「趣味どきっお城へ行こう」NHKテレビテキスト

千田 嘉博監修/著
2016年2-3月

なぜ私の手元に送られてきたのか、NHKの人が講演に来た時に名刺交換したかご本人の講演を聴いたのか?千田さんの名刺が入っていた。

テレビ番組をムック版のきちんと編集した本になっている。サイズは24x30cm、127pオールカラーだ。 番組取材で撮影した豊富な資料、現在の写真、古画、図面、古図面、見取り、イラスト、展示物などで各々の城を説明が内容であるが、特に興味深いのは城の歴史である。
堀をほり、石を積み込み、門を作り、天守までの工程だ。

出てくる城は、この本が大河ドラマ「真田 幸村」にちなんだものなので上田、松代、小田原、安土、彦根、姫路、名古屋、大阪城の真田丸などだ。

タイミングよく国宝姫路城の平成の改修が終わったばかり、昔の白が映える漆喰の壁。
また彦根城の大堀切り、桝形門、そして上りの石垣などが印象に残る。

日本の城は何のためにあったのか?どれだけ現存しているのか?
それらは時代により異なるだろう。戦国期の山城から近世の城下町つくりの経済活動の中心、目的が違うからだ。

この号にはないが、城と言えば加藤 清正と熊本城だが、大地震にも昔の建造物や石垣は結構強かったと言われている。
私は地震前に自衛隊の研修で熊本城を丹念に見学したし、古地図ももっていた。
清正公は名大の設計家、建築家であったことに間違いない。日本の建築技術を上記の城の例に見るまでもなく大変高い水準にあったことを現物が証明している。

日本全国、どこに行っても城の見学はかかさない。何かしら歴史の新しい発見がある。

(この項以上)

小林 芳春著 「長篠・設楽原の戦い」鉄炮玉の謎を解く

小和田 哲夫・宇田川 武久監修
黎明書房

外国の古戦場を歩くと、隣接する博物館売店で発掘された弾丸を販売している。米国南北戦争古戦場ではミニエ弾丸が1発500円ほどだった。形の崩れてない、線条がはっきりしているものを幾つか求めたことがある。日本前装銃協会の会員であったA氏は、40年ほど前、家族と会津若松城に観光し、城から攻めての方角と射程を計算し、一日で10数発の様々な弾丸を発掘してきた。現在、城周囲は開発が進みそういうことは無理だろう。
小林 芳春氏は日本銃砲史学会会員であり、長篠・設楽原古戦場の大地主の一人であり、自分の土地で見つけた当時の弾丸のことを何回か史学会例会で発表したことがあった。残念ながら発掘された弾丸の数は多くはなかったと記憶している。
小和田 哲男氏は早稲田大学文学部博士課程修了、現静岡大学名誉教授の歴史学者である。
宇田川 武久氏は国立民族博物館名誉教授、博士、歴史学者、日本銃砲史学会理事長であり、数多くの鉄炮伝来、鉄炮に関する著作がある。
3年ほど前、史学会の例会、見学会で長篠・設楽原に30名ほどの会員が訪れ、資料館で様々な弾丸を見学した。
この本に設楽原出土17発、長篠城址出土30発の仔細な写真が掲載されている。設楽原の出土は、見学に来て説明を終えたばかりの子供が外に出て、すぐに発見したものであるというストリーがあった。
この本の注目すべき記載は発見された弾丸の材料研究から、弾丸の材料の鉛は中国、タイなどアジアのものであったとの事実だ。
現在の弾丸は鉛のみでなく、その周りを披甲してある。狩猟などで威力を増すためには先端だけ鉛をだす。
長篠・設楽原の戦闘の歴史的背景と重要性はいまさら語るまでもないが、本では仔細に期されており、小和田、宇田川両博士の歴史研究のコラムも興味深い題材が多く包含されている。

筆者の射撃経験では銃は弾丸が目標に命中しなければ効果はない。
これは今も昔も同じである。長篠の戦場を観察するに馬防柵から今も当時も田圃であった武田軍が多く倒れた地帯までの距離は短い。
恐らく多くの弾丸は目標に命中し、壊れてしまったのであろう。
長距離の打ち合いでは目標に命中しなかった弾丸の多くはエネルギーを失いながらも柔らかい土中に入り、形状を保っていたのではないか。これが計算によれば3万発以上も発射された弾丸の残存率が少ない原因と考えるが。
この書籍は専門家の編集による多くの情報を含んだ、読みやすい優れた著述である。
以上(須川 薫雄記)

