火縄銃と仙台藩
令和6年11月3日
須川 薫雄(しげお)
はじめに)
昨年、2023年は日本に鉄砲が伝来して480周年であった。それを機に、丸森町で金山城伊達・相馬鉄砲館と東北火縄銃各団体共催記念フォーラムが開催された。私は「鉄砲伝来・日本の火縄銃」に関する講演を行った。その概要はHP「日本の武器兵器」に掲載した。
今回は東北地方、主に仙台藩の鉄砲(火縄銃)を考察するものだ。
今回のイベントを企画・実行にご努力いただいた白石市文化体育振興財団ご担当者各位そして伊達相馬鉄砲館(丸森町)の遠藤 稔氏に並びに関係者に感謝する。
火縄銃を語るには歴史を語らねばならない、ありきたりの話もあるかもしてないが、新しい発見も必ずある。歴史的研究は、
「知られていない繋がりの発見」が一つの目的だ。
この発表のなかにも幾つかの研究課題が残されてます。
時代背景は16世紀半ばから安土桃山期75年間、江戸安定期約220年、幕末期75年、18世紀半ば過ぎまでおよそ300数十年間と長期にわたる。
各々の時代の意味は異なり、仙台藩のみならず日本全国、東北諸藩、は近世から近代へ考え方、意識も社会情勢も異なった。
日本の人口は江戸期を通じて安定した数字を示し、17-19世紀、2700万人程度とされている。
江戸期の「幕藩体制」は徳川幕府が全国を約300の藩として統治するもので、
大藩と小藩の格差、徳川家からみての親藩御三家、譜代、外様など様々だった。
それらの配置、参勤交代、武家諸法度、身分、宗門などの制度を確立、経済は米本位制だったが実質貨幣経済への発展、そして鎖国貿易、海外との関係など、
幕藩体制は多角的な検証しなければならない。東北地方(奥羽州)をみると、
仙台藩は62万石(実質100万)と加賀前田藩、島津藩などと並ぶ大藩であった。
譜代は会津、庄内、白河などで、ほとんどは徳川政権以前からの家柄だ。
そして18-19世紀と新田開発や国内の交易などの成長はあった。しかし幕府も
各藩も財政は困窮した。幕府は2度、主な改革を行った。それらの
改革は享保年間1720年頃と寛政年間1800年頃、およそ75年おきに行われ、
天保年間ごろ軍備増強が行われた。
1) 仙台藩の鉄砲を科学する
仙台藩と鉄砲については世の中に広く知られているかのだろうか?今まで、その全体像に焦点を当てた研究は少ないようだ。
私は著作、「日本の火縄銃」①と②両巻に各々項目として「仙台の鉄砲」を
掲げた。簡単ながらその独特の形状や機能を書いた。
それらは35年ほど前の研究ではあるが、1980年代後半は日本の古銃研究創世記で多くの先輩に支えられた。「日本銃砲史学会」は多くの会員を有していたわけではないが、その研究水準はとても高く、深いものがあった。東北の鉄砲では資料を読み返すと、会員の川越 重昌氏の研究があった。
また、当時、早稲田大学名誉教授 洞 富雄先生や、ライフル協会会長 安斎 實氏、時代考証家 名和 弓雄氏から個人的に多くの情報をえた。
私が1989年に記述した「日本の火縄銃」①に、3挺の仙台鉄砲に関して、その特徴を以下に記述した。
元より、仙台の火縄銃は無駄な飾りの少ないもので、地味と言う扱いはあった。
仙台の火縄銃の特徴や規模においてはまだ見落としている点があろう。
新しい研究の課題だ。
「仙台藩は大藩であり、鉄砲装備率が高かった。特に馬上筒を多く利用したと、銃の姿は大きな銃床、高く上がる火鋏み、前後谷型の目当て、二つしかない目釘穴大きな口径、東北的、シンプルで武骨な感じの鉄砲」
1991年発刊の「日本の火縄銃」②には、同じ家(白石)から出た2挺の銃、十匁筒と長い五匁筒を紹介した。先のものは白石の銘がある。
紹介では「両方とも出来の良い外記カラクリで「勘」の刻印がある。
引き金は透かし、鋲や火鋏みは細め、火縄通しの穴はあり用心鉄はない」と。
機能上の最大の特徴は、「目当て」だ。
狙いをつける、重要な部分が他の日本の火縄銃、海外の古式銃と異なる。
元、照門は谷で、先、照星も谷だ。従って前後、二つの谷門から目標に照準を合わせる。
ではなぜ仙台藩では、伝来以来、日本各地に鉄砲を供給してきた、2大生産地、
堺と国友の形状、様々あるが、それらを踏襲するものでなかつたのだろうか?
