河井 継之助 終焉の地 (亨年42歳)

戊辰戦争の戦闘らしい戦闘を指揮し、長岡から会津に向かう途中、八重里という山越えの途中、現在の只見の山中で負傷のため死亡した長岡藩家老河井 継之助記念館を訪れた。会津から1時間20分のドライブだった。

 

(このガトリング砲模型はいただけない、バランスがないのだ。)
司馬 遼太郎さんの小説「峠」がこれをテーマにしたものであるが、彼の人物像などはどうだったのか、良く分からない。新政府軍との小千谷の交渉においても激しい気性のため決裂したとの説もある。しかし彼が慶応二年(1866年)に実施した長岡藩の兵制改革は短時間で実績をあげ、その装備はほとんどが西洋式の新式であった。歩兵はミニエ式小銃1000挺、砲30門、ガットリング砲2門など。兵器弾薬の陸揚げは新潟から行われたと言われている。
越後長岡藩は7万数千石、「武士の義理、士の一分を立てよ」というくらい几帳面で、質実剛健、文武両道の気風であったそうだ。兵力は上記の数からすると
せいぜい3000人くらいであっただろう。ガトリング砲は余計だったと筆者は考える。もしその額で後送式スナイドル銃と弾薬を購入したなら、機動力、戦闘力は数倍になったのではないか。
河井は越後平野での戦闘で2度負傷し、会津に合流する途中、庄屋矢沢 荘吉宅で療養、12日後に死亡したそうだ。当時の大口径弾丸が身体のどこかに命中すれば感染症などから死を意味した。

山の中で死亡というのはみじめな感じを受けるが、立派な屋敷きの奥座敷で手厚い看護を受けたそうだ。(河井は奥の部屋にいた)
記念館の中にガトリング砲の模型、矢沢屋敷をそのまま移築しており平成5年に完成し、同20年にリニューアルされた。
武器兵器に関しては展示も少なく不十分なものだ。建物に予算をとられ中身を充実させる余裕がなかったのであろう。


(この手のものが役に立つ)

ガトリングガンは昨年、アメリカでNRA博物館、スプリングフィールドアーマリーなどで20種類くらいのものを見学したが、多分、これは写真か何かから製作したもので正確な模型ではないだろう。
また長岡市にも同じ、河井 継之助記念館がある。そこにもガトリングの模型があるそうだ。

(この絵でも長岡藩兵士はミニエ式二つバンドの小銃(恐らく前装)を担いでいた。)


(河井に関する小説、伝記、漫画多くの出版物が世に出ている。)以上