伊川 健二著「世界史のなかの天正遣欧使節」吉川弘文館

16世紀末の世界はキリスト教の布教、イエズス会が世界各地に活動を広げており、特に欧州では日本布教に関心が高かった。
また経済的にはポルトガルを中心にした大公開時代が、欧州の他国にも広がり、オランダ、英国、スペインなどが世界中に活動を広げ、世界、その中の日本史大きな転換期を迎えていた。
伊川 健二氏は東京大学卒、文学博士であり、現在は早稲田大学に籍を置き、日本銃砲史学会会員である。近年、ロンドンに滞在しこのテーマの研究を、そして「大航海時代の東アジア」とはじめ、この時代に関する多くの著作がある権威である。(日本銃砲史学会例会においても鉄砲伝来の一考察を発表した)、
15-16世紀の航海事情を考えるにこの時代の欧州人のエネルギーは我々日本人にも大きなインパクトを与えその実績の統一、安定しつつあった日本に与えた数々の影響は多くの学者の興味をそそったが、伊川博士の研究活動を日欧両方から俯瞰しているところに特徴があると伝えている。
つまり天正12年(1582)長崎を発った4人の日本人若者たちが長い航海の末、欧州に到達し、法王への謁見、様々な国々の多くの当時の指導層に与えた印象と影響を具体的に調べた、気の遠くなるような研究の成果である。
彼らが長崎、マカオ、マラッカ、コーチン、そして喜望峰を回り、セントヘレナ、そしてリスボンに到達したことは、日本に来ていたイエズ会とキリシタン大名の後押しがあったとは言え、欧州に到達した初めてのキリスト教日本人正史であったからだ。
伊川博士は彼らが訪れた各地の当時の記録や遺跡を丹念に調査しそれらから、欧州で日本がどうとられていたか、マルコ・ポーロの「東方見聞録」のある面では事実、他面誤解の解消にどのように貢献し、彼らの明かに欧州人と異なる容貌などの記述を細かに拾ってきている。
現在の日本のキリスト教徒はわずか1%、近代国家のなかでは極端に少ない。自分で教会に行く、説教を、聖書の説明を聞く、聖歌を歌う、これなら、「プリーチャー」として俺のほうが上手に話せるし歌えると思うほどのお粗末さも経験してる。(プロテスタントだが)
現在の「世界における日本」、その奇妙で特殊な安定はもしかしたら、天正の青年使節が日本に戻ってからの近世のキリシタン禁制の400年間の結果であったのか?という認識を与えてくれた名著である。
伊川博士のもう一度書くが、気の遠くなるようなご努力と詳細な研究結果に敬意を表し、失礼ながら将来の「文化勲章」の「欲」をお持ちになって欲しい作品だ。
(以上、須川 薫雄記)

西南戦争の考古学的研究

書名:西南戦争の考古学的研究
著者:高橋信武(日本銃砲史学会会員)
出版社:吉川弘文館
定価:(本体13,000円+税)

内容:鹿児島を中心とする不平士族が起こした国内最後の内戦・西南戦争を取り上げ、これまで、文字資料を中心に研究されてきたその実態を考古学的に探究した初めての書である。
九州各地の戦跡を踏査し、小銃・弾薬などの遺物や陣地の遺構、塹壕跡などから両軍の兵力・装備を追究した内容になっている。
豊富な図表を駆使して、戦闘の推移や武器の技術進歩を明らかにしており、特に西南戦争中に使われた弾薬類や火箭について詳しく書かれており、弾丸や薬莢の研究には興味がわく。(栗原記)

海上自衛隊厚木基地研修(防衛懇話会)

平成29年5月20日実施
防衛懇話会 会員 須川 薫雄(しげお)
防衛懇話会の研修)
防衛懇話会は防衛企業が構成する自衛隊をより認識するための組織で会員はほとんどが
法人だ。会長今井 均氏、丸の内日本工業倶楽部に事務局がある。私は個人会員で市ヶ谷駐屯地の推薦を受け12年前に入会した。
観閲式、富士火器演習、音楽祭りなど自衛隊の主なるイベントのほかに年に数回、陸・海・空、在日米軍基地などの訪問が計画されている。
今回の厚木基地訪問もそのひとつであった。厚木基地は在日米軍との共同運航地だが、研修は自衛隊の部分だけだった。日米の管理地域面積は約半々。
主たる目的は日本の警戒監視活動に無くてはならない、哨戒機運用と新型機材P1機、
在来機P3Cであった。

