日本の捕鯨文化と捕鯨銃

果たして、捕鯨用銃、砲が「武器兵器」であるかどうか、その定義には確信はない。
しかし、鳥獣を狩猟する銃はそのまま武器になった。アメリカ独立戦争時、各自が狩猟に使用していた銃を持ち寄り、独立軍を編成した。そういう事実から考えると捕鯨銃砲も武器兵器の一端を成していたものと言えよう。機能は同じである。人類最初の武器、銛の類も捕鯨には必需品だ。銛の各種とくじら博物館(下)

日本古来捕鯨に欧米風の捕鯨銃砲が使われるようになったのは明治後期になってからと和歌山県太地町『くじらの博物館』で知った。この博物館は子供たちが幼少のころに連れてきたことがあるからすでに30年近くになるか、とにかく今回の紀伊半島一周旅でもう一度、映画「コーブ」の世界を観たかった。太地の町はひっそりとして交通量も少ないところだ。まずは高台から港を眺めた。この日は後で聴いたが「いるか漁」があったそうだ。

太地港

私が着いた頃はすでに解体は終わりひっそりとしたたたずまいに戻っていた。気の毒にも全ての作業は天幕の中で行われていた。
この地は本州最南端、入り組んだ、入江と高い崖の地形を活かして鯨漁が盛んであった。
古来の捕鯨は数多くの子船が遠くに見える鯨に向かい、狭い入江に徐々に追つめ、手投げの銛でしとめる方式を取った。 漁は漁でも狩猟に通じるものがあり、明治後期に手なげ銛の替りに火薬をつかう銃砲が使用された。それらは、
1、 いるか漁に使用されて肩当て小銃

全長約60㎝、銃身長約30㎝、木製銃床、口径は・58口径、スナイドル実包を使用したものかもしれない。閉鎖が原始的だ。鉤を引っ掛ける。村田式のボルトと一緒に握りで開放し戻す。銃身下の筒状弾倉(長さからみて3発入る)に装填、計4発をいるかの群れの中で発射したと思われる。いるかは習性として飛び上がった際に空気を吸う、その時に命中すれば海中に沈むことはない、体内から空気が抜けると、沈んでしまう。銃で撃ち、命中したら直ぐに別な人間が綱を曳く銛を打ち込んだのだろう。あまり効率の良い漁(猟)ではないが、太地の近くには鉄砲を扱う人たちの浦上という集落があったそうだ。信公記には湯川(太地の隣接地)熊野から15000人の鉄砲傭兵が石山本願寺に入ったとある。

鉄砲打ちが多く居住していたという太地に隣接する浦神の風景

2、 鯨漁用大口径銃

架台のない捕鯨銃としては最大の重さであろう。全体が鉄製で欧米の捕鯨銃のコピーか、輸出品だっただろう。アメリカから戻ったと記してあった。全長1m、口径30㎝位、矢バネのついた銛を打ち込む、この銛に曳き縄はついてなかったようだ。国友卯十郎の銘。この捕鯨銃は澤田 平氏が発見し、国友製の捕鯨銃として紹介されたのを覚えている。
3、5連捕鯨砲


銛が装填されてないのが残念だが。
この砲は垂直に5本の銛が装填された砲身が並んでいる。握りは一つしかないから
連発するものではなく、5本の銛が同時に鯨1頭に向かい飛んでいく仕組みだ。
まだこの頃は銛の大きさは手投げ銛と同じくらいのサイズであった。大正から昭和にかけて鯨漁最盛期に使われた砲であろう。
4、3連捕鯨砲

