会津鶴カ城攻城戦(1868年夏)
NHK2013年大河ドラマ『八重の桜』の話題で持ちきりだ。京都で晩年に撮影された新島 八重が刀を差して、スペンサー銃を携えた写真もあちこちに飾ってある。城では「新島 八重物語」と言う紙芝居をやっており、それを観たが
この紙芝居で、大体、どんな様子だったかを感じることが出来た。5000人近くの人々が籠城したが、戦力はその三分の一くらいか。女性も子供も手伝った。鉄砲は各種合わせて2800挺あったが、新式のものは幕府軍などが城外に持って行ってしまったそうだ(むかしや談)。
また後装式騎銃では弾薬が足りなかった。弾薬の消費量が多いのと銃本体が高いので、弾薬を十分に購入できなかったからだ。
城の天守閣に上がると、新政府軍が砲台を構えた小田山が見える。大体2-3㎞の距離か。当時の四斤砲の射程だ。50門の砲があり、籠城した者は砲撃で犠牲が多かった。
小田山を望む、芝生の部分には建物があった
後に京都で撮影された新島 八重
八重役の女優、右は子役。銃の持ち方は教えたら上手になった。
八重の実家は砲術指南をしていた山本 権八の家だった。八重は幼少の頃より、鉄砲が好きで力持ちだったそうだ。実際に火縄銃を使う射撃を習ったらしい。
最初の夫のことは良く分からないが会津藩士で戦死したらしい。
会津藩は昔堅気の侍精神が生きており、「ならぬことはならぬ」「弱い者いじめはするな」などを厳格に守っていたそうだ。(そう言えば「いじめ」問題は西の方に多い)
松平 容保(京都守護職)
藩主、松平 容保が安政六年(1859)北方警備に、文久二年(1862)京都守護職について、新撰組などを組織し、薩摩、長州の攘夷派を力で押さえ付けたので、その恨みをかい、大政奉還後も薩長は会津だけは許さないとの方針だったそうだ。しかし攘夷派が、新政府派に1863年の列強との戦闘で突然に方針が変わったと言うのもそっちの都合であり、会津のせいではない。まあ無理にこじつけたのもまずかった。10年後には西南戦争が起こり薩摩は逆賊となった。長州だけが新政府の中で生き残った。会津藩は親藩だが小藩でその禄高はせいぜい25万石であったが、会津、新潟など生産性の高い地域であり、当然重要なる役職から幕府より加蔵的に他の収入も得ていたと思われる。ただ藩士は質実剛健、旗本のように消費経済にそまってなかったので、軍備に費用を遣うことには抵抗がなかった。
女性や少年(白虎隊)が戦闘に出た話の背景については、二本松の少年隊の話もある。戊辰戦争は、内乱であるが、一旦地域を巻き込む戦争となると非戦闘員も戦闘に出るような状況になる、こういう話は第二次大戦頃に受けたのではないか?とも推測できよう。
城だから展示物に武器兵器は重要なアイテムだが、鶴カ城の場合はやや力を抜いているか。架に並べた火縄銃もおもちゃ以下で、狭間から銃を構えている兵の様もなってない。
一番下のものが手に取れるが火挟みが廻っていた。当然、元に戻した。
この辺は改訂の余地がある。以上