その背景は明らかではない。考えられるのは領地で生産する経済性と秘匿性の
ためではないか。(おそらく大規模生産商品としての堺・国友筒の方が価格は低い。)
海外で仙台型の火縄銃が頻繁に見られる、存在しているとの説があるが、その事実はない。仙台の火縄銃はとても珍しい。
2)伊達 政宗公という名君の存在
1,治世
仙台の鉄砲を語るに伊達 正宗公の政策を振り返る必要がある。政宗公は16世紀末から17世紀にかけて豊臣 秀吉・秀長と徳川 家康・家光の両政権の間を生きた、日本を代表する戦国大名で、彼の功績は数々あるが、大きくは以下だ。
1,強大な領地の基礎を築いた。
統治制度を作り、仙台の街作り、新田開発、産業を起し、交易を盛んにした国造りを行った。武士階級は階級分け、組分け、実質的な職分の配置など効率を重んじた制度とした。
2,文化の興隆
安土桃山文化の華やかな「粋」は戦国期の「伊達文化」に強く生きていた。
すぐれたデザイン感覚を好んだ。彼は地方で安土桃山文化(南蛮)を好み理解した重要なひとりであった。
3,「慶長遣欧使節」を送り出した。
伊達家の象徴的な行動は慶長18年1613,フランシスコ派宣教師とスペイン国王フィリペ3世、ローマ教皇パウロ5世に会いに行くという当時ではどの国もなしえなかった大外交活動であった。領内で建造したサン・ファン・バウテイスタ号に180人を乗せメキシコ経由で往復してきた。8年間の長期にわたる旅だった。この慶長遣欧使節は西欧史でも扱われている世界史実だ。
復元されたバウテイスタ号復元
安土桃山時代の気風のひとつが交易を目的とした海外との交流であった。
彼はそれを具現化した。造船にも挑戦した。政宗公は、文禄の役で優秀な鉄砲射手であった支倉 常長を派遣した。
航海には鉄砲は必需品、メキシコで待機した鉄砲隊はどういう生活をしていたのだろう。ローマまで行った一行は西洋の鉄砲をはじめ武器をどのように見たのか。フィリピンに行く計画もあった。仙台藩が米国大陸・欧州に雄飛したことはとても評価される史実だ。歴史に「もし」はないが、徳川の鎖国政策がとられてなければ、北米大陸カルフォルニア州には欧州人より早く日本人が移住したかもしれない。海外での彼らの活動詳細は新しい研究課題になろう。
政宗公は世界の大航海時代から航海時代に移行する転換期のとても早い時期に日本が大航海を実践していたことを証明する偉人である。
3)仙台藩の火縄銃導入とその拡大
私の推定では戦国期後半、文禄・慶長役(16世紀末期)ころの日本の火縄銃総数は約3-40万挺、19世紀海防が言われたころでも4-50万挺、幕末期に洋式銃輸入が拡大して、輸入銃は総計70万挺で、維新・明治元年1868年の日本全国の鉄砲総数は100万挺を少し越える数量であったと。鉄砲をはじめ武器兵器はスクラップアンドビルドで、総数は捉え難いが。
1,仙台藩鉄砲数の推移
仙台藩では江戸中期、火縄銃が数多く生産され装備されていた。記録ではその数はとても多い。ちなみに、現在、日本の古式銃登録総数は全国で4万件、うち火縄銃は3万件。現存している東北の地方の登録数はで岩手県1300件、青森県278件,宮城県1239件、などだ。
日本全国では登録数は大都市圏に集中している。
川越 重昌氏の銃砲史学会発表では、政宗公時代、大阪夏の陣の頃、藩全体の総数1万挺、大阪城に伊達軍勢が持参したのが6000挺との記録があるので。
軍勢は18000人,実に3人に一人が銃を装備していた。この率はとても高い。
その100年後の正徳6年1716年、の調査で8161挺, その41年後の
宝暦6年1756年、には15704挺となり、倍増に近い数になっている。
「仙台秘録」と言う古文書には領内4万挺超が領内に存在したと。※1
徳川幕府は諸藩の武器数を管理していたので、江戸期、仙台藩の鉄砲が中期に倍増した背景は良く分からないが、江戸後期の様々な現象が影響したかもしれない。数が倍増したのは蝦夷地防衛や幕府の異国船打払令の文政6年1810,より前の話だ。江戸時代中期、47000挺とある根拠しては、城内の鉄砲数の他に、家中の藩士が三―四匁筒を22000挺保持しており、更に領内の民間鉄砲を合計したからとしている。伊達藩は藩士の鉄砲所有を奨励したのかもしれない。
物理的に城内に17000挺もの鉄砲をどのように保管し、整備した資料があると興味深い。新しい課題だ。
(大阪城が幕末、保管していた火縄銃は3000挺、二の丸鉄砲倉に、と言われている。)
※1
江戸期の生産指数は「石高」米の量で表した、石高は一種の経済指標である。
一石は一人一年が食する量が元でおよそ150g、兵役は1万石、200人が基準だった。慶長以前、鉄砲は1万石で10挺くらいとされていた。その後、その装備は増加した。仙台藩が大阪の陣で3人に1挺と高い装備率だったから実質100万石として江戸期にはかなりの数量になっていたと推定される。江戸期の人口は東北全体で300万人、仙台藩領では65万人、うち直属家臣7000名、陪臣
3万名であった。(人口は盛岡藩30万人、庄内藩13万人、二本松藩8万人が記録されている。仙台領内に約4万人いたと推定される兵役全体に行きる数である。(薩摩藩は郷士制で動員力が多かったがそれに似たような制度だったのだろう。)藩の石数、人口、士族制度などから平時の動員数を割り出す。あらたな
研究課題であろう。
2,仙台を中心とした鉄砲製作
政宗公は近江國友の鉄砲鍛冶を仙台に招き、仙台だけでなく、領内の各地で鉄砲を製作させた。原則論として武器兵器は生産を集約すれば分業などで生産効率は上がるが、領内の有事を想定すると分散したほうがよい。後者を選んだのだろう。また鉄や木材、燃料の産地に近いほうが効率は良い。鉄産地が分散していたのだろう。
領内では白石から角田まで鍛冶姓は60,銘数は418あった。
そして周辺の藩、福島、二本松、白河、磐城などでも仙台の鉄砲の形状の
ものが作られていた。
川越 重昌氏の研究論文四,に制作者たちに仙台藩の鉄砲戦産地の図がある。東北地方には210数の鍛冶姓がみられ、仙台住では36姓183銘、
白石住では4姓22銘が挙げられている。