 

 

今回はこの機材P3Cは任務中で見学せず。推定7-80機が運航中 日本の警戒監視、およびある程度の攻撃能力もある重要なる存在、

海上自衛隊の対応と会員の反応)
今回の参加者は普段の約倍の45名であったので、後に述べる各部門研修は3-4のグループに分けての実施であった。全員を基地内の各部署に案内、全体の説明をするのは広報課、各研修はそれを担当している現場の隊員であった。対応に漏れはなく、大人数の参加者を上手に午前9時半の最寄り駅よりの集合から午後4時過ぎの解散までそつなく実施した。
在日米軍との共同基地なので、写真撮影は一切できず、また参加者の企業からは実際、自衛隊と付き合いのある人たち、研究、生産などを担当している社員より、内勤(総務など)の人々が多く、果たして研修の意義が重複されたかは疑問。
(私は陸自東部方面隊で、舞鶴、佐世保、岩国、横須賀は研修している。)
当日はUSSロナルド・レーガン空母から艦載機F/A18が飛来したので、基地内は緊張感と騒音と緊張感にあふれていた。なお写真撮影はほとんどの場所で禁止であった。
F/A18はいずれ岩国に移転するそうだ。西に重きを置いていく体制は日米共に同じだ。

うるさいこと。しかし実際に観察すると尾翼がすべてエレベーター、知っていたが実際にペラペラと動くさまは・・・

司令挨拶と基地概要)
まずは司令より歓迎の言葉があり、広報課長より同基地の歴史、概要、管理、運用などが設営された。特に滑走路と管制機構は日本側の役目であることなど。
基地自体の位置は横田、座間など近隣の重要基地との関係は不明だが、全周11km余の
中型である。海自と関係要員が約2,000人勤務している。米軍は家族を含み5,000人ほど。この基地の統括では硫黄島、南鳥島が含まれる。
第四航空団31飛行隊が、24時間体制で警戒監視飛行を実施しているが、太平洋側には飛んでない。意外だった。
第61航空隊は輸送任務にあたり、硫黄島などへの補給活動を行っている。
同基地は本州の中心に位置している。

良く見ると制服は海自が帝国海軍のものを踏襲し一番、洗練されている。
階級は16あるそうだ。なかなか競争が激しく大変だろう。

広報館の見学)
厚木基地は日本帝国時代の海軍飛行基地であり、首都防衛に重要な役目を負ったがこの広報館にはあまり見るべきものはなかった。零戦に3本搭載されていた酸素ボンベ(一本が約直系15㎝、全長40㎝ほど)の酸素が注入されたまま発見されたそうだ。米軍管理地のゴルフ場を探せば、零戦1機くらいは出てきそうだが。
海上自衛隊基地は資料館、広報館の充実度が佐世保を除き全般的に低い。

管制施設の見学)
どこに行っても管制は実際に行っているのを見学するので、こっちも気をつかう。
小グループにわけて、離陸、着陸、地上の動きを指令するアプロ―チコントロールとファイナルレーダー施設(エリア)の各々の施設を見学するが、内容は極秘なので省略。

この基地には海自の管制官の養成所があり、多くの学生が日夜、研修している。

昼食をとる。この日は金曜日なのでカレー。これにミルクがつく。

昼飯

P1川崎シュミレーター体験)
本体と設置に40億円の費用が掛かったそうだが、シュミレターほど航空機訓練の効率を上げたものはない。6本の太い脚、ジグザグに入っている箱型の機体が稼働するものと、
簡略型の2種がある。簡略型を体験させてもらう。
女性教官同乗のもと、厚木の滑走路を離陸し270度右旋回、高度は2000フィートほどで、海岸に向かう。
江の島と大島を臨む。スロットルはそのままでも速度、あまりにも遅いので、旋回の最中から少し操縦棹をおすと当然高度は下がる、高度を上げるためには操縦棹を引くと4000フィートまで数分。速度が遅いのだ。どうしてこのようにゆっくり飛べるのかが大きな疑問だった。
まずで双発プロペラ機を操縦している感じと考えて良い。映像は鮮明で、現実感がある。
海岸に達し、180度旋回をして厚木に戻る途中で時間がきたが、これを操作したのは
私だけだった。申し訳ないが他に希望者はいなかった。

