加州の友人「3年ぶりの大規模ガンショー」

米国ではホリデーシーズン、つまり11月後半のサンクスギビングからクリスマスまでは様々なイベントが盛んで、ガンショーも各地で開催される。「フェニックスショー」(12月2-5日)はそのなかでも規模が大きい。私は、この2年間以上、コロナ禍の自宅待機で出不精になり、車で6時間、もと考えましたが、行って良かったです。

フェニックス、アリゾナは気温20-24度Cで乾燥していて最高でした。マスクをしている人は見かけませんでした。

 

私はアメリカ人の友人に自分の収集物を委託販売してもらうために彼に事前に一部を預けておきました。彼は昨年、仕事を引退した60歳の収集家でもあり、SOSショー、ツルサショーなどに出店しておりますが、今回も恐ろしいくらいに売りました。できるはずもないが、フィラーリを買いたいと言っておりましたが・・

3年前のショーより出店(ブース)も来場者も減少しましたがそれでも全米有数の富裕層相手のガンショー、活気がありました。

私はあらかじめ預けておいたもののほかに多くの、価格は手ごろ、品質の良いものを持参しました。

皮革製品の価格は従来どおりのようですが、銃器は異常な高騰ぶりでした。

自宅でネットオークション、調べておいた数字とは大違い、の高額でした。

会場全体では、帝国日本軍関係の品物はあまり見ませんでした。すでに払底しているのかもしれません。

九九式小銃のスポーター(狩猟用に改造した銃)が700ドル、十四年式拳銃は1300-1800ドル(3年以前は500-800ドル)、二式小銃は2000-2500ドル、一般の九九式小銃、極上状態、2000ドル以上軽機関銃はライセンスの問題があるので、8000-16000ドルとあまり上昇なし、という相場状況でした。軽機関銃はATFEの無可動化条件を満たしていてもライセンスが必要。

 

品物を投資で購入している人たちも多いのでしょうが、いずれにせよコンデションが最高でないと・・・

そして楽しかったのは毎夜のメンバーの懇親会です。酒を飲み、語り。

 

私が今回処分したのは、重複して収集した帝国日本軍以外、英国、ロシア系の銃器です。

損したものもありますが多少利益は出たでしょう。それで満足です。

収集家の代替わりで収集品は別な人に・・自然な流れでしょう。

 

やはりボケていたのかもしれません。

最高状態のコルト「ゴールドカップ」が2500ドルで出ていたのをミスしました。販売代金が懐にあっても何の役にもたちません。

日本の不活発な市場、暗い状態からは予測もつかない、米国の市場ですが、現在はバブル状態かもしれません。

 

良く、「収集」は探して楽しみ、持って楽しみ、そして売って楽しむと

3段階あると言いますがその通りでした。

バンザイメンバーたちも元気でした。

以上

 

仙台鉄砲の起源と毛利伊勢守流砲術

相馬: 遠藤 稔

 

1.仙台藩の主力銃四匁火縄銃についての疑問

仙台藩は,表高62万余石だが新田開発を進め,幕末には実収100万石とも200万石とも言われた東日本随一の大藩である。宝暦6年(1756年)の時点で,仙台藩には総計4万2791丁の鉄砲や大筒などがあったという。当時の鉄砲製造能力から考えても驚くべき数と言わねばならない。信じがたい数字であるが,これは,幕府役人久永修理,大島雲四郎の2人が仙台藩への行政監察に来た時の資料『仙台藩秘録』に記されている。これに記載された鉄砲総数を表にすると次の通りとなる。

仙台藩は御流儀鉄砲に井上流砲術を採用し,藩の主力銃は口径14ミリの四匁玉火縄銃であった。しかし不思議なことに,主力装備の四匁玉火縄銃(以下「仙台四匁筒」という。)と十匁玉火縄銃では,その姿形がまったく違うのである。

 

仙台藩の四匁火縄銃と十匁火縄銃
写真上が口径14ミリの四匁火縄銃,下が口径19ミリの十匁火縄銃

仙台鉄砲の十匁玉火縄銃は,外記カラクリを使用した井上流砲術系に分類されるが,仙台四匁筒は,機関部に同じ外記カラクリを搭載しているものの,井上流と異なる八角銃身を採用し,その全景は井上流と全く違う砲術流派の鉄砲のように観察されるのである。次の表が,仙台四匁筒と十匁玉火縄銃の相違点を示した一覧である。

