戊辰戦争二本松藩少年隊

桜の名所二本松に行った。満開であった。

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二本松藩とは:
元日本ライフル射撃協会会長で、古式銃の射撃と研究にも熱心であった安齋 實氏の出身地だ。
城(霞城)と資料館が15分間くらい離れたところにある。資料も安齋さんが寄贈したと言う割には揃ってなかった。
二本松藩は初期には会津藩、上杉藩などの属藩的な地位にあり江戸期の後半は丹波氏が十一代にわたり治政し10万石と言う小藩、人口は6万人ほどであった。
主たる産業は農業であったが、江戸期後半は地球寒冷期にあたり、天明、天保の火山爆発で農業は大いに疲弊し、藩の努力にも拘らず多くの餓死者が出た。
そのため、逃散、身売りなどが横行して人口は減少し、農村の生産能力は下った。他に産業もなく、酒造、農機具造りなどが行われていた。ひとつ特徴的なのは藩の指導で馬の飼育を奨励し盛んであったようだ。
(現在の「地方創生」の研究材料になろう)

丹波氏の家紋と武具:

image002丹波氏の家紋

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雑兵お貸し具足

image004同陣笠

軍政改革:
海に面してないので、海防意識にも乏しかったようだ。
安政期の軍事改革でも西洋式軍事、兵器の採用は殆どなかった。いずれ先立つものがなかったのであろう。上級藩士の殆どは戦国期からの伝統を重んじ、編成、鎧、刀剣などの武器装具はそのままであった。これは資料館に鎧、雑兵具足、陣笠などが展示されているが、このままどうやら戊辰戦争に突入したようだ。
どこかで観たが、戦国期のものではないか?
城も古臭い。

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上が銃眼、下が和砲だろう

image006戦国期江戸初期の大筒

鉄砲製作では鉄砲鍛冶、山地丈右衛門久義と、日和田村の刀鍛冶佐藤 孝住を
国友に派遣し国友右衛門に師事し、「国友」銘を許され、帰国、古山、田古字の
刀鍛冶を鉄砲製造にあてた。しかし大砲は安政年間(1854-59)に購入したが
自国で製作したことはなかった。それらも和砲であり、修理にも事欠いたとある。(資料館説明文書より)このように、鉄砲は火縄銃、砲は和砲であったようだ。中世型の城の銃眼もそのように再現してある。軍勢は約1,000名だった。

戊辰戦争:
二本松藩は東北藩として幕府側であり、明治初年1868年、仙台藩の応援部隊と合わせて1800名で、新政府軍を迎え国境で戦った。新政府軍も北茨城に上陸、現在の盤越道を北上してきたからかなり厳しい行軍であった。

少年隊の活躍:
明治になり統計された数は62名、隊長は木村 銃太郎(大砲方22歳)で
恐らく和砲、木砲などを使用したのであろう。年齢は13-17歳の少年で
現在、霞城の前の像(これは非常に良く出来たものだ)のようにあり、十数名が戦死した。
洋式砲に改造した和砲(会津に同じ形式のものがある)、竹製の楯から火縄銃を構える、抜刀する、少年たちが実物大で再現されている。

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新政府軍との戦闘は会津軍が引き挙げたこともあり、337名が戦死して7月に
城は炎上し落城した。
二本松付近の地形は複雑であり、本来守る側は有利であったはずだが、いかんせん兵器の差は大きかった。

資料館の弾丸

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ミニエ式14.66㎜の弾丸が2個ある。左は日本式の筋のないものだ。
また珍しく.44口径コルト式拳銃の弾丸が1個(手前)これは元込めなので
拡張型になってないがある。丸玉は火縄銃のものだ。

少年隊の意義:
身体に合う兵器、及びその鍛練がない限りなかなか活躍できるものではない。
しかし各藩で江戸期にはなかった幕末の若い青少年に対する緊張感、実戦経験は明治になり、日清、日露の戦闘で生きたのではないかと推察する。(司馬 遼太郎さんが書いてあれば日本人は史実として捉えるだろうが)

image009大村 銃太郎

展示の火縄銃:
上手の仙台筒がひとつ、他は仙台筒ではないが、引き金だけ仙台方式が2挺

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image011(バネが弱るので火ばさみは落としておいたほうがよい)

なぜこのような形式のものが二本松に残っているのかはまだ研究が進んでないと言う、お返事をいただいた。
(この項以上)