複雑であった鉄砲伝来 宇田川 武久博士の着眼
東アジア交流史は書き下しではなく、長い期間の研究論文をまとめたものだ。
歴史書に書かれている「鉄砲伝来」は「1543年、ポルトガル人が種子島にもたらした」で済ませている場合が多い。しかし鉄砲を少しでも知る者としては、その製造から運用まで付属品を含め、そんなに簡単な現象でなく、この記述で済んだものでないことは容易に認識できる。当時の日本は戦国時代であり、国家としての統一的統治が確立されていなかったにしても、いち種子島地域の課題ではなかったはずだ。それが証拠に瞬くうちに九州のみならず、紀州など本土に広まり、各地で製造、運用され、イエズス会の報告でも10年後、30年後の日本の鉄砲の大規模運用は恐るべきものがあった。
先日、速水 融博士の講義を聴いていて、「環東シナ海」九州、済州島、中国東南部、沖縄、などの女性のDNAが共通であることを聴いた。速水博士は人口統計学で文化勲章を授与された方だ。今は国家間に分かれているが従来、社会は女系でひとつ、ここにも鍵がある。15-17世紀における「東アジア兵器交流史の研究」はこの背景をテーマにして日本から、外国より、兵器が「倭寇」によってもたらされていた交易の事実を述べている。しかし鉄砲はこの地域の文明以上のものだった。東アジアで開発されたものではなかったのは自明だろう。鉄砲や砲はやはり大航海時代のポルトガル人がもたらしたものであったというのがポルトガルの記録からも明らかである。またマレー半島からインドネシアにまっすぐ南にイスラム勢力が、彼らは南宋時代には中国大陸を下り東シナ海まで達していた。イスラム勢力も大砲、鉄砲を装備していた。昨年、ポルトガルで、日本の鉄砲の先祖を探した。「このボヘミアン型だよ」と言われ、詳細に観察したが、射撃法の基本が異なる。
日本の火縄銃は普遍的に、ボヘミアンでもニュールンベルグでもない。日本独自の形だったのだ。
鉄砲伝来の事実はその他にもまだ解明されてないことが沢山あり、ひとつの歴史の複雑な謎と言って良い。その深読みの元祖が宇田川博士だ。
また宇田川博士は、継承される武芸「江戸の炮術」を記し、武芸者としての炮術家の非常に詳細な事実を古文書より明らかにしている。これも他にはない、水準だ。古文書の中の図などの説明が多く分かり易い内容だ。
宇田川 武久著「東アジア兵器交流史の研究」吉川弘文館刊 平成5年
宇田川 武久著「江戸の炮術」吉川弘文館刊 2000年
宇田川博士の著作はこれらを含め10巻くらいある。以上。