幕末の海防戦略 異国船を隔離せよ
上白石実著 吉川弘文館 歴史文化ライブラリー312 2010年8月 B5版200ページ 価格1700円本の表紙に「垣船」の様子を描いてある
日本の銃や砲を研究するために、幕末の西欧諸国の日本への来航による圧力、それまでの鎖国政策とその転換、その現実を時系列的にみる必要があろう。著者は、海防の概念は18世紀末、日本列島北方におけるロシア船来航、それに対応する松平定信(寛政の改革)が初めてその概念を説いたとしている。また北方だけでなく対馬においても海防の必要性から農兵制度や、朝鮮半島釜山日本館へ大筒(五百目筒?、一貫目筒とあるが)の搬入などが計画された。19世紀になると、商船だけでなく、軍艦が来航始めた。もちろん、再重要地域は江戸湾であり、そこには関東地方諸藩が兵を常駐させ、見張り台、砲台を作成した。日本近世の武家は領地におり、しかるべく防備配置されていた制度ではなかった。しかしペリー来航までは、「打ち払い」から「薪水給与」に方針を変えて、大きな脅威、争いは避け、ドラステックな変化はなかった。兵器を使うより、異国船を日本国民と接しさせない、「垣船」が主たる対応であったからだ。19世紀になると西欧は、艦船と砲、軍事力の発達で、平和的、柔軟な対応は通用しなくなった。それで、日本でも砲が研究され、製造される、そういう過程があった。この書物には、18-9世紀に日本と外国船の間にあった接触はほとんど網羅されている。松平定信の時代にも千石船クラスの艦艇を10艦建造する(当然砲は備える)などの具申もなされた。砲は「艦船と砲台」つまり「攻撃と防衛」の両面からみていかないと、その本質に至らないということを認識させる内容だ。