現在、恐らく数十名もいないP1操縦士を数百名に増員するためには必要不可欠な装備品であることに間違いない。

地上救難隊の水を飛ばす)
この隊ほど、我々の見学に力を入れてくれたところは今まで初めてだ。隊員が重い防火服を
素早く地上から持ち上げ炎天下着用する。見学者をひとりひとり、長さ12mの大型消防車に載せ、ホースノズルを操作させる。相当に燃える機体に近づかなければならない。
化学消火剤は水にその場に応じて混ぜるそうだ。

 

 

救難ヘリ整備を見る)

第4航空団の救難ヘリSH-60Kの整備を見る。エンジン、ローター、後部など主要部品が外してあったので、機材の構造は理解できた。重厚な機体だ。
このヘリは舞鶴でタッチアンドゴー訓練を見たが、機体が大きく、双発なのでブラックホークなみの迫力があったことを覚えている。担当者は親切にも右も左も分からぬ我が一行に
丁寧に説明してくれた。

さて肝心のP1機は)

機長から機体性能に関しての説明を聞いてから、機体外部、機体内部(これは価値があった)
その他一時間半以上をかけて見学した。
すでに10機程度が川崎重工業で製造され運用されている純国産機だ。またその性能は公開されてない部分が多い。機長に質問した、「このような機体が低速で低空を飛行できる鍵は?」むにゃむにゃと説明はなかった。巡行速度も発表されてない。

だが、機体の内外を観察するに幾つかの他の機材との差を操縦者である筆者は気が付いた。
機体はP3Cと比較すると全ておよそ1.3倍の大きさ、性能である。例えば後続距離は8000kmとこの種の機体では驚異的と言ってよいだろう。さまざまな新しい工夫がみられる。
石川島播磨の開発の中型ターボファンエンジンも一つの鍵ではないか。

諸元、全長38m、スパン35.4mと観たところはフツーの機材だが、「低速で飛べる、失速しない」などが高度な技術であると思う。(シュミレーター操縦でも感じたが、操縦系統には光ファイバーを使い、ケーブルで物理的に動かすのではないので、力はいらない。
あらかじめインプットしたソフトが大いに助けてくれる。

大きなヘッドアップでスプレーがさらに操縦を贅沢にしている。シートの移動などは
下手な民間機より効率的。

乗員はP3Cと同じ操縦士2名、オペレーター11名で変わらない。
ソノブイは数十を3通りの落とし方、他ミサイル、爆雷等の攻撃力の取り扱いを実際行ってくれた。電子レンジで飯が食えると乗員は感激していたが、やはり軍用機はこういう環境整備は遅い。

遅く飛べる理由、これは聞いてはいけないことだった。P3Cの翼はほぼ横に出ているが、
P1は少し後退している。またフラップ、スロットなどの翼の能力を上げる仕組みも頑丈に
役に立つ造りだがステルス機のように目立つものではない。
これらとエンジンの組み合わせで揚力を上げているのではないか、と言うのが私の推察だが。
遅く飛べる理由はそんなところであろうが、日本の航空工学の知恵が結集されている。
潜水艦が相手の機材にはとても重要な要素だ。相手は海中で停止できるから。

将来、およそ100機程度が製造され、P3Cに交代する。

こんな機体も見たいと言ったら怒られた)
ふと横を見たら、これが置いてあった。「あれも見たいなー」と言ったら、案内の担当者に「岩国の所属だ」、と怒られた。

記事に使用の写真は海自のカタログより
(以上)

陸上自衛隊対馬駐屯地・警備隊研修

目的)

対馬と壱岐の島は朝鮮半島と日本国本土の間に位置し、古来、半島との往来に中継地として重要な役目を果たした。また日露戦争における日本海海戦は欧米では「ツシマ」と呼称されその戦略的な重要性は研究家の間で認識されている。
しかし、日本国において10番目の面積を持つ、かくも重要な位置を占めておりながら、本土の人々は観光・業務においても実際に訪れる機会は少ない。
有史以来の出来事、現状、そして有事の際の在り方これらを、日本の外交史、安全保障史を研究する自分が自ら目にして考える良い機会があり、防衛懇話会の第四師団、航空自衛隊春日基地研修の後、夕方の便で飛んだ。
久しぶりにプロペラのボンバルディ機だった。
お出迎えをいただきホテルに送っていただいた。空港、宿泊したホテル、駐屯地は各々15分くらいの山道を走る。
お出迎えいただいた警備隊のエス氏の先祖は江戸期、農作物への害獣、猪を島で絶滅したことで知られている。鉄砲鍛冶に鉄砲を造らせ、農民を使った。
なるほど、本で読んだが聞いてみて迫力があると感じた。私も先週、2頭仕留めましたと言う話を車中した。

