越すに越されぬ田原坂

先日、西部方面隊研修中、熊本で夕方、短時間であったが熊本城を見学した。
「西南戦争展」を横の建物において開催中で、これも見たいと入った。しかし展示物は、あまり充実してなかった。

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中の係員、シニアボランティアがとても親切だった。「田原坂にはいかんとば」と言われたが、ここから10㎞あると。「とても無理だ。車が待っているから。」
この二人、武器兵器は分からない様子だったが、歴史は親切に説明してくれた。
西郷ドンの人気と言うか、このあたりでは彼のファンだな、と感じた。

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(展示場内部)

西南戦争は明治10年(1877年)薩摩を中心に九州の旧士族が武力反乱を起し、
戊辰戦争以上の戦死者(両軍14000人)を出した、日本の大危機であった。

薩摩にはスナイドル銃の弾薬製造機があった。反乱の発端はスナイドル銃弾薬を政府の管理から私学生が持ち出したからだと言われている。この銃はエンフィールド、スプリングフィールド銃.58口径などのミニエ式前装ライフル銃を後装に変えたもので、身体を起さず装填できた。ボクサー雷管を使用するので、雷管を止める部分は金属だった。後に全体が金属薬莢になったが。だが薩摩にはスナイドル銃装備は少なく、発起した反乱軍は皮肉にも前装銃が多くそれらで戦闘せざるを得なかった。

戦場では最近でも砲弾、銃弾が発見されるそうだ。銃弾を観察していると、
程度の良いものでも條痕が見られない。表面が劣化したためだろうが。
もし少しでも口径の小さい弾薬.58口径に.577弾を使用すると、ライフルが浅いので噛まない。弾丸はしばらくすると横転して落ちる。

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(ミニエ弾にライフル条痕が残っていないので不思議に思った)

反乱軍の攻撃に九州の政府軍4000名は熊本城に籠城し、中央軍の到着を待った。中央では近衛兵で編成した派遣軍だけでは足りず、警察官を軍に組織し、スナイドル銃を装備(警察博物館に程度の良い展示がある)派遣した。射撃練習は現在、文京区東京大学農学部にあった。また弾薬製造設備、弾薬そのものを輸入し、ガトリングガンや四斤砲を装備したとある。(砲弾に信管(衝撃)が付いている展示は珍しい。)

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(スナイドル実包四百四十発と、弾薬箱)

田原坂の戦闘は狭い谷間を政府軍が攻撃した。冷たい雨が降り激戦となった。

西郷ドンがなぜ反乱軍を率いたか? これも近代史ではあまり教えてないが
「征韓論」を唱えたためだ。

熊本城はこの反乱で焼失したが、今は昔、加藤 清正公が建設した時代、かくありなんと言う姿を見せてくれている。規模も大きい。見事な狭間だ。元はこの堀を超えた距離が火縄銃の有効射程だったのだろう。

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(この項以上)