「陸上自衛隊東部方面隊広報誌あつ”ま第980号 平成28年6月25日号」8面より

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壹丸谷 政志著「日本刀の科学」

珍しい形式の日本刀の本である。日本刀の武器としての本質を「衝撃」と言う観点から、何かしらの実験を行い、科学的に写真、図を多く採用し説明してある。

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ソフトバンク社の出版でサイエンスアイ新書、価格1000円だが、カラー写真が多く、図、グラフの類は分かりやすい。
著者は鉄鋼の町、室蘭工業大学名誉教授であり、電車の中で目的地までに、日本刀に関する幾つかのヒントが得られる。
例えば、著者は長い刀身のどこで打つのか、バランスを主に研究した。
バランスで言えば、目釘穴は幾つかあるが、刀身を太刀拵えにしたときの目釘穴が最的位置に開けてあるとしている。

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刀は拵えにより、打ち刀(刃を上にして差す)、野戦の太刀拵え(刃を下にして
吊る)の二通りの身に付け方があるが。
内容は以下である。簡潔にしてアート的かつ科学的である。

第1章 日本刀
第2章 玉鋼の科学
第3章 作刀伝承技術の科学
第4章 焼き入れの科学
第5章 強靭な日本刀の科学
第6章 日本刀モデルの衝撃応答
第7章 なぜ竹目釘は破損しないのか?
第8章 日本刀の物打ちとはどこか?

最近、若い人の日本刀ブームがあり、常識的な入門編、科学的な知識を求められていると聞いている。地域、作、姿など鑑定に進む前に知っておいて良い内容で分かりやすいと感じた。(以上)

平成28年度東部方面隊オピニオンリーダー北部方面隊研修

去る6月8日(水)-10日(金)の間、日本の北の護り北海道の
第7師団、第11旅団、第5旅団、を訪問し、日本、現在の北護りの
状況を視察してきた。この1か月ほど前に実弾射撃事故が発生したが
そのことに関する説明はなかった。(第2師団には行かなかった)

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目的)第二次世界大戦後―1990年まで続いた約半世紀に及ぶ東西冷戦で最前線に位置していた北海道そして、その終結から4分の3世紀、果たして旧ソ連(ロシア国)の脅威は、日米安全保障下に置いてすでに過去のものとなったのか、
過去のものでなくても、今回は特に日本側はどのような具体的な対応はどうあるものかを幹部との応答、現場視察を実体験、今後の様相を認識することであった。
北海道の地形は他の日本国と異なり、広大な平野、厳しい冬季、しかし恵まれた演習場があり、自衛隊、特に陸上自衛隊は特別な環境下にある。
後方支援隊の実弾射撃79発の事故に関しても内容説明はなかったが、1つの銃からわずか2-3秒で出てしまう数量の弾薬数である。本州における演習場を設定すれば深刻な被害をもたらした可能性はある。普段より、第一線部隊および後方支援隊においても武器兵器、弾薬に触り、慣れることは初歩中の初歩であろう。

研修部隊概要)
1、北部方面隊の任務
2、北部方面隊の部隊編成
3、第2師団
4、第7師団
5、第11旅団
6、北部方面航空隊
7、冬季競技教育隊
8、空自千歳基地(第2航空団)
9、空自千歳基地(特別航空輸送隊)

研修内容)

北部方面隊の任務は、2つの師団、2つの旅団、約50の方面直轄部隊が配備されている。安全保障面では①北海道に対する直接攻撃への対応、②西部方面有事に対応しての速やかな移動、のふたつが重要要素であると感じた。
当然、災害対応、海外平和維持活動などの付帯業務は言うまでもない。
北部方面隊は第2師団、第7師団、第5旅団、第11旅団(今回は訪問せず)の4つの大きな組織を形成している。

