江戸期の大砲鋳造技術への疑問 米村流伝書より

「大小御鉄炮張立製作・他」江戸科学古典業書 恒和出版 解説所 荘吉氏
は昭和57年に発刊された。国友一貫斉「大小御鉄炮張立製作」「気砲記」「粉砲考」など幾つかの古文書が収納された、ほとんどが写された内容である。
多くの内容が鉄砲製作の銃身扱いで、瓦付け製作法などの文字もみえる。
内容のひとつに「米村流中段石火矢鋳方傳」という項目がある。

 

寛永8年(1636)、米村治太夫が伝授した後装フランキ砲を製造する方法の古文書だが、この通りにして果たした実用に耐える大砲が製造できたかは疑問である。文書は17世紀に写されたとされている。
なお、使用金属に関しては、鉄か砲金かは記してない。膨大な量必要だっただろう。まず炉を6-8個円状に配置し、真ん中で砲身鋳造する。ヒノキの木枠に鋳物師に砂型を作らせるとあるが、鋳物師の仕事は具体的に書いてはない。梵鐘などを製作した鋳物師ならそのまま出来ると言う感覚であったようだ。木枠の配置も縦か横かも分からない。

 

二百目玉用の砲は長さ3尺9寸(約120㎝)、玉入れ(口径)1寸6分(48mm)そして目当てや、いろいろな寸法が書いてあるのだが、「火皿」もある。
フランキ砲には火皿は存在しないが。駐退用の柄は銃身上にあるが、本来は装填架下になければおかしい。鋳造に関してはタタラに一斉に火を入れ、湯口(溶解した金属が出てくる穴)を次々に開ける、そして鋳造するとしている。
17世紀初頭、日本の大砲に関する科学技術はこんな程度でとても実用になる方法でも製作でもなかった。実際、鎖国して、大型艦(ガリオン船)の建造、航海を禁じたら、大砲はもう必要なく、砲術家、つまり技術者は非現実的な形でごまかすより他なかったのではないか。事実、このような方法で造られた大砲
(石火矢)はみたことがない。