火縄銃



3-6、狙撃照準眼鏡

2.5倍と4倍がある。眼鏡の目的は狙撃目標を捉え、遠距離での命中率を上げると同時にレンズは薄暮の状態では目標が明確に捉える。また倍率を上げると、視野が狭くなる。
狙撃銃眼鏡、機関銃眼鏡ともに大宮工廠の元、日本光学、東京光学など約20社の会社が製造した。
日本の狙撃眼鏡は個々の銃にすでに合わせてあり、戦場で銃に合わす必要はなく、現代の照準眼鏡のように外部から線をいじることはできなかった。
レンズの線と数字は掘り込みではなく、手書きなので、筒を分解してレンズの曇りや
カビを取る際に注意することが必要なのは、線や数字が消えてしまわない注意をしなければならない。米国の専門家に聞いた話ではこれら日本の狙撃銃眼鏡を分解するにはネジをはずし、特殊工具を使い、外部から7-8の工程があるそうだ。米国ではほとんどの銃と眼鏡は合致してない。また眼鏡の方が少なく、銃はあるが眼鏡はないという状態だ。6.5mm弾と7.7mm弾の弾道が異なるが縦線は両方とも直線。偏流の横軸数字、20と40で分けてあった。収容嚢は軽機の場合、九六式用も九九式用もほとんど同じ形だが、狙撃銃眼鏡は構造や材質は同じでも様々な形、また負い紐が腰に廻るものもある。小銃の左横の横凹型溝の後方から装填する。

 

① 九七式狙撃銃6・5mm用
2.5倍であった。横軸偏流修正は20(経機と同じ)距離は直線縦軸で1400m
東京工廠大宮製2・5x10°㋑2165 収容嚢に昭十六年

 

「脱」と「装」に180度回る柄が表にあり、脱の状態で小銃の架台に挿入し、
装に回すと裏の銃への装着部が三つに分かており、その真ん中が上がり、固定する
機構。簡単だが、確固である。

収用嚢の負い帯が肩掛けだけでなく、腰回りにもあるもの昭和十七年日本光学製の
照準眼鏡のもの。
照準眼鏡を収容嚢に入れるには柄を脱にして、接眼鏡を下向きにする。

 

② 九九式狙撃銃用7.7mm用
2種類あり、2.5倍と4倍。同じ2.5倍でも上記のごとく縦線の長さが異なる。
1800mまで。
多くが4倍で2.5倍の7.7㎜用は少ない。4x13°。
この例は4倍。

機構は2・5倍用と同じである。
収用嚢が太いなどの特徴があり、この眼鏡は現存しているものが少ない。
(以上)

3-5、地上用携帯双眼鏡

最近、保存状態の良いものをみなくなった。戦場を経て、その後の経年でレンズ曇りやカビ
のせいだ。
帝国日本軍の双眼鏡の制定されたものは2種類ある。八九式と九三式だ。

① 八九式双眼鏡
分隊、小隊、中隊の備品として装備されていた。将校の装備品(自分で購入する)としても使用されていた。なお将校の双眼鏡には輸入品もみられる。
八九式はプリズムと明るいレンズを使い、手ごろや野戦用双眼鏡だった。

この現物は将校用が持っていたものだ。R.KUROSAWAとローマ字で名が刻まれている。6倍x10°幅も操作でき、レジャー用としても使い易く、戦後、八九式と同じような商品が各社で製作販売され、進駐軍や朝鮮戦争で日本を訪れた米兵がこれらを土産として購入した。だが戦場で捕られたものは収容嚢が異なる。厚い帆布に漆系塗料仕上げだ。どの社のものも性能は同じだが、これは榎本光学性JESねじ、6万台の製造番号なので、多量に作られたようだ。
表面は皮革のちじみ仕上げだが、痛みがあるものも多い。皮革の帯は健全だ。
レンズは明るく、レンズ各々で焦点を合わすことができる。

 

② 将校輸入双眼鏡の例
私の伯父、須川 濟帝国陸軍航空隊九七式爆撃機小隊長のものだ。ドイツ製ツアィスだが、
勿論、戦場で実用に使ったとは思えない。良い状態で中国から送られてきた将校行李に入っていた。

 

③ 九三式双眼鏡
日中戦争が始まると、分隊にも双眼鏡が必要だとの現場の要請で大宮工廠と日本光学が
苦労して開発した形式だ。4倍x10°の性能で、できるだけ廉価に製造し、また実用を考え小型にするのを目的に開発された。分隊長である下士官用だった。
目幅は左右の筒が上下に稼働する(上60-下70)が、つまり1cm広がる。レンズは個々には稼働しない。
真ん中の転輪で焦点を合わせる。この双眼鏡は比較的に多く残存している。
価格を下げ、全分隊長に持たせるだけの数量を作るには双眼鏡の外装に工夫したらしい。
皮紐、収容嚢の皮帯などには手を抜いてない。4倍の倍率で十分であったかは疑問だが、各分隊長が双眼鏡を装備したという実績は評価できよう。

全製品が日本光学社製

 

 

実射2:十一年式と九九式軽機関銃にみる日本兵器史

はじめに

19世紀後半に出現した新兵器、機関銃は「帝国主義」の象徴的な兵器であった。
機関銃はそれまでのいかなる兵器に比較してもはるかに効果的で、威力があり、緻密な機構を持っていた。その装備と運用には技 術力、生産力、供給力など総合的な国家の力を必要とした。そしてこの兵器はそれを理解し持てるもの(国家)と持てないものと の差を拡大させ、世界に支配と被支配関係を、さらなる対立を作り出した歴史上重要な存在であったと考える。
機関銃の機構(反動利用とガス圧利用がある)、特にガス圧利用は、まさしく同じ頃に出た「内燃機関」、爆発により発生したガ ス圧でピストンを動かし機関部を連続して作動させる仕組み、と同じ発想である。内燃機関が20世紀の様々な機械に活用された 動力源となる、と言う事実と考え合わせると誠に興味深い。
今回のレポートは「一〇〇式短機関銃と九六式軽機関銃」に引き続き、日本軍の主要な兵器であった標記の2種 を実射することで、その性能、開発の背景と、さらに日本の機関銃開発の歴史に触れてみたい。これら実験は前回と同じく、アメ リカ、メイン州のエドウイン・リビー教授の全面的協力をもって、全て合法的に実施された。

機関銃は20世紀を象徴する文明のひとつ。

機関銃開発史をみると様々な興味深い事実に気付く。火器出現以来、何とかしてこれを連続して発射出来ないものか、多くの試み が行われた。19世紀半ばにアメリカの医師ガットリングが多銃身を人力で機械的に回転させて、装填、撃発、排夾を繰り返すい わゆる、ガットリング砲を発明し、各国に発売した。日本に入ったものは戊申戦争、西南戦争で使用されたと言う。(どなたかこ のことに関する記述をお持ちの方は教えて下さい。)
この実物は戦前、靖国神社集尚館に展示されていたが戦後の混乱期に行方不明になったとも言われている。多分アメリカ軍人が他 の珍しい兵器類と同じように持っていってしまっと思われる。筆者のアメリカ滞在中にこれを発見したいものだ。 しかしガットリングは黒色火薬の実包を使用していた。黒色火薬は前装銃射撃経験でも、多量の煙とそれに伴う煤を発生し、銃を 汚し回転不良の元を作り出す。黒色は無煙に比べると同じ威力を出すためには7倍の汚れを発生すると言われてる。
従って、次世代の近代的機関銃が出現する背景には、19世紀後半の無煙火薬発明が伴わなければならなかった。無煙火薬の使用 ははるかに銃身、機関部の汚れが少なく、また安定した燃焼で回転を継続させ、連続射撃を可能にした。

火薬燃焼の圧力を回転に返還させる方式には、
1)後方への反動を利用する
2)銃身の途中から抜けるガスの一部を銃身に平行 した筒に取り、ピストンを動かす
3)この両方を使う
の3方式あった。

中でも19世紀後半、2)の「ガス圧利用」の発明は 画期的なことであったと思う。
また連続発射は薬室・銃身の温度を上昇させるので、その冷却も大きな課題であった。 実用になる機関銃を商品化し、これが長く世界で使用されてのはマキシム型であった。それに続き、ホッチキス、ブローニング、 ルイスなど様々な形式が、第一次大戦にかけて開発・商品化された。他にも様々な型が存在するが、ここに擧げた4種に関し、興 味深いことは、全てアメリカ人の開発で、ヨーロッパで実用化された、という事実だ。これらはエジソン、ベル、ライトなど20 世紀文明基礎を作り出した発明の数々と同じく、アメリカオリジンの発明につけ加えてよい事実であろうと認識する。ヨーロッパ にも機関銃開発者は多く存在したが、筆者はこの4人に続く開発者として南部 麒次郎氏を擧げたい。残念ながら南部氏によるも のは日本が中心で、一部が輸出されたものの、国際的な商品にならなかった。しかし南部氏の開発は他には見られぬユニークな点 が多々あり、「南部機関銃」としてひとつのカテゴリーを形成していると、言える。
これに対し上記の4形式のものは、欧米をはじめ日本も含め世界各地で生産され、その生産数においては日本の各形式に比較する とひと桁以上の差があった。
この南部氏が開発した機関銃の一部が今回実験した十一年式と九九式である。