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○自衛隊の食事

毎回、かなり高カロリー食であった。ほとんどがドサンコの材料を使用。

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普通の隊員は大体、この倍の量を採る

以下訪問順に紹介

○航空管制とエリア管制の実務

千歳・丘珠ともに自衛隊機、民航機の航空管制は航空自衛隊で行っている。
千歳管制室・レーダー室には数十名の隊員が勤務し、丘珠も規模に応じて同じような様相であった。(写真撮影禁止)

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○UH-1に搭乗し札幌市内周辺の地形研修

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コントロールバーの操作

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視程10km、雲底600m

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札幌市内
大体、他の方面隊研修では航空機搭乗および地形視察がある。

○政府専用機

現在、日本国においてはB747 2機を政府専用機として要人の輸送、海外法人救援を任としている。運用は航空自衛隊が行っている。機内は要人用、スタッフ用、通信室、会議打ち合わせ、報道陣用のスペースがベージュ色のインテリアで配備されている。本年末よりより効率的に運用できるB777が2機加わり、来年度は4機体制、爾後、トリプル7の2機体制となる。
内部の様子略

○冬季競技教育隊

目標は冬季オリンピック競技でもある「バイアスロン」の日本での広まりと国際競技のメダル獲得だ。バイアスロンはノルディックスキーの競争と射撃の組み合わせであり、射撃は5発、各伏射、立射を行い、的を外すとペナルティが課せられる。まさに陸上自衛隊でしかできない競技であり、銃は小口径50m。
我々も射撃をビームガン使用で体験した。教官の立姿勢(背中に注目)

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的が青くつくと命中

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優勝杯

○資料館

①旭川 北鎮記念館
新しい二階建ての立派な建物である。主にこの地に明治時代初期に入植した「屯田兵」の歴史と生活、家屋の模型、道具、兵器などの展示。二階には第7師団の歴史、加藤隼戦闘隊と加藤隊長の歴史が展示されている。第7師団設立のころまでの苦労がしのばれる。

image013 屯田兵の兵器
下は「ウエンチェスター」とあるがレバーアクションながら「プラットアンドホィトニ」銃

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屯田兵の被服

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防寒具一式
第7師団に引いた水道管(アカ松)

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加藤 建夫隊長のコーナー
この資料館は建物、展示傾向など陸自一流のものであろう。

○千歳北翔館

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初期の型

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被服類

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一式陸攻撃プロペラ一部

○各地の栄誉礼

①第5旅団

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②第11旅団

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終わりに)

北海道には未だ多くの自衛隊員が駐屯し、組織は一部変更されたが、90式戦車、重砲の装備も厚い。ロシア、クリミア半島情勢、さらに四島問題が解決されない現在、我が国としては気を抜くわけにはいかない。外交的な努力においてはロシアを孤立させない、我が国の同盟国を代表し対話を持つ、これらは重要であるが、軍事的な陸・海・空の護りは怠るわけにはいかない。幹部クラスの人たちは懇親会においてお会いし、簡単ではあるが会話を交わした。
やはり同一認識のもとに任務についていると感じた。
(この項以上)

学校訪問 「陸上自衛隊高等工科学校」

―自分を磨く場所があるー

はじめに)
兵器の技術、機能や運営は日々に進化しており、それを扱う自衛官は、各部門の技術に特化した優秀な人間でなければならない。一方、兵員としての戦闘技術や能力も兼ね備えてないとの両面から、若年層教育は戦前から各種の「少年学校」として組織化された。戦後は世論(多くは左翼思想)への傾向も考えなければならなかった。残念ながら陸、海、空にこのような一般の高等学校(15-17歳)に値する生徒を育成する学校は各一校ずつになった。
陸上自衛隊には三浦半島の駿河湾沿いに位置する「高等工科学校」がそれである。
生徒の親御さんが自分の子供を訪れる際に、毎度、規律、態度、言葉の変化に驚くそうだ。少年たちの一種の成長と見てよい。我々が訪れ、一緒の食堂で食事をするさま、行進して教室にいくさま、教室でのさま、屋外教育でのさま、それぞれに一般の高校とは異なる自衛隊員らしさが自から身についているのが分かる。