1、 対馬の地形と現況

3週間ほど前、島民が家族ごと殺害され、家に放火された事件は解決してない。
島民はかっては6万人強であったが、現在は過疎化が進みその半分くらい。
地形はフランスバンの真ん中左を誰かがかじりとったような南北に延びる形。
標高650m島全体は台湾のように絶壁で、港は真ん中の部分と北側にあるものがかってより活動していた。
平地は少なく、農業はシイタケや果実を作る。漁業は盛んだ。観光は日本からより韓国から来る人間が多い。山も富洋なものではない。理由は分からないが観察するに土が少なく広葉落葉樹林が多いが木々の間隔は広く大きな樹木は少ない。従って林業は収入にならない山が大部分で北から南まで波のように広がっている。これは行って自分の目で観察しなければわからない。
対馬山猫など貴種な動物植物が多い。


島は一部を除き大体このような地形だ

2、 日本で2番目に小さいと言う駐屯地を訪問した。

翌朝は早く出た。お出迎えをいただき、司令にご挨拶。その後、土曜日にもかかわらず30名近くの幹部にお集まりいただき、私の講義を聴いていただいた。
題目は「近世から近代にかけての日本の海防」で、内容は19世紀、産業革命が進み兵器の発達した列強の日本への圧力、日本の外交、明治維新、その後75年間の軍の構成をパワーポイントの20ページの資料で話した。

隊員の皆さんと小松氏

終了後、直ぐ、今回の訪問の相手先となっていただいたT三佐のご案内、それに対馬防衛協会の小松氏が参加していただき、対馬が元寇以来たどった歴史の現場を見学、研修した。
氏より資料をいただき、歴史、過去のできごとを直接聞けた。

日本で2番目に小規模は駐屯地

3、 対馬の歴史的宿命

有史来、日本が半島との通商が始まったころから対馬はその中間点として地理的存在を活かした。
13世紀、「元寇」があり多くの島民が犠牲なった。
16世紀、豊臣氏の朝鮮半島への侵攻の中間基地となって、日本全国多くの藩の武士が通過した。
17世紀以降、徳川氏と朝鮮李朝の交流があった。
19世紀、日清、日露戦争の中間点となり、島の真ん中、現在の空港近くが掘削され島を回ることなく、艦艇が通過できるようになった。

赤い橋の下が運河

20世紀半ば、第二次大戦中は日本海に封鎖し敵艦が入らぬよう、北端に大砲台(使われなくなった戦艦の主砲を持ち上げたもの)と爆雷砲台が装備されていた。
その武装解除に来た米軍部隊にフランク・シナトラがいたそうだ。

戦艦主砲の台座あと

砲台の内部

岩に描かれた迷彩

小松氏のご説明でこの砲台の戦時中の様子が明確に理解できた。

4、 江戸期の対馬

宗氏が藩主となり主に交易による収入から碌を得ていた。朝鮮から江戸期「朝鮮通信使」と言う一行が宗氏の調整で何回か当来し、対馬は通過点となった。また宗氏は徳川幕府の朝鮮との外交と交易を役目として半島に居留地を得ていた。幕末、日本の海防のため大砲を持ち込もうとして、断られた。

5、 現代の対馬防衛

地政学的にはふたつの任務になろう。
一つは地理的に大陸、半島、沿海部の警戒監視活動で、陸、海、空の自衛隊がそれぞれ連携しながら警戒監視活動の施設をもっているが、多くは秘匿されているようだ。
総員、陸が400名弱、総数700名くらいだ。陸は駐屯地と警備に分けている
日本と韓国の間には軍事協定は結ばれてない。対馬に大きな兵力を置くことは韓国を刺激することになる。しかしながら半島有事が発生すると、日米の双方の防衛線になることは予想できよう。そうでなくても北の核、ミサイル問題の最前線となる位置だ。

 

