帝国海軍舞鶴鎮守府は今
概況)以前、帝国海軍には4つの鎮守府があり、四面の海を守っていた。
横須賀、呉、佐世保そして舞鶴だ。いずれも天然の良港にあり、艦艇を整備するドックや工場、補給所そして海軍を支える多くの企業、人々が暮らしていた。
戦後、進駐してきた連合軍はこれらの帝国海軍施設をそのまま使っており、現在も舞鶴を除き、各旧鎮守府の大きな部分は米軍基地だ。横須賀などは司令官肖像を帝国日本軍から米軍に継続して掲げてある。
舞鶴鎮守府は如何にあるか、大いに期待を持って訪れたが、所属の「あたご」「ひゅうが」は作戦に出ており、補給艦と小型艦艇しか残ってなかった。
また日本人にとって舞鶴の名前はシベリア抑留生存者、実に55万人が再び日本の地を踏んだところとして記憶に残っている。
鎮守府には、戦艦、巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、など各種の戦闘艦に加え、帝国海軍陸戦隊、空挺隊が存在していた。ここにはかってあったにぎわいや緊張感はもうないように見えた。平和にたたずむ舞鶴を観た時には、長いドライブの後でもあり、この研修はどういうものになるのか少し不安を覚えたほどだ。
東郷平八郎中将が初代司令)明治34年(1901)、日本海はロシアとの緊張が高まり石炭置き場、その他隊員の徴募や訓練に忙しくしており、他の鎮守府と同じく煉瓦建ての立派な建物が多く残っている。舞鶴は対ロシアとの戦闘においては重要な位置を占めていた。戦艦は配備されてなかったそうだが、艦艇の停泊場は多くあり、良港であった。鎮守府は取り壊されたが歴史的な建物も多く、特に大講堂は昔のままと言って良い存在感があり、その中に資料館がある。文書や遺物が多く、武器兵器の類はほとんどなかった。また東郷司令が起居した屋敷はそのままの形で保存されていた。内部を見学した。
大講堂の前、左が事務所
第2ミサイル艦艇、はやぶさ、うみたか)
現在の舞鶴地方隊の守備範囲は、北は青森、秋田から西は島根、山口までの1000kmの領海である。海上保安庁が北朝鮮の不審船を警備しているがそれを補助するために、2艦の高速、小型艦が配備されている。「艦艇見学」がスケジュールにあったが、まさかこの小さな艦艇とは思わなかったので驚いた。
海上自衛隊には様々な艦艇があるが、これらは全長50m、幅8.4m、乗員は21名と言う規模で食事は冷凍かレトルトで済ます。
性能的には素晴らしいものがある。ガスタービンエンジン5400馬力が3基、これら3基は水を後方に排水するウオータージェットが3基に接続され、3つのエンジンのコントロールは艦艇の方向をも操作できる。速力は44ノット(約80㎞)で、早い。後方にも動かすことが出来る。
200トン、だから漁船並みの大きさだ。
武装は船首の76mm砲、自動装填式、射程1600m。
艦対艦ミサイルSSM 射程100㎞。
12.7㎜機銃2基。大型ゴムボート。その他小火器も装備してあるだろう。
速度を出すので艦橋には数個の椅子があり、全員が着席してシートベルトを
締める。
艦全体はステルス性を重要視して角っている。
砲弾の説明、相手により信管を変える
推進の仕組み)
画像のように後部にウオータージェット推進装置があり、スクリューはない。
ダクトの向きにより方向を転換するので、ラダーもない。
新しい考え方の艦艇である。
昔の「魚雷艇」の論理ですよ、と言われたが、小型艦が大型艦艇に接近し攻撃する、そのような想定もあろう。
対潜哨戒ヘリコプターSH-60KとJ)
これらのヘリコプターの整備、訓練場が中心部より少し離れたところにある。
大きな格納庫があり、Ⅰ機は整備中、Ⅰ機は整備が完了し搭載艦艇に帰るところ、もうⅠ機はタッチアンドゴーのような訓練をしていた。
整備、必ず後継者に教えながら行っていた、これは空自でも同じ。
この機材は普段はあまり目にすることはできない。護衛艦に搭載されているからだ。特徴はヘリから直接ソナーをケーブルで海中に入れる。ホバリングしながら敵潜水艦の情報を集める。同時にこの機材にも爆雷、ミサイルによる攻撃能力はある。
筒の部分が床から直接海中に入る
ヘリは重量が10トン近くあり、全長は20m、ローターは16.4mある。
ローターの端が複雑な形状になっている。ホバリング性能を高めるためであろう。
ぶつけて壊したのではない。
重くて長い機材なので、後輪はずっと後ろに付いている。
いずれにせよ、この機材の任務は効果的ではあるが危険なものであることに間違いない。白く塗られているのが特徴だ。
この飛行場には特別な消防車もある。
飛行場の全景
山の反対側の桟橋にシベリア抑留者が帰国したと言う。
結論)
結局は予想に反して良い研修になった。イージスやヘリ空母は観艦式でも見られる。普段見られない、特殊な装備品の詳細を観たこと。また舞鶴は地方隊ではあるが、大勢の人員を有し、さまざまな備えができていることが実感出来た。
短時間ではあったが、海自の温かいおもてなしに感謝した。
(この項以上)