「鉄砲伝来と⽇本⼈」 伝来 480 年記念
令和 5 年 9 ⽉ 30 ⽇
須川 薫雄(しげお)
1, ⼤航海時代と戦国時代 ⼆つの歴史が交差
⼤航海時代の地球探索は、現在の宇宙開発熱に似ていた。
欧州の⼤航海時代は 15 世紀半ばからポルトガル、スペインが中⼼となり 17 世紀半ばまで 200 年間続いた未知の世界への冒険的開発時代のことである。
背景はルネッサンス後、⽂化、⽂明、宗教が新たな局⾯を迎えた。農業⽣産⼒、情報⼒、⼯業⼒、航海⼒が発達した。彼らの世界進出の道具は帆船と⽕砲だった。 1500 年前後に、バスコダガマ(アジアに到達)、コロンブス(アメリカ⼤陸発⾒)、マゼラン(世界⼀周)があった。交易と布教が合体して、彼らは地域の勢⼒を利⽤した。「地球」というものの姿がおぼろげながら分かってきた。
⼀⽅、⽇本は応仁の乱、1467 年から 1570 年、安⼟桃⼭頃までが戦国時代で、天⽂ 12 年 1543 の鉄砲伝来が戦国の世を終わらせた。
鉄砲を積極的に活⽤した信⻑、秀吉等により全国に広まっていた戦いが収束した。ここまでの時代、⽇本は朝鮮半島、中国⼤陸、せいぜい印度までが知る限りの世界であった。
この⼆つの地域、欧州と⽇本は別な歴史を歩み、鉄砲伝来まで直接的接触は皆無だった。
2, これら⼆つの時代的背景と要素が 480 年前、欧州から
⽇本への鉄砲伝来を招いた。
鉄砲は欧州から⽇本に直接もたらされた最初の⽂明であった。
鉄砲は⽕薬の⼒で弾を撃ち出し、相⼿を倒す武器。ネジやバネ、⽕薬、鉛⽟などそれまで⽇本にはまったく無かった技術が⼀度に⼊った画期的な事実である。
(ある時期、⽇本の学説では鉄砲は中国を経由して⽇本に伝来したという説が主流であった。しかし客感的史実はアジア欧州交易にイスラム、中国の関わりが存在したが、鉄砲などの⽂明、技術に関しては、ポルトガル商⼈がゴアで製造、マラッカ、マカオを基地として⽇本にもたらした。彼等は移動⼿段として中国船を利⽤した。なおゴアの⽕器製造⽬標は 1 万挺で、その製造はバルカン半島⼈によったそうだ。⼀⽅、⽇本側には何らかの情報が事前にきていた可能性
がある。
欧州の世界進出へのすざましいパワーと計画を理解すべきである。
⽕砲は商品だった。⽇本からの対価に⾦(ゴールド)を求めた。鉄砲伝来は純粋な交易であった。16 世紀の、ゴア、マラッカ、マカオ、の地点と地域勢⼒、印度、イスラム、中国の存在と関係などから地政学的な事実を認識すべきだ。
南蛮船図
⽇本の戦国時代の観点からみると、⽕器、鉄砲は従来の戦闘を根本的に変えた。鉄砲は⾝分、体⼒に関係なく、誰しもが短い期間で習得できる戦闘⽅法で、戦闘 は個⼈戦から集団戦になった。鉄砲は⼯業⼒、補給⼒など資⾦⼒があり、活⽤可能な側に有利であった。そのため群雄割拠の時代は終わりを告げた。ある意味、
鉄砲、その武器の保つ特⾊は従来の⾝分制度を破壊したと⾔える。
3, 安⼟桃⼭時代に⽇本⼈対応⼒が南蛮⽂化⽂明を定着化させ、さらに徳川時代に⽇本かして継続した。
ザビエル像
南蛮の⽂化、⽂明はキリスト教伝導と⼀体だった。南蛮⽂明と⽇本⽂ 明の接触は世界の⼀体化を⽬指したポルトガル、スペインの⽬標に合致しており、その⼒は爆発的に伝わり、⽇本に⼤きな影響を与えた。それらは江⼾期の鎖国を経過して明治の⽂明開化に繋がったのではないか。南蛮、異⾵は⽇本が中国・印度から得られなかった世界観を
醸成し、多くのことに影響を与えた。
例、芋類、トウモロコシ、レンズ、印刷。印刷の原理は江⼾期の版画に。
ガラス⼯芸品伝来も彼らが天⽂ 18 年に信⻑にグラスを送ったことだが、⽇本の
⼯芸品は⻑崎で 17 世紀後半「びいどる」「ギアマン」と呼ばれ⼤阪、江⼾、薩摩などに広まった。現在、⽇本⼈があまり意識していないが、⾷べものに多くの南蛮⽂化が影響を与えた。昨今、⽇本料理が欧⽶⼈に受けている背景。
堺の町と商⼈
⽇本の南蛮⽂明吸収の早さは技術だけでなく商取引など経済的⽔準が⾼かった事があげられる。(宣教師の報告、例、⾔葉の数と
堺商⼈の活動など。)⽇本の商業⼒が欧州⼤航海時代の⽔準にあったことは円滑な鉄砲技術のポルトガル商⼈から⽇本の戦闘集団へ移転させた。
残念ながらこの期間、⽇本⼈が世界に出た期間は短かった。約半世紀。⽇本の⽀配者は南蛮⽂化を受け⼊れたがキリスト教を拒否した。
現在でも⽇本のキリスト教は信者 1%と圧倒的マイナーな存在である。(東京のみなら 6%)
しかしながら、⼤友藩の天正 10 年 1582,遣欧少年使節団 4 ⼈がローマ訪問した。
これに続きは仙台伊達藩、⽀倉 常⻑ 遣欧使 新⼤陸経由のローマ⾏きに繋がった。180 名、慶⻑年間、各 7-8 年間の旅。
⽀倉 常⻑
徳川幕府の鎖国まで、堺をはじめ⽇本の商⼈はアジアで活発に交易し、今度は⽇本製の⼑剣、⽕縄銃が商品になった。
御朱印船の時代、⽇本にも国家的交易⽴国の機会はあった。
16 世紀後半から 17 世紀初頭まで、約50年間、⽇本は交易国だった。タイ、マレー、ベトナム、フィリピン、インドネシアなど各地には⽇本商⼈が進出した⽇本⼈街が存在していた。
4,アジアの他地区への欧州からの鉄砲伝来はあったか?
