忽然と消えた膨大なコレクション
図録は120ページ、カラー、3000円だった。
京都嵐山美術館は1986年から91年までの5年間だけ開館していた不思議なところだった。嵐山駅から歩いて5分、とても便利な立派な施設であった。2回訪れた。この期間は日本のバブル期だった。誰が、どういう金で、どのように収集したか、その収集物がどこに行ったかも今では漠然としている。中には明らかに有稼働の兵器もあった。どのように輸入したのか、莫大な資金と権力の持ち主だったのだろう。一部が和歌山県白浜市、海岸近くの「零パーク」という屋外に2002年まで展示されていた。1995年秋に訪問した。
内容は図録が「鉄と漆の芸術」とあるように、日本の武具・刀剣類から漆器、
そして第二次大戦までに使用された、航空機、砲、船舶、小火器、装具、まさに「日本の武器兵器」の内容に漆器を加えたようなものだった。
戦艦「陸奥」の主砲をはじめとした装備品。ほとんどの機銃や小銃、そして帝国海軍六三型零戦、同陸軍四式戦「疾風」。現在、この展示がなされておれば
どんなに研究に役だったか。零戦は琵琶湖から引き揚げたもので程度は最高だった。この九五式軽戦車も完全品で、未使用だった。これはタイ国からきたのだったろう。日本は50両を同国に輸出して、そのうち1両は同国国防省玄関(屋根がある)に展示してある。しかし、この戦車も今は行方不明だ。
とても珍しい九五式軽戦車
誰が集めていたか?いろいろな収集家や業者に依頼したのだろう。そのうちの一人が名和 弓雄先生だ。先生は名前の通り、弓にこだわり、私の収集物を何度も見に来ては譲れと言ったが、まだ完成してないとお断りした。この矢の写真、×の印は練習用の矢で間に合わせてある。征矢が足りなかったからだ。
矢は駄目だが、蝦は素晴らしいものばかり。
だが、この「収集」は象徴的な出来事だった。日本では武器兵器は系統的に、
合法的にこれだけの規模集め、展示できないのだ。靖国神社遊就館でも、公安から武器はなるべく展示しないようにとの言葉を受けると、新品の二式小銃などはどこかに仕舞ってしまい、恐らく永久に国民の目に触れることはないだろう。これでは、何のため英霊を祀ってあるのか分からないが。以上