地元の姓以外に國友、芝辻などの姓もみられる。移住した鍛冶だ。
川越氏作 鍛冶と鉄産地
また、材料となる鉄は岩手県、明治期に釜石に反射炉ができ、現在は釜石製鉄所として存在するが、仙台から北で、たたら製鉄が盛んであった。
慶長遣欧使節に同行した鍛冶が欧州の製鉄法を持ち帰ったとの記録ある。
庄内藩は記録では鉄砲鍛冶を優遇し、優秀な鍛冶が領内に来ると言うことで、
江戸初期、火縄銃を1300挺有していた。同じくらいの石高の米沢藩もそれに
類していたであろう。
藩の財政と火縄銃の価格 「江戸期火縄銃の経済学」
江戸期、火縄銃など武具は藩が購入する、また家士が、と2通りあったが、どれほどの値段でどう費用を捻出したかは新しい研究の課題だ。江戸期の工業製品は生産過程だけでなく、価格面でも考証するのは難しい。※2
(江戸期、武具の生産は停滞した。需要がないからだ。刀剣などの例でもその現象は明らかだ。)
3,カラクリ師と台師
カラクリ師も非常に専門的な仕事をした例が多く見られる。仙台筒の多くは、
「外記カラクリ」二重巻きバネ(ゼンマイ)を活用した。安定性がよく、調節可能な方式で価格的には簡単な仕組みの平カラクリの3倍くらいすると推定する。
カラクリ職人も大勢いたことだろう。仙台のカラクリ師の実態、研究課題だ。
火縄銃のカラクリ(ロック)は大きく分類した6種、派生した型を加えると
20種以上、とても多く存在している。工業化されていなかったからだ。
木部、銃床を作る台師
台の製作に関して仙台は良い材料に恵まれていた。また木工業は藩の政策とした推奨されていていた。鉄砲の台〈銃床〉製作、工作数は少ないが、正確性が重視される。良い職人を各地で養成したのだろう。
日本の火縄銃の台は、銃身を殆ど覆う木部、カルカと入れる穴、
そして頬に当てる床部、全てが海外の古式銃と異なる。
仙台藩とその周辺では堺や國友製ではなく、地元製の独特な形状の鉄砲を
分散して製造していたので、明らかに藩独特の方針が存在していた。
幕末、東北諸藩が古い火縄銃を数多く装備した背景には地方には鍛冶が
多く存在し、修理補修をしていたのではないかとは川越氏の推察だ。
※2
江戸期の貨幣価値は財とサービス、両要素ともに算定が難しい。
工業生産物の価格は、「材料費+職人手間+流通費」が原則である。物価は江戸期200数十年を通じ、約2倍になったそうだが、米1石約150gは現在では12万円くらいだ。職人の手間賃は1日、500文、1万円くらい。金属は高価だった。鉄の生産量はとても少なく、一人当たり年間300gだった。鍛冶、木工、カラクリを手間賃で推定すると20万円くらいで、材料費で10万円、合計、現在の貨幣では30万円を下ることはなかっただろう。それらの費用は仙台米を江戸で商人に販売して得た資金であった。米の価格から計算すると3石分。これらも課題。
4,正宗公と鉄砲との出会いは、
伊達家の鉄砲保有は天正13年1585年、伝来以後40年間が経過した時期で、けして早いわけではなく当初の数量は100挺の単位で多くない。軍勢の鉄砲装備率が低いと言うことは、最初は狙撃を主たる目的にする単体の活用であったからだ。政宗は鉄砲射撃を稲富一夢に伝授されたと伝えられている。(川越氏)
しかしその後、数量は飛躍的に増加し関ヶ原の戦い、慶長5年1600年には6000挺と、なり、数千人の単位で増加して、「つるべ鉄砲」と集団戦術に移行した。銃は堺・國友などからの移入ではなく藩内とその近辺の鍛冶によるもので、仙台鉄砲の形式はこのころ完成したのでは。
(「つるべ撃ち」とは本来、井戸の水を汲む「つるべ」がから、一人の射手が複数の鉄砲を代わる代わる発射する、もしくは隊列が前後に移動した射線を維持する戦術、「つるべ」は辞書にもない単語、蔓と瓶からきているか?)
5,文禄慶長の役の正宗公
洞 富雄氏によれば正宗公は文禄元年1592年,26歳、浅野 幸長家の軍勢と同じ隊で朝鮮半島に渡って加藤 清正軍、浅野 幸長軍と一緒に戦った。1500人の軍勢で華麗な指物が目を引いたと。遠藤 宗信は九尺の太刀を持ったと。
しかし、韓国に取材した新聞社の記録では伊達軍は補給、つまり「輜重の役」で戦闘には関わらなかったとしているが、外征ではそれも重要な任務だったが、伊達軍のような勇猛な戦力を秀吉が使わない訳はない。
浅野家は鉄砲を使った戦闘に特徴があった。浅野 幸長自身、家臣 加藤某など1人の射手が1日3-400発の発射をしたことの運用に定評があった。政宗公がその威力を目にして、伊達家がこの経験をしなかったわけはなく戦法に影響を与えた。
洞先生は、慶長の役、蔚山城で浅野家は一人の射手が複数の鉄砲を回して発射する戦法をとったと。射手、装填手が別人。3-4人一組で射手は1名という戦法を採用、万単位の攻撃に耐えた。ことからきているのではないか、としていた。
この戦闘には、後の伊達家の重臣、支倉 常長や片倉 景綱も参加した。
包囲された蔚山城
二代 伊達 忠宗は砲術、馬術が得意であった。
当時、鉄砲射撃は砲術師が全国に教授した。仙台藩にどうような流派が来ていたのであろうか、次の課題であろう。
6,関ヶ原と大阪城攻略の陣
伊達家は関ヶ原の戦いの背景で重要な役割を果たした。
白石城で上杉家軍勢の西行を防ぎ、家康に評価された。慶長5年1600,7月伊達 政宗と上杉 景勝の戦いは上杉の領地であった白石城を攻略することで
始まった。
伊達家は完全に家康派としてかつての伊達領、白石城を取り戻し、片倉 景綱が
城主となった。鉄砲1000挺を使用と記録にある。
大阪冬の陣、慶長19年1614年、政宗公は18000人の軍勢(鉄砲数6000)を送り、南口松屋町に陣。夏の陣、慶長20年1615,には大和方面四番手だった。
戦後、豊臣方残党の処理が厳しいなか、伊達家は長宗我部家係累の柴田 朝意を
仙台に連れ帰り、奉行とした。
また、仙台藩重臣白石城主であった片倉 重長、は真田 幸村の子、守信をかくまい、白石に連れてきて仕官させたことだ。
片倉家は現実的で感情に溺れない武将の家柄であったと評価できよう。
伊達家は大阪の陣での活躍が認められ、伊予宇和島の10万石を加増された。
