日本帝国軍用機の軌跡
ワシントンDCの国立スミソニアン航空宇宙博物館本館、別館には日本国内よりも完全な形で良い条件で日本帝国が科学と技術の粋を注入した機体が数多く保存され、展示されている。しかしこれらが70年近くを経過してこのような姿でいるのは戦勝国が持ち帰り、自国でテストをしてから長い話が各々にあった。
スミソニアン航空宇宙博物館はあまりにも多くの機体を保管するために、「零戦」21型、アリューシャンで開戦初期に鹵閣され、研究された、を本館の目玉として1976年から展示されている。その他の日本、ドイツの珍しいものは分解して、郊外の倉庫につめてあった。
3年ほど前、DCから車で40分くらいの距離にあるダラス空港に隣接したところにとてつもなく大きな、格納庫をスティーブン・F・ウドバァーヘイジ氏の寄付で建設、各種の機体をリストア(組み立て、塗装、展示にたえるようにする)作業を気の遠くなるような時間を掛けて行ってきた。例えば、中島航空機製造、海軍双発夜間戦闘機「月光」は1983年から4年間、17000時間かけて今の形になった。
残念ながらB-29の下に胴体だけ置いてある陸軍双発夜間戦闘機「屠竜」は、B-29キラーとして数多くの日本本土爆撃に来たB-29 を撃墜したが、まだリストアされてない。
連合国が日本帝国最高の性能とした海軍陸上戦闘機「紫電改」、伊号潜水艦でアメリカ本土を初めてそして唯一爆撃した愛知時計製造の「晴嵐」フロート付きも健在だ。説明員が、潜水艦の驚異的な航続距離、それに収納された翼が畳める設計を話していた。
当然、日本帝国陸海軍の特攻攻撃、そして「桜花」にも。
日本は第二次大戦中の航空機生産は米、英、独に次4番目。産業としての規模も大きかった。空技廠の設計によるジェットエンジン、1945年8月7日に「橘花」として初飛行したもの。八九式活動写真銃改2、六櫻社計画製造とあり、製造番号は第5897だ。もっと映像が残っていてよいはずだが、終戦直後に破棄されたのかもしれない。
桜花
こうみると、連合国は日本とドイツの航空機を目の敵にして、産業自体を徹底的に抹消しようとした戦後の占領政策が分かる。だが、いずれにせよ、これらの機体は日本においては戦後、存在できなかったものであることも確かである。
以上。