江戸期の大砲運用技術への疑問・中島流伝書より

「江戸科学古典業書」恒和出版 解説 所 荘吉氏 昭和57年は中島流炮術伝書としてはかなり充実したものである。所氏は解説で、この伝書は西洋流を取り入れた時期、19世紀半ばごろの再編集されたものとしていた。但しその内容はかなり遅れたものであった。「中島流炮術管䦰録」は図面が多く、文章も分かり易い。鉄砲に始まり、大筒の棒火矢近町など棒火矢や焙烙玉発射の架台、そして木砲の製作法、運用法に詳しい内容である。

 

所氏の解説はあまり長いものではない。一般的に「日本の特殊の社会構造が流派と言うものを生み、彼らは権力者から独立していたと」。

 

この伝書は中島大兵衛長守(1694-1762)が砲術、火矢術、鉄砲の作法、棒火矢、抱打、連矢、打場、無音の合図などの項目で自分の知識をまとめたものが元だった。だから内容が進歩したものではなくて、19世紀の近代的砲術と大きくかけ離れていた伝書になった。

 

 

棒火矢は砲身の角度を図る定規が下1尺、上8寸の長さなので40度くらいに固定したものだろう。姫路城で発見された地面に刺さった矢に合致する。(宇田川 武久博士より)発射したプロジェクタイルが棒火矢や焙烙玉で金属砲弾ではなかったので、駐退と言う考え方が薄い。つまり砲の反動をどのように受け止めるかが非近代的な方式だった。西欧の艦載砲、要塞砲(カノン砲)、野・山砲など頑丈な架台(マウント)に車輪やロープを使い、駐退させる考えは中島流にはほとんどなかった。例をあげれば架台は木を彫り込んだもの(つまり小銃型)を縄でぐるぐる巻きにしたもの、俵、杭を使うなどである。唯一木砲に車輪付きの架台が付いているものがあるが、木砲はⅠ-2発しか使えない急場の兵器、幕末には使われた記録はあるが、効果のある本格的な大砲ではなかった。

 

 

中島流は門弟数も多い、各地の流派に影響を与えた技術であったが、第一に金属弾を発射し、相手を破壊すると言う概念はない。第二に西欧の金属砲とその頑丈な架台、駐退に耐えうると考え方が欠落していた。
薩摩英国戦争、下関戦争(1863年)には砲台から発射する大型砲が使われた。
戊辰戦争で野・山砲は活躍した、また函館戦争などで艦載砲が使われた。
幕末維新時には中島流に固執していた兵力はなかったと考えられるが、日本人は19世紀初頭、16世紀から残されていたフランキ砲を北方の守りに持っていくなど、諸外国と接してみて全ての種類の大砲運用には苦労した。

 

 

二つに割り刳り抜いた丸太を合わせて縄で巻き製作した木砲。大塩平八郎の乱にもこのような砲が使用された。野砲と言う考えかたがなかったからで、先の図では連矢と言う束になった矢を敵陣に飛ばし複数の敵を倒すための砲だが、これは固定した仰角を持っている砲なので棒火矢を飛ばしたと思われる。金属個体弾丸、葡萄弾、炸裂弾など野砲は17世紀半ばより西欧では一般的に使用されてきていたが、鎖国してその技術が遅れた。この時代には4斤砲(口径約70mm)の大型車輪を備え、輸送(馬で曳く)、駐退の両方の目的にこの車輪を使用した。仰角は楔、のちには転輪を使用して変えた。近世の西欧砲は中島流とは大きくかけ離れていた。この点に、高島秋帆や江川托庵が危機感を持った。