政宗公の長男伊達 秀宗が藩主となり子藩と言う扱いになった。
恐らく同時期、「慶長遣欧使節団」の徳川家許可もその結果のことだろう。
7,仙台藩の鉄砲隊兵装は? 兵(軍)装備は鉄砲隊の装備
宇和島伊達藩鉄砲隊のものと類似していたのではないか。
伊達家鉄砲隊、鉄砲、軍装、運用は大阪の陣のころ完成していたのではないか。その後、宇和島に伊達 政宗公長男 秀宗の別家の藩が出来たのでそのときに仙台伊達の兵装の姿をそのまま持っていった可能性はある。
名和 弓雄先生が宇和島で資料にあった新宿百人町鉄砲隊に似たものを
40組発見して、それらの形式を採用した。この形式は「一火流」言われている。
現在、演武に使うものは合金製だが、元は皮革製。東京都新宿区四谷博物館に
木製の皮革成形用の型がある。それをみて、元は木製と誤認している説も
あるが、皆中神社に残されたものは皮革製、額には鉄板を打ちてっぺんは鐵板の大型のはちまき形式だ。
宇和島藩の洋式鉄砲隊の話はアーネストサトウの「遠い崖」に記述がある。
新宿百人町鉄砲隊
宇和島藩は軍制、装備の近代化が早く、火縄銃装具はそっくり残っていた可能性がある。宇和島は第二次大戦空襲から多くの資料が残されたとも。個人が肩にかかる団子状のものは「乾飯」でこれも鉄砲隊の重要な装具のひとつ。中身は政宗公のレシピとも言われている。これらの研究は新しい課題になろう。
4) 鉄砲の火縄とは
竹繊維製 武器学校展示
1、銃発火の原理
銃砲は発射する炸薬とそれに点火する火薬(口薬や雷管)と2種類の火薬を使用するのが原則である。現在の火砲はほとんどが金属製のケースに弾丸と一緒に収まった薬夾を使用する。筒の頭に弾丸が底に雷管があり、雷管に何らかの形で衝撃を与え、発火、発射する。発火と発射はほとんど同時である。
初期の銃砲は銃身内の火薬に外から同じ種類の火薬に発火させる。歴史的には欧州で14世紀末に火縄で発火する方式が開発された。同じ形式はほぼ同時期イスラム諸国でも出た。
日本に伝来した直後、16世紀半ば欧州では火縄式に代わり燧石式に転換された。火縄と燧石の発火は一長一短がある。
日本は燧石式の存在を知ってはいたが諸事情で火縄式を継続して使用していた。
燧石は石を強いスプリングで鉄の板に打ち付けて鉄から出る火花で細かくした黒色火薬に着火する。利点は火皿に火薬を盛り、蓋を閉めておけば直ぐに発射できる。
一方、火縄式は火縄の着火は早く確実だが、発射直前に火を火縄に用意しなければならない。
2) 火縄式銃
北斎漫画
火縄の付け方が上回しでちがう 観察の天才も間違えたか
火縄は鉄砲に使うだけでなく、宗教行事、生活に一般的な小物だった。
火縄の素材は様々あるが竹、木綿が使い易いと主流だった。
固く編んだ縄、直径8-9mmに硝石を煮込み、乾かした製品で、火縄銃での
使い方には2寸・5-6cmほどに短くして使う「切り火縄」、
2尺・60cmほどにして真ん中を銃床下部の輪に通し下げ、両端に火をつけて
交互に使「中火縄」。
5尺・150cmほどの長さを巻いて腕にかけるようにして使う「巻き火縄」、
巻き火縄は一巻、数時間保つ、湿気や風にもよるが。
巻き火縄は火を付けておけばいつでも発射できるが、何らかの理由で巻いた中に火が入ると面倒なことになる。
「足軽物語」
3,生火と黒色火薬
黒色火薬は衝撃でなく生火(なまび、「活き火」とも)で着火し爆発する。
雷管を撃針で撃ち着火させその勢いが装薬を発火させる近代の方式は衝撃を与えないと稼働しない。その部分を小さくしているから比較的に安全だ。そして
装薬の無煙火薬は火を付けても着火し難にくい。
火縄銃は点火薬も発射薬も同じ黒色火薬で衝撃ではなかなか発火しないが性質だが、熱では直ぐに発火する。黒色火薬の原料は、硝石、硫黄、木炭など全てが可燃性で、特に硝石はよく燃える。黒色火薬は地面にあった硝石の上で火をたいたことで発見された。従って、黒色火薬に火、燃えている何かを近づけるのは危険だ。なお黒色火薬は3種の材料を混ぜて「圧縮」することが重要で、さらに爆発力を高めるには装填で突き固める。
会津藩調練図
仙台藩領内で、黒色火薬の原料となる硝石、硫黄、木炭などの産出状況は?
新しい研究課題だ。
4,火縄扱いの規則
日本の社会、マッチが出るまで人類にとり一番大切な火をおこすには燧石と固い鉄そしてホクチを要した。どんな熟練者でも火つくりには一定の時間が掛かる。そして火を好き時に使用するには火を絶やさないこと、火鉢や囲炉裏で燃やしているか、火縄を使用した。火縄はめったに消えることがないが、水をかけるか、空気を遮断するかだ。火を絶えず保つのは危険を伴う。火縄やろうそくは闇夜の燈にも利用した。衣服に、枯れ葉に、その他可燃物に着火すると火事を引き起こす。火縄は消え難いのが難点だ。絶えず事故はあった。
そのため、社会的には規則が存在した。木戸や番所で火種を調べられた。現在でも見られる年末の「火の用心」はその伝統だ。
武器としての火縄銃では着火した火縄は「戦闘」を意味して、
警戒された。ちなみに、燧石で火を起こし、火縄に着火し、それを鉄砲の
火鋏に挟むまでの所要時間はどんなに急いでも100-120秒はかかる。
フリントロックはハンマーを上げるだけだから2-3秒。
5,火縄の道具
実際に使用されていた火縄とその道具
〇火縄 綿と麻製
〇燧道具 燧金と石やホクチを入れる袋
鉄部分 布製分離型が4㎝と皮製一体型が5㎝ 大体に「吉平」と言う銘がある
根付にホクチを置き、その上で叩いた。
〇胴火 火縄を消さずに保持したもの、腰に差し、筒の解放部から指で先送りした。
銅製のもの、長さ28㎝、直径65㎜、太さ12㎜、
真鍮製の巴紋のもの、長さ23㎝、直径42㎜、太さ9㎜
〇火縄銃の装具 四匁筒用早合10本入り動乱、負い紐が火縄製
5)重臣、片倉 景綱(かげつな)小十郎の逸話と
「伊達活き火縄」の話
片倉 景綱肖像
1,白石城主 片倉 景綱(かげつな)と言う武将
景綱は弘治元年1557年生まれ、姉が政宗公の乳母になったことやその後の姻戚関係で政宗に近く、厚く信頼されていた。文禄の役、37歳に、政宗公と朝鮮に渡り奮戦した。事実、片倉家の施政、武家と庶民に対する社会的な考え方は進んでいたことが様々な施策に見て取れる。幕藩体制の単なる士農工商の枠にとらわれずユニークな藩政を行った。身分制度を現実的に扱っていた。しきたりにとらわれない武将であった。