6、 これからの日本に安全保障での役割

一番恐れることは誰も口には出さないが、「半島有事」であろう。対馬はその混乱の影響はもろに受けよう。
米軍との統合作戦にも対馬は重要な役目を負うだろう。現在では制空、制海はすでに作戦中の艦艇と本土基地から数分でスクランブルが行える。島の部隊にも多目的誘導弾の装備があろうし、状況によっては増強できる。
現在の紛争で困るのは「難民問題」だ。韓国からは30km、泳いでは無理だが小型船で十分だ。それに北からもどんな形にしても武装した難民の来島が予測できる。しかし島の地形を見るにそれらの人間全部の収容は無理だ。
海峡の真ん中に位置するしまの宿命は今も昔も変わらないだろう。
大きな政治的課題と言える。

 

おわりに)

対馬陸上自衛隊駐屯地の司令をはじめ、T三佐、広報、その他車の運転をしていた皆さんに感謝する。
「現地現物主義」と言う言葉があるが自分の目で見る、話しを聞く、触ることでさまざまな課題とその解決法が見えてくることがある。
(この項以上)

航空自衛隊春日基地研修

防衛懇話会は陸上自衛隊第四師団で訓練の様子を半日見学したあと夕、懇親会を行った。
そこに航空自衛隊春日基地司令も参加された。
翌日は一日を掛けて、春日基地で研修を行った。春日基地は福岡空港の民航の反対側に位置して航空管制は国交省のものだ。
まずは司令にご挨拶と全員の記念写真撮影。

司令とは私の飛行実績を話した。
その後、基地の概要説明、陸上自衛隊第四師団司令部駐屯地も航空自衛隊春日基地も元は帝国陸軍小倉工廠の施設のあったとこだった。
両施設は隣接しているのだが、直接は通行できず、空港をぐるりと270度回る。
また福岡市にちかく有事には統合した運用は効率的であると感じたが。

1、 警戒網
地政学的にみても九州北部は重要な日本全土の警戒網を担っている。各種レーダー、外部の
警戒施設との連携などの説明を受けた。

2、 T-4機
操縦士教官の説明があり、各々操縦席に座り計器やレバーその他操縦装置の説明を個人的に受けた。良かったのは航空救難の説明だった。

3、 CH-47
オスプレイ機にいずれ装備は変わるだろうが、この機材の今までの活躍は素晴らしいものがあった。私は昨年の火山爆発の際、車輪に橇を装着し高い高度まで多くの人員物資を輸送したことだ。
操縦席は広い。しかし下の視界は小型機と異なり効かない。熟練した技が必要だろう。

昼食をご馳走になった。

一番感激したのは研修の途中で木管楽器と金管楽器の各々のカルテットによる我々のためのコンサートを準備しておいてくれたことだ。演奏のうまさは言うまでもなく季節柄、クリスマスのデコレーションまでして和ませてくれた。

冬の夕暮れは早い。
防衛懇話会の一行は空港で解散し、私は一人で対馬へ向かった。


(この項以上)

陸上自衛隊第四師団研修

今回は防衛懇話会の研修で北部九州を守る福岡の第四師団を訪問した。
防衛懇話会は工業倶楽部にある防衛産業の団体であるが、HPもなく
世間一般には知られてない。会員は法人と個人。法人は防衛産業であるが個人の
資格はよくわからない。年に数回の防衛座談会と施設や駐屯地の研修、観閲式、
火器演習、音楽祭などイベントに参加する。
日本の安全保障を語る論文を数多く掲載する紙も発行している。これが電子化できたら良いのだが。
今回の研修、12月15日、時期的に参加者はいつもの30名規模から20名くらいになって、在会年数の関係か私が団長を申し付けられた。
昼前に到着した空港には幕僚長に出迎えていただき、私、団長、事務局長、防衛省担当がまず師団長にご挨拶に伺った。

 

師団長と挨拶で雑談するのも団長の役目で、その前の週に行った狩猟、射撃の
話をした。
それから昼食、

午後続いた研修は恐らく数百人の隊員を動員しての力の入ったもので、
特に、第四師団の国際医療援助活動の実働のありさま、核・化学・生物兵器
対策の様子、架橋、新機材展示など充実したものとなった。
1、 海外医療援助の準備訓練
2、 核・化・生物兵器対応訓練
3、 海外医療診療訓練
4、 架橋訓練
5、 新機材展示と体験搭乗
恐らくこれだけの徹底した大人数を動員する訓練の研修は初めての経験だと言う会員が多かった。

