呉海軍工廠製鋼部資料集(一)(二)

山田 太郎、堀川 一男、 冨屋 康昭

工廠史
呉は4つの帝国海軍鎮守府のひとつであり、日本列島の一番に西(他は横須賀、舞鶴、佐世保)に位置しており、日本の南方を守った。帝国海軍艦艇の駐留、訓練、整備の本拠としてだけでなく、様々な装備品の開発、製造を行っていた。
この2巻の資料は戦時中に同鎮守府の工廠で、艦艇の防御板、各種鋼板、魚雷の酸素槽火砲などに必要な鋼板を開発製造していた3人の仲間がまとめた、歴史である。A4版総計500ページに及ぶ、各種図面、データ、図面を挿入し、現物の情報だけでなく、工廠の規模、組織なども説明してある。

 

呉工廠

日本は明治30年頃まで欧米の産業革命に遅れており、重工業が発達していなかった。その重工業の象徴的な部分が兵器製造であり、特に巨大艦、砲を製造して帝国海軍工廠は日本に重工業化を戦争が終わってもその水準を曳引していたと言える。山田 太郎氏が銃砲史学会、帝国海軍部の代表として参加している縁でこれらの資料を手に入れることが出来たが、読みにくい、現役時代には目を通すだけに終わった。山田氏は予科練出身であり、その後大学を卒業して呉にある、元工廠の一部、民間会社に勤務した。

 

現在も学会の要員としてご活躍中である。工廠史に関しては防衛図書館に「名古屋工廠史」「小倉工廠史」、両方ともすでに何十年も前に編集されたものでもあるが、前者と後者の水準には大きな差がある。当時、働いていた人々が戦後、残った資料により客観的に書かれたものは資料として非常に役にたった。単なる風評のまとめはほとんど役に立たない内容だ。いずれにせよもう遅い。時期的にはこれから、この
呉工廠史も含め、新たなる正確で、客観的に研究できる資料を製作することは不可能と言わざると得ない。日本人は愚かであった。占領軍や左翼の意見を重んじ、戦前、戦中の自らの技術史まで消し去ってしまったからだ。
山田 太郎氏のご発表では工廠で行った酸素魚雷(九三式か)の走行試験で、一本の魚雷が行方不明なり、捜索したところ。はるか遠方の海岸まで到達していたという話が印象にある。
以上