身分制度を現実的に扱っていた。「不断組」と言う兵力は在野にあり、
各村落で30人一組の手前組を形成した。八番組の1から6の5組は
四匁鉄砲を有した鉄砲組であった。1組は十匁筒隊。およそ180
隊長は赤井畑 直衛だった。この隊の編成で仙台藩の火縄銃戦法が推察できる。
景綱は当時の武将として、文禄慶長の役鉄砲隊、経験から、彼は鉄砲射撃の名人であったと思われる。
身分の高い武将であれ射撃が上手でないと家臣、また敵の敬意が低かったからだ。
2,伊達家のブレーンとしての仕事
景綱は、政宗に家康方に付くように進言、外交文書作成などのブレーンであった。
政宗公も彼を特別扱いとして、領内の要所、白石城の城主とした。文武両道、人望が厚かった。白石は交通の要所、ここに城を与えると言うのは別格であった。
3,生き火縄
先に述べたが、大阪城攻城戦で火縄銃を使用した伊達藩武勇の評価は、伊達藩では「道中の活き火縄勝手」と火縄に火を付けたまま鉄砲を所持して行軍できる事実として残っていた。寛永12年1635、徳川家光が参勤交代令を江戸城で諸
大名たちに通告した際、政宗公はその場で即に家光に賛意を唱えため、帰途、反感を買い危険が及ぶことを懸念した家光が火縄の付いた火縄銃護衛を出したことに発すると言う。他にはない政宗公への優遇で、伊達藩はこの「活き火縄」ご免、ご勝手の処遇をとても誇りにしていた。参勤交代への不満は薩摩藩を始め多くの遠方の藩にみられた。
参勤交代はとても費用が掛かった。
幕末、安政年間、六代目 片倉 宗男は京都警護を命じられ、文久3年1863、片倉家が上洛、孝明天皇の行幸の警備をして際に、赤井畑 利吉は十匁筒に火の付いた火縄をつけて、天皇に同行したとの記録がある。鉄砲隊としては破格の扱いだった。
7)18世紀末から維新までの東北地方の特殊事情
1,伝統的な武士体質と幕藩体制継続
東北諸藩は家格にこだわり、内部の争いが多い傾向があった。そして
幕府が個別の藩勢力を削いだ。特に上杉、伊達など外様への対策。しかし、
北方の脅威、特に18世紀末から19世紀にかけては関わっていた。
学問は朱子学 12世紀宋の時代の儒教だった。
近代的な西欧兵器の応用は一部の努力を除いて遅れた。
さらに近代銃を導入してもその運用、軍制が遅れていた。
身分による装備品の違いなど、新式ほど身分の高い者にとか
ほとんどが維新まで佐幕派であった。武家体質の旧態が現れていた。しかし、
東北各藩の藩校は仙台の養賢堂にはじまり会津、長岡、米沢、庄内など
19世紀初頭に、兵学、蘭学、算法、国学など藩士のみならず平民にも
教育する組織となり、文治社会成立に貢献した。米沢の興譲館には砲術の
科目があった。日本の教育制度を考えると武家社会に生まれた藩校の意義は深い。「和学が発達」していたのだ。
2,冷害による飢饉と経済力低下
天明の飢饉、地球は一種の小氷河期にあったと言う天文学者もいる。
欧州でも同じようなことが起きた。南の地方は比較的に被害が少なかった。
天明の大飢饉は浅間山の噴火から、1782-1787,5年間主に東北地方
30年前宝暦から続くと言う説も。
天保の飢饉は1833-1839、6年間、主に東北に被害を与えた。
日本の総人口は江戸期を通して2700万人、東北は270万人から240万人に
12%減少していた。(速見 融博士 人口経済論より)
経済発展の遅れは米の生産に頼っていたため産業化、交易化が遅れた。
江戸期の体制は公式には米本位制だったが、実質的には近世、貨幣経済
に移行していた。一部を除き交易の規模が小さく、飢饉による米生産が
停滞したこと、人口減少がひびいた。
特産品の商業も限定的だった。
特に庄内(鶴岡)、南部、秋田(佐竹)、弘前(津軽)、松前、相馬、黒羽、白河、
米沢、小藩の影響が大きかった。 仙台、会津は大藩であったが影響は少なからずあった。
3,情報力の不足 特に幕末の蘭学系学問
18世紀蘭学知識が重要になった背景は西欧では科学や技術の発展し、工業力の進歩など、明らかに日本との格差が開いた。産業革命が顕著な例。
オランダから入る情報は全国的なものでなく、長崎に近い西南藩、中国、関西、
江戸とまりで、東北地方は仙台、米沢など伝統的な優れた藩校が存在したが、西洋事情に疎かった。
緒方 洪庵
蘭学は最初に医学、文化12年1815、杉田 玄白の「蘭学事始」が鏑矢、文政8年1826、緒方 洪庵が「適塾」開設、医学、語学、自然科学などに西洋自然科学の学問が一般的になった。緒方 洪庵塾では、幕末の兵学の福澤諭吉、白鳥圭介らが学んだ。 適塾は大阪大学医学部の元となった。
兵学では長崎商人、天保5年1834,高島 秋帆の洋式砲術が特記され、彼に江川太郎左衛門などが師事し、つづく、しかし19世紀の前半の日本の思想は「尊皇攘夷」という非現実論で占められ、しばしば近代的自然科学思想の発展は妨げられた。
林 子平
東北地方からは仙台藩に縁のあった林 子平になど一部を除いて多くの逸材は蘭学に行かず和学に励んだ。
林子平の学は仙台藩には採用されず。寛政3年1791、の「海国兵談」は
露西亜の蝦夷地進出に悩む東北諸藩では早すぎたことはないが仙台藩は保守的であったか、危機意識が薄かった。これは残念な史実であった。
仙台藩の工藤 兵助、18世紀後半は藩医の家系であったが、露西亜が進出を企てた北海道のことを「赤蝦夷風説考」として表し幕府に警戒を呼び掛けた
功績があった。
他に東北の思想家としては佐藤 信淵は出羽の生まれ、本業は医師だが、19世紀初頭、絶対主義的思想家で経済、農業、兵学、海防などを論じた。
4,蝦夷地の守り
東北諸藩は19世紀初頭より露西亜が南下して北海道沿岸で略奪行為を行うため、幕府の命で、警護の任が与えられて。仙台、盛岡、弘前、久保田、松前の諸藩に、後には会津、庄内も加わりこの任務にあたった。天保年間(1831-45年)北海道と北方初頭、樺太まで。例えば、南部藩は北方領土、国後、択捉から根室より函館の海岸線の警備を担当していた。そのために鉄砲の装備数が大幅に増加したことはあっただろう。