1、 海外医療援助の準備訓練

体育館に300品目1万点の資材を仕分け、重さのバランスを考え効率よくもれはないか点検しながら搭載する訓練。資材はすべて実物で記録と合わせながらチームで行う。

2、核・化学・生物兵器対応訓練

乗員輸送車に科学弾で攻撃された、という状況を想定して、車内の乗員の救助、車体の洗浄、
一連の流れを約30名の隊員が役目を決めて行う。全員が防疫装具を着用し、最後は隊員を
救急車が搬送すると言うもので、隊員相互の洗浄、車体の洗浄、汚染された防疫装具の始末、
少し距離をおいて救急車に搬送など、細かい部分を観察した。このような攻撃への対応の
鍵は作業の手順、スピードであると感じた。

3、海外医療診断訓練

災害などで医療救助を求めている某国に医療隊が1、で準備された装具を持ち派遣されたという想定。指揮所、受付、問診、外科、内科、治療、レントゲンなどの実際に使用する
機材を複雑に構成された天幕で行う。掲示は現地語であり、現地語の通訳役がいた。
まずは本部には10名以上の隊員が現状把握と指示、恐らく様々な通信器具が使われたのであろう。
町の診療所並みの使節と言っていたが、300種類もの装備を持ち込み行うのだから、並みたいていでない援助だ。また隊員は現地の防疫にも対処しなければならない。

4、架橋訓練

先の災害で(現地でも熊本地震)、仮設橋の架橋は重要な作業である。橋には柱なく、約60mの長さ、小型車がすれ違える幅を持った橋を速やかに掛ける。この作業はエンジニアリング(土木)隊の中でも極めて重要なもので、架橋の機材は運搬のため、分けて、しかも
折りたたんである。橋は強度を考え、柱がないので、太鼓型になろう。大きなクレーンが運搬車から釣り上げた、畳んだ機材を降ろす間に開いて、ガチャンとつないでいく作業は実際には高度な技術を要するだろう。長い間、冷たい鉄橋の上で待機してくれた隊員に感謝。

5、新機材(装備品)展示と体験搭乗

最近、数量装備された島しょう部攻撃に反撃する水陸両用車AAV7 および10式戦車など数両が展示され、詳しく説明された。戦車搭乗は74式で、そう広くない駐屯地の狭い道路を3回直角に曲がるコースだった。

防衛懇話会としても今回の一連の訓練視察にはもう少し大勢の会員に参加してもらいたかったであろうが、年末の繁忙期になった。
訓練を実施してくれた第四師団、師団長ならびに隊員諸君の日ごろの努力を実感した。
(この項以上)

狩猟の獲物処理のはなし

いつも米国風の狩猟をしている。重要なのはガイドだ。幸いとなりのタケちゃんにガイドを頼み、僕の軽四輪であらかじめ走る場所の所有者の許可を得ておく。猪が彼らの地所に出てくるのを狙撃するのだ。
犬も銃を持つ仲間もいない。
山の反対側で昼早く雉や山鳥を探して撃つ、僕の散弾銃は重い、飾りがついているので、とても山に持って出るものではないが、これしかない。スキート用の銃身にチョークを使い、上下機能を合わせてある。
このガイドはタケちゃんだ。30年間来の付き合い。喧嘩もするが、土地勘は一番で、運転も上手だ。5日間狩猟したが、犬もいないのに雉を幾つか撃った。
タケちゃんが見つけてくるので。欲を言えば、もうワンテンポ待って欲しいが、
場所が分からなくなるのだろう。と言うのはワンテンポでもう一、二羽飛び出すことがあるからだ。
そのあたりで騒ぐと猪が出る場所が勘で分かるそうだ。今度はそっち側に回る。
5日間で11頭見た。
しかし全部に発砲できるわけでない。道路をまたいでいたり、人間の姿を見たり、
弾丸の飛んでいく方向(命中してもまだ先に行く)、それを総合的に考えて射撃できるものだけを撃つ。大体、伏せて撃った。狙撃だ。
猪は暗くなると出てくる。狩猟は日の出から日没までなので、日没との闘いだ。
毎日、調べるが4時20分ころだった。
でも山の影はもっと早く暗くなる。天気は良すぎた。雲が多いと早く出る。
山からとんとんと田畑だったところに降りて来る。全身が見える。大きいのから中型まで。子供はいなかった。
ライフルはスコープを4倍にして使う。スコープは的が大きく見えるだけでなく明るい。
そんなかんやで、2頭を仕留めた。1頭は80kgくらいの大型で、一旦倒れて
立ち上がり、渓流を越えたこところで息絶えた。これは地元に進呈。僕たち二人では出せない。距離は80mくらい、Ⅰ頭は100mくらいの距離だが外した。
もう1頭は大胆にも仲間3頭と、道路の近くの田圃にいた。道路からは撃てない。
田圃を行き過ぎて、車を降りて、道路外の草山に伏せて中型のものを撃った。この時もう1頭撃てたが、タケちゃんに当たると危ないのでやめた。後ろは崖だったので安心。
広いあぜ道の近くだったので、四輪軽をタケちゃんが上手に入れる。
後部を片付けて、ブルーシートを広げ、そこに二人で両足をもち上げて入れるが重い。
後で測った、全長135cm、体重60kg弱だった。これで中型だ。
もう暗い。もう一度ふたつの銃の装填を調べて車に乗った。
まず、僕の家の渓流に行った。そこでタケちゃんが内蔵を抜く。今夜はそれまでだ。深いところに本体は沈めた。内臓は渓流の横の岩に置いたが。
翌朝、何も残ってなかった。カラスではない。暗くなりおいて、朝は比較的早く見たからだ。
あれだけのものを食べてしまう何かがその近くにいるはずだ。
内蔵抜きは30分間くらい。水をバケツでくんで空になった腹を洗い、血を流す。
太い腸、胃、肺、肝臓、などが体から出されたが、幸い弾丸は内蔵を避けた。
暗いので車のライトを使った。この作業はいろいろ手伝えた。
翌朝、それかの作業は僕には出番がない。これでは本格的ハンターではないが。
内蔵を抜き、水から上げた状態。