時代的には5連砲の後のものだろう。機能は同じである。金属薬莢を使い。銛は装填されており、綱の掛け方がよく分かる展示だ。

5、 小型平頭銛砲

ミンク鯨は古来「いわし鯨」と呼ばれていたそうだ。2番目に小さく、体長7m、重量数トン、年間100頭くらいが近海で捕れる。この砲は口径50mmほどで、全長1・2m、架台に載せて高さ1mほどの寸法だ。見てわかるとおり、下部の筒、油圧バッファーを使い駐退後座させ、閉鎖は金属薬莢を入れて閂で行う。速射する必要はないからだ。銛は各種が使えたと推定されるが、現在はこの特徴的な平頭銛が入り展示されている。銛に特徴があり、先が尖ってない。それまでノルウエーの技術を使っていたが、これは日本人の発明だそうだ。先が尖ってないと命中率が悪いのでは、と言う恐れは全くなく、命中率はよく、くじらに当たると横の安全索が巻いてある鍵の部分が火薬で開く。つまり信管もついた本格的な砲であった。上下する船首で、上下する目標を捉え一発で仕留める。しかも太い綱を曳いて行くので、くじらが沈みかけてもあわてる必要がない。重い綱を曳くような銛を飛ばすには初速が出ない黒色火薬を使い、金属薬莢は何度も使用したものだろう。平頭銛であるが、命中率に問題はないことが分かると、外国でも使用された日本の技術だそうだ。

5、 大型平頭銛砲

砲はノルウエー製

5より一回り大きい。恐らく現在でも使用されている近代的な捕鯨砲ではないか。口径75㎜で、金属薬莢を使う。砲であるが砲手による直接照準で、右側面の長い尺を使う。
鯨は射殺すると直ぐに空気を入れ沈まないようにするそうだ。

誤解されている鯨漁:

銛の切っ先

捕鯨は18-19世紀欧米の主力産業の一つであった。アメリカによる日本開国も捕鯨船への薪水供給要求から始まっている。事実、アメリカ東海岸を旅していると
各地で捕鯨文化の名残を観る。日本の伝統捕鯨は江戸期、和田頼元(源氏の名前)という人が創始であり、5つの刺手組を組織して、産業としてそれは大規模なものであったと記録されている。捕鯨するだけでなく、最終加工まで含めてだ。捨てるところがないという貴重な産物であり、明治11年(1878)の「大背美流れ」と呼ばれているが巨大な鯨を深追いし100名もの者が命を落とした。この事件以来太地の鯨漁はしばらく衰退した。しかし日露戦争頃から様々な重要、軍用の鯨油などが大きかったのではないか、それから太地の捕鯨は復活し、遠洋にも出るようになった。
小説「モビーディック」のエイブラハム船長は白い巨大な鯨を追い、日本近海まで
来て死ぬ。鯨には歯はないから船長が足を食いちぎられたことはない。歯の替りの
鯨のひげと呼ばれるのみ込んだものを選りわける部分は不気味だが、そのゼラチン質は江戸期よりニカワ、ゼンマイなど様々な素材になった。特に弓の製作には無くてならないもので、弓の全体が鯨のひげで造られたものも見る。


鯨のひげ

これを、「文化」と誇らずして何であろう。

鯨油は機関銃に使われた:
機関銃には油は必要不可欠なものだ。円滑な作動に様々な工夫で給油をした。機関部と弾薬両方に必要だった。弾薬に油を塗るのは薬室に入った場合のヘッドスペースを調整するためと言われていた。日本軍の機関銃あるところ食欲がそそられる匂いが残っていたと米軍資料にあるが、鯨油を使っていたからだ。鯨油は粘りがよく、あらゆる温度に対応でき、鉱物油より変質が少なく、日本軍の貴重な武器兵器の装備品であった。日露戦争を機に捕鯨が復活した理由のひとつではないか。

三年式機関銃の弾板の上、蓋のある箱状の油缶(「日本の機関銃」より)

日本人のたんぱく質の源であった鯨肉:
おかしなことに捕鯨の盛んであった米英では鯨肉は食べなかった。捨てていた。
19世紀、日本近海に来た捕鯨船は新鮮な肉に飢えていたそうだ。しかし日本人は
古来、鯨は魚類と考えていたので、これを食した。反捕鯨団体は鯨やいるかを食べ体内の水銀が蓄積し害を及ぼすと言うが、日本ではその例はないそうだ。


鯨定食の例

到着が午後2時ごろになってしまったので、まずは博物館前の食堂と言うか屋台と言うかで一番の「くじら定食」1800円を食べた。刺身と懐かしい竜田揚げの両方が食べられた。
昔は渋谷に食べさせるところがあったが。以上。