日本の機関銃開発と生産

1904・5年の日露戦争は機関銃が大規模に使用された世界で最初の例で、日本・ロシア共に千の単位で装備していたと推定す る。日本はフランスから空冷、金属板装弾のホッチキス型を輸入し、ロシアは水冷・ベルト給弾のマキシム型を装備していた。写 真で見る限り両国共に3脚架を利用する重機関銃で、軽機関銃の例は今まで見てない。
日本はホッチキスを元に1905年に三十八年式重機関銃を制定した。これが1914年(大正3年)の三年式重機関銃となる。 三八式は最近実物を観察したが、単なるホッチキスのコピーでなく、幾つかの日本的な工夫が見られる。特に照星・照門を銃身の 右に持ってきて、銃床を右に大きく曲げた設計は世界初であろう。第一次大戦が始まり、機関銃は単なる地上兵器でなく、車両・ 船舶そして航空機に装備される重要なものとなった。一方、三脚架に載せて固定し、防備的な目的に使用される重機関銃から、携 帯し主に攻撃的な目的に使用される軽量機関銃が重要性を帯びてきた。その成功作のひとつが空冷筒・スプリングを使わない円形 弾倉を使用したルイス型である。またルイスは航空機に搭載された最初の機関銃でもあった。余談ながらルイス軽機は日本でも海 軍工廠で第二次大戦末期に数多く生産された。
日本の軽機は第一次大戦期に幾つかの試作がなされ、その結果、大正11年(1922)に制定されたのが、6.5ミリ十一年式軽 機である。その開発は南部麒次郎氏で、外国のみならず日本でも「南部式」と言われていた。その後南部氏が民間会社を起こしそ こで開発したのが、同じ6.5ミリ弾を使用する九六式(1936)で、その7.7ミリ弾用が九九式(1939)である。
十一年式はその後、昭和16年(1941)までに総数29000挺が、九九式は5年間に推定53000挺が生産された。十一 年式は18年間継続し生産されたがその品質・形状は一定しており、九九式は5年間に品質は維持してが、形に若干の変化が見られる。

 

十一年式軽機「何故日本軍はこの軽機を最後まで使用したか」

十一年式はホッチキス型の機構を持つ、空冷軽機である。その特色はベルトも、弾倉も使用しない給弾方式にある。当時の歩兵は 三八式歩兵銃を装備し、その装填に6.5ミリ弾5発が載る金属製装弾子を使っていた。各歩兵は24個、計120発の実包を3個 の革製弾薬盒に入れ携帯していた。十一年式はこの5発の装弾子をそのまま使用することで給弾する仕組みである。装填架と呼ば れる箱が機関部の左側に付き、そこに装弾子を6個、30発を重ねて入れる。(装填架は英語ではホッパー、粉を挽く機械の原材 料箱のこと、呼ばれる)強いバネの蓋がありこれが実包を上から押さえる。左側のこう棹(ボルトハンドル)を引くと活塞(ロッ ド)が後退し、そこに刻まれた溝に従い、装槙架底部の送り装置が動き、一番下右側の実包を右に送り込む。勿論その際に円筒 (ボルト)も後退し、撃発状態となる。引き鉄を引くと、円筒が前進し、実包を薬室(チェンバー)に送り込み撃発させる。発射 のガスの一部が銃身の銃口から13センチ後方下部にある穴から下の瓦斯筒(ガスチェンバー)に抜け、内部の活塞を後部に押し 下げる。この力で空薬夾が排夾され、さらに装填架の送り装置が可動し、次の実包を送り、装填、撃発する。これを繰り返し連続 発射する仕組みであるが、引き鉄を離すと活塞が後退した状態で止まり、発射が止まる。
照準(サイト)は銃身・機関部の右側にある照星・照門を使う。これらは三八式・三年式重機を元にした日本独自の照準方式であ る。照星は左右にガードのある、△形、照門はスライド式タンジェント谷型で、基本は200メーター、左の突起を押し前方にス ライドさせると手前が徐々に持ち上がり、一番高くなったところが1500メーターである。
銃身を被う放熱筒前部に2段に高さを調整出来る2脚があり、それを地上に立てて使用する。この2脚は固定出来ない。銃の重量 は装填架を入れて11.5キログラム。

発射速度は分間約500発、「カタカタカタ」という独特の音をたてる。引き鉄のコントロールは楽で2発、3発の点射も容易で ある。5発ごとに金属板の装弾子は装填架下部の窓から落ちて、上から蓋のバネの力で次の装弾子が降りてくる。今回120発発 射するが回転不良は一切なかった。2ー3発の点射、15発くらいの連続発射など様々な撃ち方を試したみた。瓦斯筒の前部には 規整子があり、ガスの強さを変えることが出来る。5段階で穴の大きさがミリで表示してあり、1.0、1.5、1.8、2.0、2.8となっ ている。規整子の役目は発射速度を変えるのではなく、発射の汚れで回転が悪くなりそうになると、ガスの量を調整し、強くし、 回転を安定させるものである。
いずれも標的に弾丸が吸い込まれたいくように当たり、一般の機関銃にありがちな散らばるというような現象は見られない。90 メーターの距離にある標的には30発単位で30センチ四方に約8割が集中している。同弾も随分見られる。

リビー教授は「これで日本軍が十一年式を長く愛用していた理由が分かった。」とコメントした。 この銃は弾倉が必要ないので、銃と弾薬があればどこでも何時でも手軽に撃てる。
皮肉なことにアメリカに存在する日本の機関銃は短機関銃も含め、専用弾倉の不足から使用出来ないものが多い。しかし、この十 一年式のみは弾倉が必要ないので銃さえあれば何時でも使用出来る。装填架は50近い部品から構成されている複雑な仕組みのも のである。さらに機関部の上に箱形の油缶があり、装填する実包1発ごとに塗油する仕組みで、これは三年式重機関銃の方式とブ ラシはないが同じである。
日本の多くの記述で間違っているものは、「十一年式軽機は銃剣を装着した。」という点である。この軽機は日本歩兵兵器には珍 しく銃剣を装着する機構はない。 実物を見ないで記述するから、最初に誤ったものがあるとずっとそれが踏襲されてしまう。勿論現在の日本では研究とは言え兵器 を手にしたり、操作出来ないから無理もないが、この手の間違いは他にも大変多い。

日本軍がこの軽機を好んだのは、
1)弾薬の供給が容易である。歩兵の弾薬をそのまま使用出来る
2)弾倉を必要としない。発射途中でも消費しただけ補給できる
3)回転とコントロールが容易である。引き鉄の具合が良い
4)命中率が高い。集弾率が高い
などである。

一方この軽機は満州事変初期には現地風土とその複雑な機構が合わず、回転不良に悩まされたとの事実があった。し かし、筆者はこの原因は実包の不適合によるものではなかったかと推測する。昭和13年に出現した、新装薬の実包や現在の実包 もそうであるが、適合しておれば問題は少ないと思う。先にも述べたが今回の実験でも一切回転不良はなかった。
しかし、十一年式はその外観を見てもいかにもビンテージで、すでに1930年代後半には時代遅れの感は否めない。

それらの具体的な点は
1)左右対称でないので、保持し難い
2)部品数が多く整備に手間が掛かる
3)機関部を外さなければ、銃身交換が出来ない(替え銃身を装備していた。)
などであろう。

しかし、昭和16年(1941)までかなりの数を生産しており、この機銃の簡便さへの日本軍の期待がみられた。
十一年式の機構はそのまま1929年、「八九式旋回機銃」(航空機で専用銃手が操作する機銃)に転用されている。この形式は 当時整備されつつあった航空機用の機銃とし、重力に耐え滑らかな回転を保持する給弾機構を目的に、5発装弾子を弾倉に入れて 給弾するという設計で1940年頃まで生産された。但し口径は7.7ミリで縁有り(リムド)の薬夾を使用していた。単銃身のも のと、左右非対称なものを合わせた2連銃身のものが存在するが、いずれも高度な製作技術を駆使した興味深い兵器である。なお この銃の瓦斯筒は下部にはなく横に銃身に平行してあるというユニークな設計である。
車載用には十一年式をほぼそのまま採用した「九一式」がある。銃床を外し、握りとし、装填架を高くして10個の装弾子入れ収 容弾薬を60発とした。八九式中戦車などに装備された。装填架は天井に支えず車載用としては最適の給弾システムの一つだっ た。 九一式で始めて1.5倍の光学照準器を備えたが、十一年式には同種のものは装備されてない。

九九式軽機「世界的な商品としても通用する完成度」

九九式軽機は九六式の7.7ミリ版で、その機構・寸法・外観など殆ど同じである。 従ってその構造と特色に関しては今回は省く。 外観上の変化は、殆どの九九式には銃床に折り畳み式の後脚があること、及び銃身の機関部への止め方がくさび型のネジ(二式空 挺用組立式小銃と同じ仕組み)を採用していることである。弾倉は当然若干大型で立っている。横に小穴が開けてあり、夜間でも 触別出来るようになっている。左側の目視照準、右側の光学照準も同じである。
照準は200メーターが基本で目視照準が左側にあるから、近距離においては照門を一番左にする必要がある。200メーター以 上は照門を右に移動させ、銃口が左に動くように調整しなければならない。また近距離では照門を一番低くしてもさらに弾道は低 くなる傾向にある。これは7.7ミリ弾の性能から照準をそのようにしてあると思われる。今回の実験は標的が90メーターくらい の近距離であったのでその傾向を感じた。照門は輪転で上げ下げするが、200ー1500メーターまで。銃の右に装着する光学 照準器は外観は九六式と同じものであるが、左右の偏流修正数字が20までで、7.7ミリ弾丸が強く回転による影響が少ないの で、距離の目盛りが直線になっている。眼鏡は2.5倍で、薄暮の状態では大変使い易い照準である。

