ方式銃の代表的弾丸形
ミニエ方式銃弾丸は椎の実型で多くは横筋が3本(2本のものもある)入っている。筋がライフルに噛み、弾丸に回転を与えやすくする。筋のないものもあり、尖頭でないものもある。
弾丸の製造は丸玉より手間が掛り、さらにタップによる成形と蜜蝋の塗布が必要である。日本のものは筋がなかったと推定される。(エネルギー効率が悪い)

image010各種の弾丸、左は日本製(写真8)

9、同時期の他国、独、仏のライフル小銃
独と仏は未完成ながら長い撃針を使う後装銃を開発使用していた。
独(プロイセン)のドライゼ銃(日本名ツンケール銃)口径15.4mm
熕棹(ボルトアクション)で閉鎖が出来たが、弾丸底の雷管を叩く方式で、
有効射程距離が短かった50万挺生産された。

image011シャスポー銃(写真9)ゴムをパッキングに使う

仏のシャスポー銃、ドライゼ銃と同じボルトアクション・長撃針銃で1866年開発、口径11㎜、有効射程はドライゼより優れていた。120万挺生産された。
いずれも閉鎖が完全ではなかった。弾薬を紙包→底部金属→金属薬莢と進化させた。まだチェンバーと言う考え方はなかった。排莢にも問題があった。

10、ミニエ方式小銃の改造と後継
ミニエ方式小銃は1880年代半ば、兵が立ちあがって装填する必要がないよう後装式に改造された。
スナイドル(英国、米国)、アルビーニ(ベルギー)方式がそれらである。すでに独、仏の後装式小銃が出現していたので、自然な発想であった。
ミニエ式銃の後部を横もしくは前に蝶板を使い開くようにして後ろから弾丸、火薬、雷管が一体化した弾薬を込めた。これにはボクサー雷管の出現が貢献した。ミニエ方式からの改造が一般的だが、新たにも生産された。(改造銃と新たに「スナイドル銃」として生産されたものは区別される。)

image012スナイドル改造型(写真10)

スナイドル改造銃なども「閉鎖」が不十分であった。ガスは後方にも抜け、弾薬が金属底、金属薬莢になっても排莢機能がなかった。
結果、閉鎖、排莢の優れた各種のボルトアクションライフル銃になる。

image013底だけが金属(写真11)

ボクサー雷管は火打ち金が内部に仕込まれたもので、金属薬莢底部に装着できた(センターファイア方式)。19世紀半ば、ボクサー大尉の発明と言われている。
(帝国日本軍実包はボクサー型を使用しなかった。)

image014現在のボクサー(写真12)

11、ミニエ式小銃と戊辰戦争 日本が最後のメイジャーユーザー
戊辰戦争で使用された前装式洋式銃はミニエ方式、エンフィールド銃とスプリングフィールド銃が多い。
米国南北戦争の終結(1865年)とともに、主に英国に負債を抱えていた南部連合の銃、十数万挺が日本に欧州商人を経て輸入された。戊辰戦争でスナイドル改造銃はわずかしか使われてないが、明治になりミニエ方式はスナイドル方式に小石川小銃工廠で改造され、金属薬莢の弾丸製造機も輸入された。
明治十年、西南戦争ではスナイドル改造銃が使用された。
興味深い点、日本は銃のみを輸入しその他の装具、弾薬入れ、パーカッションキャプ入れ,負い皮、帯は国産のものしか使用してない。いずれも牛革に漆仕上げで質的には高い。家紋を入れたものが多い。日本製胴乱と管入れ(下)

image015(写真13)

image01616発、限度だったのではないか?(写真14)

12、発射法と競技 火縄銃との比較
ミニエ方式銃の国際競技は100m伏射、13発(10位までをとる)、拳銃用ターゲットを使用する。パッチの使用と競技中の清掃は禁じられている。
100mの距離では命中率が良いのか口径が大きいので同弾率が高く二枚の標的に6発と7発撃ち分ける。欧米ではミニエ方式小銃は人気があり、参加者は多い。銃はオリジナルのみで細かいところでは様々な規則があるので、銃器検査で一番揉める種目でもある。筆者は1980年頃、日本前装銃の米国研修でミニエ方式銃射撃を習った。2011年、環太平洋大会でこの競技に出場した。
火縄銃も同じ方式の競技があるが、オリジナルとレプリカが分かれ、ミニエ式と異なるところは距離が50m、標的がミニエの約4倍のフランス陸軍200m標的を使う。これで計算してもミニエ式小銃は日本の火縄銃の数倍以上の命中率があることになる。滑腔銃は有効射程が100mを越えることはない。ミニエ方式ライフル銃は有効射程が200m、近代ライフル銃で400mくらいだろう。例えば日本の十匁筒(弾丸33g)と言われる火縄銃は100mの距離では有効射程を越えるがミニエ方式はほぼ同量の弾丸(31g)で、火薬量は少ないくらいだが、有効射程距離は4-5倍になろう。(有効射程距離は50%の確率で人像的に命中させる能力)

image017

(写真15)