それで港区防衛懇話会の一行は6月の梅雨前の天気の良いある日、自分を磨く場所に集う若者たちに会いに出かけた。

1、 学校の経緯と概要

昭和38年(1963)4年生の通信教育学校として開始された。その後、さまざまな変遷を経て平成2年に3年制の通信教育制度が開始され、「高等工科学校」となりはれて62周年を迎えた。「科学精神」を技術に適応、技術的技能を習得させる学校として独特の存在感を示している。約9万平方の広大な敷地を広々と使い、生徒たちは多角的かつ高度な教育を受けている。
(学校は陸上、海上、航空の3駐屯地が分けている敷地の大部分を占めている)
高等工科学校校章

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生徒の身分は特別職国家公務員(自衛官)であり、卒業後は陸士長となる。
教育内容は一般教育と専門教育に分類され、専門教育では電子工学などの特別教育に重点が置かれている。
一年生346、二年生313、三年生311名、計970名の陣容で、現在までの終了者は18,000名。教育は一般の自衛隊教育とは少し内容が違う、また高校生、つまり3年早く始める独特の制度である。入試は15倍の倍率と言う。
入学式

2、 教育内容

一般教育では家庭科などにはじまり自衛官として必要な必然的内容が1年間行われる。料理、その他家庭科は重要な科目だ。これは意外だが生徒は気を抜かず熱心に学んでいた。繭から糸を取り出す工程を真面目な顔でやっていた。
筆者の経験でも外国で単身であった期間、中学で習った家庭科授業の内容はとても役に立った。我が団員から「野戦で必要だからねー」と言う言葉が出たが
野戦では携行食だ。

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授業内容のもうひとつの特色は「防衛基礎学」である。我々の訪問中もグランドに迷彩服で小銃をもち基本的な戦闘教育の基礎を実施していた。
その他は普通の高等学校で行う各種の授業がある。画像、手前は体躯である。
また英語教科には特に力を入れている。数学、国語、社会、物理、化学などは
「一般教育」と言う。

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さらに電子工学的、IT教育は重要な内容である。
パソコン教育は各方面に配属されても電子機器の扱い、プログラミング、重要であり彼らが期待されていることは言うまでもない。

野外では体躯、その向こうでは自衛隊訓練が行われていた。自衛隊ではどこに配属されようが戦闘訓練は必な要素だ。

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(私はこの学校で上手く勉強していくには仲間との協調性だと感じた)

3、 高校過程における教育の重要さと規律習得

だらだらした我々が恥ずかしい。様々な年齢、職業の東京都港区に関連のある
人たちの自衛隊理解者の集まりで、どちらかと言えば老人が多い。それに対して生徒は若い、
食事の様をみていても若者オーラが伝わってくる。
この学校は「技術的な識能を有し、知徳体を兼ね備えた進展性ある陸上自衛官としてふさわしい人材を育成する」と言う理念のもと生徒は特別国家公務員となり、自衛隊員の身分となる。卒業すれば一番若い陸曹となる。

image005食堂の様子

水曜日のメニューはカレーである。カレーは2種類用意され、普通のルーカレーとキーマカレー(ドライ)で、なかなか一流の味であった。
生徒は学年に応じ、規律正しく入り、食べていた。私は半分にしてもらったが。

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キーマと普通カレーの選択ができる
彼らのスケジュールには時間はない。午後1時前にはクラスごとに列を組み、行進しながら教室に向かう。その姿を見るだけでも心強い。

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自衛官教育は難しい。兵器の発展により高い専門知識が必要だ。
しかし、自衛官は、戦闘ができねばならぬ。それに重要なことは人間として
普遍的でかつ高い教養を維持することが必要だ。

陸上自衛隊だけでも30ちかい学校があると言う。

自衛官としての成長には教育は欠かせないものだが、「高等工科学校」のように
はじめから自衛隊の全体像を教え、自然に自衛官にする運営はいつの時代、どこの国でも必要かつ重要な要素であろう。

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(この項以上)