九九式軽機の特徴は何と入ってもその「ラッグドアイズ」(頑丈)さにあろう。今回の実験では事情があり、数年間手入れのして ない銃に、さらに機関部に少量の真鍮金属粉を入れてみた。また塗油が必要ない(装弾器には油缶が装着されているが)というこ とから、一切の給油をしないで、発射してみた。その結果多少の汚れ、異物、油の無さなどは関係無しに良い回転を示した。これ は兵器はいかなる状況下でも使用出来なければと言う思想が良く具現化されている。またさらに他の銃の円筒(ボルト)を使用し て発射したがこれも何の問題もない。小銃・軽機共に九九式になり部品の互換性を重視した生産の結果である。また九九式には替 え銃身は用意されてない。クロームメッキされた銃身一本で済ませている。専用のスパナを使うが銃身の取り外しは非常に楽であ る。銃身と尾筒(レシーバー)の間には修正環を入れヘッドスペースを調整するが、これも九六式には無い仕組み。5種類の厚さ の環(シム)が用意されていた。もう一つ面白いのは銃身に附属している銃を下げるための提げ手(ハンドル)である。いろんな 銘木を使い丁寧に轆轤で作られている。こけし製作の職人などに作らせてのであろう。アメリカで有名な「日本兵の軽機を保持し ての突撃姿勢」の絵は、この提げ手を左手で握っている。これは間違いで、このように銃を構えることは出来ない。突撃姿勢で は、銃の2脚を畳込んで、それで銃身を包み込むようにして保持した。2脚は立てて2段、高と低。畳んで2段、突撃姿勢と背負 姿勢になった。この銃は細かいところも良く出来ている。
銃の重量は弾倉なしで9.9キログラム。7.7ミリ弾は鋼芯弾など、各種の弾丸が用意されていた。その各種弾丸の威力に関して は別途レポートする。

九九式はすでに九六式からそうであったが、実は非常に安価に製造してある。その尾筒は箱状であるが、削りだしでなく、粗末な 素材(ローカーボンの柔らかい鉄)をプレス成型し、製作してある。十一年式、当時の他国のものに比べるとはるかに時間が掛か らず安価に出来る設計であるが、強度上の問題は何も無い。第二次大戦に向けて日本の兵器生産の方針は大きく変化したという実 例のひとつであろう。。現在大量生産すれば十一年式は25万円くらい、九六・九九式は15万円くらいか。但し、九六・九九式 は光学照準器という高価な付属品が用意されていた。
十一年式は「職人芸」、九九式は「経済性と完成度」と言う言葉に象徴されよう。

「弾倉」は大変重要なもの。

十一年式は弾倉を使用しない軽機であったが、その他日本の弾倉は他国のものに比較すると厚い鉄板を使い頑丈に出来ており、こ れは使い捨てでない、という思想で作られている。銃本体と同じく、弾倉も何回かの使用で内部が汚れてくるので、清掃が必要で ある。清掃は上蓋の安全ピンを外し蓋板をスライドさせ外すと長方形のコイルスプリングと抱弾部(フォロワー)が取り出せる。 こうして内部の汚れを拭き取り、塗油し、組み立てる。これを怠るとフォロワーの滑りが悪くなる恐れがある。フォロワーは九六 式は削り出しで製作してあったが、九九式のものはプレスである。スプリングはメッキされている。後方に窓があり、残弾が4発 から数字で示されている。また鉄板の凹みは禁物で、衝撃で変形したものは実包がつっかえてしまう。スプリングも30発を絶え ず装填しておいたら長時間後に弱くなることは否めず、ルイスの円形弾倉のようにスプリングを使用しないものは其の点が長所で あったことは想像出来る。
教本には1挺の軽機に対し、24個の弾倉を装備するとあったが、番号で見る限り16までが最高で、それ以上は見ない。また、 現実2名で運搬出来る数量は1挺につき10個以下と推定する。その為に首掛けの装弾器があり、発射現場で絶えず助手が空の弾 倉にバラで持って行った実包を装填したに違いない。
九九式軽機は小銃と異なり終戦まで高い品質を示していたが、昭和19年後半頃から後脚が無くなり、引き鉄の握りの筋が無くな り、昭和20年に生産されたものは固定照門のものも見られる。

「日立」は世界最高の機関銃製造社

十一年式軽機は約1万挺が東京瓦斯電気と後の日立で生産されたと推定される。 九九式軽機は主に小倉工廠と民間会社日立で生産された。初期には名古屋工廠また満州奉天工廠でも生産されていた。一番多く見 るのは日立の刻印のあるものである。
日立兵器の前身東京瓦斯電気株式会社は東京大森にあり、南部式拳銃から始まり、十一年式軽機などを生産していた。1940年 日立に合併されて、工場も茨城県勝田と水戸に移転した。この会社の特徴は工廠の下請けと言うより工廠と平行して各種の機関銃 を生産していたことにある。九二式重機(100%が日立の生産)、九九式軽機(50%)は特に多く、それらの実物にはマルの 中に日立の文字の刻印がある。観察するに、この日立機械工業完成度は非常に高く、これら機関銃は世界最高の水準にあると言っ ても過言ではない。奉天工廠のものも高い品質であるが数量が日立ほど存在していない。

日立工機社史によれば、1944年下期、月産九二式重機268挺(単価2112円)、九九式軽機1950挺(単価1281 円)とある。 日立の銃身と尾筒の間に入れる修正環はどれも1.3ミリで品質管理の高さを示している。機関銃製造技術は普遍的なものでどんな 機械生産にも転用出来たので、戦中の努力は戦後の産業復興の際に華開いたものと思う。

日本機関銃の数奇なその後

第二次大戦直後の占領軍による日本軍の武装解除の写真がある。横須賀の大きな屋根が破壊された格納庫とおぼしき建物に、1枚 の写真に何と1000挺近い機関銃が引き渡しの為整然と並べられている光景が見られる。それらは約700挺の九六式か九九式 軽機、約300挺の九二式重機の数々である。日本各地でこのような兵器引き渡しが行われ、それらの兵器はすべて組織的に破壊 されたに違いない。本土決戦を決意した日本軍は特攻機と機関銃を主たる兵器と考えて多量に温存していたと言われる。現在アメ リカに残されている日本の機関銃の多くはしかしながらこれらから持ち帰られたものでは無くて、戦場から持ち帰れたものであ る。多くには戦闘傷が残されており、今回の実験に使用したものも沖縄からのろ獲品と記されていた。(先回のレポートに使用し たものはレイテからのものであった。)
また中国・満州に残された多量の機関銃は主に共産軍に引き継がれ、それらは国民政府を台湾に追いやるのに大いに力を貸し、さ らに朝鮮戦争でも多くが連合軍に見られている。余談ながら終戦時にアメリカはソ連に大陸のおよそ200万人分の日本軍兵器装 備と弾薬生産設備などを共産軍に引き渡すことを、なぜ簡単に了解したのであろうか。特に日本軍の多量の防寒装具と数万挺の機関銃を得た共産軍の活発さはその後の歴史を変えた。その影響は現在にまで及ぼされて いると、言っても過言でない。

機関銃はおもしろい

前装銃射撃の際も述べたが、正確で安定した射撃の為に成さねばならぬことは機関銃の場合も多い。射撃の準備と後の整備にも時 間が掛かる。しかしそれだけに銃がうまく回転し、高い命中率を擧げられた時に得られる満足感は普通の射撃とは比較にならない 程高い。特にビンテージな十一年式のようなものを、丹念に整備し、適合する実包を用意し、その射撃を成功さすには大変な研究 と労力を要す。射撃は標的を用意し行うが必である。空き缶、瓶などへの射撃は命中率・威力の研究にはならず環境を破壊するの みで百害あって一利なしである。
機関銃の場合は、単発、点射、連続発射すべて弾痕が異なる。さらに距離、照準眼鏡の使用など様々な状況の変化に対応出来る。

追記: 銃の各部名称は各々の「取り扱い参考」などの教本類による

協力:
エドウィン・F・リビー(メイン州立大学教授)
太田 博道(慶応義塾大学工学部教授)火薬化学知識等
参考文献:
1)「ザ・マシンガン」1ー5巻 ジョージ・チン
2)「ハッチャーズ・ノートブック」ジュリアン・ハッチャー
3)「マシンガン」ジム・トンプソ
4)「十一年式軽機関銃」昭和10年陸軍歩兵学校
5)「十一年式・九六式・九二式検査法の参考」 昭和17年 陸軍兵器学校
6)「九九式軽機関銃取り扱い法」 昭和18年 (株)一二三館
7)「機関銃教練の参考」
8)「日立工機社史」

