火縄銃



新発見10:工兵、通信士、砲兵用前弾薬盒

騎兵が車両兵に転換し、三八式騎兵銃6.5㎜は用途が変換して、様々な科種の装備となった。短い銃長であるが、800万、全兵力が備えていた三十年式銃剣を装着できるし。
騎兵用弾薬盒は15発箱入り弾薬が2個収納できるものだが、真ん中に油缶を装備した。弾薬数では同じだが、横幅が1㎝ほどながい。
更に工兵、砲兵、通信兵用には騎兵用の肩掛け負い帯がない方式のものが出た。両横の負い皮掛けの釦がない。
帯革に裏の帯革通しを通す。蓋は歩兵用とは異なり前方から開ける。ブラシ、絡み棒などを前面に装着した。

20、ハワイ「太平洋航空博物館」の日本帝国海軍関連展示

はじめに)

平成31年1月末に防衛懇話会ハワイ米軍施設装備視察会に参加したおり、同会の手配のガイドにより見学した内容である。
ハワイ、フォード島の「太平洋航空博物館」は場所柄、日本帝国海軍の1941年12月7日のハワイ攻撃をテーマにしているので、当時の日本航空機に関連する展示が多い。また民間運営であるので展示内容はしばしば変化し、リピーターにも楽しめるところである。

行き方が複雑で直接、タクシーに乗り着けられない。
一度、アリゾナ記念館に入場(荷物などの制限がある)してシャトル
バスに乗り、戦艦ミズリーとこの航空博物館を回る。バスは30分おきに周航、どちらか見学することも可能だ。
展示と説明は対象が家族連れとしているようで、やや物足りない
と言う点はあるが、ガイドの説明を受けるとかなり詳しい。
幾つかの棟に分かれているが、棟の間にも屋外展示がある。

フォード島からみたマウイ島の山、日本機は右から入り、山脈の
両側に分かれ、左で集結して「奇襲に成功」と攻撃を開始した。

映画によく出る象徴的なタワーだが、実際は港湾管制用
この前に本館がある。

本棟の展示)

1、 帝国日本海軍攻撃図 これをイラスト化したものが展示されていた。

2 零戦二一型と「操縦士」
以前は「整備員」もいたが今はいない。
この零戦は二一型で中国戦線に投入され後にガダルカナルに進出した1機で、ハワイ攻撃には参加してないが、修復され代替発動機で飛行可能だそうだ。

2、 九九式艦上攻撃機の残骸
この博物館にはいわゆる残骸がそのまま展示されている機体が3-4種あるが、これらは貴重な展示であると考える。
これしか残存してないからだ。中島飛行機製。三菱も含め1400機が生産され800kg爆弾、各種爆弾か、改造九一式魚雷を搭載した。
乗員は3名で淵田少佐もこの機種に搭乗していた。
ハワイ攻撃では40発の魚雷を落とし、約6割が何らかの艦船に命中したそうだ。

800kg爆弾と九一式魚雷

真珠湾上空の九七式攻撃機、高高度からの爆撃機は損害なしだったが、低空で攻撃した雷撃機の被害は大きかった。
日本機は29機が未帰還であった。

3、 ニイハウ島不時着の西開地 重徳上飛曹機の残骸
これは貴重な資料であり、またハワイの日系人を巻き込んだ悲劇的な事件であった。帝国海軍操縦士が土人の酋長を拳銃で撃ち、石で殺されたとか、現地の労務者監督の原田 義男氏が猟銃自殺し、その妻が2年半間拘束されていたなどの説明がある。
だが、客観的な事実に関しては疑問の多い内容で、西開地上飛曹の
御霊もどこに眠っているやら。

これらは以前にはなかったもので、時代を感じさせる。

ジオラマは良く出来ている、先の赤土の道路に着陸したとのことだ。

不時着10日後に撮影された写真だが、発動機、20㎜機銃は
鹵獲されたと思われ、研究材料になっただろう。

4、 ガダルカナルのF4Fヘルキャットと鉄板の仮設滑走路

穴あきの薄めの鉄板を航空機の離陸、着陸地点に敷き詰める方式で
重機すら十分でなかった日本帝国海軍の裏をかいた。
本で読んでも理解が難しいことを簡単に現実的に展示していた。