その後、日本の火縄銃と、ミニエ方式の小銃の性能に関して実験を何回か実施したが、まだ計算式などは出来てない。様々な条件、①命中率から推定した有効射程距離、②発射速度、③耐久性、などの比較だ。(標的参照)
日本の火縄銃は100mの距離であると現在50mで使用している標的に命中する
確立は非常に低い。従って有効射程距離は5-60mではないか。一方、ミニエ方式銃は100mの近代ライフル標的でも十分に命中し、推定有効射程距離は200mある。発射速度は日本の火縄銃は1分間に3-4発、ミニエ方式小銃は6-7発撃てる仕組みだ。白兵に於いての耐久性は日本の火縄銃は役に立たないが、ミニエ式小銃は銃剣を付け、また銃床には厚い鉄板が張られ、それ自体十分な打撃武器となる。数量的に比較するのは難しいがミニエ式小銃は日本の火縄銃の10倍くらいの有効性能があったのではないか。

image018各種実射試験の様子(写真13)

13、ミニエ式小銃は日本で生産されたか?
所 荘吉氏の「古銃事典」には少量、生産されたと記されている。
輸入または国産化したゲベール銃にライフルを刻むことによりミニエ方式小銃は造ることができる。だが、私が観察した明治維新前の火縄銃以外の国産銃は材料が、工作が良くない。また規格品でないので、近代銃としての部品の互換性などと整備がし辛く、実際の運用には厳しいものがあった武器のように見えた。外国の文献、オークションには日本製ミニエ銃と言うものが出ているが。

以下、佐賀藩の射撃記録、ご協力を得て鍋島文庫資料より引用する。

① 慶応元年二月(1865年)大銃製造方にて家中より長短2挺のエンフィールド(線)銃を見本として差し出す。(佐賀藩ではエンフィールド銃を輸入してある程度配備していた。)
② 慶応元年七月「八匁雷銃」(口径16㎜のゲベール銃ではないか)をエンフィールド(線)銃に変換する方針である。諸与組(佐賀藩では600名単位の小銃隊)を対象に。
③ 慶応元年八月、長短のエンフィールド(線)銃の発射試験の結果出る。
歩兵銃、距離600ヤード、90発の結果。角(21-28㎝の板)4発(4.4%)
幕(一間四方と推定される)10発(11%)、切剥(幕の裾ではないかもしくは横転弾)25発(28%)、葉内(バックストップの砂ではないか、大きさは通常5m四方くらい)35発(39%)、玉落不相分(弾痕不明)16発(18%)と記録されており、更に、700ヤード、900ヤード、1150ヤードと試射したが有効射程は角とすればとても実用にならない成績だった。
ところが、短い銃(砲兵か騎兵)だと600ヤード、60発、角に14発(23%)、幕に16発(27%)と良い成績だった。(近代ライフル銃でも550mで角に
当てる自信はないので、この距離の設定はひと桁異なるようにも感じる)
④ 慶応元年九月 「火術方」(佐賀藩における洋式兵装教導部)の判定は短いエンフィールド銃がめり込み(威力)は少ないが命中率が良いと判定。
⑤ 慶応三年、エンフィールド銃を製造準備していたが、藩内で製造するより
輸入する方が安価であるので、生産計画を中止して「細工道具」(工作機械)を売却する。とある。

image019

外国資料にある日本製ミニエ式方式小銃(図3)

縄武館の「手銃論」は慶応三年に日本で初めて活字印刷されたミニエ方式小銃の理論と運用の教本ではあるが、恐らく翻訳、印刷などに2-3年は掛っており、日本にミニエ方式式エンフィールド銃が紹介されたのは慶応(1865年)より数年前、であったと推察される。しかし欧米の大戦争の需要のため輸入が難しく、価格も高額であったのだろう。

image020大鳥 圭介が訳したという「手銃論」(図4)