モスクワの軍事博物館には鹵獲した火縄銃が展示されている。
1800年頃蝦夷地の露西亜艦と兵士
不思議なのは文化年間、1800年代初頭、露西亜が蝦夷地樺太の日本施設を
襲い、近代的な兵器を誇示したのに、その地を守る東北諸藩の情報が共有されず
あまり生かされていなかったことだ。露西亜の野望は昔も今も普遍。
8)幕末維新の軍事改革
1,洋式軍制の現実化
嘉永6年1853、日本は大変な転機を迎えた。米国艦隊、黒船来航だ。
日本全体はその影響を受けて、政治、経済、社会が急速な変化を経験した。
鉄砲伝来より約310年間がたち、寛永14年1637(島原の乱)より約220年間、銃砲を使用した戦闘は殆ど皆無、西欧の銃砲がフリント(燧石)からパーカッション(管撃ち)方式、しかも前装だがライフル(弾丸が回転する刻み)銃に
進化していた。
欧米では産業革命で武器兵器は工業製品として規格化された製品に変換していた現実を知らなかったか、体制は無視していたのだった。
洞 富雄先生の言葉では「日本全国、銃砲は形骸化され、教練も殆ど行われていなかったと。1000人の兵力に対して30挺と言う装備の少なさだった。」
象徴的だったのは「火縄銃対ミニエ銃」という銃の性能の差だった。
銃の性能は軍制や戦略にも影響していた。
2,西欧の圧力
幕府や一部の藩が危機感を抱いたのは文化8年1811、「長崎フェートン号事件」であった。不法に長崎港に侵入した英国艦になすすべがなかったことだ。
ナポレオン戦争当時の英国軍艦フェートン号異国船打ち払い令は同様の西欧による事件対策であった。
しかし、打ち払うための軍事力はほとんど水準以下だった。
幕末会津藩調練の図、会津藩
高島 秋帆の調練、幕府には不評だった。
高島 秋帆、江川 太郎左衛門、など、西洋流武器兵器学の文献は天保以前が
23件から以後は308に激増した。
文久3年・万延元年1860、幕府は軍制改革を行い、幕府軍が創設された。2万人以上規模の西洋式大隊を組織して、洋式銃(ミニエ式)を輸入した。結局、幕末維新にかけ、日本は総計70万挺の小銃など火器の大量輸入があった。
薩摩、長州、肥前などの西南藩も続いた。
幕末は東北地方にとっては一層の試練の期間だった。
なお70万挺の輸入銃、さまざまな形式があったが、維新後、新政府に集められ
小石川小銃製作所で分類されほとんどが清国に輸出された。(工廠記録)
3,幕府・西南藩(新政府軍)軍制改革
幕府が万延元年1860、軍制改革は西欧からの圧力(清国のアヘン戦争をみて)を防ぐ目的であった
創設期の幕府軍と将軍 徳川 慶喜 フランス式だった。
具体的には体制を旗本だけに頼らず、軍備をフランス式の陸軍48大隊、24000人、藩単位と規模が違って大きい。文久4年・元治元年、1864年、幕府はミニエ銃5万挺を導入した。その後も必要に応じ、銃を、砲を、艦艇を輸入した。
そしてフランス、ナポレオン3世から慶応3年1868,2年前に開発された後装式シャスポー銃を2000挺贈られた。口径11mm,紙薬莢を使う槓桿式、ゴムでガス漏れを防ぎ威力があった時代の転換を象徴する近代銃であったが、幕府軍がこれらを使用した記録はない。幕府は仏、西南諸藩は英の支援を受けた。
幕府・西南藩の軍制近代化の状況 さらなる数字は研究課題
合計すると西南藩は万人単位規模の近代銃を装備した軍勢になった。
西南藩と東北藩の差は近代銃の導入だ。西南各藩と幕府は数年早かった。一部では反射炉を造り兵器生産の努力をした。
それらの装備は、軍制の整備に繋がっていた。
薩摩藩騎兵 完全に欧州槍騎兵スタイル 動きを重視した軍制。
文久3年から元治元年1863-64年、薩摩、長州は欧米軍と戦闘して、
結果、軍制を長州の「奇兵隊」など伝統の侍軍制から欧州的民衆軍にした。
(文久3年から元治元年1863-64年、長州は下関戦争、4カ国軍と戦闘した。薩摩は同じ年英国艦隊と戦い、近代兵器と軍制の必要性を痛感した。各国への巨額な賠償金は幕府が支払って、紛争の拡大を防いだ。)
4,火縄銃とミニエ銃との性能比較
昨年の丸森フォーラムで述べたが、ミニエ方式銃は1850年、フランスのミニエ大尉が開発した前装管撃ちライフル銃である。銃腔内のライフルに弾丸が噛むための工夫があった。
その理論と弾道の優位性を説明するために福澤諭吉、大鳥圭介等が「雷銃操典」を発刊した。
工夫は弾丸の裾(スカート)にあり、火薬の爆発で裾が広がりライフルに噛む仕組みだった。ライフルは3-5条など。
英国エンフィールド銃の機関部
ミニエ弾各種
十匁弾とプリチェット弾
産業革命後の製品としての兵器で、フランスのミニエ、英国の
エンフィールド(工廠)、米国のスプリングフィールド(工廠)などは同じ寸法、形式、部品の互換性もある。しかし米国南北戦争で相手が鹵獲しても使えないよう弾薬径を微妙に変えていた。頑丈であり、長い刀型銃剣を装着する。口径、ほぼ14.67mm、有効射程距離(半分の確率で人型的に命中させられる)は300mであり、照準器は梯子型(ラダー) 火縄銃がほぼ城の堀幅、50mが有効射程距離なのでその差は歴然としていた。(競技は火縄銃、燧石銃は50m、ミニエは100m。)
ゲベール銃は口径が大きいが火縄銃程度の性能。結論から言うと集団による野戦で、火縄銃は機能、射程、威力、耐久性などミニエ式には及ばない。
日本に輸入銃、そのほとんどは中古であったと推定される。その元は、
英国のクリミア戦争1853-1854年が終わり、余剰銃器は米国の南北戦争
1861-65年に流れ、南北戦争終結で、ミニエ型のエンフィールド、スプリングフィールド銃を武器商人たちが日本に持ち込んだ。
日本が輸入したミニエ銃は各種あり、オランダ製、インド製も見受けられる。
ミニエ型には2つバンドの短いもの、後装填式に簡易改造してスナイドル型、が存在する。また、前装コルトアーミーなどの拳銃や、
金属薬莢を使うスペンサー銃、シャープス銃も多量に輸入された。
ミニエの弾丸には2種類ある。日本が導入したものは初期の形式で、弾丸底のスカート部分が深く、それが広がる。後のものは底に木栓を噛ます。
