アメリカ南北戦争における兵器装備状況(工廠資料より)
ユニオン側には戦争が勃発したころ、19世紀初頭に生産された、フリントロック軍用マスケットが5万挺、1835年モデルなどと、パーカッション銃1961年モデル26000挺しか装備されてなく、計8万挺弱で、常備軍は1万人だった。
スプリングフィールド工廠がユニオン側(北軍)の兵器生産の中心地であり、工廠がマサチューセッツ州、コネチカット州、メイン州などの会社(コントラクターと言う)大小工場に「スプリングフィールドライフル・577」を同じ規格で生産させ、1861年コンフィダレート(南軍)と衝突した際に、旧式のフリントロック軍用銃に変わり小銃を以下のように生産させた。しかしこれらはほとんどが前装であった。
その数は58社に及び、主なところでもPerpers15000, Chales B.Hoard 12000,
E Robinsons 3000, William Mason 3000, CD Schrbalti 9500, Savabe 22520, Whitney 15000, Alfred Jerksbs 98464, Suhe400, Whitny.69口径 1000, Ameskeag2900, Colt 7500, Lanson Goetsov &Yale 5000, James Pibody 82000. Welch Bacan 1850,PovidenceTool 7000, Norwild Aras 2500, その他Winder Lob Urhen, Whitny Navy, Starr, Allen & Wheelok, Savage, Wilson などの会社名がみえる。(同じ会社名が再度出ているが
形式が異なるものか、更に調査の必要があるが。)
これらを合計すると24万挺プラス。1883年、1年間でコントラクターズは53000挺のスプリングフィールド小銃を生産していた。その何倍かを工廠自体が生産していたので、その数用は年間30万挺くらいであったのではないか。この数でもユニオンの装備としては不足なので、後送式など新型より、前装でも数をそろえるのが方針だったようだ。
一方、コンフィダレートでは戦争は勃発したが軍隊組織は形成されてなく、ウエストポイントなどで教育を受け、ユニオンの高官であった軍人が故郷に戻り、軍を組織した。
南部にも銃器工場はあり、1861年、16万挺の小銃を生産したので、スプリングフィールドに比較して半分くらいであった。
内容はJeslyn .56口径後送式337, Relbn.50口径M1860 33336, Ward Burtor 1327、Lee142, hoka M1844を23500,他16000都8500、M1866スナイド45口径6500、M1865
スナイドル7500、M1856 63263などである。後装式に関しては南部の方が積極的に採用していたようだ。
一方北部ではシャープスカービンがリンカーン大統領にプレゼンテーションされ、ホワイトハウスで実射実験された。しかし、ユニオン側は小火器にはあまりこだわらず、艦艇、
大口径砲などに力をいれ、コンフィダレートのシーレーンの封鎖、インフラの破壊などの戦略に力を入れた。従って、地上戦闘では多くの勝利を収めたコンフィダレート側も徐々に生産や補給が断たれて、西が先に落ちて、さらに工廠や鉄道が破壊され、包囲されるかたちで海岸側の要地リッチモンド、アトランタが落とされ降伏した。
この現象をロンメル将軍は南北戦争に学べと言ったのではないか。陸だけ強くても総合力が重要だと。
以上