日本が輸入したミニエ銃はエンフィールド、スプリングフィールドなど米国南北戦争の中古品であった。日本人が使うには銃床がやや長いのが欠点であり、それを短くした実物も存在する。(陸自武器学校小火器館展示)
明治四年、仏ジョージ・ルボン大尉のもと欧州から兵器技術顧問が来日し、小
石川にて兵器国産化の教授をしたが、小銃を担当したベルギー人銃工、フィリップ・ジェリー技師が各藩より新政府に返還された18万挺の小銃のなかよりミニエ方式小銃をスナイドル方式、アルビニー方式に改造する作業を行った記録がある。一番効率的な方式で村田銃国産化までの時間を稼いだ。明治初期の明治政府の小銃数は15万挺ほどと推定される。
(村田銃が14万挺生産された)

結論:
18世紀末から欧米の産業革命は様々な近代的な生産方式、商品を生みだしたが、武器兵器に於いても例外ではなかった。
燧石銃から管打ち銃(パーカションキャプ)へ小銃発火方式は移行し、滑腔銃からライフル銃の優位性が認識され、丁度、日本がフェートン号事件で海防意識に目覚めた頃、さまざまな効率的、強力な兵器が開発された。
小銃だけでなく、各種の砲、艦艇(フルトンの蒸気船)その他さまざまな兵器で欧米の軍事力は日本からみるとはるかに遠いものとなった。     12

ミニエ方式小銃、機構上はドライゼ、シャスポー式などの独仏の小銃より旧式
な方式であったかもしれない。しかし歴史上、特記すべき欧米の大戦争に使用され、近代的兵器の代名詞のようになっているが、実はわずか20年間しか、生産、使用されなかったのだ。しかも最後は日本の戊辰戦争、明治維新、新政府の安定(西南戦争)と重要な役割を果たした。戦争は我彼同じ兵器を使うことは少ないので、兵器・装備品の優位性は今も昔も必要不可欠な要素である。
(以上)

協力と文献:
ディビッド・ブリスデンIMLSA会長
フランク・ケッパー氏 USMLSA会長
サイロス・スミス夫人 元USMLSA会員
佐賀県教育委員会 世界遺産調査室 前田 達男氏

大鳥 圭介訳「手銃論」縄武館
長谷川 貴彦著「産業革命」
Civil War Weapons by Graham Smith
「兵器技術教育百年史」 工華会編
金子 常規著「兵器と戦術の世界史」中公新書
小山 弘健著「世界軍事技術史」 芳賀書店

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1865年オランダ
P STEVENS 社製造刻印

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 19、長大和式海老尻栓銃

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海老尻栓式は前装から後装への過渡期に出た方式で、閉鎖を横から入れる板バネ付きの鉄板で行う。ボルトの後ろが海老の形をしているのでそう呼ばれるが、元は英国のウィルソン銃であり、一般的な長さの歩兵銃である。その機関部を使用して、和式銃床に採用、狭間筒として使用したのであろう。

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無銘、全長170㎝、口系14㎜、銃身長が147㎝あるので、前装では時間が掛るので、元は前装であった狭間筒をこのように改造したものと思われる。
装填は横板をその板バネを押さえて抜く、海老尻を上げる、ボルトを抜く、と言う手順で開ける。海老尻も銃床に沿い閉鎖を助けている。玉、火薬を装填する。火薬は包の場合はニップルから針金で包を開けて置く、ボルトを入れる、海老尻を倒す、横板を入れる、撃鉄を上げる(元の英国のものがハーフコックもありしっかりしている)、雷管を被せる。
と言う手順を取る。前装に比較したらはるかに手順は楽だが、果たして、この長さ、口径の火薬量で完全に閉鎖できたか。漏れたガスが射手の顔に当たるのを防ぐため、被いがネジ留めされているが、これは後の作業だろう。

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海老尻栓銃自体が珍しいので、このように和銃に改造されたものはあまりなかっただろう。(この項以上)

 18、「国産ミニエ式小銃」は存在したか?