寺田 近雄著「日本全国保有兵器ガイド」と自衛隊博物館構想

image寺田氏は我々、帝国日本軍関係装備品を研究する人々にとっては
バイブル的な「大日本帝国陸海軍軍装と装備」をかって著し編集された研究者である。この本は彼が日本全国、北から南まで帝国日本軍兵器・装備のあるところを回り、自分で写真も撮り編集したB5版220ページ白黒のガイドブックである。発刊は文春ネスコ、ISBN4-89036-1928 、価格は不明。1990年から月刊「丸」に書かれた記事を平成15年、もう10年になるが、それらの記事をまとめた。
内容は全国、公的、私的の博物館、資料館、史料館を網羅したもので、地区別に関東、北海道、東北、甲信越、中部、近畿、山陰、山陽、四国、九州沖縄となっている。
番号で分類されてないが、恐らく600の拠点が紹介されており、そのうち6割が自衛隊関係である。寺田氏は自衛隊に予算がつくようになり、各駐屯地に資料館ができ担当者が置かれるようになったとしているが、確かに私が見学した限りにおいてもそうだ。
東北方面隊の神町駐屯地にあった小銃数挺は今、岩手駐屯地の資料館にまとめられている。面白いことに大山元帥の遺品は富士学校と
岩手駐屯地に多くある。なんでも元帥当番兵が元帥遺族より形見分けされたものが彼の故郷、岩手に保存されており岩手駐屯地に寄贈されたそうだ。私は武器学校小火器館顧問として同館の武器兵器の整理、無可動化、展示を10年間ばかり手伝ってきた。三十年式小銃はそこにはない。ところが非公開の世田谷衛生学校にはある。
九二式重機関銃は武器学校のものが完全で程度が良い。わざわざNHK
大阪から取材に来た。関西の資料で探したが撮影に耐えるものはなかったそうだ。靖国神社遊就館はこれでもかこれでもかと埋蔵品を
展示して見るに堪えない。学芸員さんも武器兵器の専門ではない。
零戦52型レプリカの背後に大変貴重な20mm機銃ドラム弾倉が付き置いてある。しかしこの零戦には銃身の長い「改」が正しい。
武器学校には「改」が2挺ある。1挺を取り換えれば、両方に良いのだが。その交渉のルートすらない。
だからまだ帝国日本軍の小火器、航空機、その他はまだ国家的に整理されてないと言える。
話は変わるが系統的・総合的な「軍事博物館・資料館」的な展示のない国は私が様々な国々を訪れた経験では日本国だけである。
左翼勢力などの抵抗はあろうが、年間2000万人もの外国人が我が国を訪れる今日、やはり古代よりの日本の武器兵器を系統的に正しい説明をつけて展示する博物館の建設が必要であろうと考える。
武家文化の説明、元寇、戊辰戦争、明治維新と富国強兵、そして
その一部が「自衛隊博物館」であり、自衛隊のさまざまな装具品を
分かりやすく技術的科学的に説明するところで良いと考える。
自衛隊博物館においては銃身を潰したり、機関部を溶接したりの
無可動化は必要ないと考える。きちんとした管理を行い、少なく
とも自衛隊員は武器兵器の機構が理解できる、ことが必要であろう。
武器兵器だけでなく、防災装具の展示も面白い。
今から始めても10年間はかかるプロジェクトだ。だれかが、何とか
すべき重要な課題だ。
(以上)
(以上)

よく観察すると、ばねの進化が近代銃を生んだ

(書評「ばねの基礎」「ばねのおはなし」)
はじめに)
近代銃の定義は「モーゼルタイプ(19世紀後半)ボルトアクション銃と言われている。「金属薬莢を弾倉に装填しボルトを操作したライフル銃」で、軍用銃が主体だが同じ形式の銃剣を使用しない民間銃も生産された。
日本では「三十年式歩兵銃、騎兵銃」がそれに当たり、明治三十年(1896)制定。日露戦争を想定し開発され小石川小銃製作所で、戦争中は一日1000挺、合計60万挺がアリサカと呼ばれ生産された。各国も、ドイツはモーゼル、アメリカはスプリングフィールド、英国はエンフィールド、世界のいたるところで同じころ生産された。
ボルト(円筒)の中には「コイルスプリング」が入り、ボルトを引くことで中の「コイルスプリング」が圧縮されボルトを倒すことで撃発状態になり、引き金を引くと、スプリングが解除され撃針が雷管を撃つ、と言う手順だ。