2.仙台藩の主力銃仙台四匁筒についての仮説

仙台藩の御流儀鉄砲が井上流砲術であれば,その主力銃の仙台藩の四匁筒(以下「仙台四匁筒」という。)こそ井上流砲術のスタイルにするのが自然であろう。しかし,事実はそうなっていない。上記の対比表の示す通り仙台四匁筒は,井上流砲術ではない砲術流派の系譜を引く鉄砲と観察されるのである。

そこで,この謎を解き明かすため「仙台四匁筒は,御流儀鉄砲である井上流ではない流派の設計思想に基づいて作られた鉄砲である。」との仮説を立て,その証明のための調査を開始した。

3.仮説を証明するための調査

 最初に,仙台鉄砲と呼ばれるもののうち前述した仙台四匁筒の成立時期を推定することに着手した。成立時期が推定できれば,調査範囲を絞り込めるからである。この仙台四匁筒の祖型は,どんなに遅くとも寛文10年には成立していた可能性が強い。なぜなら,『仙臺住 氏家理右衛門 寛文十年』と銘に年号が刻まれた銃身があり,その銃身が今の世に伝わっている仙台四匁筒の特徴と完全に一致するからである。

寛文10年(1670年)といえば,四代藩主綱村の治世の頃だが,その時綱村は11歳でしかなかった。また三代藩主伊達綱宗は,万治3年(1660年)に、不作法の儀により21歳で隠居させられていた。三代藩主及び四代藩主とも若年過ぎ,仙台藩の主力銃の決定に影響力を発揮したとは考えにくい。寛文10年(1670年)の12年前の万治元年(1658年)に60歳で亡くなった二代藩主の忠宗は,その在世時に外記流砲術家の大槻源八郎安定に禄を給し歩士組に列している。これと前記の銃身を併せ考えると,仙台藩における井上流砲術の導入は,二代藩主忠宗以前と強く推定された。

これらを総合的に考えると,仙台鉄砲の仙台四匁筒は,仙台藩二代藩主の忠宗の時に,その祖型が完成していたと考えても大きな間違いはないと思われた。

 


『仙臺住 氏家理右衛門 寛文十年』と銘のある仙台四匁筒の銃身

 

② 調査対象期間が絞れたことから,仙台藩主初代藩主の伊達政宗および二代藩主忠宗が学んだ砲術流派の調査を行った。藩の主力銃の決定には藩主の学んだ砲術流派が,大きな影響を及ぼすからである。

仙台藩に根を下ろした砲術流派は,稲富流砲術など19流を数える。井上流砲術,不易流砲術,中筒流砲術,統一流砲術(本庄流),三国伝東条流砲術,種子島流,南蛮櫟木流砲術,生流斎智之法砲術は,藩校や郷学(伊達48館主)で教授されるなど隆盛した砲術流派であった(卜部日出夫著「日本の砲術流派」)。

この中で,初代の伊達政宗が印可を受けたのは,稲富流砲術である。大阪夏の陣までは,稲富流仕様の鉄砲が使用されていたのは伊達家文書等から間違いない。しかし,遅くとも1790年までには,二の丸兵具庫に保管されていた稲富流仕様の鉄砲を,多くの者が判別できないほどに,稲富流は仙台藩内で衰退していた(荒井盛従武芸調書)。残された文書からは,伊達政宗が,稲富流の流祖の稲富伊賀入道一夢に良い感情を持っていなかったことが読み取れる。

推測であるが,これは,稲富伊賀入道一夢が朝鮮の役で虎を打ち損じたことや石田三成による細川忠興の大阪屋敷襲撃時に遁走したことで世上の評判が芳しくなかったこと,正宗と細川忠興との間に深い親交があったことも影響したのかもしれない。

二代藩主の伊達忠宗も,父政宗と同じように鉄砲には強い興味を有していた。忠宗は,鉄砲の名手で15間(27メートル)先の釘に命中させるほどの腕前を持っており,「100発100中の妙あり」と伊達家治家記録は記している。忠宗は部屋住みの23歳の頃に,佐伯藩主の毛利高政に入門し毛利伊勢守流砲術(以下「伊勢守流」という。)を学び,その奥義を授けられた。