実射1:「一〇〇式短機関銃と九六式軽機関銃」の実射

「レイテ戦記」(大岡昇平著 中公文庫刊)は昭和19年後半のヒイリッピン・レイテ島に於ける日米の激戦を、両国の資料か ら、また大岡氏自身の体験と各種の聞き込みから、客観的且つ詳細に描いた優れた記録である。戦争のむなしさと悲劇は、現在両 国にとって何の価値もないこの島で、日本軍は精鋭兵力と最新兵器を多く投入したにも関わらず、投下兵力10万人中2000人 しか帰らなかったと言う事実に集約されている。
今回、このレイテでアメリカ軍にろ穫された日本のふたつの兵器、一〇〇式短機関銃と九六式軽機関銃を、これらの所有者の協力 で実験する機会を得た。当地でもこの種の自動火器は、年々規制が厳しくなり、今回のような公に認められた実射は、日本軍兵器 の特殊性(実包・部品の供給)と、規制と合わせて実施が年々難しくなってきている。実験に使用した兵器は連邦政府(ATF)のラ イセンスが付いているものであり、また実験の協力者のリビー教授は、全米一の日本の機関銃研究者であらゆる部品補給と実包を 供給出来る方で、同氏には安全に実験が実施出来るように的確な指導いただいた。この結果は以下に述べるように各種の新発見の 連続であった。リビー氏も日本の機関銃に関する本を執筆中で筆者も日本語の資料に関して協力している。

「レイテ戦記」中に「天号作戦」(昭和19年12月にレイテ島で行われた空挺攻撃)で使用された兵器に関して以下のようにあ る。
「この作戦に使用された第二挺進団(高千穂部隊)は優れた装備を持った精鋭であった。この部隊は11月中旬西筑波と九州で編 成されたばかりであったが、その装備を見れば、永年各研究所の苦心の末出来上がったものであることがわかる。兵力は挺進一個 連隊500、団1000(連隊が2つの師団のことー筆者)であるが、兵はみな口径8ミリの100式短機関銃(ママ)を持って いた。これは中央工業株式会社顧問南部麒次郎中将の設計のもので、命中率は悪いが、一分間900発発射出来るので(発射速度 のことー筆者)、接近戦には極めて有効であった。(のち、バレンシアに降下した一部が、第一師団の将兵と合流したので、土居 参謀の記憶に残っている。米兵はこの銃の優秀性を知っていて、降下兵を見ると逃げたという)。さらに九九式7.7ミリ軽機関銃 を別に包装して投下した。これは日本軍が最も多く用いた九六式6.5ミリの口径を大きくしたものである。ー略ー 2年前にバレ ンバンに降りた「天降る神兵」の装備に比べると大変な進歩で、日本の軍事技術家の苦心の結果であることがわかる。」

この記録によれば、ここにあるだけでも1000名の挺進兵に一〇〇式短機関銃が装備されていたことが偲ばれる。このレイテの 降下作戦に実際参加した兵力は輸送力から300名くらいの単位であったと思われるが、恐らく日本軍が組織的に一〇〇式短機関 銃を使用した唯一の実戦例ではなかろうか。一〇〇式短機関銃は昭和17年頃中央工業・南部で生産された前期型と19年に名古 屋工廠で生産された後期型の2種類存在する。今までこの種の兵器は日本軍においては微々たる存在でしかないと思われていた。 しかし筆者の先の調査では大戦末には海軍は輸入のベルグマンなど欧州製のものを6000挺、陸軍は国産の一〇〇式を一万挺位 を装備していた。最近一〇〇式後期型の実物は8000番台の後半まで見られている。また聞いたところではアジアのある国(ミ ヤンマーか)から80挺の一〇〇式短機関銃がアメリカに輸入され、無稼働銃に工作して日本で発売される計画があると言う。海 軍の輸入品は1920年代の後半から継続的にあったらしく、口径も9ミリと7.65ミリの2種類あったようだ。これは残された 実物が非常少なくてその実態はよく分からない。ベルグマンP-28に「錨 」の刻印が押されたものを見たことがある。

一〇〇式短機関銃もその現物は少ない。恐らく全米で数10以下であろう。今回実験に使用した銃は昭和19年12月6日レイテ 天号作戦に使われ、米軍にろ穫されたものと記録されている。なお日本の短機関銃総数に関して、機関銃研究家のトンプソン氏は 25000挺としている。(筆者の計算では陸海軍合わせて16000挺) 一〇〇式機関銃後期型は名古屋工廠の記録では同年の5月より月産1000挺のわりに生産した。番号からこの銃は7月頃に作ら れた計算になる。まだ銃床板が鉄であるが、その後この部分は木板になり、8000番くらいになると、安全栓も無くなり、様々 な省力化がなされた。仕上げなどは九九式小銃と同じような時代経過をたどり、これは小銃の19年夏の生産と同じような質と思 う。銃床は赤みがかったカシュー仕上げで、金属部は黒錆染めである。余談だが、兵器生産の質は19年の夏をはさんでドラステックに変化した。

九六式軽機関銃は昭和11年(1936)に制定され、翌年から6年間にわたり約41000挺が小倉工廠(一部名古屋、奉天工 廠)で生産された。 機関銃研究者の間では「第二次大戦当時世界で最も信頼性の高い軽機関銃」という評価を得ている。実際その完成度の高さは現在でも通用するものであろう。 これらの兵器の詳細は筆者の「日本の軍用銃と装具」(国書刊行会刊)を参照して欲しい。現在、筆者はこの本の続編として「日 本の機関銃」の執筆に臨んでいる。
今回の実験はこの研究の一環として計画し、9月後半にアメリカ北東部の、教授の友人所有の砂利採集場の一部を借りた実施され た。「射撃」とは標的とスポッテングスコープを用意して行うもので、私たちの研究では、子供ではあるまいし、空き缶やプラス チックボトルなどを撃って喜びはしない。但し将来、各種の弾丸また口径の差をみるために、廃車などの鉄板を撃ってみる計画を している。
テストは安全を確かめ、2日間にわたり実施したが、レポートの写真は2日目に撮影したものである。第一日は天気が悪く、かな りの雨降りで身体も兵器もずぶぬれになり、後の清掃・整備が大変だった。

 

一〇〇式短機関銃

一〇〇式短機関銃は信頼性が高い

今回一箱50発60ドル(8000円)もするFC社のちゃんとした実包を150発用意したがこれが実験の成功の鍵であった。 アメリカで8ミリ南部弾は戦後50年間に何種か発売されているが、筆者はこれらすべて元の南部弾に比べ若干弱装であるとみて いた。今まで発売された南部弾で現物のように弾丸を3個の窪みで薬夾が挟んでいたのは「ミッドウエイ」社のものだけで、この 実包はすでに発売されておらず、今ではコレクターズアイテムになっている。この窪みは重要な要素で、例えば拳銃でも何らかの 理由で閉鎖が不充分であった際など、このために弾丸が圧縮されて変形することが少ない。これは一〇〇式のような自動銃の場合 はもっと顕著である。
とにかく今回の実包は良かった。弾倉に25発づつ装填して(実際は30発装填できる)、6回の射撃を行った。2日目は4回連 続して発射したが、回転不良(ジャム)は一回のみであとはすべて良好なる回転でこの兵器は部品は少ないが信頼性の高い兵器で あったということが証明された。
なお、スプレー油を必ず発射前に弾倉内部(実包)、機関部にかけた。

弾丸の集中率が高い

一〇〇式の照門は2段階になっている。下が環穴(ピープ)で上が筋である。「日本の軍用銃」で環穴が100メーター、筋が2 00メーターではないかと書いた。実験の結果、これはこの通りであった。50メーターの距離、環穴照門の射撃では、弾丸は1 0センチ上に行く。これはこの照門が100メーター用であることを示している。
筆者は他の同種兵器、ステンマーク3、MP-40なども有名なスコッデールの「マンダール」射場で実験したことがあるが、こ の2種とも、連続発射において最初の3発は狙いに当たるが、4ー5発目からは右上に行ってしまう、というパターンを示した。 しかし、一〇〇式は10発を連続して撃ってもすべてがひとつのグループに入っている。銃本体のバランスと銃口の制御が良く出 来ているからであろう。50メータの距離で8センチくらいの集中をしめした。三十年式銃剣を装着して発射した。

整備、清掃が楽である

一〇〇式短機関銃は銃床の左横のD型環を90度回すことにより簡単に、銃床と銃身に分解できる。二つに分けて束ねると長さは 70センチくらいになりコンパクトに運搬出来る。さらに銃身後部右横の柄を180度後ろに倒し、これを抜き取ることにより、 尾筒底を外し、復座ばねと円筒(ボルト)を簡単に取り出せる。撃針は円筒に固定されており、その他の部品も全て固定なので、 取り出した円筒を掃除するだけでよい。拳銃のそれよりもはるかに楽である。
後期型は回転が分間800発と早くなった。大岡先生の言うように分間これだけの弾丸を発射は出来るわけではない。よしんば発 射しても意味がない。弾倉には30発しか装填出来ないし、弾倉の交換にも時間が掛かる。何よりも目標に対して照準しなければ ならぬ。発射速度を早くした仕組みは尾筒底の緩衝ばねであるが、これは前期型(分間450発)に比べ僅かに短くしただけであ るが、不思議なことによく機能している。機能的には後期型は前期型に比べはるかに改良されたが、前期型は仕上げが最高級で、 後期型はそれまでの日本軍の小火器になかったような作り方、溶接で各部を組み立ててある。
リビー教授は弾倉は一人の兵が8個くらい持っていたと推定している。アメリカ軍は機関銃の戦利品(ワー・トロフィー)として の持ち帰りは許しても、弾倉を持ち帰らせなかったので、現存する弾倉は非常に少なくて、弾倉のない銃が多い。弾倉の専用の入 れ物は記録されてない。十一年式軽機の属品入れ嚢、雑嚢などが使われたのであろう。軍装研究関係の方で情報があれば教えてい ただきたい。