5、 ガダルカナルで日本機に撃墜されたB-17の残骸
米国の篤志家の偉いところは現地でこの残骸を土地所有者から購入し持ち帰り、展示しているところだ。坂井 三郎著「大空のサムライ」
にB-17が沼地に不時着した様子があった。乗員は基地に帰還した。

東京空襲をしたB-25ミッチェル、ドーリットル少佐が指揮し空母から発進した1機もあったがこのB-17は太平洋戦争では語らねばならないものだ。
映画に使用された零戦のテキサン、T-6は日本中、どこにでも野ざらしになっているが、攻撃機能もあった米軍の練習機だ。

この機は映画「トラトラトラ」で零戦に改造され撮影のため飛び
回り、またテキサンに戻されたそうだ。零戦のままだったほうが
価値があったかもしれないが、テキサンの後退翼をよく見ると少し
前進させていた。

その他)

珍しいものでは、
ミグ15

そして各種、初期の大型ヘリコプターだ。

試乗用の機体の客運送のバスも、

太平洋航空博物館は古い格納庫を幾棟も保持しているので展示機以外にも多くの機材があるようだ。博物館の将来の姿を現している、「テーマ博物館」のひとつだろう。

ハワイ攻撃の映画)

昭和18年公開の「ハワイ・マレー沖海戦」から日米の物語をハワイ攻撃にとった様々な作品があるが、筆者の評価では「トラトラトラ」1970年公開が一番だ。
CGの無い時代だから、実機を改造して飛ばし撮影した。
このシーンの幾つかは数年後の「ミッドウエィ」にも使われていた。
空母を運行させそこから実際に発艦させるのだからCGと一緒にしては可哀そうだ。
2001年の「パールハーバー」を薦める人達も多いが物語が子供向で、
CG活用の多くのあり得ないシーンがある。
「トラトラトラ」は空母ヨークタウンを使い、B-17の実機を方脚で不時着させ、そしてT-6を零戦にしただけでなく、T-6とBT-16を合体させ九七式艦上攻撃機を飛ばした。

これらは大変な作業と撮影であったと高く評価したい。

ヨークタウン級空母は3艦竣工したが、2艦は日本帝国海軍により轟沈された。日本の空母、赤城か加賀として映画に使われた。(おわり)

32、年少者用火縄銃

はじめに)

以前、国際前装銃大会の「短筒」競技に千葉のO氏が細く、長い
銃で参加した。明らかに両手で射撃する銃であったが、軽量なので
片手でも射撃できた。「短筒競技」はピストル競技に準じて片手で
射撃する。
様々な国の人から「あれはどのような銃なのか?」と言われたが
「年少者」調練銃であろう、としか答えられなかった。
現代の軍用銃に関しても第二次世界大戦期には、日本、ドイツ、イタリアなど枢軸国のものが有名であった。米国は.22口径実銃を使用したと聞いている。
江戸期の年少者用武芸と言うのはどのようなものであっただろうか?
木刀、竹刀、刀、弓矢、具足など明らかに10歳くらいの男子を
対象にして実物は残っているが、火縄銃は馬上筒、短筒だと
異形な鉄砲に無理に分類しているが、寸法、形状、特に重量からみると明らかに年少者に使用させたと思われる鉄砲はみることがある。
以下はその例である。
現在はその時代のその種の銃砲は世界中、恐らく存在していないだろうと思われる。欧州や米国に18世紀ごろの年少者銃を見たことがないからだ。
大日本帝国においては「軍事教練」が実施されるようになってから
各種の教練銃が開発製造されたが、一部を除き実銃と同じ寸法であるが滑腔で、実弾でなく、空砲、狭窄弾を使用するものだった。
南部設計の三八式8分の7銃は幼年学校用教練銃であるが特許を研究した米国人によると、滑腔で、自転するスラッグ弾を使用するものだった。これも研究者のレポートを読まねば判明しない。