忠宗の砲術の師である毛利伊勢守高政は,秀吉子飼いの叩き上げの戦国武将で,この者が興した砲術が,伊勢守流である。忠宗が伊勢守流に入門した当時,師の毛利高政は,佐伯藩二万石のキリシタン大名であった。伊達忠宗が毛利高政に弟子入りしたのは,元和7年(1621年)のことだ。正宗の命を受けヨーロッパに派遣されていた支倉常長が,仙台に帰国した翌年のことである。

それから,12年後の寛永10年,伊達家は,世子である伊達忠宗の小姓で御薬込め役の古内勘之丞に井上外記正嗣への弟子入りを命じている。古内勘之丞は,井上外記が憤死するまでの300日の間に伝授を受けたという。(仙台藩士諸芸道伝来調書)。これは,伊達政宗の死去の約三年前の出来事である。

結局,仙台藩二代藩主になった忠宗は,伊勢守流を仙台藩に定着させることはなかった。それどころか仙台藩にあっては,伊勢守流は,忠宗以後は一切が不明なのである。江戸時代中期には学ぶ者がいなっていたようで,享保14年(1729年)に仙台藩留守居役谷田作兵衛が,毛利高政が伊達忠宗に授けた砲術の流名,砲術伝授の実情などを佐伯藩に問い合わしている。

仙台藩の砲術に関する時系列データ

慶長4年12月8日 1600年 伊達忠宗生誕
慶長17年3月21日 幕府のキリスト教禁止令
慶長18年12月19日 1614年 幕府の伴天連追放之文
慶長20年 1615年 大坂夏の陣
元和6年 1620年 支倉常長の帰国
元和7年 1621年 伊達忠宗 伊勢守流に入門 忠宗は部屋住みの23歳
元和8年 1622年 元和の大殉教

宣教師ら修道会士と信徒、及び彼らを匿っていた者たち計55名を長崎西坂において処刑

元和9年7月27日 1623年 徳川家光将軍宣下
元和10年 1624年 東北及び平戸で公開処刑 東北で108名、平戸で38名
寛永5年11月16日 1628年 毛利高政死去 享年70
寛永9年1月 1632年 大御所の徳川秀忠死亡
寛永10年 1633年 忠宗の小姓の古内勘之丞に井上流砲術へ弟子入りを命じる
寛永11年 1634年 この頃,伊達政宗は食欲不振,嚥下に難などの体調不良を訴え始める。
寛永12年 1635年 将軍家光が大名に参勤交代を義務づける。
寛永13年5月 1636年 伊達政宗死没(満68歳没) 享年70
寛永13年8月 忠宗が藩主としての初入部
寛永14年10月25日 1637年 島原の乱 翌2月終結

 

③ 伊達政宗および二代藩主伊達忠宗が学んだ砲術流派の調査結果の評価

(1)  ②の調査結果を要約すると次のようになる。

 初代の伊達政宗が印可を受けたのは,稲富流砲術である。大阪夏の陣までは,稲富流仕様の鉄砲が使用されていた。しかしその後,稲富流砲術は仙台藩では廃れている。元和6年(1620年)正宗の命を受けヨーロッパに派遣された支倉常長が,仙台に戻って来ると,その翌年元和7年(1621年)に世子忠宗は,キリシタン大名の毛利高政に入門し伊勢守流を学んだ。その12年後の寛永10年になり,伊達家は世子である忠宗の小姓で御薬込め役の古内勘之丞を井上外記正嗣へ弟子入りを命じ,同人は,井上外記が憤死するまでの300日の間に伝授を受けた。

  (2)  (1)を考察する次のように評価することが可能と思われた。

 初代の伊達政宗は,印可を受けた稲富流砲術を切り捨て,元和7年(1621年)になり,キリシタン大名の毛利高政が創始した伊勢守流を仙台藩の御流儀鉄砲とすることを考え,世子忠宗を毛利高政に入門させ伊勢守流を学ばせた。これは,その前年にヨーロッパに派遣されていた支倉常長が,仙台に帰国している。正宗は天下取りの野望実現のためにキリシタンとの連帯を考えた可能性が考えられる。

しかしその翌年からキリシタンの禁令や弾圧が激しなったこと,徳川幕府の政権基盤が盤石になったことを受け,正宗は天下取りの野望を断念したものと推察される。その後,寛永10年になり,世子である忠宗の小姓に井上流砲術を学ばせたのは,世子忠宗がキリシタン大名毛利高政の砲術の弟子だったことを,政宗が危ぶんだための処置だったことが考えられる。また外記カラクリの優秀さに気づいた政宗が,外記流砲術を藩内に浸透させたいという思惑もあったであろう。また仙台藩の鉄砲を井上流砲術へと切り替えるための布石だったと考えられる。