1、ばねの基本を書いた本「ばねの基礎」と「ばねのおはなし」
大体内容は同じだが、ここに「銃砲進化」のヒントがあった。
火縄銃、火打石銃、外ハンマー式各種銃は強い板ばねを使用していた。
板ばねは耐久性に劣るのと、ロックをひとつにして構成するのが難しい。
火打ち式銃の例では3個の強力な板ばねを鉄板に装着する必要があった。勿論故障の可能性も大きかった。

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2、ばねには主に2種類ある。
本から知るに、人間が使用したばねは大きく分類し、板ばねとコイルばねの2種類である。日本の火縄銃のコイルスプリング(井上流ではするめと呼んだ、するめを火にかけるとくるくる回るからだ)しかし原則は板ばねである。

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「ばねのお話し」より

3、本には2種類のばねの変遷の歴史は明らかに書いてない
しかし日本の銃器の歴史をみると、村田式十三年式、十八年式の小銃はボルトを使うが板ばね方式である。三角形のボルトの中に松葉型のばねがはいっている。
一方、村田二十二年式(1886)は特殊な円筒であるが、コイルばねを使用している。
ボルトヘッドと言う前部が外れる。この理由は良く分からないがコイルばねの分解、装着を楽にするためではないか。だから実用的コイルばねは19世紀の末期に出現し、実用化されたものと考えられる。欧米の産業革命の結果、良質な鋼とその加工が可能になったからであろう。時代的に合致する。

4、機関銃
機関銃の出現にはコイルばねが必要であった。コイルばね出現と同じころから
マキシム、ホチキスにより近代的な機関銃が開発された。
機関銃には反動利用方式、ガス圧利用方式が存在するが、いずれにせよ発射によりばねを巻いたロッドで円筒をもとにもどす必要がある。これは機構上、コイルばねでないと実現しない。

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コイルばね
火縄銃のヘアピン型のメインスプリングや他の形式の真鍮製コイルスプリング、分類では板ばね加工してある。特にコイルスプリングを巻いた高級なロックだ。この板ばねはどのように製造したのであろうか?
現在、さまざまな近代的工作機械はあるが、なかなか難しいものだそうだ。

参考文献:小玉 正雄著 「ばねのおはなし」  日本規格協会
渡辺 彬・武田 定彦共著 「ばねの基礎―改定版 パワー社
(この項以上)

あまりにも多くの文化財が「銃」と言うだけ破棄される現状

地方で役所の文化財課が旧家の調査をしていた。
以前は乱暴にも旧家は解体屋が売れそうなものは持ち去り、そうでないものは
燃やしてしまった。ようやくここに来て、良心的な自治体は文化財課に家そのもの、家にあるもの、家財や文書の調査を行わせる。江戸期から続いた旧家は歴史の宝庫だからだ。理解ある所有者から寄贈を受けた民具や家具は資料館などに展示され、その地方の歴史を語る。すばらしいことだ。
だが、時々「銃器」が出てくる。

自衛隊武器学校にも「三八式小銃」のようなものがでましたが、と連絡があった。電話で文化財課の女性係員と話す。まず、全長やその他の特徴を聞くが
明らかに軍用小銃ではないし、猟銃の類でもない。
「刻印があるはずですが?」と聞き、ありあわせのハンドクリームを塗り、カッターナイフで軽くこすってもらう、「ありました、ありました」と言うことで、
写真を送ってもらい、なんであるかを教えてください、ということになった。
空気銃だ。この手もものは沢山みたが大体、古くは100年近くたっており、パッキングが機能しなくなっており使用はできない。