フレッドLハニーカット、F.パットアンソニー著「ミリタリーライフルオブジャパン」を久しぶりに眺めていた。このようなテーマ研究も日本より先に外国で行われていたとは、戦後日本の屈折した武器兵器史の一面を見るようで嫌だ。最近は自分でも独自に研究したので、外国人が気付かない点、矛盾、間違いなどにも気が付き、鵜呑みには出来ないと言うことがままある。
この本は良く出来ている。A4の横版で、銃の写真に向いている。

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最初に出てくる銃が、1955年英国エンフィールドモデル(ミニエ式前装銃)の
日本複製品(コピー)の写真だ。米国では1861-5年、米国南北戦争の主力兵器だった。北部軍は主にスプリングフィールド工廠で生産し、南部軍はレミントンで生産した。その他に数え切れないほどの英国エンフィールド銃(タワー)が両軍ともに輸入された。前装ライフル銃は1855年、フランスのミニエ大尉の発明だ。構造は何回か説明したが、弾丸後部がホロー(くぼんでいる)椎の実型を、薄い3-4條のライフルが入った銃腔に銃口から装填する。火薬の炸裂の力で、弾丸のスカートと言われる後部が開いて、ライフルに噛む。
口径は.58(14.66mm)となっているが.577くらいから.585くらいまであり、玉割りが難しい。大きすぎると入らない。小さすぎるとライフルに噛まない。
国際前装銃連盟のこの銃種の競技は300m伏射で行う。大体、この時代の前装銃の有効射程が100m内外であったのに、ミニエ式はライフル銃で、3-5倍の能力があった。しかし射撃に慣れるには難しい。単発だがそう数多く、続けては撃てない。装填には立ち上がらねばならない。日本でも戊辰戦争に米国南北戦争終結のタイミングで中古銃を数十万挺輸入したと推定されている。
しかし、明治になると後装填式のスナイドル銃に多くが転換されてしまったか、
輸出された。
私の研究では日本の、1860年代のライフルのない滑腔管打ち銃のロックを観察しても西欧のものを真似てはいるが、品質はその水準ではない。これは「産業革命」のせいだと思う。産業革命により良質な鋼を多量に生産し、削り出し技術で、同じ部品が他のロックにも使える、銃砲は産業革命が生んだ工業製品だったのだった。だが、日本は手造りであり、部品の堅さ頑丈さ正確さ、またロックそのものにも互換性があるものは少ない。それにライフルだ。日本では明治に機械を輸入するまでライフルを切れなかったし、一部にはライフルの理論も理解してなかった。(単なる角い真っすぐで回転しない銃腔を造ってあった例もある)
また私が石川県の登録で所持しているミニエ式銃は、長州県下の壬申刻印が大きく焼き版で銃床、左右に入れてある。しかもロック地板は削り上げたか、酸で処理したか、何の刻印も文字も残されてない。この銃を見る限り、まったく出目は分からない。しかし分解し、ひとつひとつの部品を丁寧に調べた。
とうとう発見した。1㎜ほどの小さな刻印だが、スプリングフィールドの「鷹」だった。長州藩が輸入し、民間に払い下げたものだろう。刻印や文字を消したのは日本の作業か、輸入前の作業かは分からない。しかし照門がハンダ付けで、スプリングフィールド工廠の特徴があり、また銃床、銃身のサイズもオリジナルと同じだった。
だから、何かこのようなものを日本の「エンフィールドコピー」としたのではないか。だが、私はミニエ方式のエンフィールド銃やスプリングフィールド銃が活躍した時代、1885年くらいまでには、日本にはその技術はなかったと確信する。
日本が欧米なみの武器兵器を造れるようになったのは明治になっての経済学的・人文学的にも、「富国強兵」「殖産興業」による『産業革命』が進行してからだ。
(この項おわり)

 17、藤岡流短筒の管打ち変換例

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無銘であるが、備前筒の台、先、藤岡流短筒であっただろう。この見事な台をそのままに火縄式から管打ち式に変換してある。鉄質は良い。ロックの出来も日本製とは思えぬほど水準が高い。恐らく身分の高い人、もしかしたら民間人とも推定されるが、日本製の収容嚢に入れていたのだろう。

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ロックが日本製と確証されるのはハンマーの形状だ。親指で上げることが出来ない。手でつまんで上げる。現在はハーフコックの位置で固定した。
尾栓に特徴がある。銃身が火縄式のものであった証拠だからだ。尾栓が長いので、内側をくり抜き、ニップルが入る位置に穴を開け、尾栓から銃身内の発射薬を発火させる方式だ。長い改造鉄砲にもあっただろうが、珍しい。ニップルを外さないと、尾栓もはずれない。

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またニップルのネジ部の長さだ。これも通常の倍くらいある。
諸元は全長45㎝、銃身長24㎝、口径9.5㎜(一匁)
台は本物の虎布目で木材を縦に磨いて行くとこのようになる。
(陸上自衛隊武器学校展示品 無稼働)