松本 清張著「二・二六事件」1巻、2巻

文芸春秋社刊 1986年

「二・二六事件」に関しての内容はすでにご存じの通りである。
日本帝国陸軍皇道派に影響を受けた、いずれも陸士出身の下級将校が約1450名の下士官兵を率い、内閣を倒すべく起したクーデター事件であり、未遂に
終わった。(実はこの本刊行後にNHKが新資料を発見し裁判などの一部が放送された。だが裁判の詳細は発表されてない。)

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私はクーデターを起した叛乱軍の駐屯地、麻布第三連隊900名(現在の新国立美術館辺り)とその向側にある歩兵第一連隊400名(昔の防衛庁、現在は六本木ミッドタウン)またその他民間人、他の部隊からも参加した、に近いところに住んでいるのでこの事件には興味を抱いていた。

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左端に4挺の重機

文春に連載された頃から読んでいた。
普通のクーデターは軍のトップが政府に対して起し、そのトップが自分で暫定、代理統治するためのことが多い。(現在のタイ国がそうだ)
しかしこの叛乱は、若手下級将校が内閣の重鎮を倒すためにかくも大掛かりに行い日本は上へ下への大騒ぎになった。

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叛乱軍はしかるべき数の機銃を用意した。分隊兵器の十一年式軽機はともかく当時最新兵器であった九二式重機関銃中隊を巻き込み、皇居の北側、国会議事堂、永田町辺りを占拠していた。要人を十一年式機関銃で射殺し、4名の内閣幹部と、鈴木 貫太郎侍従長(終戦内閣首相)が重傷をおった。警察官5名も殉職した。2個大隊の規模だから重機の数は2-30挺、但し弾薬は1挺定数1万発の数分の1くらいしか用意できなかったと推定する。
なお当日は大雪であり、麻布連隊が出動した夜明け前には30㎝ほど積もっていたそうだ。

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海軍陸戦隊

この叛乱は何を目的としていたか、は確たるところは分からないが、松本氏は
1、 非常に幼稚な計画であった。
2、 この事件は日本史上、過小評価されている。
の2点を挙げている。
昭和天皇は叛乱軍に厳しく対処し、鎮圧部隊の出動を命じた。

叛乱軍鎮圧には、帝国陸軍は四年式榴弾砲小隊、八九式戦車中隊を派遣した。
また帝国海軍は戦艦長門他の陸戦隊を芝浦港に上陸させ、クロスレー装甲車2台、陸戦隊は三年式重機関銃を装備していた。

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一触即発で、もし戦闘が起これば、都心で重機関銃どころか砲弾まで飛び交う
混乱になった。

松本氏を結論は出してない。
しかし幼稚な計画であろうとも、この大規模な叛乱軍は、内閣を飛ばし、天皇の統帥権を利用しようとしたのではないか。皇居の占拠は考えていたかもしれぬ。
当時、日本は大不況のさなかであり、国家財政は破たん状況に近かった。
恐らく多くの国民は政治が悪い、軍はそれに耐えられなかったと叛乱軍に同情的ではなかったか。彼らの行為が立憲君主国家に破壊にもかかわらず。

松本氏が言うように、この事件はその後、軍部が天皇の統帥権をかなり直接的に利用し、また翌年には北京の盧溝橋事変が発生しているから、これは終戦に至るひとつの大きな転機を造り、「歴史的には過小評価」されているであろう。

まもなく二・二六事件から80年を迎える。
以上