年少者用火縄銃)

中途半端な寸法、口径の火縄銃を「馬上筒」「短筒」と定義することは簡単だが、一匁筒(口径9㎜)の前装銃に馬上でどのように再装填したか、短筒としても指がどうしても引き金より先に行くものは本当に短筒か?など疑問は多い。
(何度か書いたが日本の火縄銃の引き金は台の真ん中にある)
筆者にはこの研究に関してひとつのアドバンティジがあった。
それはSちゃん(10歳身長152㎝)とKちゃん(8歳身長145㎝)の私の研究に理解ある孫たちの存在だ。
Sはやせ型でひょろひょろだが歴史少年、Kは競泳選手でわりにがっちりしているが、同年代に比べると小柄だ。

1.Sが構えた細筒

この火縄銃は細いだけでなく、短い。全長99cm、銃身長75.5cm
重量1900g、口径は一匁(9㎜)だ。堺製の上手なもので「一夢」の銀象嵌。一般的火縄銃の4分の3と言って良い。

Sが構えると丁度さまになる。(写真)恐らく元服前の少年用火縄銃と考えて良い。

ただしこの銃を装填させるのは彼の身長ではまだ無理がある。

2.Kが構えた「短筒」と考えていた火縄銃

この短筒は一匁筒で口径は9㎜だ。全長50.8cm、銃身長32.3cm、
重量1000g、一般の銃の3分の1と言って良い。
バランスよく絶対に当たる銃だが、私の小さい手で握っても
弾き指(人指)が引き金を超える。(写真)

恐らく、この姿で発射させれば実用になる銃であろう。
握りも以下のようになる。

恐らく、この姿で発射させれば実用になる銃であろう。
握りも以下のようになる。

3.その他の調練銃と思われる火縄銃

上手の紀州筒である。全長88.5cm、銃身長59.0cm、口径二匁(11.5㎜)、重量1900g、紀州方式在銘(写真下)
一般の3分の2と言って良い。
Sに構えさせるが重いと言う。Kは構えられない。

上は一匁筒で阿波スタイルだが、全長130.1㎝、銃身長100.4㎝
口径9㎜、重量3900gと重い厚い鉄砲だ。在銘

銃は自体を眺めていても、ましてや文書を解読しただけではその用途や実態を語ることは出来ない。
操作する、構える、出来れば発射する、それらの行為により初めて
「どうしてこのような形状の銃が生まれたのか、使用されたのか?」
が実態として判明する。

文書類では年少者を対象とした記述や図はほとんどみたことがない。
この図は髷の形状から若者であったと推測は出来るが。

年少者用装具の例)

口薬入れだ。ご存知のように小口径銃は火皿が小さく、口薬も少なくて済む。

左の一般的なものに比較すると4分の1ほどの寸法のものを時々みる。恐らく一匁用の口薬入れであろう。
左の一般用は80ⅹ70ⅹ35㎜、右の小型は60ⅹ50ⅹ15㎜の寸法である。亀甲、薄い角で作られた高級品も身分高い侍の調練用と考えて良い

玉鋳型

その他にも二本松藩で見つけた少年用の胴乱なども見たことがある。

ジュニア選手とコーチの関係)

江戸期に恐らく、身分の高い子弟に武芸を教授したものは優れた
侍であっただろう。そのような題材を司馬先生も書いてはないが、
それで感じたことがあった。
それは現在のことだが。
外国では一般的だが、オリンピック、世界大会などの選手は年少の頃より射撃練習をしている。
日本ライフル射撃協会でもジュニア選手強化策があり、過去からそのような過程を踏んできた人達、選手もコーチも、以前、
付き合いがあった。
客観的にみると強化チーム委員会はどんな競技でもコーチの選択に注力すべきだと考える。良い選手であったから上の覚えが良いからではない。人格と常識の質だ。
年少者はコーチの人格に影響される。
一時的に技量が伸びても「ズル」
を覚えた選手は人間として失格だ。残念ながらそのような例は複数みた。(以上)