しかし、これはその旧家が相当な裕福な家であった証拠のひとつで、国産の同じ機能(例えばのちの兵林館などのもの)の10倍くらいの価格はしたであろう。

英国ジャガー社のハンエンエルモブランドの空気銃で、現在でも同じブランドで高級ライフル銃を製造している。高級品だ。

まず台木が良い。
銃口など頑丈、丁寧に製作してある。

仕組みは凝っている。中折れなどでなく、ポンプアクションで、下の握り台を
後方にずらすことで空気をいれる。
弾丸は正確な口径は分からないが、おそらく4.5㎜であろう丸玉を銃口から前装填する方式だ。

昔、冬に家の中で遊ぶために厚紙などを撃った。12-3歳適応のものだ。
今もそうだが、米国北部など気温の低いところでは地下室の一部のコンクリートを開けたり、バックストップを作り、10mほどの距離で.22口径拳銃などで練習する。室内で銃を撃つことをギャラリープラクティスという。この発見された空気銃はBBガンと言い玩具の範疇に入る。
所管の警察署にこんなものが出ましたと言うと、「任意」提出になる。
それはスクラップにされることを意味している。(警察署は銃をひとつあげたという成績に残る)

本当にそれで良いのであろうか?

恐らく、その旧家は明治時代から欧米富裕層まがいの文化を取り入れた生活を目標としていたのではないか。ピアノ、家具、洋画などなど。この銃はすでに無可動になっており(もし稼働しても完全無可動にするにはばねを切るだけなどで簡単に行える)

町の文化財課はこの町がどのように発展してきたか、その中でどんな家にどんなものがあり、それは何を意味したか、つまり文化を研究していると思われる。
先にも書いたが、一つの研究で意義のあることだ。銃もひとつのジャンルだ。

別な市では博物館が旧家からでた以下のようなものを管理している。
文化財で町の歴史を語る展示物としてとしてだ。

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下の2種類の管打ち拳銃は形式から19世紀半ば
治安の不安定な時期、「護身用」として用意されたものであろう。

そんな意味を、玩具の銃を任意に取り上げスクラップにするのが果たして文化か? 野蛮ではないか?と一銃砲史研究家としては考えるしだいである。
(この項以上)

書評 『戦闘技術の歴史』5東洋編

マイケル・E・ハスキュー他欧米人学者4名共著、創元社刊2016年
B5版、363ページ

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「戦闘技術の歴史」は主に古代欧州を中心として中東までの戦闘から、武器兵器、戦闘方法の発展をすでに4作出している。いずれも何人かの学者が手分けして自分の専門分野を著し、それらを編集する形をとっている。
ここにきてようやく「東洋の戦闘と武器兵器」の詳細を、時代的には秦の時代から19世紀なかばまでをまとめた。

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しかし、東洋における殆どの大規模戦闘は大陸において行われ、元の勃興による11-2世紀が最大のもので日本にも及んだが記録が不足していたのだろう。

この本を読んでの感想は、編集方針が理解しにくい。日本の武器兵器の図や写真を観察しただけでも誤認や疑問が数多くあり、果たしてこの本がテーマにする東洋における3000年の戦いの歴史が正しく述べられているかとの確信は残念ながらもてなかった。その理由は監修者が序文に書いていたが、各々の著者が自分の研究ではなく、すでに書かれた材料を単に料理しただけと言うことにつきるだろう。西洋にとって東洋の正しい歴史、その認識などは「どうでもよい」と言う類に入るからではないか。この問題の背景は現代にも通じる。
正しいと言うか具体的な歴史認識と理解が徐々に始まったのは日本に関しては、開国後、日本を訪れた英国人たちの書いた紀行文、画、写真などからではないか。

