予科練『雄翔館』新装なる
予科練は帝国海軍の航空機要員の養成制度で、昭和四年(1929)に発足した。
海軍下士官、及び全国14歳以上の少年の応募で、当初は年間1000人くらいの
規模だった。昭和十四年(1939)より茨城県霞ケ浦海軍航空隊に移転し、4000人規模になった。下士官兵として操縦、偵察を約3年間かけて教育する制度に
変化した。さらに大戦後期には岩国、三重、鹿児島など全国19か所に拡大し
教育期間は6カ月に短縮された。
帝国海軍航空機の乗員の要であり、大型機においては、操縦士、爆撃手、通信士、航法士などほとんどの任務は予科練出身者が行った。(機銃手は操縦士以外の乗員が担当した)従って、教育の領域は広く、一般12科目、軍事9科目、体育10科目であり、「月月火水木金金」と休みなしに教育することもあった。
帝国海軍の航空機の損失率は大きく、また大戦末期には特攻要員として使われたので、予科練生の戦死率はとても高かった。
茨城県阿見町に広大な飛行場があり、そこで離着陸、霞ヶ浦上空で操縦教育を
行った。(飛行場は地図で見ると四角であり、風向きを見ながら、離陸、着陸を
行ったようだ)
甲飛(操縦士)と乙飛(他要員)、丙と分類されており、甲と乙の確執があったそうだ。
阿見町には二つの予科練に関する記念館があり、ひとつは阿見町管理の
「予科練平和記念館」と予科練出身者の会、財団法人「海原会」管理の「雄翔館」である。
両方の建物は直線距離にして200mくらいしか離れてない。「雄翔館」は陸上自衛隊土浦駐屯地武器学校の一部にある。
両方の施設の展示方針と内容は異なり、前者は建物を7つに分け、予科練生の生活と教育を主に見せている。後者「雄翔館」は今回、内部と展示が新装された。
その内容は、予科練生の記録を一人一人の経歴、歴史として紹介、全体として予科練への理解を勧めると言うものだ。展示物は海原会会員の御寄附だそうだ。
「雄翔館」の新しい内容の一部は以下の通りだ。(入場無料)
元からあったコンクリート平屋(10×20m)内受付部分を通り、左から右にケースを覗いて行く方式だ。
上は左側、下は右側 予科練隊員の個人として紹介が続くシンプルだが、
一人一人の短い「人生」を展示している。それらを見ることで戦争を
理解するのが目的だ。
隊員一人一人のデータベースの検索、まだ作業中であるが
見事な筆による両親にあてた遺書の例
防寒飛行被服(上)とカポック
計算板
航空時計とコンパス
特攻兵器「回天」の模型
常磐線の土浦まで行けば、武器学校の「小火器館」「火砲館」「戦車展示」に
「予科練平和記念館」とそしてこの「雄翔館」をぐるりと回り見学できる。武器学校施設は開館の日時をHPで確認することが必要だろう。
この展示の改装にはコンセプト造りから、具体的作業まで元武器学校エフ学校長の御尽力があったと聞いている。歴史とその価値の保存は系統的、論理的に誰かがやれねばならぬ。素晴らしいことだ。
(この項以上)