タケちゃん夫婦が手際よく行い、約一時間で終了した。
下にプレートを敷いた。

なかなか美顔の猪、牝。
頭と足先を鉈で落とす。大型カッターで毛皮を剥がす。四肢を離す、胴体を解体するという手順だ。脂身でまずは白い。

 

 

頭、脚先、毛皮はその獲物を得た場所により補助金が出る。肉の塊ももって行った。それで放射能を測定するが、基準以下になっていた。
一晩、冷たい流れ水で汚れと血は抜けていた。
弾丸が入ったところは穴だが、出たところは大きい。背中から尻に抜けた。

この部分は食べることはできないので捨てる。

タケちゃん夫婦は手慣れたもので、なんでもできる。

平成28年度自衛隊音楽祭(まつり)に行った

平成28年11月13日

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日本の西洋音楽は明治の軍楽隊から始まったと言われている。
米国のジャズが南北戦争後、負け南軍の楽器の払い下げからスタートした話を思い出す。時代的にもそう変わらない1870年ごろだ。
自衛隊、陸・海・空の部隊、駐屯地には軍楽隊があり、その一番大規模なものが中央音楽隊だ。バブル崩壊後、幾つかの交響楽団がなくなり、音楽学校卒業した音楽家が自衛隊に入隊し、音楽隊で活躍するようになった。
自衛隊音楽隊は水準が高い。

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年に一度、秋に「音楽祭り」と称し、武道館で5回くらいの公演を行う。
チケットは無料だが、応募抽選でなかなか当たるものではない。
全部の公演が満席であり、公演そのものは2時間以内で終了する。
下の画像、防衛大学校のドリルは見ものである。

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海上自衛隊は「軍艦マーチ」をかならず演奏するが年々柔らかなアレンジになる。

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本年は第50回を迎え、「音の力」強き、守りの響きと言う題で構成された。
毎年、駐日米軍の楽隊と外国の軍楽隊が招かれるのと、最後は全国100ちかい和太鼓の団体から18-9の代表が選ばれて、その力強い響きを披露するのが特徴だ。和太鼓はチームワークを示す。これだけの規模のものはなかなか見られるものではない。

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本年は11月11日から13日にかけて5回プラス1回の公演を実施した。
米軍は「海兵隊第3機動展開部隊音楽隊」と「在日陸軍軍楽隊」、それにインド首相の在日に合わせて「インド陸軍軍楽隊」が参加した。
毎年、テーマがあり今年は日本の季節の流れを三軍の軍楽隊がつないだ。

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赤い制服がインド陸軍軍楽隊でインドの軍楽曲を聞かせて呉れた。
手前、米海兵隊軍楽隊はバンジョーで沖縄の島唄を上手に演奏した。
このイベントは放送しない、広報もしないで、知る人と知るものになってしまったが、演出、演奏、運営、国際親善、広く、大きな感動があるものだ。
(この項以上)