その3年後に正宗が70歳で亡くなり,嫡男の忠宗が,第二代藩主となると外記流砲術家の大槻源八郎安定に禄を給し歩士組に列している。そして五代藩主吉村の時に,外記流砲術は仙台藩の御流儀鉄砲となった。

時期は不明であるが,伊勢守流は仙台藩にあっては絶伝してしまった。おそらくは毛利高政がキリシタンであったこと,伊達政宗が支倉常長をスペインに派遣したことなどで幕府に詮索される後難を嫌って,忠宗公は,仙台藩から伊勢守流を意図的に絶伝させたと私は推測している。ただし,確たる文献資料の裏付け等がないため,いずれも推測の域を出ない。これらを総合的に考えると「仙台四匁筒が,井上流ではない,他流派の設計思想に基づいて作られた鉄砲である。」とする仮説が成立するとするなら,その砲術流派は伊勢守流の可能性が極めて高い。

 

4.伊勢守流の調査

仙台鉄砲のうち仙台四匁筒の設計に影響をあたえたのは,伊勢守流の可能性が極めて高いと思われたことから、同砲術の調査を行った。

① 伊勢守砲術とは

伊勢流砲術を興したのは,毛利伊勢守高政という秀吉子飼いの叩き上げの戦国武将だ。毛利高政は,佐伯藩二万石のキリシタン大名である。毛利高政は,津田流砲術を学んだ形跡があり,壮年の頃には,十反帆船一艘分の弾薬を数年で使い果たしたという。朝鮮の役の南原城や蔚山城攻防戦では,全長278cmの「焔魔王」の筒で,七町(約770メートル)の距離から敵を砲撃し,正確な射撃により敵陣を混乱に陥れ武功を立てた鉄砲の名手である。


焔魔王の筒   全長277.9cm   口径2.2㎝ 
個人蔵、佐伯市歴史資料館寄託

高政は,佐伯入国後は伊勢守を称し,佐伯藩領で造られる鉄砲は,伊勢守流と唱えられた。大阪夏の陣では全長282cmの四海波の筒で大阪城天守閣を砲撃し命中させている。伊達忠宗ばかリでな,伊予今治の松平美作守も,高政に伊勢守流の教えを受けているから,当時としてもかなり評価が高かった砲術と思われる。

② 伊勢守流の火縄銃

大分県の佐伯市歴史資料館は,伊勢守流の大鉄砲を四丁所蔵している。


伊勢守流の大鉄砲

上から順に,

  秋風の筒   全長201.0 cm 口径1.8  榎並屋勘左衛門  

  閻魔王の筒 全長277.9cm  口径2.2   

  四海波の筒 全長281.5cm  口径2.5  榎並屋勘左衛門  

 

同館は,伊勢守流の火縄銃の掟に基づく火縄銃は,下の写真の通りであるとの見解である。その特徴としては,棒状の真っ直ぐな銃床に角型の銃身を持ち,銃口には柑子はなく,先目当てはスリワリ,前目当てはチキリスカシである。火挟みの下のイボ隠しと機関部の地板の片端には分銅紋の意匠が用いられるのが特徴であると説明する。

ただし,前述の伊勢守流の流派的特徴は,同館が所蔵する4丁の大鉄砲から推測したものと思われた。同じ流派であっても大鉄砲や大筒は,小銃タイプの火縄銃とは,仕様などが異なることもある。このため,伊勢守流砲術の小銃タイプの火縄銃を確認する必要を感じた。

 

③ 伊勢守流の火縄銃と仙台鉄砲の仙台四匁筒の相似性

前記の佐伯市歴史資料館が示した伊勢守流砲術の掟を仙台四匁筒にあてはめてみると,多くの類似点が存在していた。

銃身の特徴は,目当てと呼ばれる照準装置も含め完全に一致する。銃床については,銃身を留める目釘の穴に保護用の座金が一切用いられないことも共通する。しかし銃床後部については,台株部分の形状が相似するものの,仙台の仙台四匁筒は,ゆるくカーブする庵を持っており,伊勢守流砲術のそれとはやや異なるのである。また同館が所蔵する前記三丁の大鉄砲の引き金は,堺筒が好む丸形だが,仙台四匁筒は,中を透かせたU字型の輪引き金であるという異なりが観察された。ただし機関部に外記カラクリを取り付けた火縄銃は,井上流の掟としてU字型の輪引き金を取り付けることになるため,引き金の違いを,ことさら大きく評価する必要はないですあろう。