昭和19年に名古屋工廠関係で生産された空挺用の兵器に、分離型二式小銃(7.7ミリ)と二式短剣がある。今回二式短剣を持っ て行ったが、一〇〇式にこの短剣のみを使用したのか、普通の三十年式銃剣を使用したのか不明である。二式短剣は豊田で作られ たが、剣身は黒錆染めで、白磨きのものは複製品である。
なお、今まで8ミリ南部弾は軍用としては「弱過ぎる、威力が無い」等の記述も目にしたが、欧州製の各種9ミリ拳銃弾兵器と比べて、このように標的射撃をする限りにおいてはそれらの大きな差は感じられない。

 

九六式軽機関銃

この実験はやはり標的を使い75メーターの距離で実施した。この距離は軽機関銃の射撃には若干短過ぎた。最低150メーター くらいは欲しいところだった。2日間に3種の実包で200発の実射を行ったが、中国製の実包を除き回転不良はなかった。リビー教授が事前に部品等を良く点検し、整備したからであろう。

 

銃剣装着は白兵のためでなく、銃口安定のためである

相当に分かっている人、例えばトンプソン氏でも「日本軽機の銃剣装着は不適切な設計」としている。「この銃剣付き機関銃で弾 が無くなったら戦おうとしたのか。」「軽機の銃剣術はあったのか。」違う。この銃剣装着は命中率を高めるよう、銃口部分を安定させるためのものである。もし弾が無くなって、銃剣で戦うはめになったら、銃剣は手に持てば良い。そのほうが身軽に使え る。九六・九九式軽機に銃剣を装着する設計は、全ての兵士の個人装備の重量600グラムの銃剣を活用して機関銃を安定させよ うとしたものである。初めから先端を重く作る設計は他を犠牲にしなければならない。日本で読んだ「機関銃にも銃剣を付けさ せ、これで白兵をしようとした、日本軍の精神主義極めり」的なご意見は間違いである。ちなみに銃剣無しの平均スコアが75点 くらいとすると銃剣を装着すると85点くらいにまで上がる。回転も良くなる。リビー教授は昨年、筆者が初めて銃剣を装着した まま射撃をした時にすぐにこれに気づいて「銃口の安定が全然違う。」と指摘した。この例でもわかる通り1930年代の日本 は、現象面で様々に国の内外共に誤解されてることがまだ多い。

目視照準と別な銃の照準眼鏡でも弾丸は同じところに行く

九六・九九式の軽機に左に目視の照準があり、右側に2.5倍の眼鏡が装着できる。九六式と九九式の眼鏡は見かけはほとんど変わ らず、大宮第一工廠の他、日本光学、東京光学、高千穂光学、榎本光学、富岡光学など複数の製作会社がこれらを生産した。狙撃 銃の照準眼鏡と同じく固定式でこれを銃本体に取り付ける際に調整できない。「どうやって調整したんだ。」これがいつも聞かれ る質問である。眼鏡には銃の番号が入れられてる場合と無い場合がある。また台座によっては合う眼鏡と合わないものがあるが、 これは台座を少し削ることで解決できる。
筆者は日本陸軍技術本部は、銃の製造社と光学会社にそれぞれ正確な図面を渡しこの通り作りなさい、そして品質検査を厳重にし て、いかなる銃と、いかなる眼鏡とも、互換性がある、このようにしていたのではないか、と推察していた。勿論試験射撃で幾ば くかの記録上の修正はしたであろうが。
今回の実験では同じ銃で、左の目視と右の眼鏡を交互に使いながら、標的射撃を行った。75メーターの距離では、このふたつの 方式の照準の弾は、ほぼ同じところへ行った。距離が遠くなるとどうなるかは分からないが。
ちなみに使用した眼鏡はこの銃のものではないものであった。アメリカ南部の日本の機関銃研究家レジスター氏は九六式用と九九 式用の眼鏡(レンズ上の線と数字が違う)は互換性がある、同じところに弾が行く、としている。確かに物理的には互換性はあろ うが、実包の性能が違い、弾道が違うのであるからこれは理屈に合わない話である。しかし、2ー300メーターまでの近距離で は、弾丸の性能による差は出てこないのかも知れない。照準眼鏡は1500メーターまでの表示がある。

この実験で、日本の照準眼鏡は図面通り正確に作られ、どの銃にも現場で調整しないで合うように設計・生産されてたことが証明 された。アメリカ人に言わせれば、同じ形式の眼鏡を数社の会社が同じように製作したことそれ自体ひとつの大きな驚きであると してる。これは1930年代後半の日本産業事情の窮余の策であったのだろうが、戦後数多くの光学会社がカメラ、ビデオさらに、コピーマシン、プリンターなどレンズ電子産業に大発展しいった下地を作った。

東京・小倉工廠のマークは「同弾」の印

明治20年頃より、「四つの輪」が重なったような刻印が東京工廠で使われるようになり、兵器にこの刻印が打たれている。19 20年代の半ばに小倉に移転してからはこの印が小倉のものとして使われた。名古屋工廠の印は鯱をデザイン化したと言われてい る。この「四つの輪」は日本の伝統的なものとも違うし、誰がどうしてデザイン化したのか、不思議に感じていた課題のひとつで あった。(重ねて置いてあった大砲の弾の底部をデザインしたと言う説もあるとのことだが、あまり面白くない。)今回、九六式 軽機の射撃の弾痕を見ているうちに、「そうだこれは同弾、4発以上の弾がすべてひとつにまとまった、その性能を象徴したので はないか。」と気付いた。九六式は特に弾丸の集中率が良いと言われていたが、今回の実射では標的に4発以上の同弾が3回見ら れた。この弾痕の形が東京・小倉の刻印に似ていた。太平洋の戦いのアメリカ軍の記録で、死傷者の原因別では軽機関銃によるも のが一位であったと言う事実を聞くと納得できる。この集弾率の高い日本の軽機に撃たれた者の半数は死亡したそうである。勿論 この刻印が制定された頃には機関銃は存在してなかったが。

規整子が円滑な回転の鍵である

規整子とは瓦斯筒(銃身の下にあるパイプ。その中に、銃身のガス一部が抜けて、その力で内部の活塞というロッドを押し下げて さらに復座バネの力とで、排夾、装填、撃発を繰り返す。)の前端に付けられた、5段階に抜けるガスの量を調整できる部品であ る。1から5までガスの量が段々多くなり、強さが大きくなる。普通1から始めるが、機銃が発射を重ねるに従い、汚れなどのた め回転不良が発生するようになる。そうすると2に上げるとまた滑らかに回転するようになる。では初めから少し強めにしたらど うか。このような考え方もあり、例えばBAR(ブローニング・オートマティク・ライフル),AK-47などはそうなってると思う。しか し、日本軍の考え方は少し違い、ガスが強すぎると、命中率が悪くなる、銃の部品を痛めるという二つの理由から、この規整子を 頻繁に活用させた。今回の実験でも様々に規整子をを試したが、この活用で思い通りに銃を回転させることが出来た。優れた機構 と工作である。
回転不良には2種あり、ひとつは排夾・装填の力が足らず、空薬夾が残ったり、挿弾される実包が斜めに詰まってしまうケース。 もうひとつは、活塞が引き金の位置まで戻ることなく、どんどん発射されてしまうケース。いずれにせよこれらは規整子を使うこ とでその場で解決出来る。

今回使用した実包はノーマ社のもの、その空薬夾で再装填したもの、中国製のものの3種であった。中国製のものは1950年代 の刻印があるもので、弱くなっており、このようなコントロールの難しい弱装弾にも、規整子を2の段階にして発射したがうまく 回転させることが出来た。機関銃射撃に必要な技術のひとつは、単発、点射(3ー5発)などの発射である。特に単発で撃つこと により、ひとつひとつの目標に確実に当てると同時に小銃と思わせ、機銃の存在を隠すという作戦に使われる。軽機関銃は複数を うまく配備することにより、全体としての攻撃力、防御力を累乗的に増大させることが出来た。この運用の教育も熱心行われた科 目のひとつと言われている。
現在の自動銃は切り替えで、単発、3発の点射、連続と3段階に切り替えられるが、九六式のようなビンテージには当然このよう な機能は無い。

射撃後の九六式軽機の清掃・整備および点検は短機関銃のように簡単にはいかなかった。分解、清掃、点検、給油、組立に2時間 掛かった。このようなビンテージな機械の整備には細心の注意が必要である。特に中国製の朝鮮戦争当時の実包は腐食物質が含ま れているとのことで慎重に清掃した。

実験の総括

今回の実験で感じたことがある。

1)一〇〇式と九六式の2種の兵器はそれらの開発にいずれも南部麒次郎氏が関与していた。南部氏の日本兵器開発の功罪は沢山 あると言われているが、今回の実験でも同氏は日本の小火器開発にいかに大きな貢献をしたことかが実感できた。南部氏の伝記を 読む限り、彼は「秀才」ではなく「創造人」であった。兵器に限らず一般の日本産業も「創造人」が支えてきたものであり、これ からも創造的能力に依存することが大きい。二つの兵器共細かいところにユニークな工夫が沢山見られた。
2)一〇〇式は言うに及ばず九六式も攻撃的、軽快な兵器で初期のアサルト・ウエポンと言う定義がふさわしい存在である。トン プソン氏は九六式軽機を日本軍は連合軍の「サブマシンガン」的に使っていたとしている。
3)機関銃は銃本体だけを持っていても殆ど運用が出来ない兵器である。弾薬をはじめ整備、装填のための装具、その他予備部品 をいれるとその嵩は生半可なものではない。従って補給の難しい戦場、レイテみたいなところでこれらの兵器を使用してた現場の兵士の苦労はいかほどのものであったろうか。気楽にスプレーで油をかけながら感じたことである。