⽕縄銃が⽇本へのように中国⼤陸、朝鮮半島にもたらされ製造、活⽤されたかは不明である。皆無ではなかっただろうが、現象的な規模ではなかったと推定する。
その理由はその時代の各地域には鉄砲の需要がなかったこと、技術
⽔準、商業環境などその他の条件も揃っていなかったことが挙げられる。
実証できる現物がほとんど実在しないのだ。
アジア各国博物館の所蔵品をトヨタ⾃動⾞社の協⼒で調べたが⽕縄銃といえば⽇本製の武器であった。
「伝播」と「伝来」は違う。鉄砲を⾃ら多量に⽣産し、武器兵器として実⽤化したのはこの時代、⽇本だけであった。
5,⽇本に伝来した⽕縄銃の種類
欧州の研究家によれば、15-6世紀、⽕縄銃の系列には3種あり、それらはイングランド系、フランクフルト系、ボヘミアン系であった。ポルトガルの研究家、ラインハルト博⼠は、ポルトガル商⼈がバ ルカン半島の職⼈に製造させ、そのスタイルはボヘミアンであった
としていた。種⼦島に存在する伝来銃はボヘミアンである。薩摩の鉄砲がこれらに近い形状。
しかし種⼦島の鍛冶が製作したものはフランクフルター(台が⾓張っており引き⾦が前⽅にある)形だ。
確かではないが、イングランド系形状は平⼾、紀州に、フラクフルターは國友の⼀部の筒に似ている、伝来後に影響があったかも。
6, 江⼾期の⽕縄銃
(ア) 欧州の⽕縄銃との差は、
形状が異なる。⽇本に最初に伝来したのはそのうちの⼀種、ボヘミアン系船舶⽤の形であろう。
扱いと、命中率は⽇本の⽕縄銃が優れている。
欧州のものは⼤型。銃⻑が⻑く、銃床が⼤きい、からくりが簡単、サーペンタイン、アキバースなど。
アキバースを持つマスキティア、甲冑に注意。
17 世紀半ばから⽇本で⽕器使⽤頻度は、極端に減少した。
機能は発達せず。⽕打ち式すら採⽤されなかった。しかし、ソフト⾯、砲術流派、演武などが発達した。流派は欧⽶では聞いたことはない。演武は欧⽶でも盛んである。(独⽴戦争、南北戦争の例)
稲富流
江⼾期、200 年間に⽇本の⽕縄銃は⽕器の性能を超えた存在になった。つまり実⽤的なものより⽂化遺産、⼯芸品的な武器になった。
⽇本⼑、⼸⽮、甲冑鎧も同じ。
イ、江⼾期は⺠間銃砲所持規制の原点
⾼札と鑑札
ロ、 「脅し筒」の存在
発射不能な前装銃は存在しないのでは。⽕薬を銃⼝から込めれば弾丸も込められる。「脅し筒」は単なる、制度上の存在であったのでは。
(この説には反論が多いがしかし現物は存在しない)
漁師・農⺠⽤の銃は、武家の払い下げか?