また注目すべき点として,火挟みの下のイボ隠しと機関部の地板の片端には分銅紋の意匠があげられる。これについては,次項で詳述する。

 

④ 伊勢守流の火縄銃と仙台四匁筒に見られる分銅紋座金について。


下の写真が、仙台筒の座金に用いられている分銅紋である。この紋は,天秤で物の重さを計る時に使う銅製の錘を図案化したものだ。

 

私が見てきた仙台藩の火縄銃の約二割には,銃身やカラクリを留める鋲の座金に分銅紋座金が用いられていた。その座金の数は,鉄砲により様々である。一個から最多では8個使われたものを確認している。しかもこの中で,イボ隠しに分銅紋が使用されていたものは,さらに珍しいケースにあたる。また地板の末端に分銅紋を用いていた仙台四匁筒は,写真で確認したものが1例,実物資料で確認したものが1例の合計2例しか私は知らない。


地板の片方に分銅紋を用いた仙台四匁筒

私が見てきた仙台筒は優に300丁を越えるだろう。このうちの2丁のみが,伊勢守流の掟に完全合致するからといって,仙台鉄砲の仙台四匁筒が伊勢守流だと主張するのは危険が大きすぎた。

なぜなら仙台鉄砲の研究者や愛好者の間では,仙台鉄砲に使用された分銅紋座金については様々な説があるからである。ある者は,仙台藩直属の御職人に限って使えるだとか,幕府の金座で修行した金工師だけが使えるだとか様々だ。藩士の家格によるものだと主張する人もいる。また会津藩の鉄砲には必ず分銅紋座金を一個使うのが掟になっているから,話はさらにややこしくなる。

5.佐伯市歴史資料館への問い合わせ。

前述した調査により,伊勢守流の火縄銃と仙台四匁筒の間に強い相似性が認められたため,佐伯市歴史資料館に伊勢守流の小銃タイプの火縄銃があれば,それを観察する必要を感じた。また仮にそれがなかったとしても,現在展示されている大鉄砲の裏に分銅紋があることを確認できれば,仙台四匁筒は伊勢守流の火縄銃だと断定できると考えた。なぜなら,分銅紋座金を使用した仙台の火縄銃のうち,火挟み側と反対の側の銃床に4個の分銅紋座金を用いているものが,あるからである。


火挟み側と反対の側の銃床に4個の分銅紋座金用いた仙台四匁筒

これらの調査及び考察に基づき,同館に問い合わせをしたところ,伊勢守流の小銃タイプとしては,十匁筒1丁を所蔵している胸の回答を得,同十匁筒及び非公開資料の無聖の大鉄砲を閲覧させていただけることになった。

 

6.佐伯市歴史資料館での調査

令和2年10月21日に佐伯市歴史資料館で伊勢守流の鉄砲調査を行った。

調査資料は,「から竜」との銘がある佐伯藩所持の十匁筒1丁と「無聖」と名付けられた五十三匁二分の大鉄砲1丁である。これらの調査については,別に調査報告書を作成したので,本研究報告においては,仙台四匁筒に特化した調査の概要だけを説明する。

 

① 「から竜」との銘がある十匁筒の調査

『から竜』と名付けられたこの鉄砲は,伊勢守流ではなく,中島流の鉄砲にそのシルエットが酷似していた。


から竜』の鉄砲
個人蔵、佐伯市歴史資料館寄託

 

ただし,先目当てと前目当ては,中島流ではなく伊勢守流の掟に従ったものと観察された。中島流は,佐伯藩でも盛んに学ばれた砲術流派である。面白いことに佐伯藩士は,中島流を学びながらも,その照準器は,藩祖創始の伊勢守流砲術のそれを固守したのと推測された。また中島流の銃身は,丸筒の上部を平らにした表一角が基本だが,『から竜』は伊勢守流の掟に従って八角銃身を採用したと考えられる。