最後にもしこのような実験でも実施しなければ、ここに書いたような日本の主力歩兵火器の軽機関銃などの開発、工作、性能など の背景、考え方等々の歴史的重要な情報が永久に得られなかったのではないかと思う。兵器も重要な歴史的な学術研究の対象のひとつである。現在の日本の兵器研究軽視は文化・文明の抹殺に等しいのではないかと思う。

参考文献:

1)「レイテ戦記」大岡 昇平著 中公文庫
2)「マシンガン」ジム・トンプソン著 パラデインプレス
3)「ショット・ファイアード・イン・アンガー」ジョン・ジョージ
4)「ザ・マシンガン」1ー5巻ジョージ・チン
5)「ハッチャーズ・ノートブック」ジュリン・ハッチャー
6)「九六式軽機関銃取扱上の参考」 陸軍歩兵学校編
7)「日本の小銃」 第1巻 全日本軍装研究会編

新発見 8:義烈隊用の手榴弾収容嚢

義烈手榴弾収容嚢:4個の九七式手榴弾を入れ、弾帯の下の装着した。

20年前、とあるガンショーで「沖縄の飛行場で拾った」と言う帆布製手榴弾収容嚢を手に入れた。4個の収納袋が横に並んだ形で、内部に2個の錆びの浮き出た九七式手榴弾(内部の火薬と信管ヒューズは抜いてある)が残されていた。しかしこの収容嚢はどう見ても、一般の日本の装具と異なる。まず材料の質と色が、他の多くの帆布製装具と異なる。ボタンは黒染め固定でこれも布製弾薬帯のものと異なる。但し背面の革帯通しの紐は他の多くのものに使われているものと同じで、全体の縫製も日本のものらしい。長い間私の疑問の品であった。もしかしたら中国か朝鮮で残された日本の手榴弾を使うために作られたものか。しかし、最近「義烈隊」の写真をもう一度眺めているうちに、二重に巻き付けた弾薬帯の下にのぞいているものは何だろうと、何度も眼鏡で見て、ようやく納得がいった。
この手榴弾入れはなぜ4本の25センチと長い革帯通しが付いているのか、革帯に通すとずっと下に下がってしまう。この長い4本の紐は収容嚢を一番下に装着してさらにその上に弾帯などを装着するためだった。
これは正真正銘の日本のもの、しかも義烈隊の装具の一部でなかったかと確信するに至った。
まず素材は日本の何かに使われたものではないか見ているうちに、同じ質、色のものを物資投下用の落下傘収容嚢に発見した。縫い糸も同じものであった。金属のボタン、革帯通しの紐もこの関係の装具に使用されていたものと推察すると、全て合う。
従ってこのものは「空挺隊」が作らせたものである可能性がおおいに高い。 勿論、寸法的には横28センチ、縦12センチ、奥行きが6センチで、一つ一つの収容袋は九七式手榴弾を信管を上にして入れるにぴったりの大きさになっている。 2個しか残されてなかったが、各袋の内側から洩れてきている赤錆びからそれまで4個が収容されていたのも確かである。また血痕は見れないが泥が付着している。
義烈隊の隊員は一人一人の兵士が出来る限りの個人用兵器を携帯し、一〇〇式短機関銃、その8ミリ弾を入れたであろう弾帯、同じ実包を使う九四式拳銃、銃剣、短剣などなどと航空機破壊用の爆薬を身に付けた。身体中隙間の無いくらい何十キロにもなる装具、兵器、弾薬、爆薬を身に付けた。この手榴弾収容嚢はこの目的の為の特注のもので、落下傘やその他空挺用の装具を製作したところか、現場で手には入る材料を使い部隊 の補給者が製作したものであろう。

20年間これを捨てなくて良かった。
しかしなぜあの時にこれを持ってきた人にもう少し詳しく拾った際の状況を聞いておかなかったかと悔やまれる。 記録写真で見る限り、義烈隊は隊員が戦闘出来る状態で胴体着陸出来たのは一機のみであったと思う。夜間、照明の無い、しかも対空砲火 のあるところに大型機で胴体着陸を実行する。成功の確立はやはり一〇分の一以下であったろう。大変な作戦であった。

新発見 7:二十六式ホルスター

二十六年式拳銃(9ミリ口径)はなかなか興味深い拳銃である。明治26年(1893)に日本初の近代的軍用拳銃として制定され大正14年 (1925)まで主として東京砲兵工廠小石川製造所で、総数59200挺が生産された。
現在、この拳銃はアメリカには比較的数多く存在し、近代拳銃の範疇に入れず譲渡書類無しでやり取りすることもある。値段も安い。しかし良 く見るとこの拳銃はなかなか良く出来ており、当時の他国の軍用輪胴式拳銃に比較すると、表面・部品一つ一つの仕上げの良さは元より、ダブルアクションしかない頑丈・簡単な機構、輪胴の回転を確実にする為の薄いリムの薬夾などユニークである。但し現在これを実用にする観点からみるとそれは時代遅れなものであることは否定出来ない。
アメリカに存在するこの拳銃の収容嚢(ホルスター)は殆どが赤茶の厚い牛革製の比較的新しい(昭和15年頃の刻印が多い)製造が多い。これによく似たもので、革が痛んだ、弾薬入れのポケットに弾丸を一発づつ入れるループがない、負い革が細く薄く長い、黒く着色してある、さらに蓋の内部に楕円のスタンプがある(読めないがヨーロッパ調の)ものなどが存在し、これは二十六年式の元になったフランスの1873年及び1892年型拳銃用ホルスターである、と言われている。見たところ外観は殆ど同じである。なぜ日本は、二十六年式拳銃に当時のフランスの拳銃とまったく同じものを採用してのか大いに興味のあるところである。言われているように拳銃自体はかなりオリジナリティがあるが、ホルスターはフランスのものをそのまま採用したのだろう。
最近以下の文書を調べる機会があり、面白い事実を発見し、この二十六年式拳銃のホルスターと同じ形状・寸法のフランス拳銃ホルスターの謎を幾らかでも解明出来るのではないかという一推察に達したので、それを発表したい。
この興味深い事実が出ていた資料は、陸軍省の「各国軍軍器供給に関する綴・大正3年(1914)ー同11年(1922)」でつまり、第一次大戦期とその後のロシア革命後の混乱期に日本が外国に供給した兵器種類数量の情報である。「日本の軍用銃と装具」に外国に出された三十年式・三八式などの小銃に関して述べたが、この書類を見る限り総計は基本的には当該本と同じ内容の数字になった。しかし細かく見ると、大正8 年(1919)にシベリアに出兵した、フランスのジャナン将軍の派遣軍に25000挺の三八式歩兵銃・騎兵銃・銃剣が230万発の実包と共に供給された際、(フランスが援助していたチェコ軍用には他に数多くの兵器が供給された)この中にシベリア仏国派遣軍用として1000挺の二十六年 式拳銃が供給されていた事実があったのだ。同年7月15日にウラジオに送られた注文の一部の三八式小銃11000挺などの兵器の書類には、1000挺の拳銃と他付属品以下が含まれたいた。

名称
個数
単価
二十六年式拳銃 1000挺 43.00円
同 拳銃嚢 500個 5.30円
帯革(ママ) 1000本 0.78円
携帯革(ママ) 1000本 1.45円
縣紐 1000本 0.29円
朔杖 1000個 0.18円
実包 200000発(一挺あたり200発)

 

以上ジャナン将軍注文価格とし、代金は在日仏国大使館に請求、仏国政府が支払っている。

このリストで分かるとおり、拳銃とその附属品を1000注文しているのに、ホルスターのみは500しかないのである。残りの500はどうしたのであ ろうか。軍用で使用するにホルスターなし、ということは考えられぬ。500個はフランス本国かシベリアで製作され、それらが現在アメリカで時たま見られる「二十六年式拳銃の元になったフランスホルスター」の一部ではないか。これが私が行き着いた結論である。
私は当時のシベリア派遣フランス軍の日本への兵器供給依頼の背景を考えると、500個のホルスターはシベリアで製造されたものではないかと推定する。またその理由は、価格表でも分かる通りホルスターは安くなかったからであろう。またこれらの日本製の兵器はフランス軍のみならず、フランスが援助していたチェコ軍によって使用されていた可能性も高い。
何よりも本体の二十六年式拳銃は、同じ頃の三八式小銃が1挺49円のところ43円もしているのだから、大変高価な拳銃であった。しかし南部小型拳銃はは当時200円くらいしていたはずだが、現在の価格差をみると、二十六式拳銃は今不当に安いものかもしれない。
バンザイシュートアウト(アラバマ)で二十六年式拳銃の競技を実施したが、適合する実包の手当に苦労した。ミッドウエイ社の専用実包は.38口径弾丸を使っての手製のものよりはるかに命中率が高かった。この9ミリ弾丸は.38口径弾丸よりやや大きい。ケースも特別なもので他国の 実包は合わない。