銃の弾丸エネルギーは、W(重量)X MS(初速)の2乗なので、口径は火縄銃の五匁程度だが、ミニエ弾とほぼ同じ重さの十匁弾の約3倍の威力がある。
4,銃の国産化の努力
さらに深刻であったのは、16世紀の鉄砲伝来期の技術移転と異なり、19世紀初頭、日本は西欧製の武器兵器をほとんど国産できなかったことだ。
ます鉄の生産量と質が追いつかなかった。(反射炉の建設と大規模投資が必要)
銃身にライフルと刻む、強いバネを使ったロック(カラクリ)などのドリル作業が出来ない。何よりも欧米が産業革命で培った、動力を使う、規格品を大量に生産する思想と能力が欠如していた。(水力や蒸気の動力と巨大な歯車)
前装滑腔銃管撃ち方式銃「ゲベール」と言われる、燧石方式の小銃口径18mmは幾らか生産した。火縄銃鍛冶の作であろうが、実戦で役に立つ水準には見えない。
火縄銃製造、各地の鍛冶屋の仕事は通用しなかった。
8)幕末期の東北諸藩軍備思想
1,体制の遅れ
黒船来の日本の急激な変化、その東北地方への影響は慶応4年、1868に集約されたと言っても過言でない。東北諸藩は最後の最後、慶応年間にしきり洋式軍に転換し洋式兵器を採用し、その装備の質は新政府軍に劣るものではなかったと思われる。しかし、近代兵器を装備してもそれらの運用が旧体制であったようだ。つまり、新兵器に慣熟し戦闘に不自由ない水準にいたっていなかった。
また、部分的にしか近代的軍制が整備されておらず軍制が武士思想であった。
その背景には東北各藩、仙台藩を筆頭に膨大な数の火縄銃、江戸期を通じて蓄えてきて大切にしたそれらの軍事体制を即、捨てる意思がなかったのであろう。
具体的には武士階級以外の人々のエネルギーの活用が弱かった。
2,江戸期東北各藩鉄砲保有状況
イ 各藩の火縄銃 江戸中期 さらなる数字は研究課題
ロ 洋式銃の輸入数と状況 幕末期
○秋田藩20万石
江戸期初頭に約1100挺の火縄銃が存在したとのことで、10倍の数量であった。
慶応3年1867,に英国製銃5000挺を購入した記録がある。(川越氏)
○長岡藩7万石 近代装備が進んでいて新政府軍に徹底抗戦した長岡藩は現在の新潟港も領内で、越後平野の真ん中に位置して地理的優位性があった。江戸初期 慶安3年1650年,の鉄砲数は435挺、士筒を合わせ531あった。慶応2年1867年,フランス式陸軍に改編32小隊、1512人にミニエ銃(英国製エンフィールド)を装備(つまり5000挺)、ガトリング砲2門あった。河合 継之助自らが指揮した。
○米沢藩17万石 明治2年1869年,明治政府への調べで、洋式銃は
5950挺、(うちミニエ3550,7発元込め400,ゲベール1600)スネルから購入した数と離れてない。古流、火縄銃は5110挺,うち三十匁156であった。戊辰戦争、新潟戦線では三十匁筒の轟音が敵をひるませたとある。他の資料では、米沢藩は慶応2年1867,スペンサーを250,短ミニエ1420,1868年には620以上購入としていた。スタール銃が現存している。(米沢藩古式砲術保存会資料)
○新庄藩 6万石 550挺
○庄内藩13万石 庄内藩、酒井家は譜代であり、特に幕府側についていた。
石高は大きく、産業振興、北前船の交易で栄え、本間家など大商人が栄えていた。同藩は新潟を経由してスネル兄弟からミニエ銃を購入し、多量に装備していた。軍制では町民400,農民500の1000人近い隊を組織した。
本間家など豪商が資金を提供してと言われている。庄内藩は慶応3年1868年、エンフィールド銃(英国製ミニエ)を600,シャープスを600,採用。別な資料では農民商人層の志願者が2000人、合計4000人の勢力、300人以上が死傷。
○仙台藩 洋式軍備転換は遅れた。額兵隊を組織 慶応3年1868,星 惇太郎、
支援していたに藩は洋式隊を編成することを命じた。
星が編成した隊は額兵隊とよばれ、英国式軍制を受けた。
被服は赤黒の毛製の英国式、隊員は士族次男三男から募集、6個小隊、800名
小銃は元込式スナイドル銃、4斤砲2門、榴弾砲を装備して訓練を始め、同年、奥越列藩として新政府軍を戦闘。藩が帰順したあと、幕府軍に入り、蝦夷地で函館戦争に参加した。額兵隊は軍楽隊を有し、被服や装具も立派な欧州式軍隊だった。元込ミニエ・スナイドル銃装備した。仙台藩は慶応2年1867年,商人ブアン・リードから、ライフル銃ミニエ520.元込め銃スナイドルか120,購入。
さらに慶応4、1868年に、ミニエ4000挺,を購入とあるがこの注文は実際に購入されたかは不明である。額兵隊の小銃は1000挺未満と推定される。
東北各藩は戊辰戦争終結時の小銃数の約半分は火縄銃と推定できる。
○南部藩 エンフィールド2240,ミニエ1000,スナイドル若干を注文した。
○二本松藩 ゲベール銃装備、二本松城の資料館には国産ゲベール銃の展示。
○相馬中村藩 発注したが未着。
○一関藩 エンフィールドとスナイドルを100
長岡、米沢、庄内藩とも武器商人スネルから新潟港経由で兵器を輸入した。
そのため新政府軍は新潟港を封鎖した。
9)戊辰戦争と仙台藩の使命
新政府軍
1,慶応4年1868年の軍事バランスと奥羽越列藩同盟
年初の鳥羽伏見の戦闘では幕府軍と薩摩長州軍の近代的装備に確たる差はなく、幕府は15000人、薩長は5000人くらいと言われている。しかしその後、新政府軍が幕府、親藩、譜代、その他の藩を巻き込み十数万人規模に膨れ上がった。戦いの大義と兵力の運用が薩長の方が強く、勝ったのであろう。
さらに新政府側は会津、庄内、米沢に大変厳しい方針を抱いていたので戦闘を行わない終結、つまり降伏を認めなかった。この背景は幕末京都、江戸での薩摩・長州のテロ行動の弾圧に対する恨み、つまり私情とみてよい。慶応4年1868,
戦闘は白河、二本松、庄内、米沢、長岡、と進んだ。
仙台藩は会津と小規模な戦闘をしたが、方針が決定できず、幕府や同盟藩への義理と、新政府側の働きかけと外交を維持した。
新政府には英国、幕府には仏、東北藩には独(プロイセン)の後ろ盾が、さらに露も虎視眈々としており、外国勢力を巻き込んだ日本分断の危機にあった。東北諸藩はまだどちらに付くか判断が出来ない、状況だった。