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日本の鏃、殆ど見たことがないもの

 この本によれば、ユーラシア大陸の東は、何千年にもわたり、東西南北に大きな蟻の群れが左右、上下に地面を真っ黒に染めて移動していたような様子であり、権力は国家と言う形をとるも、軍事力により攻める、攻められる状態であったようだ。大陸を出ると言うことは19世紀(産業革命後か)まで難しい状態で、これは日本から大陸に侵攻した文禄慶長の役(16世紀後半)も元寇(12世紀)と逆の立場だが状況は同じであった。

内容は
第一章 歩兵の役割 日本の鉄砲足軽の例が多く引用されているが、

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日本の足軽

第二章 騎兵の働き モンゴルの機動性

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モンゴルと日本の騎馬

第三章 指揮と統率
第四章 攻城戦

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モンゴルの大砲

第五章 海戦 文禄慶長の役が大海戦となっている。また元寇の近年の発掘調査による規模や状況は記述されてない。

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文禄慶長期の日本の軍船

上記の如く、内容的には初歩であろうが、日本に於いて東洋における古代から近世までの戦闘研究をほとんどみない現状では欧米で東洋史学をどうみているかを知る資料として参考にはなる。(この項以上)

松本 清張著「二・二六事件」1巻、2巻

文芸春秋社刊 1986年

「二・二六事件」に関しての内容はすでにご存じの通りである。
日本帝国陸軍皇道派に影響を受けた、いずれも陸士出身の下級将校が約1450名の下士官兵を率い、内閣を倒すべく起したクーデター事件であり、未遂に
終わった。(実はこの本刊行後にNHKが新資料を発見し裁判などの一部が放送された。だが裁判の詳細は発表されてない。)

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私はクーデターを起した叛乱軍の駐屯地、麻布第三連隊900名(現在の新国立美術館辺り)とその向側にある歩兵第一連隊400名(昔の防衛庁、現在は六本木ミッドタウン)またその他民間人、他の部隊からも参加した、に近いところに住んでいるのでこの事件には興味を抱いていた。

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左端に4挺の重機

文春に連載された頃から読んでいた。
普通のクーデターは軍のトップが政府に対して起し、そのトップが自分で暫定、代理統治するためのことが多い。(現在のタイ国がそうだ)
しかしこの叛乱は、若手下級将校が内閣の重鎮を倒すためにかくも大掛かりに行い日本は上へ下への大騒ぎになった。

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叛乱軍はしかるべき数の機銃を用意した。分隊兵器の十一年式軽機はともかく当時最新兵器であった九二式重機関銃中隊を巻き込み、皇居の北側、国会議事堂、永田町辺りを占拠していた。要人を十一年式機関銃で射殺し、4名の内閣幹部と、鈴木 貫太郎侍従長(終戦内閣首相)が重傷をおった。警察官5名も殉職した。2個大隊の規模だから重機の数は2-30挺、但し弾薬は1挺定数1万発の数分の1くらいしか用意できなかったと推定する。
なお当日は大雪であり、麻布連隊が出動した夜明け前には30㎝ほど積もっていたそうだ。

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海軍陸戦隊

この叛乱は何を目的としていたか、は確たるところは分からないが、松本氏は
1、 非常に幼稚な計画であった。
2、 この事件は日本史上、過小評価されている。
の2点を挙げている。
昭和天皇は叛乱軍に厳しく対処し、鎮圧部隊の出動を命じた。

叛乱軍鎮圧には、帝国陸軍は四年式榴弾砲小隊、八九式戦車中隊を派遣した。
また帝国海軍は戦艦長門他の陸戦隊を芝浦港に上陸させ、クロスレー装甲車2台、陸戦隊は三年式重機関銃を装備していた。

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一触即発で、もし戦闘が起これば、都心で重機関銃どころか砲弾まで飛び交う
混乱になった。

松本氏を結論は出してない。
しかし幼稚な計画であろうとも、この大規模な叛乱軍は、内閣を飛ばし、天皇の統帥権を利用しようとしたのではないか。皇居の占拠は考えていたかもしれぬ。
当時、日本は大不況のさなかであり、国家財政は破たん状況に近かった。
恐らく多くの国民は政治が悪い、軍はそれに耐えられなかったと叛乱軍に同情的ではなかったか。彼らの行為が立憲君主国家に破壊にもかかわらず。

