2-2、2式擲弾器

① 2式投擲弾器

 

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(帆布製の収容嚢に入れ腰につけた)

小銃の銃口に装着し木製弾を発射し、ドイツのライフルホロー弾を使う投擲器だ。クランプで銃身を挟むので三八式でも、九九式でも共通に使用できたであろう。
ホロー弾は、木弾のガスを受けライフルで回転する後部、炸薬の入った中、衝撃信管の前部と3部分で構成されている。昭和19年2月大阪工廠製
この弾の他に前部が大きな弾も用意されていて、それがより強力なホロー弾であっただろう。発射の際のGで信管の安全装置が稼働し、命中の衝撃で炸裂する仕組み。全長155㎜、直径40㎜

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口径7.7㎜の木弾。機関銃の訓練弾としても使用したが、銃口を出ると粉々になる
装着は簡単、銃剣を使うこともなく、銃身の上で挟んで、柄を使いただネジを回すだけなので、10秒もあれば可能だ。全長18㎝、口径41㎜。筒部分はねじ込みがあり長さが調整できる。ねじは7まわり、長くすると、ガスを受けている時間が長いので射程が長くなる計算だが、どういう角度でどう照準したかは定かではない。15㎜伸ばせる。ライフルは8条でホロー弾の後部が若干大きく、この部分をねじ込むように装填する。ホロー弾のライフル部分は

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ベークライト製、信管は大きい。擲弾器の出来は良い。仕上げも、黒染めも。「昭和17年11月79」と「2擲弾器 に53 6073」と刻印されたふたつがあるが、寸法は全く同じ、名古屋工廠と豊田刻印が見られる。(装着し銃の下から見た図)

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見ての通り、クランプで銃身を挟むが照星(フロントサイト)がこの擲弾器を
の衝撃を受けているので、これを発射した小銃は後で役にたたなくなる恐れもあったのではないか。また擲弾器の数は推定Ⅰ万個くらいと大規模なものでなく、細かい使い方や訓練が1件だけ残された記録を読む限りされてなかったようだ。「ラバウルの陸軍兵にある日、この擲弾器とホロー弾2発、木弾2個が支給され、作戦中、擲弾器は腰にホロー弾と木弾は雑嚢に収容したが、取り扱いの文書も訓練もなかった。戦車に向かって近距離で撃つ、だけが指示だった。」
角度が付けられ射程を調整できたが日本軍の場合は近距離で戦車の装甲に直接照準して撃つ、射手は助からないと言うことで、この兵器の使用実態、成果に関しては不明な部分が多い。
画像のものは硫黄島か沖縄からの鹵獲品であるので、同地で使用された可能性は高い。

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2種類の異なった刻印だが製品はまったく同じもの。右のものには製造年月がない。
製造番号からするとたいした量は製造されてなかったようだ。以上

 

② 2式投擲弾器の製造年と武器学校の実物

武器学校で新たに発見された実物である。日本に存在した者としては大変に珍しい。

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帝国陸軍の兵器は和数字で表記されることがほとんどだが、このものだけは
算用数字で表記されている。米国研究家グレッグ・バビッチ氏の資料によると、製造は名古屋工廠で、昭和17年と18年の両年に渡り行われた。
この頃までの日本軍兵器の仕上げは素晴らしい。

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名古屋工廠の刻印があり番号は「866」
昭和17年製には製造年月が刻印されていたが、昭和18年より記号化してひらがなの「に」は名古屋工廠を示し、下の「53」と言う数字は昭和18年と言う意味だそうだ。生産はこの2年間しか行われなかった。投擲弾の製造と
合わせなければならず、投擲弾はなかなか手間のかかったものだったのであろう。シリアルナンバーは昭和17年に22-16986、昭和18年に949-32395が
記録されているので、数多く製造されたかもしれない。アメリカ人研究家はシリアルナンバーを広く調べ製造数を推定している。

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この兵器の使用に関しての記述や記録はほとんどないが、友人が硫黄島で観察した米軍M-4中戦車の補強された装甲をみると日本軍がこの手の兵器をある程度、有効に使用したと推定されよう。

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硫黄島に遺棄されたM-4中戦車 側面に鉄板を溶接したり、網を張りコンクリで固めたりした。