シベリア出兵は大正6年(1917)11月、ロシア・ボルシュビキ政権の成立と共に、元のロシア側(白系)とシベリアに残された10万人のチェコ 軍を援助する為に日本以外にも英・米・仏の各国が派兵し、ハルピンの元オムスク政府にも兵器をはじめ様々な軍需品が供給された。ソ連の確立と、1920年のチェコ軍の脱出で日本の出兵も幕を閉じた。 この際にチェコ軍・フランス軍が持ち帰った日本製兵器及び付属品はどうなったのであろうか。小銃には銃口蓋、負い革、清掃用のキットなど細々したものが沢山附属していた。

新発見 6:四四式さく杖

日本の小銃には銃腔内を清掃するためのさく杖は必須のものであった。さく杖は通常銃身の下部の穴に銃身とほぼ同じ長さのものが収納され、それを前方に引っぱり出して清掃に使うというのが一般的であった。例外は、銃身の下部に筒状弾倉が付いた村田二十二年式小銃がはじめてで、短いものが1本銃床に収納され、何挺分を接いで交代に使用した。
四四式騎兵銃も銃身前部の下に銃剣が折り畳まれるので、さく杖をここに収納出来ず、銃床に短いものが2本収納されており、これらを接いで使用する。騎兵銃で銃身が短い(48センチ)のでこの2本を接いだもので足りる。さてこの接続式のさく杖であるが、2種類のものが見られ、3期間になっている四四式製造の前期と中・後期のそれぞれのものであろうと推察する。前期は削り出しで2段になったもので通常着色してあるのは見ない。長さは205ミリ、太さ5ミリ、太い部分(ここにもう一本のネジを差し込み接続する)は長さ40ミリ、太さ3.6ミリである。後期のものは長さは同じく205ミリ全体に太く6ミリとほぼ同じ直径で着色してある。この後期のさく杖は前・中期の小銃の銃床の収納の穴には入らない。重量は初期が25グラム、後期が37グラム。
しかし殆どの四四式騎兵銃にはさく杖が欠けておりその実物はどのようなものであったか、しばらく分からなかった。 この前期の二段になったさく杖の長いものが、6.5ミリ小銃の分隊用の清掃用具入れに見られるが、実はこの短いものを数多く存在していた のだ。
なぜこのさく杖が多く存在したかは、このさく杖は実は十一年式軽機関銃の清掃用の属品のさく杖とまったく同じもので共通していたからだ。 軽機関銃も銃身が48.3センチで殆ど騎兵銃と同じであったからだ。軽機の属品箱、初期のものは鉄製の箱は実にこのさく杖がきっちり入る横幅205ミリのものでこの長さは後期の属品差しにあるさく杖ともほぼ同じ長さである。しかし後期、昭和12年以降の軽機のさく杖と、四四式騎兵銃のさく杖は長さはほぼ同じであるが別な形式となった。後期十一年式軽機のさく杖は長さ200ミリ、太さ6ミリ、重量40グラムである。九六式以降は長さ155ミリと短くなりこれを3本接続して使うようになった。(軽機の属品にはもう1本ガス掻き用のものがあり、計4本収納されている)

たまにアメリカ人の自作の四四式騎兵銃用のさく杖が入っていることがある。一般のさく杖のように頭を作り、そこに長方形の穴を縢ってあるが、素材がいけない。日本のこの種のものに使われている鉄は長い時間が経つと、どうしても欧米のそれと輝き、錆の様子がどうしても異なる。実物の長いさく杖を分断して作られたら本当にこんなものも存在したのか迷ってしまうところだ。
日本軍小銃のさく杖でもう一つの例外は九九式小銃の中期型(昭和18年秋頃からの生産)で、使用できない頭だけのものが入っており、昭和19年にはそれすらも省かれてしまう。

新発見 5:小銃用負い帯

小銃用の皮革製負い革に替わり「布製負い帯」はどの程度活用されてのであろうか。布製のものは多分戦争後半からと推定するが、皮革素材の不足から教練用小銃には早くから布製の負い帯が多く使用されたようで、今まで幾つかの実物を目にした。軍用には皮革素材の不足以外に、1930年代後半に中国戦線が南に移動したことにより、従来の皮革装具の見直しがなされたと言われている。余談ながら完全加工の皮革は欧州的な気候の元では永遠に近く保つとされているが、南方の湿度・温度のもとではその耐久性に問題があり、特に小銃の負い革は 長時間、重さ3キロ以上の小銃を支え雨の中など行軍したらひとたまりもなく切れてしまったであろうことは想像出来る。この解決の為にキャン バス・ゴム製品が開発されたのであろうが、ここで紹介するのは現在目にする単なる布製の負い帯である。それらの例は、

 

  1. 6.5ミリ小銃用と思われるキャンバス製のもの。びじょうは帯に固定で、びじょうに帯を通し折り返す方式。びじょうは従来の爪のあるものではなく、「日」型で「挟み」で長さを調整する。これらは同様の教練用のものに比較すると布の幅・厚さ・密度及び金具の太さが明らかに頑丈に作られており、軍用であったことを証明している。布の長さが1メーターで、折り曲げた部分を引くと最大長が約90センチ。これは三八式歩兵銃を背中に斜めに背負う長さである。幅は30ミリ位で布の厚みも3ミリ位、びじょうの太さ3ミリで重量は6-70グラム。つづみボタンの穴は革で補強されている。革製のびじょう革(キーパー)が1個あり、折り返した部分を押さえる。「昭(年号)」のスタンプがある。

  2. 太い針金の鈎状のフックを使うもの。片端に小銃の負い革止め環に引っかける太い針金状の金具が縫いつけられており、長さは太いびじょ うで調整出来るもの。びじょうは「日」型。キャンバス素材はかなり厚い。三八式系も九九式も小銃重量はあまり変わらないが、皮革製の負い革を見る限りこれは7.7ミリ小銃用と考えられる。最大長1メーター。びじょうは太く5ミリで黒塗り。針金は太さ3ミリ、長さ40ミリ。重量135グ ラムで頑丈。「昭和(年号)」のスタンプがある。厚い布製のキーパーが1個入っている。一旦装着するとなかなか外れない良い設計である。

  3. 両端に茄子環が縫いつけられており、長さはびじょうで調整出来る。布の厚さと密度はなく、戦争後期の作と推定される。布の幅30ミリ厚さ2ミリ。空挺用の一〇〇式短機関銃の負い帯を言われている。(歩兵博物館で実物を観察した。)布の長さ115センチ、金具の長さ70ミリで 二重に縫い込まれている。びじょうの形で一般の荷物用負い帯と区別される。びじょうは太さ4.8ミリで黒塗り。重量は160グラム。軽機関銃の負い革と同じ方式なので、これも短機関銃用のものであったという理由になろう。布製キーパーが2個入っている。

  4. 教練銃用の布製。軍用と同じくびじょうが端に固定されている。つづみボタンの部分はスエード・人工革で補強されている。長さはやや短くて最長95センチくらい、布の幅も26-28ミリと狭く、厚さ1.5ミリと薄く、荒い素材でびじょうの太さは2.5ミリと細い。

  5. この他に小銃用ではないが茄子環が両端にあり、普通の木綿布を折り曲げて厚くして糸縫い合わせした各種収納嚢用の「カーゴスリング」 が存在している。これらは軽機関銃用の弾薬嚢、弾倉嚢に使用されたようだ。これらは長さが130センチで真ん中にくるびじょうがアルミなど軽い素材で大きめに出来ている。重量は150グラムくらい。

  6. 戦争後期製作の九九式小銃には銃床に負い革止めの環がなく、木部に穴が空けられただけのものを見る。これらにはどこででも手に入る、直径6‐7ミリの綿、麻のロープ状の紐が負い紐として利用された。大体は長さ1メーターで一端を輪とし、90センチの長さになり、調整は銃床の穴から出る部分の結びでする。試してみると、負い革・負い紐は平たいものでないと銃を肩下げした際に身体にくい込んで楽ではない。眼鏡、照準眼鏡などの収容嚢の負い帯を小銃用と間違えて装着している人もいるが、それらは素材は厚いが幅が狭い。

写真を見る限り小銃の殆どは皮革製の負い革を装着している。時代的には昭和13年頃から皮革製のものと同じ仕様・方式のキャンバス・ゴム素材のものが出現し、それから推定するに昭和18年半ば頃から上記に挙げたような単なる布製のものが出てきたと思われる。 負い革は射撃の際に左腕に搦め小銃を3点で支えることにも使用出来る。しかし日本軍ではこの方式は採用してなかったようで、捕虜になった兵士に据銃させたアメリカの報告では日本兵の姿勢は「負い革は使用しないようだが、これは時間を省くので実戦的。長い間良く訓練されていたようだ。」というコメントが付いていた。