松本氏が言うように、この事件はその後、軍部が天皇の統帥権をかなり直接的に利用し、また翌年には北京の盧溝橋事変が発生しているから、これは終戦に至るひとつの大きな転機を造り、「歴史的には過小評価」されているであろう。

まもなく二・二六事件から80年を迎える。
以上

松本 清張著「二・二六事件」1巻、2巻

文芸春秋社刊 1986年

「二・二六事件」に関しての内容はすでにご存じの通りである。
日本帝国陸軍皇道派に影響を受けた、いずれも陸士出身の下級将校が約1450名の下士官兵を率い、内閣を倒すべく起したクーデター事件であり、未遂に
終わった。(実はこの本刊行後にNHKが新資料を発見し裁判などの一部が放送された。だが裁判の詳細は発表されてない。)

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私はクーデターを起した叛乱軍の駐屯地、麻布第三連隊900名(現在の新国立美術館辺り)とその向側にある歩兵第一連隊400名(昔の防衛庁、現在は六本木ミッドタウン)またその他民間人、他の部隊からも参加した、に近いところに住んでいるのでこの事件には興味を抱いていた。

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左端に4挺の重機

文春に連載された頃から読んでいた。
普通のクーデターは軍のトップが政府に対して起し、そのトップが自分で暫定、代理統治するためのことが多い。(現在のタイ国がそうだ)
しかしこの叛乱は、若手下級将校が内閣の重鎮を倒すためにかくも大掛かりに行い日本は上へ下への大騒ぎになった。

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叛乱軍はしかるべき数の機銃を用意した。分隊兵器の十一年式軽機はともかく当時最新兵器であった九二式重機関銃中隊を巻き込み、皇居の北側、国会議事堂、永田町辺りを占拠していた。要人を十一年式機関銃で射殺し、4名の内閣幹部と、鈴木 貫太郎侍従長(終戦内閣首相)が重傷をおった。警察官5名も殉職した。2個大隊の規模だから重機の数は2-30挺、但し弾薬は1挺定数1万発の数分の1くらいしか用意できなかったと推定する。
なお当日は大雪であり、麻布連隊が出動した夜明け前には30㎝ほど積もっていたそうだ。

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海軍陸戦隊

この叛乱は何を目的としていたか、は確たるところは分からないが、松本氏は
1、 非常に幼稚な計画であった。
2、 この事件は日本史上、過小評価されている。
の2点を挙げている。
昭和天皇は叛乱軍に厳しく対処し、鎮圧部隊の出動を命じた。

叛乱軍鎮圧には、帝国陸軍は四年式榴弾砲小隊、八九式戦車中隊を派遣した。
また帝国海軍は戦艦長門他の陸戦隊を芝浦港に上陸させ、クロスレー装甲車2台、陸戦隊は三年式重機関銃を装備していた。

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一触即発で、もし戦闘が起これば、都心で重機関銃どころか砲弾まで飛び交う
混乱になった。

松本氏を結論は出してない。
しかし幼稚な計画であろうとも、この大規模な叛乱軍は、内閣を飛ばし、天皇の統帥権を利用しようとしたのではないか。皇居の占拠は考えていたかもしれぬ。
当時、日本は大不況のさなかであり、国家財政は破たん状況に近かった。
恐らく多くの国民は政治が悪い、軍はそれに耐えられなかったと叛乱軍に同情的ではなかったか。彼らの行為が立憲君主国家に破壊にもかかわらず。

松本氏が言うように、この事件はその後、軍部が天皇の統帥権をかなり直接的に利用し、また翌年には北京の盧溝橋事変が発生しているから、これは終戦に至るひとつの大きな転機を造り、「歴史的には過小評価」されているであろう。

まもなく二・二六事件から80年を迎える。
以上