『から竜』の先目当てと前目当て
個人蔵、佐伯市歴史資料館寄託

中島流の銃身は丸筒の表一角
だが「から竜」は八角銃身

火蓋のつまみに穿たれた穴は
中島流の大きな特徴である。

 

 

また,面白いことにカラクリ地板の末端は,円形に作りその上端と下端には,丸い小さな金属が溶着されており,分銅紋の意匠であることが一目で分った。この分銅紋の描き方は,同館に展示中の閻魔王の筒の地板と同じ手法なのである。


地板末端の分銅紋
個人蔵、佐伯市歴史資料館寄託

 

伊勢守流砲術の照準器や八角銃身,そして地板末端に分銅紋を用いたということは,もはやこの鉄砲は,中島流砲術の優秀な部分を取り込み改良した伊勢守流の鉄砲だと考えるのが,自然だ。やはり八角銃身や分銅紋は,伊勢守流のシンボルと言っていいのだろう。

 

② 『無聖』と名付けられた五十三匁二分の大鉄砲の調査

 

『無聖』と名付けられたこの大鉄砲は,全長281.2センチ銃身長約203.5センチ,口径の概測が3,3センチもあり,現存する日本最大の大筒といって差し支えないだろう。


「無聖」の大筒,口径五十三匁二分
個人蔵、佐伯市歴史資料館寄託

 

『無聖』の大筒を観察した結果,火挟みと反対側の銃床後部には,金色をした分銅紋座金が6個並んでいた。また写真には撮れなかったが,『無聖』の引き金部分にも分銅紋座金が用いられていることも目視確認することができた。


『無聖』の銃床尾の裏面に並んだ6個の分銅紋
個人蔵、佐伯市歴史資料館寄託

 

 

7.結論 仙台四匁筒は伊勢守流の火縄銃である。

前記の調査結果から,仙台四匁筒は,機関部に外記カラクリを搭載し井上流の火縄銃のように見せてはいものの,真実は,外記カラクリを搭載した伊勢守流の火縄銃と断定して差し支えないとの結論に達した。

仙台四匁筒の銃身は,八角銃身で目当てと呼ばれる照準装置も含め完全に伊勢守流の火縄銃と一致するのである。さらに銃床については,仙台の仙台四匁筒は,ゆるくカーブする庵を持っており,伊勢守流のそれとはやや異なる。しかし,台株部分の形状が相似すること,銃身を留める目釘の穴に保護用の座金が一切用いられないことは伊勢守流の火縄銃と共通する。伊勢守流の引き金は,堺筒が好む丸形だが,仙台四匁筒は,中を透かせたU字型の輪引き金であるという異なりが観察された。しかし,機関部に外記カラクリを取り付けた火縄銃は,井上流の掟としてU字型の輪引き金を取り付けることになるため,引き金の違いを,ことさら大きく評価する必要はない。

最も注目すべき点として,地板末端や火挟みの下のイボ隠しに施された分銅紋,並びに引き金及び機関部裏側の座金に用いられた分銅紋の意匠が,佐伯歴史資料館での調査により,仙台四匁筒と伊勢守流との同一性を立証する大きな決め手となり,前記の結論を導き出した。

毛利高政公から砲術を学んだ伊達忠宗公は,キリシタンとの繋がりや支倉常長の欧州派遣について,幕府からの論難を避けるために伊勢守流砲術を仙台藩の御流儀鉄砲とはしなかったと推察する。しかし,高政公への恩義とその師弟関係を仙台藩の主力銃である仙台四匁筒の中に残したのではないだろうか。もしそうであれば,人として誇らしいことだと,私は思うのである。

 

8.あとがき

この研究報告を作成するにあたり須川薫雄先生には,筆舌に尽くしがたいほどお世話になった。仙台鉄砲の研究を開始するに際しては,須川先生から「仙台鉄砲を調べるのならキリシタンと支倉常長のことも併せて調べなさい。鉄砲とこれらは密接に関係しあっている。」とのアドバイス受けた。このアドバイスは,素晴らしい松明となって,奥が深く真っ暗な仙台鉄砲の森の中を照らしてくれた。

また昨年の佐伯市歴史資料館の調査において,同市教育委員会が平成15年に発行した「毛利家資料調査報告書」をご紹介いただいた。この報告書の中で,宇田川武久さんが,仙台鉄砲と伊勢守流の同一性を指摘しておられた。これを読み,私は自分の考えの方向性に間違いはないと自信が持てるようになり,非常に勇気づけられた。まるで闇夜の森の中で明るく輝く松明を見た思いだったのである。