新発見 4:革帯の真贋

複製品市場で一番作り易く、また作り難いものが、「革帯」であると思う。まず言葉の問題から、「革帯」か「帯革」かと言う議論があろう。聴い ていると、「帯革」(タイカク)呼ぶ人が殆どである。私は反対の「革帯」(カクタイ)であったろうと推察する。
その理由は、明治の前後、洋式の軍装を採用し出した頃、布の帯と比較するため、「革」を付け「かわおび」と言い始めたのではないか。同じよ うに「かわくつ」「かわてぶくろ」「かわかばん」と言う。だから語源は「かわおび」でそれを訓読みせず音読みして「かくたい」としたとみてる。また九九式小銃属品の表に図と共に縦書きで「革帯」とはっきり書かれている。従って「革帯」が正式であることに間違いない。これを反対に言う 言い方は、多分軍隊内部で兵士達が隠語的に逆言葉として使い始めてで、この言い方も一般的であったと思う。昔ある方に「どっちが正しい のですか。」と聞いたところ、「どちらでもいいんですよ。」という答えが帰ってきた。
さてこの革帯だが、工廠刻印・製作年の入っている実物、「昭十四」、名古屋印があり、長さ103センチ、幅44ミリ、厚さ5ミリ、重量220グラム、穴12個、金具(びじょう・バックル)は真鍮製でその太さ5ミリ。当時の各国の同じものに比較してまったく遜色の無い品質である。びじょう革は一個で裏が二重に合わせて縫い合わされている。穴の間隔は60センチから93センチまで。現存するものは殆どがこれと同じ仕様である。しかし多くは革の色が黒ずんでおり、元のままの赤茶色の柔らかいものはあまりない。それどころか、革帯はいろんな装具の中で一番まともなものが残っていない装具であることに間違いない。従って、戦後数多くの複製品が作られた。中田忠夫さんのお話でも最初の複製品は30年くらい以前に日本製を、最近は中国製をと言っておられるが、最初にどうして、どのようなものを製作したか覚えてないとのこと。アメリカでも実物の金具を利用し個人が自作したものがたまに見られる。もっとも昭和13年頃までの日本の皮革装具はアメリカ産原皮を使用していたので材料的には問題ないが。これらは寸法的にも実物に合わせてある。最近は沖縄基地の工事現場で発見された多量の実物金具を持ってきて製作した複製品の広告も見た。浅草フキヤのものは皮革に色が付いてないが、金具にニッケルメッキしてあり、金具の太さは爪以外良い。 価格は3000円。日本の複製品はなぜか先の実物より長く108から115センチあり、それらのびじょう革が二重合わせでない。また複製品は帯の先端の革の落とし方が違う、金具特に、爪が細い。また皮革の品質から見ると、はるかに実物に及ばず厚さもない。これは皮革のなめし加工の差で、価格的にも実物は現在の3000円以上は掛かっていたと推定する。従って実物に比べると複製品がいまひとつであることは否めない。複製品の穴の数はすべてが12個だがこの穴の数と長さに関してフキヤのおやじさんも最初になぜこのように製作したか知らないとの こと。
一番短くした状態、腰回り60センチというのはどのような兵士であっただろうか。 被服では身長157.6センチ以下の6号、靴の寸法で22.8センチの一番小柄な兵士としても細すぎる。ちなみにこの一番小さい寸法の装具の整備標準率は0.5%だった。

ここで疑問ひとつ。長さ、太さ、厚さ、皮革の品質、金具(びじょう)の太さすべてクリアにしていて、これは確実に実物であると確信するが、穴が7個しか無いものがある。びじょう革の合わせが二重でなく、金具は真鍮にメッキしてある。これは複製品か、実物でこのようなものも存在し たのか。これに答えてくれる方がおられたら教えて下さい。
このものの寸法は長さ103センチ、幅43ミリ、厚さ5ミリ、重量195グラム。穴の間隔は75センチから96センチ。外国のものなら最長が96センチということはない。また刻印類はみられない。20年前にアメリカのガンショーで手に入れた。同じ仕様の、様々な程度のものを少なくとも3点は見たことがあるのだが。

ちなみにゴム引きキャンバスの製品は、ゴムが外側にくるものとキャンバスが外側にくるもの2種類が、他の装具と同じように見られる。これらは長さが110センチ、幅42ミリ、厚さ5ミリ、重量は300グラム内外で穴が14個ある。穴の間隔は75センチから104センチ。びじょう金具は皮革製のものは真鍮と鉄であるが、ゴム引きキャンバスは鉄を黒く塗った太さ5ミリのものしか見ない。この素材の帯はアメリカで俗に「ジャングルベルト」と呼ばれ、その素材の質の評価は高い。兵士は南方では軽装になり、短いものでよさそうだがこのような長い寸法にしたのはなぜだろう。私はインド系などの大柄な兵士にも支給するため、と推察している。工廠関係の書類ではこれらを製作した会社と見られるのは日本タイヤ、横浜ゴム、東海ゴム、国華工業など。
ゴム引きキャンバスの製品は程度の良いものが少ない。日米複製品業界の次の課題はこの種の製品であることに間違いない。

もう一つの疑問。このゴム引きキャンバス製品の110センチ、穴14個の皮革製の帯は存在したのでしょうか。確かに防寒具の上からに装着するには103センチは短いとも、考えられるのですが。 同じく、九九式小銃取り扱いの図にある「革帯」の寸法は、「巾十八(不明)、厚三粍、 長一米三十糎、穴数十二」とあり、しかもこの図のびじょう革は2個ある。このような革帯をまた見たことがあるでしょうか。長さの130センチは 103センチ(現存する実物の長さ)の間違いかと何度も見るが、「一米三十糎」とある。

お恥ずかしいことに、一番基本的な装具「革帯」ひとつとってもまだまだ知らないことばかりです。

新発見 3:小銃用負い革・負い紐

日本の小銃用の負い革はあまり種類が多く無く、他国のものとの違いで一番特徴的なことは、びじょう・金具を糸縫いしてなく、革の間に挟んであり、取り外しが出来る、と言うことだ。また素材的なものでは革以外に1930年代後半からキャンバスのみとキャンバスとゴムの組合せも ものが、また規格的には同じ頃九九式小銃用に幅広のものに出現した、ということであろう。
寸法的には歩兵銃は基本的に二種類で、幅が3センチ、皮の全長110センチ、厚さ3ミリのもの。幅が4センチ、皮の全長105センチ、厚さ4ミリのものである。日本の小銃は基本的には口径6.5ミリと同7.7ミリで、前者の負い革環が幅35ミリで、後者が40ミリなので、幅の狭いもの が三八系の小銃に、幅の広いものが九九式小銃にということは容易に推察出来よう。しかし実際に目にする小銃の負い革はこのようになって ないことも多い。幅の狭い負い革は、びじょうの孔が、真ん中に近く3個、下に近く5個ある。下に近い孔が、三八式歩兵銃(環の間約70セン チ)に使われたもので、上の穴が同騎兵銃(環の間約55センチ)に使われたものか、もしくは歩兵銃を肩掛けすの時か、背負う時かで使い分 けた。ちなみに長くした平均は85センチで短くした平均は76センチである。(騎兵銃用専用負い革は後述する)
幅の広い負い革は孔が連続して10個ある。九九式短小銃は環の距離が60センチ。
金具のびじょうは6.5ミリ系のものはあまりにも細く3ミリ、7.7ミリ系はあまりにも太く6ミリある。。いずれも折り返した革に挟まれており、遊び 革で押さえられ、これは簡単な仕組みだがめったなことでは外れることは無い優れた設計だ。遊び革は幅の細いものは一個、幅の広いものは 二個ある。これらは図にもそうなっているので間違いないと思う。革の厚さは6.5ミリ系が3ミリ、7.7ミリ用は4ミリで重量は前者が100グラ ム、後者は175グラムである。小銃の重量はあまり差はないので、三八式は中国戦線でその負い革が切れ易かったので、九九式では思い 切ってこのような太く厚く丈夫なものになったのではないか。
びじょう側は銃床部にきて、反対の調整出来ない側は「つづみぼたん」(ご存知のように古楽器の「鼓」に形が似ていることからこの呼び名が付いた)を革の切れ目に挿入し固定する。金具は素材的に6.5ミリ系は鉄、真鍮、アルミで、7.7ミリは鉄(黒塗り)である。
なぜ糸止めをしてなかったのだろう。糸で縫ったところは切れやすい、また痛んでも革さえ調達すれば金具を利用して、簡単に自作出来る、などの理由からであろう。この金具の方針はゴム引きキャンバスの新素材にもそのまま採用されている。びじょうを通す縦長の穴が2個あるのも、革の痛みにより移動させるためではないかと推察する。(九九式のものには一個しかない。)

ゴム引きキャンバスの組合せの素材は他の装具の、弾薬盒、帯、銃剣差しなどと同じく、キャンバスが上にきているものと、ゴムが上にきているものの2種が存在する。
布(キャンバス)だけのものは、固定式のびじょうのものは教練銃に装着されているのが多い。両端の金具がフック式の厚手のものは後期の ジャングル用と言われており貴重な存在である。 今まで私が見たことのないのは、キャンバス・ゴム製でゴムが上にきた幅の狭い(6.5ミリ小銃用)の実物である。

今回、報告する例は、キャンバスが表面で内部がゴムの幅広だが「50年以上も経っているのに、何でこんなに出来たままの状態になってい るのか」という実物である。知らない人が見たら、これは絶対に最近の作品と思うに違いない。金具は鉄に黒塗料仕上げだが、錆など一切なく、ゴムは柔らかく、表面のキャンバスにも一切痛みは無い。遊び革のみが本物の皮革だがこれもきらきらしている。筆者も、これを最初に一目見た際に複製品と判定した。しかし、「この素材は複製品を製造して割が合うのか」という疑問から手に取ったら、裏に「十 九 昭」の文字。
さて、このキャンバス・ゴムの製品は硬化し、ひび割れて、変色・斑になっているものが殆どである。どうしてこのような完璧な状態で保存出来たのか。冷・暗所に密閉してあったのであろうが、この秘訣をご存じの方がおられたら是非教えていただきたい。