愛知時計電機、尊敬すべき軍需産業会社の典型
日本の武器兵器そして軍需産業、その将来を研究し始めたころ、関係ある各社に社史をいただけないかと依頼の手紙、電話などでお願いした。この会社「愛知時計電機」はとても気分良く、1987年、編纂した「85年史」を送って下さった。今でも大切にして時々目を通している。なぜ愛知時計電機にお願いしたかと言うと私がアメリカでロイ・クーパーからATFライセンスで譲り受けた、海軍ルイス九二式汎用機関銃を製造した会社だったからだ。
中部圏は昭和になり陸軍名古屋工廠のもと各社で、陸軍系兵器は大規模に開発生産しその関係会社は輸送の関係だろう北陸、新潟まで及んでいた。卒論に恐れ多くも「軍需産業の限界」と言う題を書いた。(気賀名誉教授には評価されなかったがそんなことはどうでもよい、気賀先生は鉄砲一発も撃ったことはなかったのだから。この武器学校のルイスも愛知の製造、円盤弾倉は山岡製作所、ヤンマーの製造、三脚架が凄いものだ。)
愛知さんのような軍需で栄え、技術を蓄え、無一文になった戦後もその技術で生きているどころか繁栄している会社に興味を抱いていたからだ。(豊田自動織機などもその一例だが、戦前、戦時中のことはなぜかあまり語らない腰ぬけだが)
愛知さんは明治時代に柱時計を製造し輸出していた。
現在は堂々たる一部上場で、小型の液体、気体の流量センサーを製造し、水道、ガスなどのメーター、電磁流量計は家庭用だけでなく工業用でも計側機やそのシステムの製造会社である。これを聴くと良く分かる。戦前、戦中に航空機を開発製造していたのだ。
大正時代になり海軍との関係が深くなった。海軍は豊川と鈴鹿に工廠を作り、自分たち用の会社が必要だったのだろう。愛知さんにはむしろ海軍側が接近している。
愛知さんは大正9年(1920)頃から航空機開発を手掛け、傑作機、実用的であったのは固定脚の特徴的な九九式艦上爆撃機だ。脚を入れないダイブブレーキのある機体は急降下ができるからだ。九九式艦爆は1500機ほど生産された。ハワイ攻撃から大戦初期のインド洋近辺の戦闘では大活躍をした。
またドイツからライセンスした液冷エンジン「熱田」を搭載し、潜水艦を母艦とする「晴嵐」を製造した。
この社史を読むと、戦時下の第一線の生産業の有様が良く理解できる。青年学校を設立し、
工場で働く少年たちを教練だけでなく、一般の中学で教える内容の勉強もさせた。
そんなことで、戦後、何の需要見込みもないが、「人と技術」が残った。日本の産業の典型だ。
余談だが私の家に愛知時計があった。箱型のあまり高額ではないものだった。リビー教授に贈ったところ、彼はピカピカに整備して自分の書斎で、ボンボンなる音を楽しんでいる。
スミソニアン別館の「晴嵐」