これからも師の言葉や先学が築き上げた成果を頼りにして暗くて深い火縄銃の森を探っていきたいと思う。最後に佐伯藩の鉄砲調査に快く協力していただいた佐伯市歴史資料館の甲斐学芸員をはじめとするみな様に感謝を申し上げ,あとがきとする。

 

参考文献等

須川薫雄著「日本の火縄銃1」

須川薫雄著「日本の火縄銃2」

須川薫雄著「日本の火縄銃3」

須川薫雄運営管理 HP「日本の武器兵器」

安斎實「江戸時代砲術家の生活」

宇田川武久著「鉄砲伝来」

宇田川武久著「真説 鉄砲伝来」

宇田川武久著「鉄砲と戦国合戦」

宇田川武久著「日本銃砲の歴史と技術」

澤田平「日本の古式銃」

霜 禮次郎著「和銃の歴史」

鈴木眞哉著「鉄砲と日本人」

鈴木眞哉著「鉄砲隊と騎馬軍団」

鈴木眞哉著「戦国軍事史への挑戦」

所荘吉「火縄銃」

宮城県史

仙台市史

大分県史

佐伯市史

毛利家資料調査報告書

中島流炮術管闚録

 Banzai Bucket-list Expedition to Japan

by Teri Jane Bryant © 2019 All rights reserved. tallteri@shaw.ca

As a frequent traveler to Japan, I can’t count the number of collectors of Japanese firearms and militaria who have told me they would love to go to Japan, but for one reason or another, have never been. In 2017 I posted a notice in Banzai that I was prepared to lead an expedition focused on visiting places of interest to collectors. On November 11, 2018, I was at Narita Airport to greet three Banzai members, plus two of their spouses, as they landed for their big Japanese adventure. The intrepid multinational band, Don and Cathy Schlickman from Iowa, Zach and Jennifer Hammond from Texas, and Jim Sheehan from the UK had put their fates in my hands for two weeks.

Left to right: Mr. Shigeo Sugawa, Jim Sheehan, Zach and Jennifer Hammond, Cathy and Don Schlickman. Taken at Mr. Sugawa’s office in Tokyo.

One of the greatest things about Japan is the renowned hospitality of the Japanese people. The new arrivals had barely unpacked when one of Don’s contacts, Mr. Suzuki, came to join us in the hotel café. On Day 2, November 12, noted Japanese author Mr. Shigeo Sugawa graciously hosted us to lunch at the Tokyo American Club and then took us to his office and home for a personal viewing of his collections of samurai-era weaponry, such as bows and arrows, spears, halberds and matchlocks.
On Day 3, Mr. Sugawa also kindly delayed his long-planned boar-hunting trip to help us to visit the Technical Museum of the Japanese Ground Self-Defense Forces Ordnance School. This is Japan’s only large-scale display of modern Japanese and foreign small arms, and access is strictly controlled. Since the museum is on an active military base, we had to get security clearances that take about two months. We were guided throughout by a friendly JGSDF Captain Egashira thanks to Mr. Sugawa’s revered status (he is an advisor to the museum). Nearby on the base are a memorial hall to the tokkōtai (“kamikaze”), a lovely garden, and a museum commemorating the cadets who trained there when Tsuchiura was an Imperial Japanese Navy base. There are also displays of tanks and artillery (the lead photo at the head of this article shows me doing a Vanna White with a working Type 89 tank). On our return to Tokyo, we were greeted by another of Don’s contacts, Dan Makino, who joined us at a nearby steakhouse.

Panorama shot of the Small Arms Museum at Tsuchiura JGSDF Base. Mr. Sugawa at far right.

The following morning Banzai member Steve Wallace, who happened to be in Japan with his wife Bonnie, joined us as we visited Yasukuni Shrine and Yushukan, Tokyo’s best and most controversial military museum, Sensoji, Tokyo’s largest temple, and the bustling market at Ameyoko in Ueno.

Jim takes a photo outside Yushukan in front of the memorials to military dogs, horses and pigeons.