2,白石城、4月11日会談
慶応4年1868年,仙台藩に会津討伐の命があったが、仙台藩は交渉で戦闘を解決すべく、4月11日白石城に奥州諸藩を集合させて列藩状を作成した。14列藩の33名が集まり、嘆願書を作成し署名、新政府軍に提出したが、政府軍、会津軍ともに受け入れず戦闘になる見込みになった。
翌月5月、奥羽越の列藩は34藩の列藩同盟を設立、さらに交渉で戦闘を回避する努力を仙台藩が中心となり行ったたが、戦闘を抑えることはできなかった。
新政府軍は近代兵器、ミニエ、スナイドル、スペンサーなどの小銃に加え四斤砲、アームストロング砲を装備して、第一線はどうしても戦いにしたかったのだろう。会津、庄内は「朝敵」と位置づけた。
5月6日奥羽越列藩同盟は地方政権の感であった。事実、同盟は一枚岩ではなく、秋田藩は新政府軍を受け入れたので庄内や周りの藩との間に戦闘があり、
仲介の仙台藩士と多くの犠牲者がでた。
東北31藩、それらは、陸奥盛岡の南部20、仙台62、会津28、松前1、弘前10、久保田(秋田)20、離脱、庄内酒田13、米沢15、山形5、二本松10、棚倉10、黒石1、八戸2、一関3、岩崎2、亀田2、本荘2、矢島?新庄1、黒羽2、出羽松山?天童2、上山3、長瀞1、福島3、三春5、守山2、相馬中村6、磐城平3、泉・湯長谷2、(数字は石数)小規模な藩の数は多く、東北全般?に及んだ。
地図 トンビが見た江戸の町より
3,日本内戦は1年間、慶應4年1868年でほぼ終結、
新しい時代へ
日本の内乱は慶応4年1868年,1月鳥羽伏見大阪城、3月に江戸城明け渡し、
5月長岡と上野の戦闘、9月米沢と会津戦争、仙台藩も帰順、爾後、函館に集結した旧幕府軍、新政府に反乱を企てたとした榎本 武揚を残し、年内に各国が新政府を承認して、幕末戦争は終結した。
仙台藩は東北戦争の鍵を握る大藩であったが、膨大な火縄銃は使うすべがなく、近代的兵器の導入や運用が限定的だったので、恐らく外交、交渉に力を注いだのであろう。歴史「もし」はないが、仙台藩が薩摩・長州のように早くから新兵器を導入し洋式軍制を採用して佐幕を貫いていたら、日本史は大いに混乱したであろう。
戊辰戦争、日本の内戦では新政府軍3550、幕府側4707、合計8257名の戦死者を数えたそうだ。数年早く、4年間の戦争が終了した米国南北戦争は80万名の
死者があったそうだ。米国の当時の人口は3000万人を越えるか越えないで、
日本と大差なかったが、内乱の恐ろしさ、その規模には驚く。
明治天皇は東北諸藩を朝敵とは認めず、日本全体戦乱で命を落とした人々を
護国神社に、そして靖国神社に祭ることを命じた。
おわりに)
東北は歴史資料の宝庫だ。しかし書物、雑誌、テレビ番組など様々な歴史報道に接するに、日本歴史情報は西高東低であると感じる。まだ本当に東北歴史の魅力が紹介されていない。鉄砲は九州に伝来、関西地方で拡大した。少し遅れたが、東北地方で盛んに製造、装備され、合戦に使用された。銃砲史学会の先輩、川越 重昌氏の研究を今回は数多く活用した。まだ様々な課題は多く残されている。
火縄銃演武や射撃、収集、そして研究は趣味の中の趣味であり、好きな人は存分に楽しむべし。それは日本の文化、伝統の継承であり理解である。(おわり)
追記)
私が仙台藩の火縄銃に関する資料を読んでその背景を分析していた際に気が付いた日本史のひとつの現象だ。仙台藩の特徴的鉄砲は、以前研究した薩摩藩の特徴的鉄砲と似た背景があるのではないか?という新たな課題だ。各々の特徴的鉄砲は似ても似つかない別な形状だが。仙台も薩摩も外様の大藩、石高も人口も近い。地政学的には日本列島の両端にある。
幕末・維新期、仙台藩は佐幕、薩摩藩は倒幕。両端に位置した。
恐らく藩の家禄制度や中央に対する文化的な違い、内容は別にしても、各々が幕府と距離があった。何等かの理由で似た状況が生まれた。
鉄砲はその一例でしかないと。
仙台藩の鉄砲に限らず様々な研究をするに薩摩藩の例を見ることも重要だと感じた。
また、幕府が仙台と薩摩を認識してライバル化させていたとしたら、伊達宇和島藩の存在は地政学的に一つの鍵であったはずだ。
これらは新しい研究課題であることに間違いない。
以上。
資料・文献)
「仙台藩の歴史」 1 伊達政宗・戊辰戦争 平重道著 宝文堂
「仙台藩物語」 河北新放射編集局編 河北新報出版社センター
「大名列伝」 武功編 下 人物往来社
「日本の歴史」 1と2 教育図書 山田書院
「日本の合戦」 6 桑田忠親 洞富雄著 新人物往来社
「日本の合戦」 8 桑田忠親監修 洞富雄著 新人物往来社
「江戸大名百家」 別冊太陽 平凡社
「士農工商・武家官吏」 奈良本辰也監修 平凡社
「東北地方諸藩所有鉄砲(火縄銃)の制作者たち一・二・四」 川越 重昌著
銃砲史学会誌
「伊達政宗と鉄砲 」川越 重昌著 銃砲史学会誌 第108号 昭和54年
「宮城県史 銃砲術」 宮城県編
「米沢の火縄筒を伝えて」 米沢藩古式砲術保存会編
「仙台鉄砲を考える」 遠藤 稔著 編纂資料
「時代考証百科」 名和 弓雄著 新人物往来社
「砲術家の生活」 安斎 實著 雄山閣
「人口統計論」 速見 融著
「大鳥 圭助」 高橋 哲郎著 鹿島出版会
「火縄銃」 所 荘吉著 雄山閣
「砲術 武道百科」 人物往来社
「遠い崖」 アーネスト・サトウ著
「天皇の世紀」 大仏 次郎著
「米沢藩」 小野 栄著 現代書館
「会津藩」 野口信一著 現代書館
「庄内藩」 本間 勝喜著 現代書館
「支倉 常長」 五野井 隆史著 人物業書
「星 亮一 仙台戊辰戦争史 北方政権を目指した勇者たち」 三修館
「おがわ是苦集に見る鉄砲小道具の用と美」 板橋区立郷土館2009
「鉄砲伝来の日本史」 宇田川 武久著 吉川弘文館
「日本の火縄銃 1・2」 須川 薫雄著 光芸出版令和6年2024,11月4日
HP 日本の武器兵器 火縄銃の16、青森・岩手の古式銃登録
17、カラクリの様々
27、火縄銃演武・実射の危険回避
32、年少者用鉄砲
新宿歴史博物館四谷の展示記事