いわゆる、野筒・百姓筒は⼝径中程度、5匁くらいだが、銃⾝が
短い、80cm くらいのものが多いと⾔われている。
享保の改⾰頃に払い下げられ、その後野鍛冶が製作したと⾔われているが、現物は少ない。
ハ、 ⾝分のよる軍制扱い
会津藩絵巻物にある侍筒隊と鉄砲隊 30 ⼈。
江⼾期において鉄砲は再度、⾝分制度を破壊した。
会津藩⿊川演習図 江⼾期
⽕縄銃を武器とするのは⾜軽クラスに限らず侍⼠のものともなった。
ニ、⽇本の⽕縄銃の性能
銃⾝ 100cm、⼝径 12mm の⼀般的⽕縄銃では、
有効射程距離 50m ⼤体、城の堀幅
発射時間 早合を使い、戦場⽅式で 1 発 10 秒 (早撃ち競技)鉄板の鎧甲冑は簡単に打ち抜く
⼗匁筒の意味 ⾜軽でない
ホ、 三段撃ち戦法への疑問
⽕縄銃射撃は隣の射⼿との間を開ける必要がある。⽣⽕と⽕⽫が点
⽕機能なので、暴発の危険性が⾼い。
射⼿⼀線での装填、発射はさらに危険。射撃⾯の横幅が必要。
⽂禄慶⻑の役、天正 20 年 1592 から慶⻑ 2 年 1598 までの記録(洞 富雄先
⽣)によれば浅野家の某⼀⼈が⼀⽇、200 発発射とあるが、装填⼿と射⼿を分
けていたのではないか?
⼀説では銃 3 挺(4 という説もある)に⼀⼈の射⼿。名⼈。
⻑篠の戦い絵図 射⼿が侍装具
ヘ、 鉄砲本体への装飾
江⼾期のものは少ない、明治初期の浜もの時代にしきりに装飾され
たという説もある。しかしながら家紋、その他流派や装飾の象眼は
⼀般的であった。なお、布⽬象眼のものは江⼾期にはなかった。
ト、芸術品的装具の充実
⽕薬⼊れ、⼝薬⼊れ、早合、胴乱、陣笠、具⾜、⽕消し装具など
新宿百⼈町の例 伊達家のものが原型、宇和島から出たもので⽪⾰製。⽊製の型が存在する。欧⽶の装具は単⼀。
チ、 左利き⽤⽕縄銃は存在したか?
欧⽶、⽇本、軍⽤銃と⼀般に販売されている銃は左右対称の
もの以外、右利き⽤である。軍における左利きの兵には⼩銃以外の⽕器に
出番がある。写真の裏焼きで左⽤銃と誤認されることがある。欧州、⽇本でも⾼貴な⽅の注⽂銃では存在する。⽬の⽅が重要な要素。学問的な話題ではないが、数多く存在する⽕縄銃のなかでも射撃できる銃は 20−30 にひとつ、演武出来る銃も 10−20 にひとつ。
射撃は安全、かつ命中できる銃。
演武は安全に空砲が発射できる銃。 部分を組み合わせた銃は直ぐ飽きる。合わない部品は危険。
模造品もある。四国登録は注意
⽇本の⽕縄銃のライフル銃とセットトリッガーは存在しない
リ、江⼾期⽕縄銃の⽣産
江⼾期、戦闘が無くなり⽕縄銃⽣産は激減したか?
しなかったようだ。⽕器は消耗品、⼀定期間が過ぎるとスクラップアンドビルドしたのではないか。幕府の武家諸法度によれば武家が保持する武器の数量、その⼨法、⾝に付け⽅、使⽤法などは厳しく規定されていた。それで 200 年後の異国船問題であきらかになった。
⽕縄銃は戦国時の堺、國友⽣産より地域に移転した。おそらく東北地⽅の鍛冶は江⼾期初期に移転したのではないか。
現存する⽇本の⽕縄銃は19世紀初頭、⼑の新⼑期、のものか
外国の古式銃に⽐べると、程度がよく、数量も多い。
⽕縄銃に⾒られる⽇本の物作りはたいした道具も使わず簡単に、しかし丁寧に製造したことだ。これは現在にも続く⽇本⼈の特質。
ヌ、 尾栓を開ける⽂化
競技で観察したが、外国の射⼿は古式銃の尾栓を開け閉めしない。
不発、もしくは装薬の⼊れ忘れはどうするか、⽕⽳から⽕薬を⼊れる。
清掃には銃⼝からのみ。⽇本の⽕縄銃は尾栓を開け閉めするのが特⾊だ。⽕⽳が⼩さい。尾栓が⻑く、緩いネジ⼭が特徴だ。
ル、流派と⼤筒
江⼾期、砲術は武道になり、的場と⾔われる練習場があり、他の武
道と同じく、師範が教授した。
オ、 江⼾期、⼥性は⽕縄銃を射撃したか?
⽂禄・慶⻑の役のころ、⽴花藩に⼥性だけの鉄砲隊があったそうだが。
ハ、 忍者と鉄砲隊
伊賀・甲賀などの忍者が徳川家に抱えられ江⼾の百⼈町、⻘⼭町の鉄砲隊になった。調練場が明治、⼤久保、代々⽊の演習場に。
6,かくして⽇本の⽕器は 19 世紀半ば、欧州に決定的な差をつけられる。
⼩銃では、欧⽶のミニエ⽅式銃、エンフィールド、ス
プリングフィールド銃などに。欧⽶の⽕器は産業⾰命の効果で完全な⼯業製品になった。部品の互換性が存在した。上、スプリングフィールド銃、下、エンフィールド銃
ミニエ種⽬の射撃 100m
福沢 諭吉先⽣訳の「⼿銃論」ライフルの原理など