「鍛冶屋」を経験してみた 「夏草や強ものどもの夢のあと」

日本の鉄器時代は意外に早く日本人は鉄の扱いは上手だったと、幕末に日本を訪れた西洋人は記述している。しかしそれは個人レベルの鉄の扱いで、所謂「鍛冶屋」職人であった。産業としては鉄の生産量も少なく、明治政府の殖産興業策はエネルギーを多使用し大々的に製鉄産業が欧米水準に達したのは昭和になってからと言われている。

鍛冶場の設定

以前、鍛冶屋の道具を一式手に入れた。名和先生が「譲りなさいよ」と言ったので、価値のあるものと確信して、ずっと保存していた。
要(かなめ)は木製フイゴだ。火に空気を送り込み温度を高め、鉄の加工を楽にする仕組みだ。また「槌」や「挟み」も用途に応じて多様な形がある。頑丈な「鉄台」は必須のものだ。ようやくこの台を見つけてきた。道具があった鍛冶屋の台は床に組込まれていて、取り出せなかったとのことだ。自分の支度は長袖、皮手袋、安全メガネ、帽子など。

炉の建設)と言っても大げさなものではない。耐火ブロックを3個組み合わせたもので、丁度、納屋の横、車を入れておく所を利用した。炭も一箱。
木切れを燃やし炭に火を付ける。どんどん炭を入れた。銃砲史学会の岡崎さんが国友の鍛冶場跡見学話を聞いた際、空気の流れが良くないといけないので建物の上が開いていたと言ったことを思い出したからだ。締め切ったところでは、炭火の一酸化炭素中毒になる恐れがある。

炭は多量に必要

材料の選択)どういう仕事に挑戦するか、考えたが、1、川で拾った中型シャベル、四角の部分を丸いお椀型にして、「鉛溶かし」の柄杓を作る。
2、鉄パイプを叩いて平らな板にする。焼き入れも入れる。
3、鋳物の鍋にサイズの異なる柄をつける。であった。

作業の手順)炉、フイゴ、道具、鉄台に囲まれるように座る席(丸太)を設置、左手でフイゴを操作する。材料を挟みでつかんで出す前は必ずフイゴで空気を送った。鉄が真っ赤になるまで温度は上がらなかった。
左手を挟みに持ち替えて、火から出した材料を挟んで出す。鉄台の上で形を整えるように槌で叩いた。熱したが、もたもたしているので、2-3回しか打てない。また火に戻す。その繰り返しだ。

 


フイゴを煽る

一番うまく行ったのは鉄パイプを板にする作業だ。これは細かく叩いて行くのがこつだと思った。刀の鍛造を意識した作業だったが。最後に真っすぐにして
水に入れた。固い板になった。ようは力ではなく、細かく打つべきところを打つのが基本。本当のタタラ鉄からだと炭素を出すため強く打つのだが。
パイプだから、2枚に板が沸かし付けみたいなっている。後で切って断面をみよう。何かを作る、と言う行動は本当に楽しいものだ。

柄杓の製造は材料が鋼であったようだ。かなり力を入れないと曲がらない。また元々が薄いものなので、これを曲げて行くにはなかなか大変な作業。しかも四隅を切る手段がない、柄を沸かし付けする手段がないで、プレス加工みたいなものは鍛冶屋としては難しいと感じた。また半ば。

 


ここまでしか出来なかった

鋳物の茶釜を熱したら割れてしまった。これは鉄質の問題であり、当然のことだろう。この柄を外し、それを平たい鍋に取り付けた。鍋の方が大きいので、柄を温めて延ばす。端の曲がっているところを真っすぐにする。こういうことは鍛冶としてはやり易い作業だ。そして柄を鍋の取手に入れて、引っくり返しながら、柄の先を曲げて取れないようにする。本当は油か水で固くすれば良いがもろくなるおそれがある。鋳物の茶釜の柄は鍛造で作ったものだ。
日本のこの手の柄、上は持ちやすいように鍋に対して垂直、取り付け部までいくところをねじって水平にしてある。他の鍋も観たが大体この方式だ。

 


鍋の柄は形になった

 

なんとなく刀剣の形になってきたが、ここまでで終わり。反りも出たが、偶然。

鍛冶屋の難しさ)
両手がうまく使えなければならない。鉄の温度を見て分からなければならない。
素早く作業しなければならない。鉄の質を見抜かなければならない。

それとこの日、天気は良くなった。山で涼しいところだが気温は28度くらいまで上昇。半端なく汗が出る。飲む水を横に用意しておかないと。重労働だ。職人気質と修行がいる。

西部劇などで馬の締鉄を叩く鍛冶屋が厚い皮の前掛けをしているシーンがあるがあれが鍛冶屋の衣装だろう。日本の鉄砲鍛冶のように裸でやっては火の粉で火傷をする。恐らく、農具、刃物、鉄砲銃身などはこの程度の野鍛冶の設備で作業できたのであろう。

 

次回はもう少し高等なものに挑戦しよう。何でも自分でやってみなければ語れない。
以上。