『北富士駐屯地』は山の守り
大分以前だが、国際前装銃世界大会でスイス北部の小さな町に行ったことがある。
そこで知り合った、私より数歳年上のスイス人選手が、山岳射撃を行うところに連れて行ってくれた。下の平面なところは一般的大口径射場で、山の上に、白く、黄色くペンキを塗った大き目(遠くて実際の大きさは分からないが、冷蔵庫くらいか)の岩が幾つかある。
それらが遠距離射撃の標的だ。当然、スポッターが観察して命中状況を射手に知らせる。
正確な記憶はないが、1-3000mの距離であったと思う。SIG50を使っていた。スイスは山また山の国だが、車で走っていると、時々山間で射撃音が聞こえた。
国民は年間、一定量を撃ち練習結果を報告しなければならない。射撃の嫌いな人には苦痛だそうだ。銃と弾薬、その他装備は家に保管する。(『大江戸絵図』を見つけた骨董屋の
主人はこれだよと、事務所のロッカーから装具一式を出してきた。)
今回の北富士駐屯地研修は山の兵隊を思い出させた。
1、 富士山は陸上自衛隊の故郷
帝国陸軍の時代から、富士には歩兵の演習、砲の射撃、戦車など多角的な訓練を行うと同時に教導と言い、下士官から士官への教育を行っていた。戦後、米軍が演習を行い(現在も「米国海兵隊キャンプ富士」が滝ヶ原駐屯地内に存在する)また陸上自衛隊の重要な施設、駐屯地が富士地区には多くある。
それらは富士学校、駒門駐屯地(戦車)、板妻駐屯地(普通科)、滝ヶ原駐屯地(普通科教導)などで、北富士駐屯地は富士山を囲んである数箇所の駐屯地のなかでは唯一山梨県忍野村にある。北富士駐屯地は地元の要請で建設された。先の3つの駐屯地は戦前の厩舎で騎兵、そして後には戦車の訓練が行われた。
学生の頃、グライダー飛行訓練を東富士演習場内仮設滑走路で行う要請に行ったことがある。滝ヶ原の衛兵が二式小銃を捧げていたころを覚えている。私の射撃の指導者、マルソン海兵少佐も海兵隊基地に勤務しており、戦車が走行中、民家の軒を壊す事故を起したが、教えられたとおり、まず土下座したら、家の主人は彼の手をとり、快く謝罪を受け入れ、一夜飲んだと言っていたが、
この話は怪しいが、彼の性格なら有りえたかもしれない。
北富士駐屯地は特科(砲)だ。この駐屯地は山梨県なので、災害救援などでは山梨県を幾つかに分けて各々の分担を決めている。
こじんまりと山の中にある。
2、 FH70の発射訓練
この駐屯地にはFH70 155㎜榴弾砲の第一特科部隊があり、20門の砲を有す。
射程をみると、丁度、富士山を囲む部分が入る。御殿場や箱根でゴルフをしていると
「ドン」「ドン」と音が聞こえるがそれらの発生源だ。
なお、FH70は陸上自衛隊では広く使われており、諸元やその他の情報は「日本の武器兵器」→「大砲」 9-1に土浦武器学校、岩手駐屯地において研修した内容がまとめてある。
今回の記述はその追加と考えて欲しい。
3、 FH70の射撃照準と射撃の仕組み
砲自体は先にも「大砲」の項で述べたが人間の手による操作部分が多く、そこがミサイルと異なると言うことがまず特徴であろう。しかしコストパフォーマンスを考えると、この砲は一発恐らく数十万円でテニスコート6面を制圧する威力を持つ。
初めて自走して来たのを観た。約数十mを砲に付いているエンジンで走って来た。
所定の位置に付くと、後ろ向きの砲身をロープで引っ張り、180度回転させる。
(ロープしかないのかとの質問も出たが、構造をみると、これにモーターや輪転機を入れるより、長い砲身のモーメントを利用し、ロープで先端を引っ張るのが効率的だ。
後部の畳んである脚をV字型に開く、これで発射準備は完了だから約2分間くらいだ。
指揮司令車、ここまで弾道の情報が方向盤を通じてくる。
問題は照準、管制車が離れたところにあり、砲の照準器に数mのところに設置した
コリメーター(筒)を通じて照準を指示する。照準手は砲の上に座り、パラノマ眼鏡を覗き、緑の十字を合わせる。この種の砲では直接照準はほとんどあり得えず、間接照準だ。極端な話、
砲の設置完了
富士山の側面でまったく見えない目標に正確に照準する。誤差は数十キロの距離で
0.05°の単位。照準は着弾観察することにより修正できる。
2名の兵がトラックの後部で情報と指示作業に従事していた。
元は8-9名の砲兵が操作したが、現在は6-7名だそうだ。
覗くレンズはとても小さい
模擬弾は重量40㎏、価格は6万円から43万円くらいだそうだ。破裂するかしないかの差であろう。
この砲は金属カートリッジを使わない。昔の砲のように布包をつかう。
グリーンの小型は訓練用で、ブルーの大型は実戦で使用するものは長さ50㎝くらい、何種かの火薬を混合してあるのではないか。素人が考えても点火薬と、装薬があるはずだ。
昔の金属薬莢を使わなかった小銃のように、発射薬の燃えカスが残るのではないかと
質問に、黒く残ると言うことだった。
実際の装薬、手前。
発射速度は分間5-6発。
ここで観てもわかるが、すべての作業はチームワーク。仲間を信頼できなければ実行出来ず。
4、 外部展示と資料館
75式155㎜自走砲
説明には平成元年に創立されてとあり、立派な建物だ。資料館の展示物の多くは山梨県に
ゆかりのある軍人の品だと言う。珍しいものも多い。
例えば、補修に補修を重ねた防寒着と靴。これらは私の推測だが、シベリア抑留者のものだと考える。北支那派遣軍や関東軍は、ここまでは使わない。写真でみても程度の良い、装備品を着ていた。
アッツ玉砕の司令官が山梨出身であったが、アッツは玉砕だから残ったものが日本側に来ているものはない。あとは「38式歩兵銃」だ。「三八式教練歩兵銃」と示して欲しいと依頼した。何気なく、シグザウエル220の日本版も。
外部展示では155mm榴弾砲、75式155㎜自走砲、203mm榴弾砲、ゴジラの61式戦車、74式戦車など。いずれも手入れが良くされていた。
昭和14年から、ここから富士山を挟み反対側に『陸軍少年戦車学校』があった。
約4000人の戦車兵を養成し、600名が戦死したと言われている。
富士はまさに日本のさまざまな訓練の場所だ。
(この項以上)