日本の戦闘車両 戦車

大日本帝国は海軍国であり、陸軍は海軍の三分の一から半分くらいの予算しかなかった。海軍は1930年代になると、大艦巨砲か航空戦力かの結論が出ぬまま両方の開発、生産に金を使った。陸軍は徴兵制だから兵員には苦労しなくても、兵器や装具、そして組織の近代化が思うように実行できない状況だった。
結果、大日本帝国がソ連でなく、アメリカに参戦した背景にはこのような事情があったのだろう。
1930年代、帝国陸軍が行った近代化は、航空戦力増強の他は、騎兵を戦闘車両部隊に転換し展開する、と言うことくらいしかなかった。
だから日本の戦車開発や増強の苦労が花開いたのは実は戦後、自衛隊の時代で、帝国陸軍時代は装甲も砲の規模も小さく、装備数も限られていた。
その主なるものは、八九式中戦車(1928)、九五式軽戦車(1935)そして九七式中戦車(1937)の3種類であった。大戦中に一式、三式、四式など砲を大きくした車両を開発し本土防衛のために温存したが活躍の場はなかった。
いずれの戦車もディーゼルエンジンを装備したところが他国の戦車に比較して
引火し難いので評価された点だ。
八九式中戦車は陸上自衛隊武器学校に稼働するもの、エンジンは新しいが、その他、キャタピラなどはそのまま、が存在する。わずか404両しか生産されてないが、中国戦線では大活躍した。

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(陸上自衛隊武器学校の稼働する八九式中戦車)

九五式軽戦車は輸送が比較的楽であったので、太平洋の各戦場で使われた。
タイ国に50両が輸出され、タイ国国防省の玄関に一両が展示されている。まだ同国には他にも稼働するものがあるはずだ。日本に一両あった稼働する車両は嵐山美術館が倒産し、英国軍事博物館に売却された。ノモンハンで鹵獲された何両かがソ連にあるそうだ。総数2400両が生産された。

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(九五式軽戦車)

九七式中戦車は帝国陸軍の主力戦車で、大戦初期にはルソン、マレーで活躍し
大戦後期には、千島占守島でソ連軍と果敢に戦闘し全滅した。総数2200両が生産された。

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(九七式中戦車)

これでみても時代遅れな八九式をいれても総数約5000両しか生産されてない。
陸軍国、独逸第三帝国やソ連そして米国に比較したら何分の一にもならない数だった。

三式戦車は75㎜砲を備え推定160両が生産された。それ以前、一式として
57㎜砲を備えた戦車が170両生産されたが、これは現存していない。
四式戦車として制定されたものが終戦直後、浜名湖に遺棄されたと、最近調査が行われたが見つからなかった。

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(陸上自衛隊武器学校保存の三式)

皮肉なものだ。本土には米国型の新型戦車は温存されており、多くの戦車兵も
死なずに済んだ。朝鮮戦争が始まり、米国から供与戦車が数多く、北海道に装備された時、かつての少年戦車兵が応募してきて、その優秀な技術に米軍は安堵したそうだ。M24軽戦車、M4中戦車シャーマンなどが数百両供与された。

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M4中戦車

静岡県富士宮、陸軍少年戦車兵学校は4000人の戦車兵を養成し、終戦時、本土には約1000両の戦車が温存されていた。戦後は76式、90式、10式など世界最高水準の戦車を開発した。世界では戦車を自国で開発、生産できる技術力の存在する国家は約10カ国と言われている。
(この項以上)