アメリカ南北戦争の兵器産業

8月26日にワシントンDCに入り、南部、ジョージア州の古戦場、博物館、実射、そして北部のスプリングフィールド工廠、メイン州まで、ひとつのテーマを追って旅してきた。
ハリケーンの襲来でピータズバークの要塞戦闘跡を見学出来なかったが、ウィンチェスターでは3種類の大砲実射を経験し、ミニエ銃・58口径(レミントン製スプリングフィールド)、レミントンレボルバー・44口径も競技で実射した。
日本の幕末、そして南北戦争が終わると2年半後には戊辰戦争が始まった。アメリカ南北戦争の間に、欧州の国々、特に英、仏の日本への接近とその影響は大きなものがあり、特に1863年の、下関戦争、薩英戦争は、日本に西欧の武器兵器の奥知れぬ性能を認識させた。それがどの程度のものであったかは、今回の古戦場巡りと実射でかなり具体的に理解できた。西欧の兵器の性能は中途半端なものではなかった。

 写真①

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比べるに日本の兵器、砲術流派に分かれ切磋琢磨したかもしれないが、火縄銃などは取るにたらない兵器だった。大砲も周発とやらの架台もおもちゃに過ぎない、実用にならないものであったことは実際に砲に装填し射撃してみると感じたことだ。やはり武器兵器は自分で操作してみないことにはその本質は理解できない。文章で表せるものではない概念だからだ。アメリカ南北戦争で使われ武器兵器はまた戊辰戦争で大いに活躍し、明治維新後も日本近代体制創設のための軍事化に大いに影響を与えた。だから、日本の兵器史を1868年、明治維新で区切るのは無理があると言うのが今回の結論のひとつでもある。小火器や砲だけでなく、艦艇、輸送、教育その他近代的な軍事の思想に幕末から維新受け継がれたからだ。その軍事の思想は兵器開発や生産の¥体制、さらに徴兵など社会体制の変化へと進展した。
本来、日本の武家社会は軍事政権であったはずだが、250年の泰平のうちに、軍事はとてもマイナーな存在になっていたからだ。長年、火縄銃を研究してきたが、実際にフリントロック軍用銃やミニエ銃、・44口径レボルバーなどの小火器に関してまったく1860年頃、日本は西欧に敵う水準ではなかった。ましてや大砲文明はほとんど日本には存在していなく、その背景には機械工作、製鉄、艦船や鉄道、さらに馬や馬車を使う輸送、化学、計算、あらゆる分野での遅れがあった。特に大砲文明欠落は日本兵器史に特記すべきことだと実感した。小火器は比較的簡単に追いつくことができたが、大砲運用は様々な社会的、科学的要素を含み一日して成らず、明治期約30年間の期間を経てようやく、日本は産業革命後の欧米に追いついたというのが実情であった。

 

良い資料を幾つか入手した。

① Civil War Weapons

写真②

② Civil War Guns

写真③

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③ Munitions of War

 

写真④

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④ Cannons

写真⑤

⑤ The 1886 Machine Gun Manual

⑥ Handbook of the Gatling Gun Caliber.30
⑦ Antique American Firearms

以上