On Day 5, Mr. Kazuo Shiba, a Japanese gunsmith and collector well known to Banzai folk in California and Arizona from his frequent visits to the US to participate in Banzai events, kindly volunteered to use his personal vehicle to chauffeur the menfolk in the group around Tokyo. Cathy, Jennifer, Bonnie and I had a ladies’ day visiting the National Museum, the Ota Memorial Art Museum (devoted to woodblock prints), and Meiji Shrine. The guys spent the day marveling at the varied treasures on offer at Mr. Maekawa’s military antique shop and the deactivated firearms at Chicago Regimentals, then joined us for dinner.

Modelling military haberdashery at Mr. Maekawa’s shop. Front and center is Mr. Maekawa. Left to right: Jim, Zach, Don, Steve and Mr. Kazuo Shiba. Photo taken by Hama-san, Mr. Maekawa’s English-speaking assistant.

Seeking a brief respite from Tokyo’s hustle and bustle, on Day 6 we went out to Kamakura, briefly Japan’s capital some 800 years ago. If you have ever looked at period photo albums of Japanese servicemen who trained near Tokyo, you will probably have seen group shots of them here assembled in front of the Daibutsu (Great Buddha) shown below or at Tsugaoka Hachimangu Shrine. We also squeezed in the beach and Hase-dera Temple, with a magnificent view out over the Pacific.

The highlight of Day 7 was a visit to the Dai Token Ichi Sword Show. We met Mr. Suzuki there again, and I even ran into a guy from my home base of Calgary, Alberta, Canada who recognized me from the displays I do at gun shows there.
On Day 8 we headed to Kyoto by Shinkansen, the legendary “bullet train”. After checking into our hotel a stone’s throw from the station we headed to nearby Fushimi Inari Shrine before it got dark.
Kyoto has 17 UNESCO-designated World Cultural heritage sites and we visited two more on Day 9, Nijo Castle and Sanjusangendo, with its 1,000 golden statues. Then Don, Cathy, Jim and I went up Kyoto Tower for a panorama of the city and surrounding hills.
On Day 10 we took the bullet train to Hiroshima to see the Atomic Bomb Dome and Peace Museum, then backtracked to Himeji to see its famous castle, the largest surviving original castle in Japan.

Himeji Castle with our group in the foreground.

Day 11 included the Iwatayama Monkey Park (where I felt oddly at home), the Netsuke Museum, located in an original samurai home built in the 1820s, and a brief visit to Gion, one of the old traditional areas of Kyoto. The Kyoto National Museum had a major sword exhibit which we took in on Day 12. We were amazed at the staggering number of visitors, many of them women or repeat visitors who had travelled hours to go through the exhibit again. Clearly interest in traditional Japanese culture remains strong!
By Day 13 it was time to head back to Tokyo. We rounded out our time there by visiting an antique mall and walking along neon-lit Ginza, Tokyo’s high-end shopping street. Day 14, November 24, the Schlickmans and Hammonds headed home, while Jim and I took in Akihabara, Tokyo’s center for electronics and pop culture, and Sunshine City, where a plaque marks the spot where Sugama Prison once stood. In the evening I was able to have dinner with a Canadian friend who happened to be in Japan, and on Sunday both Jim and I returned to our respective homes.
What did we learn from this whirlwind? I think we proved that a Banzai expedition is feasible. Two weeks is barely enough to scratch the surface of Japan’s attractions, and there are many more places we could have gone, but I think a lot of good memories were created. I would say there were a few key success factors. First, six people was about as big a group as can travel together continuously because of seating capacity in typical restaurants, etc. I take a group of 24 students to Japan every May, but they are happy to run off as soon as my colleague and I will let them. Second, booking hotels within easy walking distance of a major train station greatly facilitated our logistics. Even so, I was amazed to hear from Cathy, who had a FitBit, that we were covering 14,000 to 24,000 steps a day. I thought I was taking it easy on the group! Third, we had a great group, in which everyone was willing to be flexible to ensure the others got to see the things of most interest to them. Finally, and perhaps most importantly, we benefitted from the invaluable assistance of many kind Japanese friends, such as Mr. Sugawa, Mr. Shiba, Mr. Maekawa and his assistant Hama-san, to name only a few. We are all extremely grateful to them.
While this was a big undertaking, I think such trips are worthwhile as they can help to improve our understanding, revitalize our enthusiasm, and improve international collaboration by strengthening personal contacts. Bringing people together is always a good thing in these trying times.

 日本の対空爆弾について 前編

寄稿者:桐ケ谷 颯明 (瀬戸)

日本の対空爆弾について 前編   (PDF:別ウインドウが開きます)